佐竹義宣は、慶長7年(1602)に常陸54万石からその半ばにも満たない20万石余の秋田に遷封されたが、積雪寒冷の東北は米の単作地という悪い条件の下に領内支配の体制をつくらなければならなかった。
早速領内の検地を実施し、収入を調査し年貢徴収の実態を把握することにつとめた。
このようにして新しい領内の収入を調査してやがて給人等の知行対策として新田の開発、鉱山や山林資源の開発して小藩なりに幾分でも収入を増加させるべく財政施策を進めていった。
佐竹義宣が、秋田に移封された頃は、秋田にも至るところに杉の美林が豊富であったといわれる。
当時の美林は、米代川流域に多かったが、雄物川の流域は必ずしも美林が多かったとばかりは言えないのではなかったろうか。
当時の佐竹の家老澁江政光は、その遺言の条項の中で、「国の宝は山なり、然れども伐り尽くすときは用に立たず、尽きざる以前に備を立つべし。山の衰は即ち国の衰なり。」という言葉を残している。
藩政以前秋田氏(安東氏)の時代から、すでに秋田の杉は遠く関西方面へ舟積されていたといわれるが、これらの杉は岩見川の流域からも伐り出されて湊(土崎)あたりから海路輸送されたことであろう。
文化、文政の頃になって、藩の木山方吟味役として林政に携わった加藤景林の「山林盛衰考」には、伐採量が多くなりながらも植付、撫育などが行き届かないために木の大きいところは大方伐りつくし、このままでは将来が心配であるということを強調している。藩においても山林の保護育成に関して、再三にわたり仰せ渡しなどを出したほか地焼などについても相当厳しく取り締まっていた。
義宣が秋田へ移封された当時は、うっそうとたる森林もこのようにして膨大な目次需要を満たすために伐採されたために、二代義隆の時代になってからは、ところどころの山に衰えが見え始めてきたりしたので、いきおい伐採制限に必要に迫られるようになってきた。
この頃から藩としても無尽蔵ではない森林の保護育成を考え、一定区域を定めての御留山、御礼山などを定めて住民の自由に入山することを禁止せざるを得なくなった。半面このような早期の積極的な山林の保護政策、植林の奨励などが後世における秋田の美林の実現につながったことにもなったといえよう。
河辺では、岩見三内地区の岩見山、財の神即ち現在の国有林が御直林(藩の直轄林)であった。
御直林の伐採は「直杣」という藩行斫伐で行われるのが原則で、その方法は山林を伐採する場所から予定出材量、予定伐採経費を定めておき入札によって請負者を定め事業を行うものである。
新田開発を推し進めさらに農業生産を高めていく為には、水源涵養林や水害防止のための川除柳林などの育成にも努める必要があった。
このような事態に即して藩が本格的に取組んでいったのが、留山と札山の制であったといえよう。
留山というのは杉を中心に有用樹種を藩が独占して利用するために、特定の山林を指定して伐採を禁止する山のことであった。
札山は山林の保護育成のために、伐採や入山を禁止する制札を藩が交付しその制札を掲げた山林をいう。札山は、留山とやや趣を異にし山林全体の保護という目的が強く、その制札も保護の目的により内容を異にする。
山守には、木山方という役所から即ち藩から命令された御山守と、村落で雇い入れた山守との二種類があった。どちらも身分は公の役人に準ずる者であったが、木山方から命じられた御山守の方は上位であった。
山守の職務は、随時山を回り山林の風水害、地焼(野火など)の立ち会い、徒伐などの取締りなどで50本以上の伐木の立会い、それに杉の種を蒔いたり植林などの指導、林役人が廻山したりするときの山案内などであった。
現在の岩見山、財の神両国有林のいわゆる御直山(おじき山)で、一般には杉や桧などは伐採することは禁止されていた。しかし薪を伐ったり、草や萱など刈ったりすることは許されていた。その代わり麓村としてふだん村人は山火事の予防や徒伐の防止などには村の責任をもって常に失態のないように注意することが義務付けられていた。
御直山を中心とした藩直轄の山々が国有林として新しい経営に切替えられたのは、明治19年6月に大林区署が設けられてからのようである。
秋田でも藩直轄の山が林制の改革によってその大部分が国有林に編入されたものの、そこには多くの問題が残されていて、関係住民の抵抗などもいろいろなところで表われ、国有林解放運動などもその一環であろう。
明治年代における国有林の経営は、国家権力を背景として民間に圧力を加えて服従させようとする傾向が強かった。
明治26年7月29日、当時の岩見三内村会において国有林の編入の解除、あるいは払い下げについてつぎのような請願が為されている。
岩見三内村岩見字の岩見山国有林、同じく三内字財の神国有林の二つの山を、佐竹藩時代のように村でも自由に木を伐ったり、それを売ったりして村民の生活のためにできる山に戻してもらうよう請願する。但しこの願いをかなえることができないならば山を払い下げて貰いたい。
明治32年に不要存置林の処分が開始され、以来秋田大林区署は、県内の小面積でしかも点在している経済価値の少ない箇所や、農耕適地を払い下げた。
旧岩見三内村で明治40年に三内字内沢の国有林157町歩が16000円で払い下げられた。
大正9年10月、官行造林法が実施されることになり、この実行は秋田大林区署(営林局)が管轄することとなり、その施行役所として署内に秋田県公林野官行造林書が置かれた。
大正13年、営林署官制によって官行造林署は廃され、官行造林事業は営林署に引継がれ、国有林野事業として推し進められた。
官行造林事業が、県の公有林野の開発に注いだ実績は誠に大きかったといえよう。
