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【瀧口入道/高山樗牛】第一~第十三
【瀧口入道/高山樗牛】第十四~第二十五
【瀧口入道/高山樗牛】第二十六~第三十三 「滝口入道と横笛/神坂次郎」
ロマンチストの独り言-31
【瀧口入道/高山樗牛】第十四~第二十五
第十四
治承三年五月、熊野參籠の此方《このかた》、日に増し重《おも》る小松殿の病氣《いたつき》。一門の頼《たより》、天下の望みを繋《つな》ぐ御身なれば、さすがの横紙《よこがみ》裂《やぶ》りける入道《にふだう》も心を痛め、此日朝《あさ》まだき西八條より遙々《はるばる》の見舞に、内府《ないふ》も暫く寢處《しんじよ》を出でて對面あり、半※[「ひへん+向」」計《はんときばか》り經《へ》て還り去りしが、鬼の樣なる入道も稍々涙含《なみだぐ》みてぞ見えにける。相隨ひし人々の、入道と共に還りし跡には、館《やかた》の中《うち》最《い》と靜にて、小松殿の側に侍《はんべ》るものは御子維盛《これもり》卿と足助二郎重景のみ。維盛卿は父に向ひ、『先刻祖父《そふ》禪門《ぜんもん》[二七]の御勸《おんすゝ》めありし宋朝渡來の醫師、聞くが如くんば世にも稀なる名手《めいしゆ》なるに、父上の拒《こば》み給ひしこそ心得ね』。訝《いぶかし》げに尋ぬるを、小松殿は打見やりて、はらはらと涙を流し、『形ある者は天命あり。三界の教主《けうしゆ》[二八]さへ、耆婆《きば》[二九]が藥にも及ばずして跋提河《ばつだいが》の涅槃《ねはん》に入り給ひき。佛體ならぬ重盛、まして唯ならぬ身の業繋《ごふけ》なれば、藥石如何でか治するを得べき。唯々父禪門の御身こそ痛ましけれ。位《くらゐ》人臣を極め、一門の榮華は何れの國、何れの代《よ》にも例《ためし》なく、齡六十に越え給へば、出離生死《しゆつりしやうじ》の御營《おんいとなみ》、無上菩提の願ひの外、何御不足《なにごふそく》のあれば、煩惱劫苦《ぼんなうごふく》の浮世に非道の權勢を貧り給ふ淺ましさ。如何に少將、此頃の御擧動《おんふるまひ》を何とか見つる、臣として君を押し籠《こ》め奉るさへあるに、下民の苦を顧みず、遷都の企ありと聞く。そもや平安三百年の都を離れて、何《いづ》こに平家の盛《さか》りあらん。父の非道を子として救ひ得ず、民の怨みを眼《ま》のあたり見る重盛が心苦《こゝろぐる》しさ。思ひ遣《や》れ少將』。
維盛卿も、傍らに侍《じ》せる重景も首《かうべ》を垂れて默然《もくねん》たり。内府は病み疲れたる身を脇息《けふそく》に持たせて、少しく笑を含みて重景を見やり給ひ、『如何に二郎、保元《ほうげん》の弓勢《ゆんぜい》、平治《へいぢ》の太刀風《たちかぜ》、今も草木を靡《なび》かす力ありや。盛りと見ゆる世も何《いづ》れ衰ふる時はあり、末は濁りても涸《か》れぬ源には、流れも何時《いつ》か清《す》まんずるぞ。言葉の旨《むね》を忖《はか》り得しか』。重景は愧《はづか》しげに首《かうべ》を俯《ふ》し、『如何でかは』と答へしまゝ、はかばかしく應《いらへ》せず。
折から一人の青侍《あをざむらひ》廊下に手をつきて、『齋藤左衞門、只今御謁見を給はりたき旨願ひ候が、如何計らひ申さんや』と恐る恐る申上ぐれば、小松殿、『是れへ連《つ》れ參れ』と言ふ。暫くして件の青侍に導かれ、緩端《えんばた》に平伏《へいふく》したる齋藤茂頼、齡七十に近けれども、猶ほ矍鑠《くわくしやく》として健《すこ》やかなる老武者《おいむしや》、右の鬢先より頬を掠《かす》めたる向疵《むかふきず》に、栗毛《くりげ》の琵琶股《びはもゝ》叩いて物語りし昔の武功忍ばれ、籠手《こて》摺《ずれ》に肉落ちて節《ふし》のみ高き太腕は、そも幾その人の首を切り落としけん。肩は山の如く張り、頭は雪の如く白し。『久しや左衞門』、小松殿聲懸《こゑか》け給へば、左衞門は窪みし兩眼に涙を浮べ、『茂頼、此の老年に及び、一期の恥辱、不忠の大罪、御詫《おんわび》申さん爲め、御病體を驚かせ參らせて候』。小松殿眉《まゆ》を顰め、『何事ぞ』と問ひ給えば、茂頼は無念の顏色にて、『愚息《ぐそく》時頼』、と言ひさして涙をはらはらと流せば、重景は傍らより膝を進め、『時頼殿に何事の候ひしぞ』。『遁世《とんせい》致して候』。
是はと驚く維盛・重景、仔細如何にと問ひ寄るを應《こたへ》も得せず、やうやく涙を拭《のご》ひ、『君が山なす久年《きうねん》の御恩に對し、一日の報效をも遂《と》げず、猥りに身を捨つる條、不忠とも不義とも言はん方なき愚息が不所存、茂頼此期《このご》に及び、君に合はす面目も候はず』。言ひつゝ懷《ふところ》より取り出す一封の書、『言語に絶えたる亂心にも、君が御事忘れずや、不忠を重ぬる業《わざ》とも知らで、殘しありし此の一通、君の御名を染めたれば、捨てんにも處なく、餘儀なく此《こゝ》に』と差上ぐるを、小松殿は取上げて、『こは予に殘せる時頼が陳情《ちんじやう》よな』と言ひつゝ繰りひろげ、つくづく讀み了りて歎息し給い、『あゝ我れのみの浮世にてはなかりしか。――時頼ほどの武士《ものゝふ》も物の哀れに向はん刃《やいば》なしと見ゆるぞ。左衞門、今は嘆きても及ばぬ事、予に於いて聊か憾みなし。禍福はあざなえる繩の如く、世は塞翁《さいをう》が馬、平家の武士も數多きに、時頼こそは中々に嫉《ねたま》しき程の仕合者ぞ』。
第十五
更闌《かうた》けて、天地の間にそよとも音せぬ後夜《ごや》の靜けさ、やゝ傾きし下弦《かげん》の月を追うて、冴え澄める大空を渡る雁の影遙《はる》かなり。ふけ行く夜に奧も表も人定まりて、築山《つきやま》の木影《こかげ》に鐵燈《かねとう》の光のみ侘《わび》しげなる御所《ごしよ》の裏局《うらつぼね》、女房曹司の室々も、今を盛りの寢入花《ねいりばな》、對屋《たいや》を照せる燈の火影《ほかげ》に迷うて、妻戸を打つ蟲の音のみ高し。※[「えんにょう+囘」]廊《かいろう》のあなたに、蘭燈《らんとう》尚ほ微《かすか》なるは誰《た》が部屋《へや》ならん、主は此《こ》の夜深《よふか》きにまだ寢もやらで、獨り黒塗の小机に打ちもたれ、首《かうべ》を俯して物思はしげなり。側《かたは》らにある衣桁《いかう》には、紅梅萌黄《こうばいもえぎ》の三衣《さんえ》を打懸けて、薫《た》き籠《こ》めし移り香《が》に時ならぬ花を匂はせ、机の傍に据ゑ付けたる蒔繪の架《たな》には、色々の歌集物語《かしふものがたり》を載せ、柱には一面の古鏡を掛けて、故《わざ》とならぬ女の魂見えて床し。主が年の頃は十七八になりもやせん、身には薄色に草模樣を染めたる小袿《こうちぎ》を着け、水際《みづぎは》立ちし額《ひたひ》より丈《たけ》にも餘らん濡羽《ぬれは》の黒髮《くろかみ》、肩に振分《ふりわ》けて後《うしろ》に下《さ》げたる姿、優に氣高し。誰れ見ねども膝も崩《くづ》さず、時々鬢のほつれに小波《さゞなみ》を打たせて、吐く息の深げなるに、哀れは此處《こゝ》にも漏れずと見ゆ。主は誰《た》ぞ、是れぞ中宮《ちゆうぐう》が曹司横笛なる。
其の振り上《あ》ぐる顏を見れば、鬚眉《すうび》の魂を蕩《とろ》かして此世の外ならで六尺の體を天地の間に置き所なきまでに狂はせし傾國《けいこく》の色、凄き迄に美《うる》はしく、何を悲しみてか眼に湛《たゝ》ゆる涙の珠《たま》、海棠《かいだう》の雨も及ばず。膝の上に半《なか》ば繰弘《くりひろ》げたる文は何の哀れを籠めたるや、打ち見やる眼元《めもと》に無限の情《なさけ》を含み、果は恰も悲しみに堪へざるものの如く、ブルブルと身震ひして、丈もて顏を掩ひ、泣音《なくね》を忍樣いぢらし。
