慶応4年(1868)8月から9月までの2か月間、雄和町(現秋田市雄和)地内の住民は、戊辰戦争の戦火に見舞われ、大きな苦難を嘗めた。
戊辰戦争とは何か。これはこの年の干支を取ってつけられた名称である。
この戦争は、それまで約270年間続いてきた、徳川幕府を中心とする政治体制が崩れて、新しく明治天皇を中心とする新体制が開けてくる、その境目をなす大きな内戦である。
戦争は慶応4年1月3日の鳥羽・伏見の戦いから始まった。鳥羽・伏見は京都の南にあたる地域である。この戦いで勝利をえた薩摩・長州二藩を主体とする新政府軍は、敗走する幕府軍を追って江戸に進出、4月11日には江戸城明け渡しとなり、十五代将軍徳川慶喜は隠退して水戸に去った。普通であればこれで内戦は終わりである。
しかし、戊辰戦争は終わらなかった。幕府に心を寄せる勢力が北関東から東北地方に大きな力をもっていたので、新政府軍は北に向かって軍勢をすすめ、戦争は東北地方に拡大したのである。
当時、東北諸藩は表面では天皇新政を歓迎していたが、内心では幼帝を擁し独善的に振る舞う薩摩・長州のやり方に、深い不信と反感を持っていた。特に薩摩と対立していた会津・庄内両藩については、同じ東北人だとの親近感から、同情的態度で臨み、武力制圧を唱える薩長とは意見が大きく隔たっていた。
閏4月11日、仙台・米沢両藩の呼びかけで、東北二五藩の会議が、白石(宮城県白石市)え開かれた。
東北諸藩は、会津・庄内両藩を救うため、歎願書を新政府に出すことを決めた。しかし、これは奥羽鎮撫軍参謀世良修蔵(長州藩士)によって拒絶された。
かねてから世良の高圧的態度に反感をもっていた仙台・米沢の血気の藩士らは、閏4月20日夜、福島の宿で世良を暗殺した。
これを機会に、東北諸藩は相互援助関係を強め、ここに奥羽列藩同盟が成立、反薩長の立場が一層鮮明となり、戊辰戦争の東北への波及は不可避の事態へと進んだのである。
この頃、東北諸藩のなかには、勤王、佐幕の二派が対立し、藩論の統一しない藩も少なくなかった。
二〇万石の大藩として知られる秋田藩もその一つで、列藩同盟の約束を守って東北諸藩と行動を共にすべきだと主張する保守派と、新政府に同調し、勤王の実をあげるのが将来のためになると唱える「正義派」に二派があって、互いに対立を深めていた。
7月1日、奥羽鎮撫総督九条道孝は手兵を率いて秋田入りをしたのを機会に、「正義派」の人びとは藩主を動かし、7月3日には新政府支持の態度を決めさせた。さらに同派の人びとは勢いに乗って、翌4日夕刻、仙台藩の使者を久保田の宿で暗殺した。
かくて、秋田藩は列藩同盟から離れ東北諸藩と戦いを交えることになったのである。
この時、本荘・亀田・矢島の諸藩も、秋田藩と行動を共にすることになった。
戦争は由利郡と雄勝郡の南部地域から始まった。庄内郡は7月末から8月初めにかけて、約4千人の軍勢を二手に分け、一手は海岸沿いと矢島口から由利郡に向かい、一手は院内口から雄勝郡内に攻め込んだ。同時に仙台軍約2千人と米沢軍約7百人も雄勝郡に進入した。
秋田軍は農兵まで組織して必死に防戦に努めたが、兵力と装備が劣っており、進入軍を喰いとめることができず、敗退を重ねた。
かくて、8月6日は本荘城がまず庄内軍の手に落ち、11日は横手城も同じ運命をたどった。
勢いに乗る庄内・仙台軍は、内陸部では角間川・大曲・刈和野を次々に破り、城下町秋田を目指して軍を進めた。
一方、海岸通りでは、本荘落城後松ケ崎村・道川村を占拠、下浜村に兵を進めて秋田軍と対峙した。
こうした情勢の中で、8月7日、亀田藩は庄内軍に降伏した。
かくて、戊辰戦争は雄和町内へと、東西二方面から迫ったのである。
