カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

現代日本人の罪理解(2) ー 原罪論8(了)(学び合いの会)

2022-07-07 10:31:21 | 神学


4 日本人の罪の意識

 R・ベネディクトにならって日本文化における「恥の文化」はユダヤ・キリスト教文化における「罪の文化」と対比されることが多い(1)。
 恥の文化の特徴は各自が自分の行動に対する世間の目を強く意識していることとされる。日本人にとって恥の意識が最重要の地位を占める。罪の文化の基礎は「罪責性」であるのにたいし、恥の文化のそれは「羞恥心」である(2)。
 恥の文化においては罪を告白するという習慣はない。伝統的日本文化において、「恥と穢れ」はキリスト教文化における「罪責性と悪」に対応するといえよう。

 

 【『菊と刀』】

 

 

 

5 罪理解を巡る今日の問題

①宗教的空白という現実
 現代日本における宗教的空白の要因はさまざまであろうが、その一つは、折衷主義的な日本仏教各宗派が惰性化し、葬式仏教化していることにある(3)。
 各宗派は組織化し、教団化しながら、次第に権力化したため、宗教的立場から純粋に悪の問題に対処することを忘れている。
②宗教的カオスという社会現象は、宗教そのものが持つ本来的役割と意義を見えなくさせてしまった(4)。
③宗教人口が総人口の2倍という奇妙な現象がありながら(5)、宗教が悪の問題に無力になっている。宗教の確信の一つである「罪障性 guilty」とは悪の自覚のことであるが(6)、果たして今日の諸宗教諸教団にはそれを信者に抱かせる力があるのか。
④明治維新以後の価値観の混乱から宗教的・倫理的価値の無視へ向かい、それに代わって欲望充足の突出への一層の動きがある(7)。
⑤このような現状においてキリスト教あるいはカトリック教会はどのような役割を果たすべきか、そして果たしうるのか。


1  R・ベネディクト 『菊と刀』(1946)。副田義也『日本文化試論 ベネディクト「菊と刀」を読む』(1993)。社会学者の副田氏は、ベネディクトの「文化の型」論をベースに、日本の倫理規範は「恥の文化・罪の文化・穢れの文化」の三層構造をなしていると試論を展開している。
2 こういう風に罪の文化と恥の文化の違いを「罪責性」と「羞恥心」の違いとして説明するのは、わかりやすいが誤解を招きやすい。罪責とか恥をどう定義するかにもよるが、キリスト教的には、対神的な罪責性と対人的な罪責性との違いと説明されることもあり(宗教規範と対人規範の違い)、哲学的には「羞恥論」の違いとして議論されることもある。社会学では「世間論」として議論することもあるようだ。R・ベネディクトの罪の文化・恥の文化説には無数の批判が寄せられたが、戦後の日本文化論に与えた影響は計り知れない。
3 宗教的空白とは宗教が悪の問題にきちんと対処できていないという意味らしい。宗教の影響力が小さいとか、宗教人口が少ないとか言っているわけではなさそうだ。
 また、葬式仏教についても、必ずしも否定的に捉えるだけではなく、そういう形で仏教が残ってきたことを肯定的に評価すべきだという議論があることも忘れてはならないだろう。キリスト教の土着化を目指している人々は、日本のキリスト教が結婚式宗教だけではなく、葬式宗教にもなることを望んでいるのだろうか。お葬式は教会で、お安いですよ、という時代が来るのだろうか。
4 宗教的カオスとは現代日本では新興宗教をはじめ様々な宗教が乱立しているという意味らしい。主に仏教と神道を念頭に置いているらしく、神仏習合や儒教の影響を考えているわけではなさそうだ。キリスト教では、具体的には「ニューエイジ運動」(New Age)の流行を念頭に置いているのであろう。今日の「スピリチュアリズム」への傾斜が強まっていることへの危機感を述べているように思われる。評価が割れる論点だけに表現が曖昧になっているような印象がある。
5 文化庁の宗教統計調査によると日本の宗教人口は1億8000万人以上となる。国勢調査などでは日本の人口は1億2500万人弱くらいだ、というよく知られた話。宗教人口は届け出制であるし、個人ではなく世帯をカウントしている(推計している)場合もあるようだ。それにしても、宗教人口の異常な多さが悪の問題の軽視にどうつながるのかもう少し丁寧な説明が欲しいところだ。
6 ここでは「罪障性」という言葉が使われているが、これは哲学用語なので、「罪責性」という宗教学の用語と同じなのかどうかはわからない。罪障はキュルパビリテともよばれるらしい。ちなみにカトリック教会では罪の源を「七つの罪源」と呼んでいる(傲慢・強欲・嫉妬・憤怒・色欲・暴食・怠惰)。七つの大罪と訳されることもあるようだ。
7 この「欲望充足の突出」というのが何を言っているのかははっきりしない。これは最近のカトリック教会で話題になっている「幸福のパラドックス」論(幸福は結果であって目的ではない 自分の幸福をいくら求めて充足されることはない)のことかもしれない。または伝統的な「マモンの神」論のことかもしれない。つまり、富の神、お金の神を追求する欲望ということのようだ。「誰も二人の主人に仕えることはできない・・・あなた方は、神と富とに仕えることはできない」(マタイ6:24)。
 なお、ヴァチカンは最近21世紀に入って、環境汚染や遺伝子改造などを含む新しい「七つの大罪」を定め、そのなかに「人を貧乏にさせること」、「むやみに金持ちになること」を含ませたという。「富と清貧」の問題は複雑だから原罪論の文脈ですべて論ずるのは難しそうだ(インターネット・マガジン 「カトリック・あい」)。

 

 

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