折から、此方《こなた》を指《さ》して近づく人の跫音《あしおと》に、横笛手早く文を藏《をさ》め、涙を拭ふ隙《ひま》もなく、忍びやかに、『横笛樣、まだ御寢《ぎよしん》ならずや』と言ひつゝ部屋《へや》の障子徐《しづか》に開きて入り來りしは、冷泉《れいぜい》と呼ぶ老女なりけり。横笛は見るより、蕭《しを》れし今までの容姿《すがた》忽ち變り、屹《きつ》と容《かたち》を改め、言葉さへ雄々《をゝ》しく、『冷泉樣には、何の要事あれば夜半《よは》には來給ひし』、と咎むるが如く問ひ返せば、ホヽと打笑ひ、『横笛さま、心強きも程こそあれ、少しは他《ひと》の情《なさけ》を酌み給へや。老い枯れし老婆の御身に嫌はるゝは、可惜《あたら》武士《ものゝふ》の戀死《こひじに》せん命《いのち》を思へば物の數ならず、然《さ》るにても昨夜《よべ》の返事、如何に遊ばすやら』。『幾度申しても御返事は同じこと、あな蒼蠅《うるさ》き人や』。慚《はづか》しげに面《おもて》を赧《あか》らむる常の樣子と打つて變りし、さてもすげなき捨言葉《すてことば》に、冷泉訝《いぶか》しくは思へども、流石《さすが》は巧者《しれもの》、氣を外《そら》さず、『其の御心の強さに、彌増《いやま》す思ひに堪へ難き重景さま、世に時めく身にて、霜枯《しもがれ》の夜毎《よごと》に只一人、憂身《うきみ》をやつさるゝも戀なればこそ、横笛樣、御身《おんみ》はそを哀れとは思《おぼ》さずか。若氣《わかげ》の一徹《てつ》は吾れ人ともに思ひ返しのなきもの、可惜《あたら》丈夫《ますらを》の焦《こが》れ死《じに》しても御身は見殺しにせらるゝ氣か、さりとは情《つれ》なの御心や』。横笛はさも懶《ものう》げに、『左樣の事は横笛の知らぬこと』。『またしてもうたてき事のみ、恥かしと思ひ給うての事か。年弱《わか》き内は誰しも同じながら、斯くては戀は果《は》てざるものぞ。女子《をなご》の盛《さか》りは十年《ととせ》とはなきものになるに、此上《こよ》なき機會《をり》を取り外《はづ》して、卒塔婆小町《そとばこまち》[三〇]の故事《ふるごと》も有る世の中。重景樣は御家と謂ひ、器量と謂ひ、何不足なき好き縁なるに、何とて斯くは否《いな》み給ふぞ。扨は瀧口殿が事思ひ給うての事か、武骨一途《づ》の瀧口殿、文武兩道に秀《ひい》で給へる重景殿に較《くら》ぶべくも非ず。況《ま》してや瀧口殿は何思ひ立ちてや、世を捨て給ひしと專ら評判高きをば、御身は未だ聞き給はずや。世捨人《よすてびと》に情も義理も要《い》らばこそ、花も實《み》もある重景殿に只々一言の色善《いろよ》き返《かへ》り言《ごと》をし給へや。軈《やが》て兵衞にも昇り給はんず重景殿、御身が行末は如何に幸ならん。未だ浮世《うきよ》慣《な》れぬ御身なれば、思ひ煩らひ給ふも理《ことわり》なれども、六十路《むそぢ》に近き此の老婆、いかで爲惡《ためあ》しき事を申すべき、聞分け給ひしかや』。
顏差し覗《のぞ》きて猫撫聲《ねこなでごゑ》、『や、や』と媚《こ》びるが如く笑《ゑみ》を含みて袖を引けば、今まで應《いらへ》えもせず俯《うつむ》き居たりし横笛は、引かれし袖を切るが如く打ち拂ひ、忽ち柳眉《りうび》を逆立《さかだ》て、言葉《ことば》鋭《するど》く、『無禮《なめげ》にはお在《は》さずや冷泉さま、榮華の爲に身を賣る遊女舞妓と横笛を思ひ給うてか。但しは此の横笛を飽くまで不義淫奔に陷《おとしい》れんとせらるゝにや。又しても問ひもせぬ人の批判、且つは深夜に道ならぬ媒介《なかだち》、横笛迷惑の至り、御歸りあれ冷泉樣。但し高聲擧げて宿直《とのゐ》の侍《さむらひ》を呼び起し申さんや』。
第十六
鋭き言葉に言い懲《こら》されて、餘儀なく立ち上《あが》る冷泉を、引き立てん計りに送り出だし、本意《ほい》なげに見返るを見向《みむき》もやらず、其儘障子を礑《はた》と締《し》めて、仆〈たふ〉るゝが如く座に就ける横笛。暫しは恍然《うつとり》として氣を失へる如く、いづこともなく詰《きつ》と凝視《みつ》め居しが、星の如き眼の裏《うち》には溢《あふ》るゝばかりの涙を湛《たゝ》へ、珠の如き頬にはらはらと振りかゝるをば拭はんともせず、蕾の唇《くちびる》惜氣《をしげ》もなく喰ひしばりて、噛み碎く息の切れ切れに全身の哀れを忍ばせ、はては耐へ得で、體を岸破《がば》とうつ伏して、人には見えぬ幻《まぼろし》に我身ばかりの現《うつゝ》を寄せて、よゝとばかりに泣き轉《まろ》びつ。涙の中にかみ絞る袂を漏れて、幽《かすか》に聞ゆる一言《ひとこと》は、誰れに聞かせんとてや、『ユ許し給はれ』。
良《よ》しや眼前に屍《かばね》の山を積まんとも涙一滴こぼさぬ勇士に、世を果敢《はか》なむ迄に物の哀れを感じさせ、夜毎《よごと》の秋に浮身《うきみ》をやつす六波羅一の優男《やさをとこ》を物の見事に狂はせながら、「許し給はれ」とは今更ら何の醉興《すゐきよう》ぞ。吁々《あゝ》然《さ》に非ず、何處《いづこ》までの浮世なれば、心にもあらぬ情《つれ》なさに、互ひの胸の隔てられ、恨みしものは恨みしまゝ、恨みられしものは恨みられしまゝに、あはれ皮一重《ひとへ》を堺に、身を換へ世を隔てても胡越の思ひ[三一]をなす、吾れ人の運命こそ果敢《はか》なけれ。横笛が胸の裏こそ、中々に口にも筆にも盡されね。
飛鳥川《あすかがは》の明日《あす》をも俟〈ま〉たで、絶ゆる間《ま》もなく移り變る世の淵瀬《ふちせ》に、百千代《もゝちよ》を貫きて變らぬものあらば、そは人の情にこそあんなれ。女子《をなご》の命《いのち》は只一《たゞひと》つの戀、あらゆる此世の望み、樂み、さては優《いう》にやさしき月花《つきはな》の哀れ、何れ戀ならぬはなし。胸に燃ゆる情の焔《ほのほ》は、他を燒かざれば其身を焚《や》かん、まゝならぬ戀路《こひぢ》に世を喞《かこ》ちて、秋ならぬ風に散りゆく露の命葉《いのちば》、或は墨染《すみぞめ》の衣《ころも》に有漏《うろ》の身を裹《つゝ》む、さては淵川《ふちかは》に身を棄つる、何れか戀の炎《ほむら》に其躯《そのみ》を燒き蓋《つ》くし、殘る冷灰の哀れにあらざらんや。女子の性《さが》の斯く情深《なさけふか》きに、いかで横笛のみ濁り無情《つれな》かるべきぞ。
人知らぬ思ひに秋の夜半《よは》を泣きくらす横笛が心を尋ぬれば、次の如くなりしなり。
想ひ※[「えんにょう+囘」]《まは》せば、はや半歳の昔となりぬ。西八條の屋方《やかた》に花見の宴《うたげ》ありし時、人の勸《すゝ》めに默《もだ》し難く、舞ひ終る一曲の春鶯囀〈しゆんあうてん〉に、數《かず》ならぬ身の端《はし》なくも人に知らるゝ身となりては、御室《おむろ》の郷《さと》に靜けき春秋《はるあき》を娯《たの》しみし身の心惑《こゝろまど》はるゝ事のみ多かり。見も知らず、聞きも習はぬ人々の人傳《ひとづて》に送る薄色《うすいろ》の折紙に、我を宛名《あてな》の哀れの數々《かずかず》。都慣《みやこな》れぬ身には只々胸のみ驚かれて、何と答へん術《すべ》だに知らず、其儘心なく打ち過ぐる程に、雲井の月の懸橋《かけはし》絶《た》えしと思ひてや、心を寄するものも漸く尠《すくな》くなりて、始めに渝《かは》らず文をはこぶは只々二人のみぞ殘りける。一人は齋藤瀧口にして、他の一人は足助二郎なり。横笛今は稍々《やゝ》浮世に慣れて、風にも露にも、餘所《よそ》ならぬ思ひ忍ばれ、墨染の夕《ゆふべ》の空に只々一人、連《つ》れ亙《わた》る雁の行衞消《き》ゆるまで見送りて、思はず太息《といき》吐《つ》く事も多かりけり。二人の文を見るに付け、何れ劣らぬ情の濃《こまや》かさに心迷ひて、一つ身の何れを夫《それ》とも別ち兼ね、其れとは無しに人の噂に耳を傾くれば、或は瀧口が武勇|人《ひと》に勝《すぐ》れしを譽《ほ》むるもあれば、或は二郎が容姿《すがたかたち》の優しきを稱《たゝ》ふるもあり。共に小松殿の御内にて、世にも知られし屈指の名士。横笛愈々心惑《こゝろまど》ひて、人の哀れを二重《ふたへ》に包みながら、浮世の義理の柵《しがらみ》に何方《いづかた》へも一言の應《いら》へだにせず、無情と見ん人の恨みを思ひやれば、身の心苦《こゝろぐる》しきも數ならず、夜半の夢屡々《しばしば》駭きて、涙に浮くばかりなる枕邊《まくらべ》に、燻籠《ふせご》の匂ひのみ肅《しめ》やかなるぞ憐《あは》れなる。