「雄和の戊辰戦争」は、大正寺・戸米川・種沢・川添地区における、戊辰戦争の展開を詳しくまとめた貴重な研究である。
その巻末年表によると、「8月7日夜新政府軍多数新波村に押し寄せる」と記されている。
これは、この夜長浜村に駐留していた渋谷内膳隊と、援軍として駆けつけた九州黒田藩(福岡県)の軍勢が、仙北郡方面から進行する庄内軍を防ぐため、大正寺地内に移動してきたもののようである。
向野の浅野家文書「官軍止宿人馬御賄焚出日記」によれば、8月9日暁に、筑州黒田藩の大野忠右衛門隊の士族・郷夫あわせて250人が向野村にやってきて、家々に分宿したことが記されている。年表の記録は古老の言い伝えに基づくもののようである。いずれにしろ、
8月7、8、9日の頃、防衛のため秋田軍と黒田軍が大正寺地区に入り込んだもののようである。
これら兵士の姿を見ながら、戦争迫るとの思いを、地域の人びとは深くしたことであろう。
8月17日になると、緊張かな一気に高まった。庄内軍が神ヶ村に進出してきたのである。
さらに翌18日には庄内軍が高尾山を越えて女米木村にも進入、早くもこの日左手子在陣の秋田軍と、雄物川を挟んで砲撃戦を交えた。
かくて、最も恐れていた地域の戦場化が実現のものとなったのである。
殷々たる砲声を雄和の人びとは、どんな思いで聞いたのであろうか。
この後、9月17日、庄内軍が向野村を引き揚げるまで約一カ月間、雄和町地内は、大正寺といわず、戸米川・種平・川添といわず、全くの戦場と化してしまった。雄物川を挟んでの砲撃戦が続いたほか、時には新政府軍(秋田軍とその応援軍)と庄内軍との白兵戦が、町内のあちこちで行われた。
彼らは手あたり次第、農家に火をつけたので、どこの村でも数多くの農家が焼失した。その具体的な数字は「雄和の戊辰戦争」に詳しいので、ここでは繰返さない。
戦場となった村の人びとは、稲が熟して刈り入れの時期だというのに、田圃に出て稲刈りもできず、山奥や谷間に仮小屋を建て、そこで戦火をのがれて避難生活を続けた。時折り鉄砲の弾丸がとんでき、のし板にあたることもあったと、芝野新田村の肝煎鈴木長八は、その記録の中に記している。
新政府軍や庄内軍からの軍需品の割当ても次々に出された。食糧はもとより、フトン・わらじ・松明・薪まで割当てられ、その運搬も村人の負担であった。これについては、高尾村の「大友貞之助記録」に詳しく記載されている。
また、戦場に近い村では、炊出しが次々に命ぜられ、時には防禦のための塹壕づくりまで手伝わされた。
そうした人馬の割当については、本史料集に収めた向野村「浅野家文書」に詳しい。
こうした不安な生活が一カ月も続いたのである。
雄和町おける戊辰戦争のやま場は、9月11日の椿台糠塚森の決戦であった。
庄内軍は椿台にある佐竹壱岐守の新城奪取を狙って兵力を集中。
新政府軍はこれを許さじと対抗、両軍は椿台の高地糠塚森をめぐって血闘を続けた。
この日の状況を「戊辰秋田藩戦記」は、次のように記している。
”9月11日、賊兵騒擾一戦に及はす潰崩す、我兵勢ひに乗して奮戦直ちに敵陣を乗取り、戸島より進軍の薩兵を招き来りて山上に合併す、こ此役や諸兵勇戦敵を討つこと数なく、後日山間又は嶮壑(けんがく)に投棄の斃屁あるを見る最も多し”
9月11日の戦闘を境に、以後庄内軍は後退を続け、12日には敗退の庄内兵が戸賀沢で仮宿、ここで民家一戸を焼いて退いている。
9月17日になると、庄内軍は宿陣していた向野村に火を放って引揚げた。
この日限りに庄内兵の影が当町地内から消えたのである。
谷間の仮小屋の避難生活から、村の人びとが帰ってきたのは、そのあとのことであった。家を焼かれた村に帰ってきた彼らの、呆然自失の姿が偲ばれてならない。
