カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

ペラギウス論争からヤンセニズム批判まで ー 恩恵論3(学び合いの会

2022-07-29 09:47:47 | 神学


Ⅲ 教義史

 恩恵論は古代・中世から宗教改革に至るまでの激しい論争の中で整備されてきた。近代神学・現代神学の中で論争はさらに激しくなるが、ここでは主な恩恵論の発展を要約する。

1 古代

①教父たちの恩恵論の共通点

 古代ギリシャ・ローマ世界では二つの救済論が支配的であった。一つはストア的禁欲主義の救済論(1)。もう一つは密儀宗教の秘密の儀式による救済論だ(2)。古代教父たちはこれらの汎神論的救済観念や、人間と神の本性の区別を軽視した哲学思想を否定した。古代教父たちは、神の超越性を主張し、神の恩恵によりイエス・キリストを通して救われることを強調した。
 他方、教父たちは、ストア派を批判しながらも、逆に倫理を軽視した運命論に対しても批判を展開し、神の恩恵なしには救いはなく、恩恵を受け入れ、実らせること以外に救いは無いと主張した。

①ギリシャ教父

 ギリシャ教父たちの恩恵論は、ヨハネ福音書に従う。三位一体と受肉の神秘に基づき、神の救済的働きを説明する(アタナシオスの受肉論)(3)。
 また、本来被造物である人間は恩恵によって神の子となる。すなわち人間が神性を受ける。ギリシャ教父に固有の「神化」(Theopoiesis)の思想(4)を展開した(カイサリアのパシレイオス)(5)。

②ラテン教父

 ギリシャ教父が恩恵について「神化」に重点を置いたのに対して、ラテン教父は恩恵による人間の「倫理化」を強調した(6)。
 アウグスチヌス以来、原罪によって傷ついた人間は恩恵によって癒やされるとされた。アウグスチヌスの恩恵論はペラギウスとの論争(7)で深まった。

2 中世神学

①恩恵論一般については、スコラ神学者たちはアウグスチヌスの恩恵論の影響下にある。秘跡論が発達するにつれ、神が秘跡を道具として恩恵を与えるという考え方が強調された。

②トマスの恩恵論
 トマス・アクィナスはアリストテレスの哲学を神学に導入した。彼以前の神学者たちが提示した神学を体系化し、ギリシャ教父の「神化」思想をアリストテレス哲学を用いて新しい解釈を施した。

 トマスによれば、神は人間をその本性を超える目的(超本性的目的 finis supurnaturalis)に招いている。それは顔と顔を合わせて神を見ることである(Ⅰコリ13:12)。これは「至福直観」(visio beatifica/beatific vision)(8)と呼ばれる。これは来世でしか達成されないが、神は人間が現世において「信望愛」(9)によってそれに向かった進んでいくのを望んでおり、そのために「超本性的恩恵」(高揚的恩恵 gratia erevans)が与えられる。
 これは人間の本性的願望を満たすものである。義人の霊魂は習性的恩恵および注入徳で富まされており、この善き習性により正しい生き方が容易になる。さらに神はこの行為にあたって、行為のための恩恵(助力の恩恵)を与える。
 高揚的恩恵は人間の弱さを癒やす「救治的恩恵」(gratia midekicinalis)の役割も果たす(11)。

 トマス・アクィナス

 

③唯名論 nominalism

 中世末期の唯名論神学(12)の中で、スコラ学の体系的恩恵論(存在論的恩恵論)は崩壊していく。14・15世紀の神学者たちは恩恵について理性によって探究することを諦めた。一方では神が自由にそのように決定したと述べ、他方、人間の道徳的力を過信し、自力によって神の恩恵を受けるにふさわしい者になることが出来ると主張した。

3 宗教改革とトリエント公会議

①ルターの思想

 ルターの宗教改革の出発点はかれの恩恵理解にあった。ルターによれば、神はキリストの贖いのゆえにキリストを信じる罪深い人間を義と認める(信仰義認論)。これは神の一方的恩恵で、人間のいかなる善行も義認の原因ではない。
 人間の救いが神からの一方的恩恵によるもので、人間は自力では救われないという点では、ルターの思想は教会の伝統的教えに反するものではない。しかし、以下の点は、教会が受け入れがたいものである。

イ)原罪は各人が持つ情欲である
ロ)原罪によって人間の自由意志は完全に失われた
ハ)人間の徹底的堕落のため、義とされた人間も常に大罪を犯し続けている
ニ)神は人間にその大罪を帰してはいない
ホ)救いに必要な唯一のことはキリストへの信仰である
ヘ)人間のいかなる善行も救いには役立たない

 ルターおよびその弟子たちはこれらの主張を後に緩和したが、他方、聖霊が救済に果たす役割に関しては宗教改革者とカトリック教会とでは大きな相違が見られた。

②トリエント公会議

 トリエント公会議(1545~63)はプロテスタントとの論争を念頭に、恩恵に関するカトリックの教えを総括的に述べた。1547年の「義化についての教令」は、神の先行的恩恵の全き必要性と無償性を述べ、人間の自由な協力の必要性を強調した。この教令はバランスのとれたすぐれた恩恵論である(13)。

4 近代神学

 トリエント公会議後も、カトリックとプロテスタントとの間の論争は継続した。カトリック教会内においても、二つの大論争が起こった。

①イエズス会(ルイス・デ・モリナなど)とドミニコ会(バニエスなど)との間で、神の恩恵と人間の自由意志の関係についての論争が起きた。教皇パウルス五世が160年に、いずれの説も禁じること無く、両者は相手を異端としてはならないと命じた(DS1997)。