或日のこと。瀧口時頼が發心《ほつしん》せしと、誰れ言ふとなく大奧《おほおく》に傳はりて、さなきだに口善惡《くちさが》なき女房共、寄ると觸《さは》ると瀧口が噂に、横笛轟《とゞろ》く胸を抑《おさ》へて蔭ながら樣子を聞けば、情《つれ》なき戀路に世を果敢《はか》なみての業《わざ》と言ひ囃《はや》すに、人の手前も打ち忘れ、覺えず『そは誠か』と力を入れて尋ぬれば、女房共、『罪造りの横笛殿、可惜《あたら》勇士を木の端《はし》とせし』。人の哀れを面白げなる高笑《たかわらひ》に、是れはとばかり、早速《さそく》のいらへもせず、ツと己《おの》が部屋に走り歸りて、終日夜《ひねもすよ》もすがら泣き明かしぬ。
第十七
『罪造りの横笛殿、可惜《あたら》勇士に世を捨《す》てさせし』。あゝ半《なか》ば戲《たはむ》れに、半《なか》ば法界悋氣《ほふかいりんき》[三二]の此一語、横笛が耳には如何に響きしぞ。戀に望を失ひて浮世を捨てし男女の事、昔の物語に見し時は世に痛はしき事に覺えて、草色の袂に露の哀れを置きし事ありしが、猶《な》ほ現《うつゝ》ならぬ空事《そらごと》とのみ思ひきや、今や眼前かゝる悲しみに遇はんとは。而《しか》も世を捨てし其人は、命を懸けて己れを戀ひし瀧口時頼。世を捨てさせし其人は、可愛《いとし》とは思ひながらも世の關守《せきもり》に隔てられて無情《つれな》しと見せたる己れ横笛ならんとは。餘りの事に左右《とかう》の考も出でず、夢幻《ゆめまぼろし》の思ひして身を小机《こづくゑ》に打ち伏せば、『可惜《あたら》武士《ものゝふ》に世を捨てさせし』と怨むが如く、嘲けるが如き聲、何處《いづこ》よりともなく我が耳にひゞきて、其度毎《そのたびごと》に總身宛然《さながら》水を浴《あ》びし如く、心も體も凍《こほ》らんばかり、襟を傳ふ涙の雫のみさすが哀れを隱し得ず。
掻き亂れたる心、辛《やうや》う我に歸りて、熟々《つらつら》思へば、世を捨つるとは輕々しき戲事《ざれごと》に非ず。瀧口殿は六波羅上下に名を知られたる屈指の武士、希望に滿《み》てる春秋長き行末を、二十幾年の男盛《をとこざか》りに截斷《たちき》りて、樂しき此世を外に、身を佛門に歸し給ふ、世にも憐れの事にこそ。數多《あまた》の人に優《まさ》りて、君の御覺《おんおぼえ》殊に愛《めで》たく、一族の譽《ほまれ》を雙の肩に擔《にな》うて、家には其子を杖なる年老いたる親御《おやご》もありと聞く。他目《よそめ》にも數《かず》あるまじき君父の恩義惜氣《をしげ》もなく振り捨てて、人の譏《そし》り、世の笑ひを思ひ給はで、弓矢とる御身に瑜伽《ゆが》三密[三三]の嗜《たしなみ》は、世の無常を如何に深く觀じ給ひけるぞ。ああ是れ皆此の身、此の横笛の爲《な》せし業《わざ》、刃《やいば》こそ當てね、可惜《あたら》武士を手に掛けしも同じ事。――思へば思ふほど、乙女心《をとめごゝろ》の胸塞《むねふさが》りて泣《な》くより外にせん術《すべ》もなし。
吁々、協《かな》はずば世を捨てんまで我を思ひくれし人の情の程こそ中々に有り難けれ。儘ならぬ世の義理に心ならずとは言ひながら、斯かる誠ある人に、只々一言《ひとこと》の返事《かへりごと》だにせざりし我こそ今更に悔《くや》しくも亦罪深けれ。手筐《てばこ》の底に祕《ひ》め置きし瀧口が送りし文、涙ながらに取り出して心遣《こゝろや》りにも繰《く》り返せば、先には斯くまでとも思はざりしに、今の心に讀みもて行く一字毎に腸《はらわた》も千切《ちぎ》るゝばかり。百夜《もゝよ》の榻《しぢ》の端《はし》がきに、今や我も數書《かずか》くまじ、只々つれなき浮世と諦《あきら》めても、命ある身のさすがに露とも消えやらず、我が思ふ人の忘れ難きを如何《いか》にせん。――など書き聯《つら》ねたるさへあるに、よしや墨染の衣に我れ哀れを隱すとも、心なき君には上《うは》の空とも見えん事の口惜《くちを》しさ、など硯の水に泪落《なみだお》ちてか、薄墨《うすずみ》の文字《もじ》定かならず。つらつら數ならぬ賤しき我身に引較《くら》べ、彼を思ひ此を思へば、横笛が胸の苦しさは、譬へんに物もなし。世を捨てんまでに我を思ひ給ひし瀧口殿が誠の情《こゝろ》と竝ぶれば、重景が戀路は物ならず。況《ま》して日頃より文傳へする冷泉が、ともすれば瀧口殿を惡し樣《ざま》に言ひなせしは、我を誘《さそ》はん腹黒き人の計略《たくみ》ならんも知れず。斯く思ひ來れば、重景の何となう疎《うと》ましくなるに引き換へて、瀧口を憐れむの情愈々切《せつ》にして、世を捨て給ひしも我れ故と思ふ心の身にひしひしと當りて、立ちても坐りても居堪《ゐたゝま》らず、窓打つ落葉のひゞきも、蟲の音《ね》も、我を咎むる心地して、繰擴《くりひろ》げし文《ふみ》の文字《もじ》は、宛然《さながら》我れを睨むが如く見ゆるに、目を閉ぢ耳を塞《ふさ》ぎて机の側らに伏し轉《まろ》べば、『可惜《あたら》武士を汝故《そなたゆゑ》に』と、いづこともなく囁《さゝや》く聲、心の耳に聞えて、胸は刃に割《さ》かるゝ思ひ。あはれ横笛、一夜を惱み明かして、朝日《あさひ》影《かげ》窓に眩《まばゆ》き頃、ふらふらと縁前《えんさき》に出づれば、憎《に》くや、檐端《のきば》に歌ふ鳥の聲さへ、己《おの》が心の迷ひから、『汝《そなた》ゆゑゆゑ』と聞ゆるに、覺えず顏を反向《そむ》けて、あゝと溜息《ためいき》つけば、驚きて起《た》つ群雀《むらすゞめ》、行衞も知らず飛び散りたる跡には、秋の朝風音寂《おとさび》しく、殘んの月影夢《ゆめ》の如く淡《あは》し。
第十八
女子《をなご》こそ世に優《やさ》しきものなれ。戀路は六《む》つに變れども、思ひはいづれ一つ魂に映《うつ》る哀れの影とかや。つれなしと見つる浮世に長生《ながら》へて、朝顏の夕《ゆふべ》を竣たぬ身に百年《もゝとせ》の末懸《すゑか》けて、覺束《おぼつか》なき朝夕《あさゆふ》を過すも胸に包める情の露のあればなり。戀かあらぬか、女子の命《いのち》はそも何に喩ふべき。人知らぬ思ひに心を傷《やぶ》りて、あはれ一山風《ひとやまかぜ》に跡もなき東岱《とうたい》[三四]前後《ぜんご》の烟と立ち昇るうら弱《わか》き眉目好《みめよ》き處女子《むすめ》は、年毎《としごと》に幾何ありとするや。世の隨意《まゝ》ならぬは是非もなし、只ゝいさゝ川、底の流れの通ひもあらで、人はいざ、我れにも語らで、世を果敢《はか》なむこそ浮世なれ。
然《さ》れば横笛、我れ故に武士一人に世を捨てさせしと思へば、乙女心《をとめごゝろ》の一徹に思ひ返さん術《すべ》もなく、此の朝夕は只々泣き暮らせども、影ならぬ身の失せもやらず、せめて嵯峨の奧にありと聞く瀧口が庵室に訪《おとづ》れて我が誠の心を打明《うちあ》かさばやと、さかしくも思ひ決《さだ》めつ。誰彼時《たそがれどき》に紛《まぎ》れて只々一人、うかれ出でけるこそ殊勝《しゆしよう》なれ。