雄和町地内の戊辰戦争の実態を記録したものとして、大別して二種類のものがある。
一つは直接戦争を遂行した藩や士族の立場で書かれたもので、その代表が「戊辰秋田藩戦記」である。これは秋田藩の関与した戊辰戦争の全過程について記述したもので、明治初期、大久保鉄作の発意に基づき狩野徳蔵がとりまとめたものである。
もう一つは、立場は新政府軍、同盟軍(庄内軍)と異なってはいるが、士族の目でみた戊辰戦記としては共通性をもっている。
これに対して、庶民の側の戊辰戦記もあるのであるが、その一部は市町村史のなかに引用されるようになった。一例をあげると、比内町史の「長岡源一郎日記」平鹿町史の「柴田日記」などがそれである。
これらの記録は肝煎や上層農民などによって記されたものが多く、その内容は一様ではないが、そこには武士とは違った視点、庶民の感覚といったものがにじみ出ており、それが戊辰戦争のもう一つの実像を伝えていて貴重である。
雄和町とその周辺にも、庶民の目で記録された戊辰戦記がいくつかある。「雄和の戊辰戦争」には、それについてつぎの六点があげられている。
菅野庄兵衛家記録、浅野甚兵衛家記録、藤原善左衛門家記録、佐々木重右エ門記録、大友貞之助記録、中村善之助記録
浅野兵衛家記録は、戊辰戦争の時、はじめは秋田軍(新政府軍ともいう)の陣屋となり、のちには庄内軍(同盟軍とも呼ぶ)の陣屋ともなった浅野家の、約二カ月にわたる焚出し、宿割当、人夫徴発に関する記録である。
浅野家は向野村の近世初頭いらい肝煎を代々勤めた旧家で、検地帳、切支丹改帳をはじめ、雄物川の鮭漁、木造船製作等に関する古文書が多数保存されており、その内容目録は「雄和の文化財」第一集に収められている。
新政府軍・同盟軍の命ずるまま行動しなければならなかった、戦場下の村落の肝煎の苦悩が行間ににじみ出ていて、感動を呼ぶ。
出典:雄和町教育委員会・雄和町立図書館発行「雄和町史料集5 戊辰戦争記録集」
戊辰戦争とは何か。これはこの年の干支を取ってつけられた名称である。
この戦争は、それまで約270年間続いてきた、徳川幕府を中心とする政治体制が崩れて、新しく明治天皇を中心とする新体制が開けてくる、その境目をなす大きな内戦である。
戦争は慶応4年1月3日の鳥羽・伏見の戦いから始まった。鳥羽・伏見は京都の南にあたる地域である。この戦いで勝利をえた薩摩・長州二藩を主体とする新政府軍は、敗走する幕府軍を追って江戸に進出、4月11日には江戸城明け渡しとなり、十五代将軍徳川慶喜は隠退して水戸に去った。普通であればこれで内戦は終わりである。
しかし、戊辰戦争は終わらなかった。幕府に心を寄せる勢力が北関東から東北地方に大きな力をもっていたので、新政府軍は北に向かって軍勢をすすめ、戦争は東北地方に拡大したのである。
当時、東北諸藩は表面では天皇新政を歓迎していたが、内心では幼帝を擁し独善的に振る舞う薩摩・長州のやり方に、深い不信と反感を持っていた。特に薩摩と対立していた会津・庄内両藩については、同じ東北人だとの親近感から、同情的態度で臨み、武力制圧を唱える薩長とは意見が大きく隔たっていた。
閏4月11日、仙台・米沢両藩の呼びかけで、東北二五藩の会議が、白石(宮城県白石市)え開かれた。
東北諸藩は、会津・庄内両藩を救うため、歎願書を新政府に出すことを決めた。しかし、これは奥羽鎮撫軍参謀世良修蔵(長州藩士)によって拒絶された。
かねてから世良の高圧的態度に反感をもっていた仙台・米沢の血気の藩士らは、閏4月20日夜、福島の宿で世良を暗殺した。
これを機会に、東北諸藩は相互援助関係を強め、ここに奥羽列藩同盟が成立、反薩長の立場が一層鮮明となり、戊辰戦争の東北への波及は不可避の事態へと進んだのである。
