第3章は、「イエスの教えと行動」と題されている。7節から構成されており、本書の中核部分のようだ。イエスの宣教活動と、そこでの
教えを説明している。神の国(支配)の到来という教えの説明が中心となる。
1 イエスの宣教のはじめ
ここでは、洗礼者ヨハネの登場、イエスの水による洗礼、宣教開始の第一声、そして突然のイエスの出現に驚く人々の反応が説明される。
イエスの洗礼の話は、マルコ1:10-11 を一緒に読むことから始まる。そして、イエスの第一声は印象深いものだった。
洗礼者ヨハネがヘロデ・アンティパスに捕らえられた後、イエスは宣教活動を始めたとマルコ福音書は書いている。27年頃らしい。
その第一声とは、
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1・15)
時が満ちるとは、神の国とは、近づくとは、福音とは、なにか。小笠原師は早速詳しい説明を始める。ここではそれらを紹介する余裕は
ない。大事なことは、このイエスの言葉に、人々が「群れをなして駆けつけた」ことだ。突然耳に響いた言葉に驚き、耳を傾け始めた
のだ。
だが、かれらは、圧政からの政治的解放と新しい王国の建設を期待した。ところが、人々は、自分たちの期待とは異なることをイエスが
話していることを知ることになる(1)。
2 イエスが伝える福音のイメージ
イエスが伝えた福音とはどんなものだったのか。師はそのイメージを「神の支配(国)の到来」と呼ぶ(2)。イエスは「神の支配」を
喩えを持ってイメージをあたえていく。
①神の支配とは「隠された宝」だ(マタイ13:44)
②神の支配は「成長していく出来事」だ(マタイ13:31-33)
③神の支配では「種をまく人」はそれぞれだ(マタイ13:3-9)
イエスは、神の国(支配)とは、国家とか制度とか領土ではないという。それは 「実に、あなたたちの間にある」と言う。
「間にある」とは原文では「あなたたちのただ中にある」に近いらしい。「ただ中」とは道徳や倫理でもない。「お互いのかかわり」
なのだという(3)。
(東方教会の十字架 一番上の横木はイエスの罪状(INRI)
3 イエスの行動とさまざまなエピソード
福音を説いて回るイエスは特徴的な行動を取る。「病気の治癒」だ。イエスは数々の病気を治す。今風にいえば「奇跡」をおこす(4)。
これは、「病気は罪の罰」という当時の考え方をイエスが退けたことを意味する。悪霊が取り憑いて病にかかる、それは罪を犯した
結果だ、という考え方を否定して、イエスは「子よ、あなたの罪は赦される」と宣言する(マルコ 2:1-12)。
師は、イエスの律法主義との戦いの例を懇切丁寧に説明していく。
①マルコ 2:18-22 断食についての問答
②マルコ 7:1-16 昔の人の言い伝え
③ルカ 6:1-5 安息日に麦の穂をつむ
④ルカ 11:37-54 ファリサイ派の人々と律法学者への非難
⑤ルカ 13:10-17 安息日に腰の曲がった婦人をいやす
数多くのイエスの病の治癒行為の中で最も印象的なのは、マルコ5:25-34 だという。「娘よ、あなたの信仰があなたを
救った」。神の国がこの女性のなかで成就したという。
信仰とは聖書ではピスティスの訳語で、本来の意味は全面的に信頼するとか、自分自身を相手に委ねることを意味するという。
古い日本語での「たのむ(頼む)」という言葉に相当すると言う(5)。
ついで師は、「信仰」の具体的な中身について説明する。4つの聖句を取り上げる。
①「安心して行きなさい」(「行きなさい 平和のうちに」)
②「イエスは・・・深く憐れまれた」
③「心の貧しい人々は幸いである」
④「疲れた者、重荷を背負うものは、だれでもわたしのもとに来なさい」
師はこれらを詳しく解説しながら、信仰とはイエスに全面的に信頼を寄せることであり、救いとは神からの解放の働きかけ、
人のうちに引き起こされる平安の恵みのことだと述べる。
4 イエスの使命と「父」である神
イエスは、人々のあいだで自分の話に驚きが広がっていくのを見てどう思ったのか。つまり、イエスは自分をどう思っていたのか。