頃は長月《ながつき》の中旬《なかば》すぎ、入日の影は雲にのみ殘りて野も出も薄墨《うすずみ》を流せしが如く、月未《つきいま》だ上《のぼ》らざれば、星影さへも最《い》と稀なり。袂《たもと》に寒き愛宕下《おたぎおろ》しに秋の哀れは一入《ひとしほ》深く、まだ露下《お》りぬ野面《のもせ》に、我が袖のみぞ早や沾《うるほ》ひける。右近《うこん》の馬場を右手《めて》に見て、何れ昔は花園《はなぞの》の里、霜枯《しもが》れし野草《のぐさ》を心ある身に踏み摧《しだ》きて、太秦《うづまさ》わたり辿《たど》り行けば、峰岡寺《みねをかでら》の五輪の塔、夕《ゆふべ》の空に形のみ見ゆ。やがて月は上《のぼ》りて桂の川の水烟《みづけぶり》、山の端白《はしろ》く閉罩《とぢこ》めて、尋ぬる方は朧ろにして見え分《わ》かず。素《もと》より慣れぬ徒歩《かち》なれば、數《あまた》たび或は里の子が落穗《おちぼ》拾はん畔路《あぜみち》にさすらひ、或は露に伏す鶉《うづら》の床《とこ》の草村《くさむら》に立迷《たちまよ》うて、絲より細き蟲の音《ね》に、覺束なき行末を喞《かこ》てども、問ふに聲なき影ばかり。名も懷《なつか》しき梅津《うめづ》の里を過ぎ、大堰川《おほゐがは》の邊《ほとり》を沿《そ》ひ行けば、河風寒《かはかぜさむ》く身に染《し》みて、月影さへもわびしげなり。裾は露、袖は涙に打蕭《うちしを》れつ、霞める眼に見渡せば、嵯峨野も何時《いつ》しか奧になりて、小倉山《をぐらやま》の峰の紅葉《もみぢば》、月に黒《くろ》みて、釋迦堂の山門、木立《こだち》の間に鮮《あざやか》なり。噂に聞きしは嵯峨の奧とのみ、何れの院とも坊とも知らざれば、何を便《たより》に尋ぬべき、燈《ともしび》の光を的《あて》に、數《かず》もなき在家《ざいけ》を彼方《あなた》此方《こなた》に彷徨《さまよ》ひて問ひけれども、絶えて知るものなきに、愈々心惑ひて只々茫然と野中《のなか》に彳《たゝず》みける。折から向ふより庵僧とも覺しき一個《ひとり》の僧の通りかゝれるに、横笛、渡《わたり》に舟の思ひして、『慮外《りよぐわい》ながら此のわたりの庵《いほり》に、近き頃樣《さま》を變《か》へて都より來られし、俗名《ぞくみやう》齋藤時頼と名告《なの》る年壯《としわか》き武士のお在《は》さずや』。聲震《こゑふる》はして尋ぬれば、件の僧は、横笛が姿を見て暫《しば》し首傾《くびかたむ》けしが、『露しげき野を女性《によしやう》の唯々一人、さてもさても痛はしき御事や。げに然《さ》る人ありとこそ聞きつれど、まだ其人に遇はざれば、御身が尋ぬる人なりや、否やを知りがたし』。『して其人は何處《いづこ》にお在《は》する』。『そは此處《こゝ》より程遠《とほ》からぬ往生院《わうじやうゐん》と名《なづ》くる古き僧庵に』。
僧は最《い》と懇《ねんご》ろに道を教ふれば、横笛世《よ》に嬉しく思ひ、禮もいそいそ別れ行く後影《うしろかげ》、鄙には見なれぬ緋の袴に、夜目にも輝く五柳の一重《ひとへ》。件の僧は暫したヽずみて訝しげに見送れば、焚きこめし異香《いきやう》、吹き來《く》る風に時ならぬ春を匂はするに、俄に忌《いま》はしげに顏背《かほそむ》けて小走《こばし》りに立ち去りぬ。
第十九
斯くて横笛は教へられしまゝに辿り行けば、月の光に影暗《かげくら》き、杜《もり》の繁みを徹《とほ》して、微《かすか》に燈の光《ひかり》見ゆるは、げに古《ふ》りし庵室と覺しく、隣家とても有らざれば、闃《げき》として死せるが如き夜陰の靜けさに、振鈴《しんれい》の響《ひゞき》さやかに聞ゆるは、若しや尋ぬる其人かと思へば、思ひ設けし事ながら、胸轟きて急ぎし足も思はず緩《ゆる》みぬ。思へば現《うつゝ》とも覺えで此處までは來りしものの、何と言うて世を隔てたる門《かど》を敲《たゝ》かん、我が眞《まこと》の心をば如何なる言葉もて打明けん。うら若き女子《をなご》の身にて夜を冒《をか》して來つるをば、蓮葉《はすは》のものと卑下《さげす》み給はん事もあらば如何にすべき。將《はた》また、千束《ちづか》の文《ふみ》に一言《ひとこと》も返さざりし我が無情を恨み給はん時、如何に應《いら》へすべき、など思ひ惑ひ、恥かしさも催されて、御所《ごしよ》を拔出《ぬけい》でしときの心の雄々《をゝ》しさ、今更《いまさら》怪しまるゝばかりなり。斯くて果《は》つべきに非ざれば、辛《やうや》く我れと我身に思ひ決め、ふと首を擧ぐれば、振鈴の響耳に迫りて、身は何時《いつ》しか庵室の前に立ちぬ。月の光にすかし見れば、半ば頽《くづ》れし門の廂《ひさし》に蟲食《むしば》みたる一面の古額《ふるがく》、文字は危げに往生院と讀まれたり。
横笛四邊《あたり》を打ち見やれば、八重葎《やへむぐら》茂《しげ》りて門を閉ぢ、拂はぬ庭に落葉積《つも》りて、秋風吹きし跡もなし。松の袖垣隙《すきま》あらはなるに、葉は枯れて蔓《つる》のみ殘れる蔦《つた》生《は》えかゝりて、古き梢の夕嵐《ゆふあらし》、軒もる月の影ならでは訪ふ人もなく荒れ果てたり。檐《のき》は朽ち柱は傾き、誰れ棲みぬらんと見るも物憂《ものう》げなる宿《やど》の態《さま》。扨も世を無常と觀じては斯かる侘しき住居も、大梵高臺[三五]の樂みに換ヘらるゝものよと思へば、主《あるじ》の貴さも彌増《いやま》して、今宵《こよひ》の我身やゝ愧《はづ》かしく覺ゆ。庭の松が枝《え》に釣《つる》したる、仄《ほの》暗き鐵燈籠《かなどうろう》の光に檐前《のきさき》を照らさせて、障子一重の内には振鈴の聲、急がず緩まず、四曼不離〈しまんふり〉[三六]の夜毎の行業《かうごふ》に慣れそめてか、籬《まがき》の蟲の駭《おどろ》かん樣も見えず。横笛今は心を定め、ほとほとと門《かど》を音づるれども答なし。玉を延《の》べたらん如き纖腕痲《しび》るゝばかりに打敲《うちたゝ》けども應ぜん氣《け》はひも見えず。實《げ》に佛者は行《おこなひ》の半《なかば》には、王侯の召《めし》にも應ぜずとかや、我ながら心なかりしと、暫《しば》し門下に彳みて、鈴の音の絶えしを待ちて復《ふたゝ》び門《かど》を敲けば、内には主《あるじ》の聲として、『世を隔てたる此庵《このいほ》は、夜陰《やいん》に訪はるゝ覺《おぼえ》なし、恐らく門違《かどちがひ》にても候はんか』。横笛潛《ひそ》めし聲に力を入れて、『大方《おほかた》ならぬ由あればこそ、夜陰に御業《おんげふ》を驚かし參らせしなれ。庵は往生院と覺ゆれば、主の御身は、小松殿の御内なる齋藤瀧口殿にてはお在《は》さずや』。『如何にも某《それがし》が世に在りし時の名は齋藤瀧口にて候ひしが、そを尋ねらるゝ御身はそも何人《なんぴと》』。『妾《わらは》こそは中宮の曹司横笛と申すもの、隨意《まゝ》ならぬ世の義理に隔てられ、世にも厚き御情《おんなさけ》に心にもなき情《つれ》なき事の數々《かずかず》、只今の御身の上と聞き侍《はべ》りては、悲しさ苦《くる》しさ、女子《をなご》の狹き胸一つには納め得ず、知られで永く已《や》みなんこと口惜《くちを》しく、一《ひとつ》には妾が眞《まこと》の心を打明け、且つは御身の恨みの程を承はらん爲に茲まで迷ひ來りしなれ。こゝ開《あ》け給へ瀧口殿』。言ふと其儘、門の扉《とびら》に身を寄《よ》せて、聲を潛《しの》びて泣き居たり。