この頃、東北諸藩のなかには、勤王、佐幕の二派が対立し、藩論の統一しない藩も少なくなかった。
二〇万石の大藩として知られる秋田藩もその一つで、列藩同盟の約束を守って東北諸藩と行動を共にすべきだと主張する保守派と、新政府に同調し、勤王の実をあげるのが将来のためになると唱える「正義派」に二派があって、互いに対立を深めていた。
7月1日、奥羽鎮撫総督九条道孝は手兵を率いて秋田入りをしたのを機会に、「正義派」の人びとは藩主を動かし、7月3日には新政府支持の態度を決めさせた。さらに同派の人びとは勢いに乗って、翌4日夕刻、仙台藩の使者を久保田の宿で暗殺した。
かくて、秋田藩は列藩同盟から離れ東北諸藩と戦いを交えることになったのである。
この時、本荘・亀田・矢島の諸藩も、秋田藩と行動を共にすることになった。
戦争は由利郡と雄勝郡の南部地域から始まった。庄内郡は7月末から8月初めにかけて、約4千人の軍勢を二手に分け、一手は海岸沿いと矢島口から由利郡に向かい、一手は院内口から雄勝郡内に攻め込んだ。同時に仙台軍約2千人と米沢軍約7百人も雄勝郡に進入した。
秋田軍は農兵まで組織して必死に防戦に努めたが、兵力と装備が劣っており、進入軍を喰いとめることができず、敗退を重ねた。
かくて、8月6日は本荘城がまず庄内軍の手に落ち、11日は横手城も同じ運命をたどった。
勢いに乗る庄内・仙台軍は、内陸部では角間川・大曲・刈和野を次々に破り、城下町秋田を目指して軍を進めた。
一方、海岸通りでは、本荘落城後松ケ崎村・道川村を占拠、下浜村に兵を進めて秋田軍と対峙した。
こうした情勢の中で、8月7日、亀田藩は庄内軍に降伏した。
かくて、戊辰戦争は雄和町内へと、東西二方面から迫ったのである。
「雄和の戊辰戦争」は、大正寺・戸米川・種沢・川添地区における、戊辰戦争の展開を詳しくまとめた貴重な研究である。
その巻末年表によると、「8月7日夜新政府軍多数新波村に押し寄せる」と記されている。
これは、この夜長浜村に駐留していた渋谷内膳隊と、援軍として駆けつけた九州黒田藩(福岡県)の軍勢が、仙北郡方面から進行する庄内軍を防ぐため、大正寺地内に移動してきたもののようである。
向野の浅野家文書「官軍止宿人馬御賄焚出日記」によれば、8月9日暁に、筑州黒田藩の大野忠右衛門隊の士族・郷夫あわせて250人が向野村にやってきて、家々に分宿したことが記されている。年表の記録は古老の言い伝えに基づくもののようである。いずれにしろ、
8月7、8、9日の頃、防衛のため秋田軍と黒田軍が大正寺地区に入り込んだもののようである。
これら兵士の姿を見ながら、戦争迫るとの思いを、地域の人びとは深くしたことであろう。
8月17日になると、緊張かな一気に高まった。庄内軍が神ヶ村に進出してきたのである。
さらに翌18日には庄内軍が高尾山を越えて女米木村にも進入、早くもこの日左手子在陣の秋田軍と、雄物川を挟んで砲撃戦を交えた。
かくて、最も恐れていた地域の戦場化が実現のものとなったのである。
殷々たる砲声を雄和の人びとは、どんな思いで聞いたのであろうか。
この後、9月17日、庄内軍が向野村を引き揚げるまで約一カ月間、雄和町地内は、大正寺といわず、戸米川・種平・川添といわず、全くの戦場と化してしまった。雄物川を挟んでの砲撃戦が続いたほか、時には新政府軍(秋田軍とその応援軍)と庄内軍との白兵戦が、町内のあちこちで行われた。
彼らは手あたり次第、農家に火をつけたので、どこの村でも数多くの農家が焼失した。その具体的な数字は「雄和の戊辰戦争」に詳しいので、ここでは繰返さない。
