カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

ご復活を信じなければ司祭にはなれませんよ ー 2023年イースター

2023-04-09 18:39:30 | 教会


 主のご復活おめでとうございます。

 私の所属教会はまだ分散ミサが続いており、全員が一緒にこのミサに与れたわけではありませんでした。とはいえ、快晴にも恵まれ、多くの方がごミサに集まり、主の復活をお祝いしました。コロナ禍のせいでここ数年見たこともない人数の参加者数でした。ごミサでは続唱やアレルヤ唱は全員で声を出して歌うことが許されました。さすがグロリアは聖歌隊が歌いましたが、会衆が一緒に声を出して歌うのは実に3年ぶりでした。なんだかんだ言ってもマスクはみなさんまだしておられ、歌うといってもマスク越しでなんとも時世を感じさせるものでした。聖歌隊はさすが張り切っておられ、お御堂に歌声が響き渡りました。

 主任司祭のS師は今日が最後のミサということで、お説教にも熱が入っていました。福音朗読は復活の主日はヨハネの29:1~9が読まれる。ヨハネがが描く「空のお墓」のシーンだ。S師は、復活というのは、自分は30歳で叙階されてから司祭を45年やってきたが、実はいまだなんのことかよくはわからない。自分の石神井の神学校の時代の院長が「復活を信じなければ司祭にはなれませんよ」と口をい酸っぱくして説いていたことを今でもよく覚えている。ヨハネが言っているように「理解する」ことと「信ずる」ことは別だ。復活はいまだ理解できないけれどずっと信じて司祭を45年続けてきた・・・と長く印象的なお説教だった(1)。ミサの後のお別れのご挨拶のなかでも同じように神学生時代の思い出を語っておられた(2)。

 復活徹夜祭での新たな受洗者はおられなかったようだが、プロテスタント教会からの転会者がおられ、皆から盛大な拍手のもとに迎入れられていた。豊かな信仰生活が続くことを祈りたい(3)。

 ごミサの後、教会委員長が歓送の言葉を述べられ(4)、お祝いの花束を贈られた。軽い立食パーティも開かれ、子どもたちがイースターエッグを皆さんにあげていた。コロナ禍をなんとか乗り越えてやっと元にもどりつつあるという復活祭でした。

 

【復活のローソク】

 

 

1 言うまでもないが、「理解する」ことと「信じる」こととを対比的に論じるのは神学の中心テーマであり続けている。「理解せんがために信ず」とアンセルムスが述べたのは11世紀のことだ。「体の復活」と言われてもピンとは来ないが(理解)、「あなたの親兄弟にもう一度会えるのですよ」と言われれば、そうかなとも思う(信仰)。キリスト教は神学的には「三位一体」説を信じることが根幹だが、信仰的には「復活」を信じられることが根幹になるという。
 S師が言うように、ヨハネはこの福音書で「見て、信じた」と言っているが(第8節)、「何を信じたか」とは言っていない。空の墓を見てゼベダイの子ヨハネは何を信じたのであろうか。
 司祭の定年は一応70歳のようだが現在は司祭不足のせいか75歳まで伸びているようだ。定年後は協力司祭として続ける司祭もおられるようだが、S師のように引退される方も多いという。司祭の老後は年金や介護・医療など問題の複雑さは一般社会人と特に変わるものではない。あえて言えば、個人差が大きい、教区司祭と修道会司祭の違いが大きいのが特徴かもしれない。 
2 S師のように第二バチカン公会議直後の1970年代半ば頃までに(この頃から日本社会全体とともに日本の教会の体質も大きく変わる)叙階された司祭の環境は神学校時代も叙階直後も現在とはだいぶ異なっていたようだ。たとえば、この頃は石神井で勉強していた神学生のなかできちんと叙階までたどり着けるのはほいぼ三分の一といわれていた。神学校の教育は厳しく、ちょっとでも改革的な、革新的な意見を表明すると「従順ではない」としてすぐ神学校を追い出されたという。司祭不足を嘆いている現在の日本の教会からは想像できない姿だった。私の周りでも、司祭になれた人、なれなかった人が数人いる。「召し出し」という言葉だけでは推測できない背景が当時の日本の司祭育成課程には潜んでいたようだ。私は個人的にはこれはキリスト教の日本への「土着化」路線をめぐる葛藤の反映だと考えているが、今度来られる新しい司祭に尋ねてみたいものだ。
3 プロテスタントで洗礼を受けた人がカトリック教会に移る場合、以前は「転会」と称していた。今は何というのか知らない。洗礼はすでに受けているから洗礼は受けずに堅信を受けるのが普通だ。または、場合によっては洗礼を受けることもあるようだ。洗礼名や堅信名を新たにもらうこともあるようだ。神学的にはいろいろ議論があるようだが、信仰面からは「改宗」とは言わずに「転会」という表現がふさわしい気がする。カトリックからプロテスタントに移る場合は対応は相手によってかなり異なるようだ。日本では「宗教二世」が社会問題になっているが、宗教間の移動が問題になっている社会も多いと聞く。原理主義的な宗教が世界中で復興しつつある中で転会が持つ意味も変わりつつあるようだ。
4 教会委員長の歓送の辞は親愛感あふれるものであったが、長広舌というかなにぶん話が長すぎた。神父様に最後なのだからもう少し語ってもらってもよかった気がしないでもない。


【聖歌隊】

 

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 2023年枝の主日 ー コロナ... | トップ | 56歳で叙階の新主任司祭の初ミサ »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

教会」カテゴリの最新記事