瀧口はしばらく應《いら》へせず、やゝありて、『如何《いか》に女性《によしやう》、我れ世《よ》に在りし時は、御所《ごしよ》に然《さ》る人あるを知りし事ありしが、我が知れる其人は我れを知らざる筈なり、されば今宵《こよひ》我れを訪《おとづ》れ給へる御身は、我が知れる横笛にてはよもあらじ。良《よ》しや其人なりとても、此世の中に心は死して、殘る體は空蝉《うつせみ》の我れ、我れに恨みあればとて、そを言ふの要もなく、よし又人に誠あらばとて、そを聞かん願ひもなし。一切諸縁[三七]に離れたる身、今更ら返らぬ世の浮事《うきこと》を語り出でて何かせん。聞き給へや女性《によしやう》、何事も過ぎにし事は夢なれば、我れに恨みありとな思ひ給ひそ。己れに情《つれ》なきものの善知識となれる例《ためし》、世に少からず、誠に道に入りし身の、そを恨みん謂れやある。されば遇うて益なき今宵の我れ、唯々何事も言はず、此儘歸り給へ。二言とは申すまじきぞ、聞き分け給ひしか、横笛殿』。
第二十
因果の中に哀れを含みし言葉のふしぶし、横笛が悲しさは百千《もゝち》の恨みを聞くよりもまさり、『其の御語《おんことば》、いかで仇《あだ》に聞侍《きゝはべ》るべき、只々親にも許さぬ胸の中《うち》、女子の恥をも顧みず、聞え參らせんずるをば、聞かん願ひなしと仰せらるゝこそ恨みなれ。情《つれ》なかりし昔の報いとならば、此身を千千《ちゞ》に刻《きざ》まるゝとも露壓《つゆいと》はぬに、憖《なまじ》ひ仇《あだ》を情《なさけ》の御言葉は、心狹き妾に、恥ぢて死ねとの御事か。無情《つれな》かりし妾をこそ憎《にく》め、可惜《あたら》武士《ものゝふ》を世の外にして、樣を變へ給ふことの恨めしくも亦痛はしけれ。茲開《あ》け給へ、思ひ詰《つ》めし一念、聞き給はずとも言はでは已《や》まじ。喃《のう》瀧口殿、ここ開け給へ、情なきのみが佛者《ぶつしや》かは』。喃々《のうのう》と門《かど》を叩きて、今や開《あ》くると待侘《まちわ》ぶれども、内には寂然として聲なし。やゝありて人の立居《たちゐ》する音の聞ゆるに、嬉《うれ》しやと思ひきや、振鈴の響起りて、りんりんと鳴り渡るに、是れはと駭〈おどろ〉く横笛が、呼べども叫べども答ふるものは庭の木立のみ。
月稍々西に傾きて、草葉に置ける露白く、桂川の水音幽《かすか》に聞えて、秋の夜寒《よさむ》に立つ鳥もなき眞夜中頃《まよなかごろ》、往生院の門下に蟲と共に泣き暮らしたる横笛、哀れや、紅花緑葉の衣裳、涙と露に絞《しぼ》るばかりになりて、濡れし袂に裹《つゝ》みかねたる恨みのかずかずは、そも何處までも浮世ぞや。我れから踏《ふ》める己《おの》が影も、萎《しを》るゝ如く思《おも》ほえて、情《つれ》なき人に較《くら》べては、月こそ中々に哀れ深けれ。横笛、今はとて、涙に曇《くも》る聲《こゑ》張上《はりあ》げて、『喃《のう》、瀧口殿、葉末《はずゑ》の露とも消えずして今まで立ちつくせるも、妾《わらは》が赤心《まごゝろ》打明けて、許すとの御身が一言《ひとこと》聞かんが爲め、夢と見給ふ昔ならば、情《つれ》なかりし横笛とは思ひ給はざるべきに、など斯くは慈悲なくあしらひ給ふぞ、今宵ならでは世を換へても相見んことのありとも覺えぬに、喃《のう》、瀧口殿』。
春の花を欺く姿、秋の野風に暴《さら》して、恨みさびたる其樣は、如何なる大道心者にても、心動《こゝろうご》かんばかりなるに、峰の嵐に埋《うづも》れて嘆きの聲の聞えぬにや、鈴の音は調子少しも亂れず、行ひすましたる瀧口が心、飜るべくも見えざりけり。
何とせん術《すべ》もあらざれば、横笛は泣く泣く元來《もとき》し路《みち》を返り行きぬ。氷の如く澄める月影に、道芝《みちしば》の露つらしと拂ひながら、ゆりかけし丈《たけ》なる髮、優に波打たせながら、畫にある如き乙女の歩姿《かちすがた》は、葛飾《かつしか》の眞間《まゝ》の手古奈《てこな》[三八]が昔偲《しの》ばれて、斯くもあるべしや。あはれ横笛、乙女心の今更に、命に懸けて思ひ決めしこと空《あだ》となりては、歸り路に足進まず、我れやかたき、人や無情《つれな》き、嵯峨の奧にも秋風吹けば、いづれ浮世には漏れざりけり。
第二十一
胸中一戀字《いちこひじ》を擺脱《はいだつ》すれば、便《すなは》ち十分爽淨、十分自在。人生最も苦しき處、只々是れ此の心。然ればにや失意の情に世をあぢきなく觀じて、嵯峨の奧に身を捨てたる齋藤時頼、瀧口入道と法《のり》の名に浮世の名殘《なごり》を留《とゞ》むれども、心は生死《しやうじ》の境を越えて、瑜伽三密〈ゆがさんみつ〉の行の外、月にも露にも唱ふべき哀れは見えず、荷葉の三衣[三九]、秋の霜に堪へ難けれども、一杖一鉢に法捨を求むるの外、他に望なし。實《げ》にや輪王《りんのう》[四〇]位高《くらゐたか》けれども七寶《しつぱう》終《つひ》に身に添はず、雨露《うろ》を凌がぬ檐《のき》の下にも圓頓《ゑんどん》[四一]の花は匂ふべく、眞如《しんによ》の月は照らすべし。旦《あした》に稽古の窓に凭《よ》れば、垣を掠《かす》めて靡く霧は不斷の烟、夕《ゆふべ》に鑽仰《さんがう》の嶺《みね》を攀《よ》づれば、壁を漏れて照る月は常住《じやうぢゆう》の燭《ともしび》、晝は御室《おむろ》、太秦《うづまさ》、梅津の邊を巡錫《じゆんしやく》して、夜に入れば、十字の繩床《じようしやう》[四二]に結跏趺坐《けつかふざ》して※[「俺」の「にんべん」に代えて「くちへん」、読みは「うん」]阿《うんあ》[四三]の行業《かうごふ》に夜の白むを知らず。されば僧坊に入りてより未だ幾日も過ぎざるに、苦行難業に色黒み、骨立ち、一目《ひとめ》にては十題判斷の老登科《らうとくわ》[四四]とも見えつべし。あはれ、厚塗《あつぬり》の立烏帽子に鬢を撫上《なであ》げし昔の姿、今安《いづ》くにある。今年二十三の壯年《わかもの》とは、如何にしても見えざりけり。
顧みれば瀧口、性質《こゝろ》にもあらで形容邊幅《けいようへんぷく》に心を惱《なや》めたりしも戀の爲なりき。仁王《にわう》とも組《くま》んず六尺の丈夫《ますらを》、體《からだ》のみか心さへ衰へて、めゝしき哀れに弓矢の恥を忘れしも戀の爲なりき。思ヘば戀てふ惡魔に骨髓深く魅入《みい》られし身は、戀と共に浮世に斃〈たふ〉れんか、將《は》た戀と共に世を捨てんか、擇《えら》ぶベき途《みち》只々此の二つありしのみ。時頼世《よ》を無常と觀じては、何恨むべき物ありとも覺えず、武士を去り、弓矢を捨て、君に離れ、親を辭し、一切衆縁を擧げ盡《つく》して戀てふ惡魔の犧牲に供《そな》へ、跡に殘るは天地の間に生れ出でしまゝの我身瀧口時頼、命《いのち》とともに受繼《うけつ》ぎし濶達《くわつたつ》の氣風《きふう》再び欄漫《らんまん》と咲き出でて、容《かたち》こそ變れ、性質《こゝろ》は戀せぬ前の瀧口に少しも違《たが》はず。名利《みやうり》の外に身を處《お》けば、自《おのづ》から嫉妬の念も起らず、憎惡《ぞうを》の情も萌《きざ》さず、山も川も木も草も、愛らしき垂髫《うなゐ》[四五]も、醜《みにく》き老婆も、我れに惠む者も、我れを賤しむ者も、我れには等しく可愛らしく覺えぬ。げに一視平等《いつしびやうどう》の佛眼《ぶつげん》には四海兄弟と見えしとかや。病めるものは之を慰め、貧しきものは之を分ち、心曲《こゝろまが》りて郷里の害を爲すものには因果應報の道理を諭《さと》し、凡《すべ》て人の爲め世の爲めに益あることは躊躇《たゆた》ふことなく爲《な》し、絶えて彼此《かれこれ》の差別《しやべつ》なし。然《さ》れば瀧口が錫杖の到る所、其風《そのふう》を慕ひ其徳を仰《あふ》がざるはなかりけり。或時は里の子供等を集めて、昔の剛者《つはもの》の物語など面白く言ひ聞かせ、喜び勇む無邪氣なる者の樣《さま》を見て呵々と打笑ふ樣、二十三の瀧口、何日《いつ》の間《ま》に習ひ覺えしか、さながら老翁の孫女を弄《もてあそ》ぶが如し。
