2022年7月の学び合いの会は、第7波に入った新型コロナ感染拡大の中で開かれた。猛暑とコロナのせいで参加者は10名ほどのいつものの顔ぶれであった。
今回は神学的人間論の第3弾としての恩恵論である。神学的人間論は創造論、原罪論と検討してきたので、残るは恩恵論ということになる(1)。
恩恵論は伝統的には「救済論」として論じられてきた(2)が、救済論というカテゴリーはキリスト論と恩恵論(秘跡論)を含むので、現在の神学教育では別のコースとして設けられているようだ。
現代の恩恵論の課題は明確だ。現代社会を支配する能力主義・業績主義・理性中心主義は様々の問題点を産みだしていることは誰もが認めているが、それを乗り越える視点を、自己決定する主体(自分自身)ではなく、「恩恵」(恩寵・聖寵・恵み)に求める試みを明確化することのようだ。歴史的には恩恵論はカトリックとプロテスタントを分断する論点だったが、今日では無神論や唯物論を乗り越える試みとしても見直されてきているという。
今回の報告は以下のような目次でなされた。
1 概要
2 聖書
①旧約聖書 ②共観福音書 ③パウロ
④ヨハネ ⑤新約聖書の恩恵論の要約
3 教義史
①古代 ②中世 ③宗教改革とトリエント公会議 ④近代神学
4 教義
5 近代神学
6 他宗教との比較
恩寵論は他の宗教でも論じられるが、恩恵の独特の意味はキリスト教神学により独自の刻印を押されている。つまり、恩恵論はほぼキリスト教神学で展開・発展してきた。キリスト教独特の観念・概念といって良いかもしれない。
それは早速みてみよう。
Ⅰ 概要
恩恵 χάρις(charis ギリシャ語),Gratia(ラテン語), grace(英語), Gnade(独)、grace(仏)
恩恵とは、キリスト教的救済理解の中心をなす言葉だ。
「キリスト教での恩恵は、人間の側の魅力や資格を前提条件にせず、因果的法則を超えて自由に予知不可能な仕方で神から授けられる無償の賜物」(岩波キリスト教辞典、宮本久雄)のことである。
賜物だから(3)、人間の側からの努力や行為に無関係であり、人間の自由意志さえ恩恵が前提となる。旧約では神による「選び」(申7:6-11)とか、新約では「義認」(義化)(ロマ5)などと呼ばれる。
イエス・キリストの死と復活によってすべての人が救われるという神の愛を意味する。すなわち、神がイエスを信じるすべての人の罪を赦し、永遠の命に導くということを意味する。
新約聖書では、パウロは charis という言葉を多用するが、別の文書では別の表現が用いられるという。
恩恵論は、キリスト教の「神理解」と「人間理解」の本質に属する。歴史の中で様々な論争があり、プロテスタントがカトリックから分裂する一因ともなったが、現在においては両者の意見の収斂が見られるという。
教会ではグラチア(ラテン語)が普通に用いられ、恩恵という言葉はあまり用いられない印象がある(4)。
幼児洗礼
注
1 「神論」を神学的人間論に含めて、神の存在、本質、属性、像、ことば、神認識などを論じることもあるようだ。キリスト論が「史的イエス」と「信仰のキリスト」の対比論が中心になるので、恩恵論は神学的人間論の中で論じざるを得ないのかもしれない。神論を含めれば、神学的人間論は4本の柱があることになる。
2 キリスト論ではキリストによる救いの業が論じられ、恩恵論(神学的人間論)では救いへの人間の参加・参与が論じられてきた。視点の大きな違いのようだ。
3 カリスマ(charisma 超人的な資質・能力)はこのカリスから派生した言葉のようだ。カトリックの典礼では聖別したぶどう酒を入れる杯も カリス chalis calix と呼ばれるのでまぎわらしい。
カリスとチボリウム(信者用のご聖体を入れる器)
4 たとえば、聖母マリアへの祈り(アヴェ・マリアの祈り)は、
Ave, Maria, gratia plena:
Dominus tecum:・・・・・・・
となる。
また、ガラシャ夫人で知られる細川ガラシャの洗礼名ガラシャはグラチア(恩恵)から来ているという。