ヤンセニズム論争
 17・18世紀にフランスで激化したヤンセニズム(14)は厳格な倫理を説きながら、人間の自由意志を否定した。キリストの救いは予定された一定の人々だけ与えられ、キリスト教徒以外の人の行いは罪であると主張した。バニエス(ドミニコ会)や歴代教皇はヤンセニズムを排斥し、多くの神学者がヤンセニズムの狭い考え方に反発し、より広い見方を提唱した。つまり、神は救いのために十分な「充足的恩恵 gratia sufficiens)をすべての人に実際に与えていると説くようになった。

 

 


1 ストア派とは前300年頃アテネに設立された哲学の一派。万物を支配するロゴスと倫理を重視した。新約聖書で「哲学」とか「哲学者」と呼ばれるのはストア派のことだという。初期の教父たちはその汎神論を批判したが、キリスト教に与えた影響は大きい。
2 「密儀宗教」とは古代ギリシャ・ローマで隆盛を極めた宗教一般をさす。密議とは秘密の宗教儀礼という意味らしい。ゼウス神をあがめるローマの宗教や、ペルシャのミトラス教などを含むようだ。
3 アタナシオス Athanasios 373年没 アレキサンドリア主教。ヒュポスタシス(自存)とウーシア(実体)の意味を整理し、三位一体論を発展させた(ギリシャ定式)。「正統信仰の父」と呼ばれる。ヒュポスタシスやウーシアとは聞き慣れない用語だろうが、これらの概念が解らないと三位一体論の成立を追えなくなる。ローマ定式ではさらに発展する。
4 「神化」とは人間が神になるというよりは、人間が神性を帯びて神に近づくという意味のようだ。聖書にはこの言葉はない。だが受肉論の発展の中で、人間は罪を覆せば、本性上の神にはなれないけれど恩恵により神に似たものになれるという考え方だ。神格化ではない。カトリックとは違い、ギリシャ正教では現在でも重要な観念として生きているようだ。
5 カイサリアのパシレイオス カイサリア主教 379年没 カッパドキアの3教父のひとり 大パシレイオスの方である ギリシャ正教(東方正教会)では今でも特に崇敬されているという。
6 ギリシャ教父とはギリシャ語で思索・著作した教父、ラテン教父とはラテン語で思索・著作した教父のこと。かならずしも時代区分ではないし、何年から何年までとは言い切れないようだ。大体2~3世紀頃活躍し、グレゴリウス1世を最後の教父とするなら7世紀頃まで続いたと言えそうだ。だから新約聖書の著者たちは教父とは呼ばれない。なお、教父(Church Fathers)とは、教会が、正統信仰に基づいて活動し、聖なる生活を送ったと認めた人という限定があるようだ。ラテン教父たちが倫理を重視したのもストア派の主張を意識してのことだろう。「倫理化」とは、神が嘉する善行を重視するという意味のようだ。
7 ペラギウスは4世紀中頃の修道士。ペラギウス論争で著名だ。原罪論ではアウグスチヌスの遺伝説を批判し、模倣説を展開した。また、自由意志論に基づき、アウグスチヌスの恩恵説や予定説を批判した。411年に異端宣告を受けるが、現在でもその思想的影響力は残っていると言う神学者もいるようだ。
8 至福とは地上の現世的幸福とは違って神の国で得られる至福である。直観とは(直感ではない)直接目で見るという意味だが、ここでは「顔と顔を合わせて」観る、つまり、神と相まみえるという意味だという(「私たちは、今は、鏡におぼろに映ったものを観ていますが、その時には、顔と顔とを合わせて見ることになります」Ⅰコリ13:12 協会共同訳)。トマスは、至福直観は人間の本性や知性では無理であり、恩恵の力でも無理だが、それを求める願望は人間の本性に備わっていると述べているという(『神学大全』第1部第12問)。
9 「信望愛」は教会ではよく使われる言葉だ。お祈りでは、信德唱,望徳唱、愛徳唱を唱えることもある。Iコリ13:13の有名な文言はよく言及される。「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残ります。その中で最も大いなるものは、愛です」。
10 トマスの枢要徳論。枢要徳は徳の倫理学のことで、「信仰・希望・愛」の三つ(対神徳)と、「思慮・正義・勇気・節制」の4つの倫理徳からなる。対神徳は注入徳で、恩恵により与えられる、注入される、徳である。
11 こういうカテゴリー論、弁証論は中世スコラ学の特徴で、現代の我々には解りづらい。スコラ哲学はやがて普遍論争の中で、唯名論によって批判されていく。
12 唯名論とは、「普遍論争」のなかで、普遍という性格を事物の側にではなく、言語の側にのみ帰属させる考え方を指す。普遍は必ずしも音声言語だけに限定されない。14世紀のオッカム(1347年没)を代表的論者とする人が多い。「オッカムの剃刀 Ockham's razor 」は晦渋なスコラ学を破壊していった(節減の原理 不必要な条件をあれこれ立てて議論するな)。

13 主に予定説・二重予定説批判が中心のようだ。DS1521~1550。わたしは読んだことはない。
14 ヤンセニズム(ジャンセニズム)とは、恩恵の問題をめぐり、アウグスチヌスの思想(予定説など)を受けつぐヤンセン(ジャンセニウス 1585-1638 オランダの神学者)に由来する思想。フランスのアウグスチヌス主義者たちはこのヤンセニズムの思想に従ってイエズス会と「自由意志論争」を戦った。自由意志を軽視し、恩恵を過度に重視する。ヤンセニズムの影響を受けるとミサに行かなくなる、聖体拝領をしなくなると言われたこともある。ヤンセニズムの評価は立場により異なり、定まっていない。パスカルから現代までフランスの思想界には影響が残っているという説もあるようだ。

 パスカル 『パンセ』「人間は考える葦である」(人間は弱い存在だ でも考えることが出来る)

 

 

 

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