斯くて風月《ふうげつ》ならで訪ふ人もなき嵯峨野の奧に、世を隔てて安らけき朝夕《あさゆふ》を樂しみ居《ゐ》しに、世に在りし時は弓矢の譽《ほまれ》も打捨《うちすて》て、狂ひ死《じに》に死なんまで焦《こが》れし横笛。親にも主《しゆう》にも振りかへて戀の奴《やつこ》となりしまで慕ひし横笛。世を捨て樣を變へざれば、吾から懸けし戀の絆《きづな》を解《と》く由もなかりし横笛。其の横笛の音づれ來しこそ意外なれ。然《さ》れど瀧口、口にくはへし松が枝の小搖《こゆる》ぎも見せず。見事《みごと》振鈴《しんれい》の響に耳を澄《す》まして、含識《がんしき》の流《ながれ》、さすがに濁らず。思へば悟道《ごだう》の末も稍々《やゝ》頼もしく、風白む窓に、傾く月を麾《さしまね》きて冷《ひやゝ》かに打笑《うちゑ》める顏は、天晴《あつぱれ》大道心者《だいだうしんしや》に成りすましたり。
* * * *
さるにても横笛は如何になりつるや、往生院の門下に一夜を立ち明かして曉近く御所に還り、後の二三日は何事もなく暮せしが、間《ま》もなく行衞知れずなりて、其部屋《そのへや》の壁には日頃《ひごろ》手慣《てな》れし古桐の琴、主《ぬし》待《ま》ちげに見ゆるのみ。
第二十二
或日、天《そら》長閑《のどか》に晴れ渡り、衣《ころも》を返す風寒からず、秋蝉の翼《つばさ》暖《あたゝ》む小春《こはる》の空に、瀧口そゞろに心浮かれ、常には行かぬ桂《かつら》、鳥羽《とば》わたり巡錫して、嵯峨とは都を隔てて南北《みなみきた》、深草《ふかくさ》の邊《ほとり》に來にける。此あたりは山近く林密《みつ》にして、立田《たつた》の姫が織り成せる木々の錦、二月の花よりも紅《くれなゐ》にして、匂あらましかばと惜《を》しまるゝ美しさ、得も言はれず。薪採《たきゞと》る翁、牛ひく童《わらんべ》、餘念なく歌ふ節《ふし》、餘所に聞くだに樂しげなり。瀧口行《ゆ》く行《ゆ》く四方《よも》の景色を打ち眺め、稍々《やゝ》疲れを覺えたれば、とある路傍の民家に腰打ち掛けて、暫く休らひぬ。主婦は六十餘とも覺しき老婆なり、一椀の白湯《さゆ》を乞ひて喉《のんど》を濕《うるほ》し、何くれとなき浮世話《うきよばなし》の末、瀧口、『愚僧《ぐそう》が庵《いほり》は嵯峨の奧にあれば、此わたりには今日《けふ》が初めて。何處《いづこ》にも土地《とち》珍《めづら》しき話一つはある物ぞ、何《いづ》れ名にし負《お》はば、哀れも一入《ひとしほ》深草の里と覺ゆるに、話して聞かせずや』。老女は笑ひながら、『かゝる片邊《かたほとり》なる鄙《ひな》には何珍しき事とてはなけれども、其の哀れにて思ひ出だせし、世にも哀れなる一つの話あり。問ひ給ひしが困果《いんぐわ》、事長《ことなが》くとも聞き給へ。御身の茲に來られし途《みち》すがら、溪川《たにがは》のある邊《あたり》より、山の方にわびしげなる一棟《ひとむね》の僧庵を見給ひしならん。其庵の側に一つの小《さゝ》やかなる新塚あり、主が名は言はで、此の里人は只々戀塚《こひづか》々々と呼びなせり。此の戀塚の謂《いはれ》に就きて、最《い》とも哀れなる物語の候《さふらふ》なり』。『戀塚とは餘所《よそ》ながら床《ゆか》しき思ひす、剃《そ》らぬ前《まへ》の我も戀塚の主《あるじ》に半《なか》ばなりし事あれば』。言ひつゝ瀧口は呵々《からから》と打笑へば、老婆は打消《うちけ》し、『否、笑ふことでなし。此月の初頃《はじめごろ》なりしが、畫にある樣《やう》な上※[「くさかんむり」の下に「月+曷」]《じやうらふ》の如何なる故ありてか、かの庵室《あんしつ》に籠《こも》りたりと想ひ給へ。花ならば蕾、月ならば新月、いづれ末は玉の輿《こし》にも乘るべき人が、品もあらんに世を外《よそ》なる尼法師に樣を變へたるは、慕ふ夫《をつと》に別れてか、情《つれ》なき人を思うてか、何《ど》の途《みち》、戀路ならんとの噂。薪とる里人《さとびと》の話によれば、庵の中には玉を轉《まろ》ばす如き柔《やさ》しき聲して、讀經《どきやう》の響絶《ひゞきた》ゆる時なく、折々《をりをり》閼伽《あか》の水汲《みづく》みに、谷川に下りし姿見たる人は、天人《てんにん》の羽衣《はごろも》脱《ぬ》ぎて袈裟《けさ》懸《か》けしとて斯くまで美しからじなど罵り合へりし。心なき里人も世に痛はしく思ひて、色々の物など送りて慰《なぐさ》むる中《うち》、かの上※[「くさかんむり」の下に「月+曷」]は思重《おもひおも》りてや、病《や》みつきて程も經《へ》ず返らぬ人となりぬ。言ひ殘せし片言《かたごと》だになければ、誰れも尼になるまでの事の由を知らず、里の人々相集りて涙と共に庵室の側らに心ばかりの埋葬を營みて、卒塔婆《そとば》一基《き》の主《あるじ》とはせしが、誰れ言ふとなく戀塚々々と呼びなしぬ。來慣《きな》れぬ此里に偶々《たまたま》來て此話を聞かれしも他生《たしやう》の因縁《いんねん》と覺ゆれば、歸途《かへるさ》には必らず立寄りて一片の※[「えんにょう+囘」]向《ゑかう》をせられよ。如何に哀れなる話に候はずや』。老婆は話し了りて、燃えぬ薪の烟《けぶり》に咽《むせ》びて、涙《なみだ》押拭《おしのご》ひぬ。
瀧口もやゝ哀れを催して、『そは氣の毒なる事なり、其の上※[「くさかんむり」の下に「月+曷」]は何處《いづこ》の如何《いか》なる人なりしぞ』。『人の噂に聞けば、御所《ごしよ》の曹司《ざうし》なりとかや』。『ナニ曹司とや、其の名は聞き知らずや』。『然《さ》れば、最《い》とやさしき名と覺えしが、何とやら、おゝ――それ慥《たしか》に横笛とやら言ひし。嵯峨の奧に戀人《こひびと》の住めると、人の話なれども、定かに知る由もなし。聞けば御僧の坊も同じ嵯峨なれば、若《も》し心當《こゝろあたり》の人もあらば、此事傳《つた》へられよ。同じ世に在りながら、斯かる婉《あで》やかなる上※[「くさかんむり」の下に「月+曷」]の樣を變へ、思ひ死《じに》するまでに情《つれ》なかりし男こそ、世に罪深《つみふか》き人なれ。他《あだ》し人の事ながら、誠なき男見れば取りも殺したく思はるゝよ』。餘所《よそ》の恨みを身に受けて、他とは思はぬ吾が哀れ、老いても女子は流石《さすが》にやさし。瀧口が樣見れば、先の快《こゝろよ》げなる氣色《けしき》に引きかへて、首《かうべ》を垂れて物思《ものおも》ひの體《てい》なりしが、やゝありて、『あゝ餘《あま》りに哀れなる物語に、法體《ほつたい》にも恥ぢず、思はず落涙に及びたり。主婦《あるじ》が言《ことば》に從ひ、愚僧は之れより其の戀塚とやらに立寄りて、暫し※[「えんにょう+囘」]向《ゑかう》の杖を停《とど》めん』。
網代《あじろ》の笠に夕日《ゆふひ》を負《お》うて立ち去る瀧口入道が後姿《うしろすがた》、頭陀《づだ》の袋に麻衣《あさごろも》、鐵鉢を掌《たなごゝろ》に捧《さゝ》げて、八つ目のわらんづ踏みにじる、形は枯木《こぼく》の如くなれども、息《いき》ある間は血もあり涙もあり。
第二十三
深草の里に老婆が物語、聞けば他事《ひとごと》ならず、何時《いつ》しか身に振りかゝる哀れの露、泡沫夢幻《はうまつむげん》と悟りても、今更ら驚かれぬる世の起伏《おきふし》かな。樣を變へしとはそも何を觀じての發心《ほつしん》ぞや、憂ひに死せしとはそも誰れにかけたる恨みぞ。あゝ横笛、吾れ人共に誠の道に入りし上は、影よりも淡《あは》き昔の事は問ひもせじ語りもせじ、閼伽《あか》の水汲《みづく》み絶えて流れに宿す影留らず、觀經の音已《や》みて梢にとまる響なし。いづれ業繋《ごふけ》の身の、心と違ふ事のみぞ多かる世に、夢中《むちゆう》に夢を喞《かこ》ちて我れ何にかせん。