戦場となった村の人びとは、稲が熟して刈り入れの時期だというのに、田圃に出て稲刈りもできず、山奥や谷間に仮小屋を建て、そこで戦火をのがれて避難生活を続けた。時折り鉄砲の弾丸がとんでき、のし板にあたることもあったと、芝野新田村の肝煎鈴木長八は、その記録の中に記している。
新政府軍や庄内軍からの軍需品の割当ても次々に出された。食糧はもとより、フトン・わらじ・松明・薪まで割当てられ、その運搬も村人の負担であった。これについては、高尾村の「大友貞之助記録」に詳しく記載されている。
また、戦場に近い村では、炊出しが次々に命ぜられ、時には防禦のための塹壕づくりまで手伝わされた。
そうした人馬の割当については、本史料集に収めた向野村「浅野家文書」に詳しい。
こうした不安な生活が一カ月も続いたのである。
雄和町おける戊辰戦争のやま場は、9月11日の椿台糠塚森の決戦であった。
庄内軍は椿台にある佐竹壱岐守の新城奪取を狙って兵力を集中。
新政府軍はこれを許さじと対抗、両軍は椿台の高地糠塚森をめぐって血闘を続けた。
この日の状況を「戊辰秋田藩戦記」は、次のように記している。
”9月11日、賊兵騒擾一戦に及はす潰崩す、我兵勢ひに乗して奮戦直ちに敵陣を乗取り、戸島より進軍の薩兵を招き来りて山上に合併す、こ此役や諸兵勇戦敵を討つこと数なく、後日山間又は嶮壑(けんがく)に投棄の斃屁あるを見る最も多し”
9月11日の戦闘を境に、以後庄内軍は後退を続け、12日には敗退の庄内兵が戸賀沢で仮宿、ここで民家一戸を焼いて退いている。
9月17日になると、庄内軍は宿陣していた向野村に火を放って引揚げた。
この日限りに庄内兵の影が当町地内から消えたのである。
谷間の仮小屋の避難生活から、村の人びとが帰ってきたのは、そのあとのことであった。家を焼かれた村に帰ってきた彼らの、呆然自失の姿が偲ばれてならない。
雄和町地内の戊辰戦争の実態を記録したものとして、大別して二種類のものがある。
一つは直接戦争を遂行した藩や士族の立場で書かれたもので、その代表が「戊辰秋田藩戦記」である。これは秋田藩の関与した戊辰戦争の全過程について記述したもので、明治初期、大久保鉄作の発意に基づき狩野徳蔵がとりまとめたものである。
もう一つは、立場は新政府軍、同盟軍(庄内軍)と異なってはいるが、士族の目でみた戊辰戦記としては共通性をもっている。
これに対して、庶民の側の戊辰戦記もあるのであるが、その一部は市町村史のなかに引用されるようになった。一例をあげると、比内町史の「長岡源一郎日記」平鹿町史の「柴田日記」などがそれである。
これらの記録は肝煎や上層農民などによって記されたものが多く、その内容は一様ではないが、そこには武士とは違った視点、庶民の感覚といったものがにじみ出ており、それが戊辰戦争のもう一つの実像を伝えていて貴重である。
雄和町とその周辺にも、庶民の目で記録された戊辰戦記がいくつかある。「雄和の戊辰戦争」には、それについてつぎの六点があげられている。
菅野庄兵衛家記録、浅野甚兵衛家記録、藤原善左衛門家記録、佐々木重右エ門記録、大友貞之助記録、中村善之助記録
浅野兵衛家記録は、戊辰戦争の時、はじめは秋田軍(新政府軍ともいう)の陣屋となり、のちには庄内軍(同盟軍とも呼ぶ)の陣屋ともなった浅野家の、約二カ月にわたる焚出し、宿割当、人夫徴発に関する記録である。
浅野家は向野村の近世初頭いらい肝煎を代々勤めた旧家で、検地帳、切支丹改帳をはじめ、雄物川の鮭漁、木造船製作等に関する古文書が多数保存されており、その内容目録は「雄和の文化財」第一集に収められている。
新政府軍・同盟軍の命ずるまま行動しなければならなかった、戦場下の村落の肝煎の苦悩が行間ににじみ出ていて、感動を呼ぶ。
出典:雄和町教育委員会・雄和町立図書館発行「雄和町史料集5 戊辰戦争記録集」