イエスの弟子たちは、イエスが王国を打ち立てた時、だれが一番偉い地位につくのかと議論していた。その時イエスはふっと自分の
本心を打ち明けたようだ。
「人の子(私)は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのである」
(マルコ 10:45)
師はここで「贖い」(リュトロン)という概念を詳しく説明する。現代日本語では、贖う(あがなう)と償う(つぐなう)は相手に
かけた損害の埋め合わせをするという意味でほぼ同じことを意味する。ところが、聖書の世界では、贖いとは、奴隷を開放して自由に
してやること、奴隷解放のために身代金を支払うこと、を意味する。贖いとはもっと重い意味を背負った言葉として使われている。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じるものが一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」
(ヨハネ 3:16)
師は、イエスが神をアマライ語で「アッパ」と呼びかけることの驚きを語る。神をパパとかお父さんと呼びかけるとはどういうことか(6)。
しかも、弟子たちにも「主の祈り」を与え(マタイ6:9-13)、神を「アッパ」と呼ばせる。神を父と呼ぶとは、イエスは自分と
神がどういう関係にあると思っていたのか。これは、三位一体論などという難しい話ではなく、イエスは、遠い昔預言者イザヤが告げた
「苦しむ僕」(イザヤ42章)として自己規定していたと思わせると言う。
注
1 興味深いのは、師が、「霊」、「神の国」、「天の国」、ルアーハとプネウマなどの概念を丁寧に説明していることだ。「理解を
深めるために」の欄では、聖書における「霊」が「息吹」や「風」を意味しており、ルアーハ(ヘブライ語)・プネウマ(ギリシャ語)
の訳語として不適切だと主張している。師は、訳語を「息吹き」に変更することを提案している。この傅で言えば、「聖霊」は
「聖息」となる。悪くはない訳語だと思う。
2 師は、この節で、注やコラムを使って、「神の国」概念を事細かに説明する。ギリシャ語の「パシレイア トゥ セウ」は、「神の
支配、神の統治とその恵みが及ぶ領域」という意味で、パシレイアを「国」と訳すと「国家」のイメージと重なってしまい、「支配」と
訳すと「上からの抑圧」というイメージを与えてしまう。ともに訳語として不適切だが、ここでは「支配」の訳語をとるという。支配と
いう日本語には、支配される人間の側の同意が含意されているからだろうか。
3 現代風にいえば、「関係」とでもいえようか。神の国とは、人間関係のひとつのありようだ、ということのようだ。
4 師によると、奇跡とはなにかおどろおどろしい魔術的出来事のことではない。聖書のギリシャ語では「セメイオン」と
書かれているだけで、日本語ではたんに「しるし」と訳されると言う。つまり、それらは、イエスが福音の真実性を示すためにおこなった
しるしであり、「その目撃者を信仰と悔い改めに促すため」に行ったものだと言う。
5 師は、浄土仏教信仰では「彌陀をたのむ」とは、自分の力を当てにすることなく、ひたすら阿弥陀如来に自分を委ねることをさすと
例を引いて説明している。師は浄土思想、阿弥陀信仰を高く評価しているようだ。日本の比較思想の分野では、浄土教とキリスト教を比較し、
その類似性や差異性を指摘する議論が多いが、結局は大乗仏教とキリスト教の比較だ。上座部仏教とキリスト教の比較にあまり関心が
向かないのは、比較思想と比較哲学の区別が明確ではないからなのだろうか。
6 イエスが神を父と呼ぶことは、神が父親のイメージで、つまり、男性のイメージで把握されていることを示す。神は男性か女性か。
これは、歴史的にも、また様々な宗教で議論されているテーマだが、聖書でいえば、当時のイスラエル社会が父権制社会であったことを
示している。ちなみに、日本のキリシタン時代の「主の祈り」(「ばあてるのすてる」 Pater noster)では、父は「親」と
訳されているという(天にましますわれらがおん親」 原文は「天に御座ます我等が御親、御名を貴まれ給え」)(コラム13 114頁)。