門掛けのもみじ舞い散る冬支度

我が身に旅立ちの支度を教えているようで、寂しい景色です。
振り返ればいろんなことがありました。

再会を 固く誓った 友いずこ

2018-01-06 15:07:46 | seiji
4年経ったらまた逢いましょう
オリンピックの顔と顔
トトントトトント顔と顔(^^♪

そんな悠長な雰囲気ではなかった。
みんな蜘蛛の子を散らすように
祖国にに向って引揚げる不安の中で、
目的地の住所を書いて、交換し
きっと会おうと誓い合った。
日出小学校を追われ最後の授業を終えた
教室は暗く不安に満ち満ちていた。

そんな不安は的中し、
住所が確認出来た同級生は十指に満たない。
希望の落ち着くべき住所は多分削除されたのだろう。
毎回の同窓会となれば出席者は五指に満たなかった。
五年生で卒業生ではなかったので仕方ないか。

出席した同級生は絞り出すように親戚を頼って行ったら、
お前らに呑ます水さえ一杯もない
と門前払いされたとか。

しかし、同窓会に出席した人達は、
当時も大連に何度も行き恩返ししていた
長野県会議員の日出小学校同窓会長はじめ、
みな成功を収めて社会に貢献しているのが
せめてもの慰めだった。

しかし、数十人も居た
犬年の友は何処で何しているのだろう。
犬も歩けば棒に当たる。
棒に叩かれてキャンキャン鳴いて
追われていたのではだろうか?

平均寿命の過ぎた昨今、
同級生の一生が幸せだったと
総括出来ることを祈るや切。


花の宴 月観て想う 別府会

2018-01-05 12:49:22 | seiji
熱烈フアンのフオレスタが日本各地で公演し、
いよいよ故郷に帰って参りました ん?
大分市いいちこ文化会館での
公演キャッチフレーズにビビットきた。

故郷とは荒城の月を作曲した滝廉太郎が生まれた、
大分県竹田市を指しているのでは。

実は同じ思いで、今は去ること幾年かに
大連日の出小学校同窓会を開催した
別府ホテル白菊で歌っていた。

残念ながら、日出同窓会も時の移ろいと共に
寄る年波には勝てず、数年前解散した。
みんなで月に届けと高くより高く一斉合唱した
 荒城の月♪
だが、詩 そのままの運命を辿って、、、

春高楼の 花の宴 巡る盃 影さして
千代の松が枝 分け出でし 昔の光 今いずこ

秋陣営の 霜の色 鳴きゆく雁の 数見せて
植うる剣に 照り沿いし 昔の光 今いずこ

今荒城の 夜半の月 変わらぬ光 誰がためぞ
垣に残るは ただ葛 松に歌うは ただ嵐

天上影は 変わらねど 栄枯は移る 世の姿
映さんとてか 今も尚 ああ荒城の 夜半の月



同窓会 日いずる国で 日出小

2018-01-04 17:38:22 | seiji
大連日出小学校・昔の名前で出ています。
京都・静岡や日本各地で催された同窓会。
遂に白羽の矢がおおいたた大分に当たった。

開催推進の為、数回会合をもった。

トルストイの有名小説の冒頭に、幸福な家庭は一様にうなずける。
しかるに、不幸な家庭は、それぞれに深い趣がある。
たしかこんな意味深な滑り出しに合点しました。

私も誰にも明かさなかった辛かった引き揚げ当時を
同胞のよしみでぶちまけた。
次に聞いた言葉には上には上の話に唸った。
引き揚げ船に乗船出来るのは、健康で歩ける者との規定があって、
それをクリアーするため、前後から家族が分からぬよう懸命に支え、
臨時足場を上がって乗船を果たしたそうで、もし見付かったら、家族全員
×だった薄氷を踏む想いだった。その母は帰郷して1か月で亡くなった。
故郷の土が踏めてよかったとのこと。

更に打ち明けて戴いた話に、頭を抱え込んだ。
小学2年の子供だった、A氏は父親がお前はなにも持たなくていいから、
この箱だけは大事に故郷まで届けるだよと頼まれた。
その箱の中には、父親を慕って、大連に来た、若い甥夫婦の遺骨が入っていた。
入水自殺したそうで、ロスケの兵隊たちの蹂躙によって
犠牲になったことは明らか、それ以上聞く事は憚れた。