瀧口入道、横笛が墓に來て見れば、墓とは名のみ、小高く盛《も》りし土饅頭《どまんぢゆう》の上に一片の卒塔婆を立てしのみ。里人の手向けしにや、半《なかば》枯《か》れし野菊《のぎく》の花の仆れあるも哀れなり。四邊《あたり》は斷草離離として趾《あと》を着くべき道ありとも覺えず、荒れすさぶ夜々の嵐に、ある程の木々の葉吹き落とされて、山は面痩《おもや》せ、森は骨立《ほねだ》ちて目もあてられぬ悲慘の風景、聞きしに増りて哀れなり。ああ是れぞ横笛が最後の住家《すみか》よと思へば、流石《さすが》の瀧口入道も法衣《ほふえ》の袖を絞《しぼ》りあへず、世にありし時は花の如き艷《あで》やかなる乙女《をとめ》なりしが、一旦無常の嵐に誘《さそ》はれては、いづれ遁《のが》れぬ古墳の一墓の主《あるじ》かや。そが初めの内こそ憐れと思ひて香花《かうげ》を手向《たむ》くる人もあれ、やがて星移り歳經《としふ》れば、冷え行く人の情《なさけ》に隨《つ》れて顧みる人もなく、あはれ何れをそれと知る由もなく荒れ果てなんず、思へば果敢《はか》なの吾れ人が運命や。都大路《みやこおほぢ》に世の榮華を嘗《な》め盡《つく》すも、賤《しづ》が伏屋《ふせや》に畦《あぜ》の落穗《おちぼ》を拾《ひろ》ふも、暮らすは同じ五十年の夢の朝夕。妻子珍寶及王位《さいしちんぱうおよびわうゐ》、命終《いのちをは》る時に隨ふものはなく、野邊《のべ》より那方《あなた》の友[四六]とては、結脈《けちみやく》[四七]一つに珠數《じゆず》一聯のみ。之を想へば世に悲しむべきものもなし。
瀧口衣《ころも》の袖を打はらひ、墓に向つて合掌《がつしやう》して言へらく、『形骸《かたち》は良《よ》しや冷土の中に埋《うづも》れても、魂は定かに六尺の上に聞こしめされん。そもや御身と我れ、時を同うして此世に生れしは過世《すぐせ》何の因《いん》、何の果《くわ》ありてぞ。同じ哀れを身に擔《にな》うて、そを語らふ折もなく、世を隔て樣を異にして此の悲しむべき對面あらんとは、そも又何の業《ごふ》、何の報ありてぞ。我は世に救ひを得て、御身は憂《う》きに心を傷《やぶ》りぬ。思へば三界の火宅《くわたく》[四八]を逃《のが》れて、聞くも嬉しき眞《まこと》の道に入りし御身の、欣求淨土《ごんぐじやうど》の一念に浮世の絆《きづな》を解《と》き得ざりしこそ恨みなれ。戀とは言はず、情とも謂はず、遇《あ》ふや柳因《りういん》、別《わか》るゝや絮果《ぢよくわ》、いづれ迷は同じ流轉《るてん》の世事《せじ》、今は言ふべきことありとも覺えず。只々此上は夜毎《よごと》の松風《まつかぜ》に御魂《みたま》を澄《すま》されて、未來《みらい》の解脱《げだつ》こそ肝要《かんえう》なれ。仰ぎ願くは三世十方の諸佛、愛護《あいご》の御手《おんて》を垂れて出離《しゆつり》の道を得せしめ給へ。過去精麗《くわこしやうりやう》、出離生死《しゆつりしやうじ》、證大菩提《しようだいぼだい》』。生《い》ける人に向へるが如く言ひ了りて、暫し默念の眼を閉ぢぬ。花の本《もと》の半日の客《かく》、月の前の一夜の友も、名殘は惜しまるゝ習ひなるに、一向所感の身なれば、先の世の法縁も淺からず思はれ、流石《さすが》の瀧口、限《かぎ》りなき感慨胸《むね》に溢《あふ》れて、轉々《うたゝ》今昔《こんじやく》の情《じやう》に堪へず。今かゝる哀れを見んことは、神ならぬ身の知る由もなく、嵯峨の奧に夜半《よは》かけて迷ひ來りし時は我れ情なくも門《かど》をば開《あ》けざりき。恥をも名をも思ふ遑《いとま》なく、樣を變へ身を殺す迄の哀れの深さを思へば、我れこそ中々に罪深かりけれ。あゝ横笛、花の如き姿今《いま》いづこにある、菩提樹《ぼだいじゆ》の蔭《かげ》、明星《みやうじやう》額《ひたひ》を照《て》らす邊《ほとり》、耆闍窟《ぎしやくつ》[四九]の中《うち》、香烟《かうえん》肘《ひぢ》を繞《めぐ》るの前、昔の夢を空《あだ》と見て、猶ほ我ありしことを思へるや否。逢ひ見しとにはあらなくに、別れ路《ぢ》つらく覺ゆることの、我れながら訝《いぶか》しさよ。思ひ胸に迫りて、吁々《あゝ》と吐《は》く太息《といき》に覺えず我れに還《かへ》りて首《かうべ》を擧《あ》ぐれば日は半《なかば》西山《せいざん》に入りて、峰の松影色黒み、落葉《おちば》を誘《さそ》ふ谷の嵐、夕ぐれ寒く身に浸《し》みて、ばらばらと顏打つものは露か時雨《しぐれ》か。
第二十四
其の年の秋の暮つかた、小松の内大臣重盛、豫《かね》ての所勞《しよらう》重《おも》らせ給ひ、御年四十三にて薨去〈かふぎよ〉あり。一門の人々、思顧の侍《さむらひ》は言ふも更なり、都も鄙もおしなべて、悼《いた》み惜《を》しまざるはなく、町家は商を休み、農夫は業を廢して哀號《あいがう》の聲《こゑ》到る處に充《み》ちぬ。入道相國《にふだうしやうこく》が非道《ひだう》の擧動《ふるまひ》に御恨《おんうら》みを含みて時の亂《みだれ》を願はせ給ふ法住寺殿《ほふぢゆうじでん》の院《ゐん》と、三代の無念を呑みて只《ひた》すら時運の熟すを待てる源氏の殘黨のみ、内府《ないふ》が遠逝《ゑんせい》を喜べりとぞ聞えし。
士は己れを知れる者の爲に死せんことを願ふとかや。今こそ法體《ほつたい》なれ、ありし昔の瀧口が此君《このきみ》の御爲《おんため》ならばと誓ひしは天《あめ》が下に小松殿只《たゞ》一人。父祖《ふそ》十代の御恩《ごおん》を集めて此君一人に報《かへ》し參らせばやと、風の旦《あした》、雪の夕《ゆふべ》、蛭卷《ひるまき》のつかの間《ま》も忘るゝ隙《ひま》もなかりしが、思ひもかけぬ世の波風《なみかぜ》に、身は嵯峨の奧に吹き寄せられて、二十年來の志《こゝろざし》も皆空事《そらごと》となりにける。世に望みなき身ながらも、我れから好める斯かる身の上の君の思召《おぼしめし》の如何あらんと、折々《をりをり》思ひ出だされては流石《さすが》に心苦《こゝろぐる》しく、只々長き將來《ゆくすゑ》に覺束《おぼつか》なき機會《きくわい》を頼みしのみ。小松殿逝去《せいきよ》と聞きては、それも協《かな》はず、御名殘《おんなごり》今更《いまさら》に惜《を》しまれて、其日は一日坊《ばう》に閉籠《とぢこも》りて、内府が平生など思ひ出で、※[「えんにょう+囘」]向三昧《ゑかうざんまい》に餘念なく、夜に入りては讀經の聲いと蕭《しめ》やかなりし。
先には横笛、深草の里に哀れをとゞめ、今は小松殿、盛年の御身に世をかへ給ふ。彼を思ひ是を思ふに、身一つに降《ふ》りかゝる憂《う》き事の露しげき今日《けふ》此ごろ、瀧口三衣《え》の袖を絞りかね、法體《ほつたい》の今更《いまさら》遣瀬《やるせ》なきぞいぢらしき。實《げ》にや縁に從つて一念頓《とみ》に事理《じり》[五〇]を悟れども、曠劫《くわうごふ》[五一]の習氣《しふき》は一朝一夕に淨《きよ》むるに由なし。變相殊體《へんさうしゆたい》[五二]に身を苦しめて、有無流轉《うむるてん》と觀《くわん》じても、猶ほ此世の悲哀に離《はな》れ得ざるぞ是非もなき。
