Ⅵ 公式教義への批判
1 世界観の変化
トリエント公会議時代の世界観と今日支配的な世界観の間にはギャップがあり、そこから問題点が浮上してくる。
トリエント公会議の教義の原則は以下のようなものであった。
①創世記の物語は歴史的事実で、アダムは歴史上の人物である
②人類の起源は一つである
③原罪は、模倣によってではなく遺伝によって伝わる
④原罪は一人一人に固有なものとして内在する(幼児にも原罪はある)
このような教義に対して次のような問題点が指摘された。
①今日の聖書学によれば、創世記の人祖の物語は歴史的事実ではない
②今日の科学の示すところによれば人類の起源は一つではない
③アウグスティヌスは原罪は遺伝する罪だと考えたが、他の教父たちには遺伝という考えはなかった
このような批判は、研究の成果の表れではあるが、世界観の変化をも反映しているようだ。
2 原罪の教義の衰退と復興
①啓蒙主義時代の考え方(原罪論の衰退)
18世紀の理性中心の啓蒙主義の時代になると、多くの人は悪を宗教的・神学的問題とはみなさなくなり、個人の心理や社会制度の問題として捉えるようになった。悪からの解放は、人間の問題として、自然科学・科学技術・社会科学の発達によって可能になるという楽観主義が流行する。罪悪はもはや秘義ではなく、技術的対処によって解決できる問題に過ぎないと考えられるようになった。
②人類滅亡の危機感(原罪論の復興)
しかし、20世紀の悲惨な歴史は、啓蒙主義の楽観主義を裏切る。第一次世界大戦、大恐慌、第二次世界大戦、核兵器の出現、朝鮮戦争、ベトナム戦争、東西冷戦、アフガニスタン紛争、湾岸戦争、ウクライナ戦争、貧富の格差の拡大、環境破壊など、人間は破壊を繰り返し、人類は滅亡の危機に怯えている。自然科学、科学技術、社会科学によって罪を解消するというオプティミズムの期待とは全く逆の現状である。
ここに至って、原罪の教義は再び注目されるようになった。ただ、古典的原罪論はすでに見てきたように現代人の感覚に適合しなくなっており、現代の神学による新しい原罪論の再構築が求められている。
3 原罪論についての現代の批判的検討
今日ではかっての原罪論について様々な形で批判的検討がなされてきている(1)。
①聖書の歴史的・批判的研究の成果に照らせば(2)、公式教義の聖書的根拠とされてきたロマ書や創世記が、原罪の遺伝的本質やアダムの罪の史実性を基礎づけることはできない。原初の状態、アダムの堕罪、普遍的遺伝罪などについての教義は、聖書に基礎を持たない。
②公式教説が前提としている人類一元説は自然科学上必ずしも支持されない。
③この教説は実質的にアウグスティヌスの神学説である。
④現代人の人格重視の思考にとって遺伝罪なるものは理解しがたい。
⑤人祖の罪の結果を万代の子孫に及ぼす神とは、イエス・キリストによって啓示された父なる神、愛と赦しの神の像と矛盾する。
Ⅶ 原罪論の見直し
1 原罪の教えについての3種類の誤解
原罪の教えに関して現代でも3種類の誤解が広がっている。
①原罪の教えは今日の人間の自己理解と矛盾すると考える誤解(楽観主義的誤解)
この誤解は、人間を本質的に良いものとする極端な楽観主義にたっている。すべての悪は社会の二次的産物であり、社会の進歩により克服しうるという考え方にたっている。
②原罪とは人間の悲劇的な宿命であるとする誤解(悲観主義的誤解)
この誤解も、原罪は人間の構造的欠陥だという極端な悲観主義にたっている。
③原罪は個人的罪(自罪)と同じものであるという誤解(個人主義的誤解)(3)
これらの誤解がもたらした結果として次の2点が指摘できる。
①原罪の教えは、今日の実際の生活や普通の宣教活動のなかで忘れ去られている
②欲望や死は自然で、自明のものであるという考え方が広まった
2 教義は発展途上にある
このように、罪と悪についてのキリスト教の教義はまだ十分には煮詰められていない。キリスト論や三位一体論に匹敵しうるほどの十分に展開された教義はまだ実現していない。
Ⅷ 現代神学での「原罪の教義」の探求
1 現代の神学は、原罪の教義の「現代的意義」を探求しつつある。
①原罪は太古に起きた出来事というよりも、今なおすべての人に問われている問題である。
②聖書には原罪の教えそのものはない。創世記2・3章には人祖の罪が子孫にも伝わるという考えは見られない。
③聖書が述べるのは、人間の悪の起源を人間の存在の起源と分かつことである。悪の起源は創造主にではなく人間にある。アダムとはあらゆる人間の典型的シンボルであり、罪の原因は人間の力を歪める悪の力と認識されている。
④パウロの原理論に立ち返るべきである。つまり、原罪論の中心はアダムではなく、キリストの救いである。「一人の人間の罪」とは全人類の罪を意味する。パウロは全人類の原罪の連帯責任について語っている。「一人の人の恩恵によってすべての人が救われる」とキリストの救いを強調する(ロマ書5:12-21 アダムとキリスト)。
2 今後の探求の方向
①罪は不信仰であり、被造物の有限性と神への依存性を否定することをいう。
②罪は自己を絶対化する慢心のこと。エゴイズムと貪欲である。
③原罪を遺伝的罪責として生物学的に解釈すべきではない。原罪のシンボルを正確につかむことが重要である。
④ファンダメンタリストのナイーブな歴史主義と合理主義との間に(4)、正しい道を切り開くこと。アダムの物語とアウグスティヌスの原罪論に隠された宝を探すこと(5)。
⑤現代の哲学的・心理学的・社会学的・神学的洞察を踏まえて考察されなければならない(6)。
【ゆるしの秘跡(碑文谷教会告解室)】
注
1 こういう批判や主張は現代人の目からは当たり前すぎる整理だが、原罪論の歴史の中ではいかに画期的な言説であるかを忘れてはならないだろう。
2 この場合の「批判的」とは、単に欠点を指摘するという意味ではなく、「高等批評」とか「近代主義」とか「実証的聖書研究」などの含意を持っているようだ。これは一般的には「神話と歴史」の違いの問題で、正邪の問題ではない。日本の古事記・日本書紀の物語も同じであろう。
3 自罪とは原罪ではないもの、つまり、人間の自由意志で犯した罪のこと。自罪には大罪と小罪があるとされる。これはカトリック教会の教えであり、日本のプロテスタントではバルト的な「全面的堕落」論が支配的なため、こういう区別はしないようだ。
4 曖昧な表現でよくわからないが、ファンダメンタリズムの主張も合理主義の主張も両極端なので、進みべき道はその中間にありそうだと言っているようだ。ファンダメンタリズムの歴史主義とはおそらく聖書の無謬性を信じているという意味であろう。合理主義とは啓蒙思想など近代主義思想を指しているように聞こえる。
5 全面否定している訳ではありませんと言っているようだ。
6 「洞察」とは何のことを言っているのかはわからない。「ゆるしの秘跡」のことなのか、「贖罪論」を発展させよといっているのか、はっきりしない。パウロ的な贖罪観 Attonement(キリストによる贖罪は神の自由な自己犠牲による愛の業のこと)からもう一度出発し直したいと言っていると理解したい。