過去・現在・未来

逢えてよかった。お互いの笑顔にそれぞれ秘め
みんな違った忌まわしい過去を乗り越え、
同窓会に臨んで来ることに
不幸の深い意味と共に感銘を覚えた。



引揚者 祖国で生きる 厳しさよ

2018-01-03 10:03:41 | seiji
波の背の背に揺られてゆれて 
玄界灘の荒波に水葬された同胞が居た。
止まって汽笛が三度、暗い闇をつんざき、胸に深く刺さった。
艦橋に一点の灯りあり、船長が棺に向って敬礼を捧げ続けていた。
あと一歩、祖国の土を踏めなかった無念は察するにあまりある。
そう 祖国に帰れただけでも、自分達は幸運だとその時切実に想った。
そんな私達を慰める歓迎会で
船員さんの妙なる美声の絶唱♪
初めて聴いた日本の歌謡曲が眼からうろこの「かえり船」だった。

舞鶴港で上陸し、大浴場に入る前、素っ裸で頭から撒かれた
洗礼のDDTの白い粉。
舞鶴までは歓迎の日の丸小旗が振られたが、
各自散った行く先は貨物列車の切符を戴いた。

敗戦国での生活は果たして生還した方がよかったか?

舞鶴まで列島を船で並行して視る祖国は、山のまにまに無味乾燥として、
不安を募らせ、あたかもこれからの厳しい生活を示唆しているようであった。
それは的中し棘の道を踏む始まりだった。
心の葛藤にさいなむ着の身着のままの実体験は想い出すのも疎ましく
もう戦争は何としてもなしにしたいと叫びたい。

厳しかった一例として敢えて言えば、
食べ物が無く、隣村に父と彷徨い、
あ、いいものを見付けた それは芋ずるを取った、
裸の種イモが苗床にあったのです。
田舎の大きな本屋・長屋を構えた当主を見付け、
あの種イモが欲しいというと、なんぼ出すのかと言われ、
父はなけなしの金をはたいてどうせ捨ててかたずける手間を省くのに
全財産で買ったみじめさは今も忘れない。

父は、村が束になっても、わしの蓄えには勝てないわい。
それは口癖でみんなおまえのものだぞ 
それが真っ逆さまのこのざまは
満鉄で身を賭し働き、幹部になっていた体面も地に堕ち
その悔しさは
夜泣く鳥のようにしとしと雨の夜中に聞いたことがあった。

その芋はカスのように味がなかった。
しかし、涙が絡んだ一種名状し難い、隠し味に心凍る味がした。

その種の任務を終えたタネ芋が、更に人間をも救い、
今の私があることを感謝しなければならない。

それでも死にたいと思ったことはなかった。

そこには私の応援団長・父が居て母が居た幸せがあった。

父母の愛 生きゆく意義を 教えられ


まぼろしか 楽園都市の 大連は

2018-01-02 13:00:05 | seiji
大連生まれの私には11歳まで住んだ断片的光景が、
今は無いノスタルジアとして浮かび切ない。

産声あげた大連市日出町の満鉄社宅を原点として、
アカシア並木の大連、
道路が広く舗装され活力の源になっていた。
表面だけではなく昭和の初め既に下水道完備し、
衛生にも気配りがあったのは驚きだった。

この都市を創ったのが、初代満鉄総裁・後藤新平氏。

海水浴に行けば、氏の威厳を放った銅像をいつも眺めていた。

あそこに行けば思い通りの物がある。
まからんやはおもちゃの宝庫 本も毎月少年倶楽部を買いに歩いて
太平洋広場まで一人で行っても、なんの危険もなかった。
別に警官が多い訳でもないのにその統率力は不思議でさえあった。

想い出は尽きないがそんな都市も去る時がきた
Xデーは涙なくしては語れない。

国破れて山河あり しかしそれは生まれた故郷ではあっても
異国の地であった。
大連生まれでも異国人として去らねばならなかった。

国破れて、難民となった私達を救いに来たおんぼろ船。
しかし民間貨物船ではあっても日の丸の旗をたなびかせている
興安丸の姿は素晴らしかった。
船長はじめ船員さんの迎えに来た優しい対応の感激は筆舌に尽くせない。

乗船して大連港を離れるその時、全員甲板で離れゆく大連を眺めた父母たちの
胸中はいかばかりだったろう。

東本願寺の釣り鐘だけが高い山の中から忽然と見え、
みんなで拝んだのが最後の仕事。
もうそんな父母たちは居ない。

今ははや 臨むべきなき 大連の
 遥か轉山 野菊咲しや