徳を以て、將《はた》人を以て、柱とも石とも頼まれし小松殿、世を去り給ひしより、誰れ言ひ合はさねども、心ある者の心にかゝるは、同じく平家の行末なり。四方《よも》の波風靜《なみかぜしづか》にして、世は盛《さか》りとこそは見ゆれども、入道相國が多年の非道によりて、天下の望み已《すで》に離れ、敗亡の機はや熟してぞ見えし。今にも蛭《ひる》が小島《こじま》の頼朝にても、筑波《つくば》おろしに旗揚《はたあ》げんには、源氏譜代の恩顧の士は言はずもあれ、苟《いやしく》も志を當代に得ず、怨みを平家《へいけ》に銜《ふく》める者、響の如く應じて關八州は日ならず平家の有《もの》に非ざらん。萬斯かる事あらんには、大納言殿(宗盛)は兄の内府にも似ず、暗弱《あんじやく》の性質《うまれつき》なれば、素《もと》より物の用に立つべくもあらず。御子三位《さんみ》の中將殿(維盛)は歌道《かだう》より外に何長《なにちやう》じたる事なき御身なれば、紫宸殿《ししいでん》の階下に源家《げんけ》の嫡流《ちやくりう》と相挑《あひいど》みし父の卿《きやう》の勇膽ありとしも覺えず。頭《とう》の中將殿(重衡)も管絃《くわんげん》の奏《しらべ》こそ巧《たく》みなれ、千軍萬馬の間に立ちて采配《さいはい》とらん器《うつは》に非ず。只々數多き公卿《くげ》殿上人《てんじやうびと》の中にて、知盛《とももり》、教經《のりつね》の二人こそ天晴《あつぱれ》未來事《みらいこと》ある時の大將軍と覺ゆれども、これとても螺鈿《らでん》の細太刀《ほそだち》に風雅《ふうが》を誇る六波羅上下の武士を如何にするを得べき。中には越中次郎兵衞盛次《ゑつちゆうのじらうびやうゑもりつぐ》、上總五郎兵衞忠光、惡七兵衞景清《あくしちびやうゑかげきよ》なんど、名だたる剛者《がうのもの》なきにあらねど、言はば之れ匹夫《ひつぷ》の勇《ゆう》にして、大勢《たいせい》に於て元《もと》より益《えき》する所なし。思へば風前《ふうぜん》の燈《ともしび》に似たる平家の運命かな。一門上下《しやうか》花《はな》に醉《ゑ》ひ、月に興《きやう》じ、明日《あす》にも覺《さ》めなんず榮華の夢に、萬代《よろづよ》かけて行末祝ふ、武運の程ぞ淺ましや。
入道ならぬ元の瀧口は平家の武士。忍辱《にんにく》の衣も主家興亡の夢に襲《おそ》はれては、今にも掃魔《さうま》の堅甲《けんかふ》となりかねまじき風情《ふぜい》なり。
第二十五
其年も事なく暮れて、明《あ》くれば治承四年、淨海《じようかい》が暴虐《ばうぎやく》は猶ほ已《や》まず、殿《でん》とは名のみ、蜘手《くもで》結びこめ[五三]ぬばかりの鳥羽殿《とばでん》には、去年《こぞ》より法皇を押籠《おしこ》め奉るさへあるに、明君《めいくん》の聞え高き主上《しゆじやう》をば、何の恙《つゝが》もお在《は》さぬに、是非なくおろし參らせ、清盛の女が腹に生れし春宮《とうぐう》の今年《ことし》僅に三歳なるに御位を讓らせ給ふ。あはれ聞きも及ばぬ奇怪の讓位かなとおもはぬ人ぞなかりける。一秋毎《ひとあきごと》に細りゆく民の竈《かまど》に立つ烟、それさへ恨みと共に高くは上《のぼ》らず。野邊《のべ》の草木《くさき》にのみ春は歸れども、世はおしなべて秋の暮、枯枝《かれえだ》のみぞ多かりける。元より民の疾苦《しつく》を顧みるの入道ならねば、野に立てる怨聲を何處《いづこ》の風とも氣にかけず、或は嚴島行幸に一門の榮華を傾け盡し、或は新都の經營に近畿《きんき》の人心を騷がせて少しも意に介せず。世を恨み義に勇みし源三位《げんざんみ》[五四]、數もなき白旗殊勝《しゆしよう》にも宇治川の朝風《あさかぜ》に飜へせしが、脆《もろ》くも破れて空しく一族の血汐《ちしほ》を平等院《びやうどうゐん》の夏草《なつくさ》に染めたりしは、諸國源氏が旗揚《はたあげ》の先陣ならんとは、平家の人々いかで知るべき。高倉《たかくら》の宮《みや》の宣旨《せんじ》、木曾《きそ》の北《きた》、關《せき》の東《ひがし》に普ねく渡りて、源氏興復《こうふく》の氣運漸く迫れる頃、入道は上下萬民の望みに背《そむ》き、愈々都を攝津の福原に遷《うつ》し、天下の亂れ、國土の騷ぎを露《つゆ》顧みざるは、抑々《そもそも》之れ滅亡を速むるの天意か。平家の末はいよいよ遠からじと見えにけり。
右兵衞佐《うひやうゑのすけ》(頼朝)が旗揚《はたあげ》に、草木と共に靡きし關八州《くわんはつしう》、心ある者は今更とも思はぬに、大場《おほば》の三郎[五五]が早馬《はやうま》ききて、夢かと驚きし平家の殿原《とのばら》こそ不覺《ふかく》なれ。討手《うつて》の大將、三位中將維盛卿《これもりきやう》、赤地《あかぢ》の錦の直垂《ひたゝれ》に萌黄匂《もえぎにほひ》の鎧は天晴《あつぱれ》平門公子《へいもんこうし》の容儀《ようぎ》に風雅の銘を打つたれども、富士河の水鳥《みづとり》に立つ足もなき十萬騎は、關東武士の笑ひのみにあらず。前の非《ひ》を悟りて舊都に歸り、さては奈良炎上《えんじやう》[五六]の無道《むだう》に餘忿《よふん》を漏《も》らせども、源氏の勢は日に加はるばかり、覺束なき行末を夢に見て其年も打ち過ぎつ。治承五年の春を迎ふれば、世愈々亂れ、都に程なき信濃には、木曾の次郎が兵を起して、兵衞佐と相應《あひおう》じて其勢ひ破竹《はちく》の如し。傾危《けいき》の際、老いても一門の支柱《しちゆう》となれる入道相國は折柄《をりから》怪しき病ひに死し、一門狼狽して爲す所を知らず。墨股《すのまた》の戰ひに少しく會稽〈くわいけい〉の恥を雪《すゝ》ぎ[五七]たれども、新中納言(知盛)軍機《ぐんき》を失《しつ》して必勝の機を外《はづ》し、木曾の壓《おさへ》と頼みし城《じやう》の四郎が北陸《ほくりく》の勇を擧《こぞ》りし四萬餘騎、餘五將軍《よごしやうぐん》の遺武《ゐぶ》を負ひながら、横田河原《よこたがはら》の一戰に脆《もろ》くも敗れしに驚きて、今はとて平家最後の力を盡して北に打向ひし十五萬餘騎、一門の存亡を賭《と》せし倶利加羅《くりから》、篠原《しのはら》の二戰に、哀れや殘り少なに打ちなされ、背疵《せきず》抱《かゝ》へて、すごすご都に歸り來りし、打漏《うちもら》されの見苦《みぐる》しさ。木曾は愈々勢ひに乘りて、明日《あす》にも都に押寄せんず風評《ふうひやう》、平家の人々は今は居ながら生《い》ける心地もなく、然《さ》りとて敵に向つて死する力もなし。木曾をだに支《さゝ》へ得ざるに、關東の頼朝來らば如何にすべき、或は都を枕にして討死すべしと言へば、或は西海《さいかい》に走つて再擧《さいきよ》を謀《はか》るべしと説き、一門の評議まちまちにして定まらず。前には邦家の急《きふ》に當りながら、後《うしろ》には人心の赴く所《ところ》一ならず、何れ變らぬ亡國の末路《まつろ》なりけり。
平和の時こそ、供花燒香に經を飜して、利益平等《りやくびやうどう》の世とも感ぜめ、祖先十代と己が半生の歴史とを刻《きざ》みたる主家《しゆか》の運命日《ひ》に非《ひ》なるを見ては、眼を過ぐる雲煙《うんえん》とは瀧口いかで看過するを得ん。人の噂に味方《みかた》の敗北《はいぼく》を聞く毎《ごと》に、無念《むねん》さ、もどかしさに耐へ得ず、雙の腕を扼《やく》して法體《ほつたい》の今更變へ難きを恨むのみ。
或日瀧口、閼伽《あか》の水《みづ》汲《く》まんとて、まだ明《あ》けやらぬ空に往生院を出でて、近き泉の方に行きしに、都《みやこ》六波羅わたりと覺しき方に、一道の火焔《くわえん》天《てん》を焦《こが》して立上《たちのぼ》れり。そよとだに風なき夏の曉に、遠く望めば只々朝紅《あさやけ》とも見ゆべかんめり。風靜《かぜしづか》なるに、六波羅わたり斯かる大火を見るこそ訝《いぶか》しけれ。いづれ唯事《たゞごと》ならじと思へば何となく心元《こゝろもと》なく、水汲みて急《いそ》ぎ坊に歸り、一杖一鉢、常の如く都をさして出で行きぬ。
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