河辺地区では旧豊島村における北野田高屋有官行造林192町歩などはその好例というべきであろう。昭和30年の町村合併にも財産区として引継がれ、有権地域の人びとはもとより、町としても直接間接を問わず財政的な恩恵を享受してきてるのである。
出典:河辺町発行「河辺町史」(昭和60年10月発行)
早速領内の検地を実施し、収入を調査し年貢徴収の実態を把握することにつとめた。
このようにして新しい領内の収入を調査してやがて給人等の知行対策として新田の開発、鉱山や山林資源の開発して小藩なりに幾分でも収入を増加させるべく財政施策を進めていった。
佐竹義宣が、秋田に移封された頃は、秋田にも至るところに杉の美林が豊富であったといわれる。
当時の美林は、米代川流域に多かったが、雄物川の流域は必ずしも美林が多かったとばかりは言えないのではなかったろうか。
当時の佐竹の家老澁江政光は、その遺言の条項の中で、「国の宝は山なり、然れども伐り尽くすときは用に立たず、尽きざる以前に備を立つべし。山の衰は即ち国の衰なり。」という言葉を残している。
藩政以前秋田氏(安東氏)の時代から、すでに秋田の杉は遠く関西方面へ舟積されていたといわれるが、これらの杉は岩見川の流域からも伐り出されて湊(土崎)あたりから海路輸送されたことであろう。
文化、文政の頃になって、藩の木山方吟味役として林政に携わった加藤景林の「山林盛衰考」には、伐採量が多くなりながらも植付、撫育などが行き届かないために木の大きいところは大方伐りつくし、このままでは将来が心配であるということを強調している。藩においても山林の保護育成に関して、再三にわたり仰せ渡しなどを出したほか地焼などについても相当厳しく取り締まっていた。
義宣が秋田へ移封された当時は、うっそうとたる森林もこのようにして膨大な目次需要を満たすために伐採されたために、二代義隆の時代になってからは、ところどころの山に衰えが見え始めてきたりしたので、いきおい伐採制限に必要に迫られるようになってきた。
この頃から藩としても無尽蔵ではない森林の保護育成を考え、一定区域を定めての御留山、御礼山などを定めて住民の自由に入山することを禁止せざるを得なくなった。半面このような早期の積極的な山林の保護政策、植林の奨励などが後世における秋田の美林の実現につながったことにもなったといえよう。
河辺では、岩見三内地区の岩見山、財の神即ち現在の国有林が御直林(藩の直轄林)であった。
御直林の伐採は「直杣」という藩行斫伐で行われるのが原則で、その方法は山林を伐採する場所から予定出材量、予定伐採経費を定めておき入札によって請負者を定め事業を行うものである。
新田開発を推し進めさらに農業生産を高めていく為には、水源涵養林や水害防止のための川除柳林などの育成にも努める必要があった。
このような事態に即して藩が本格的に取組んでいったのが、留山と札山の制であったといえよう。
留山というのは杉を中心に有用樹種を藩が独占して利用するために、特定の山林を指定して伐採を禁止する山のことであった。
札山は山林の保護育成のために、伐採や入山を禁止する制札を藩が交付しその制札を掲げた山林をいう。札山は、留山とやや趣を異にし山林全体の保護という目的が強く、その制札も保護の目的により内容を異にする。
山守には、木山方という役所から即ち藩から命令された御山守と、村落で雇い入れた山守との二種類があった。どちらも身分は公の役人に準ずる者であったが、木山方から命じられた御山守の方は上位であった。
山守の職務は、随時山を回り山林の風水害、地焼(野火など)の立ち会い、徒伐などの取締りなどで50本以上の伐木の立会い、それに杉の種を蒔いたり植林などの指導、林役人が廻山したりするときの山案内などであった。
現在の岩見山、財の神両国有林のいわゆる御直山(おじき山)で、一般には杉や桧などは伐採することは禁止されていた。しかし薪を伐ったり、草や萱など刈ったりすることは許されていた。その代わり麓村としてふだん村人は山火事の予防や徒伐の防止などには村の責任をもって常に失態のないように注意することが義務付けられていた。
御直山を中心とした藩直轄の山々が国有林として新しい経営に切替えられたのは、明治19年6月に大林区署が設けられてからのようである。
秋田でも藩直轄の山が林制の改革によってその大部分が国有林に編入されたものの、そこには多くの問題が残されていて、関係住民の抵抗などもいろいろなところで表われ、国有林解放運動などもその一環であろう。
明治年代における国有林の経営は、国家権力を背景として民間に圧力を加えて服従させようとする傾向が強かった。
明治26年7月29日、当時の岩見三内村会において国有林の編入の解除、あるいは払い下げについてつぎのような請願が為されている。
岩見三内村岩見字の岩見山国有林、同じく三内字財の神国有林の二つの山を、佐竹藩時代のように村でも自由に木を伐ったり、それを売ったりして村民の生活のためにできる山に戻してもらうよう請願する。但しこの願いをかなえることができないならば山を払い下げて貰いたい。
明治32年に不要存置林の処分が開始され、以来秋田大林区署は、県内の小面積でしかも点在している経済価値の少ない箇所や、農耕適地を払い下げた。
旧岩見三内村で明治40年に三内字内沢の国有林157町歩が16000円で払い下げられた。
大正9年10月、官行造林法が実施されることになり、この実行は秋田大林区署(営林局)が管轄することとなり、その施行役所として署内に秋田県公林野官行造林書が置かれた。
大正13年、営林署官制によって官行造林署は廃され、官行造林事業は営林署に引継がれ、国有林野事業として推し進められた。
官行造林事業が、県の公有林野の開発に注いだ実績は誠に大きかったといえよう。
河辺地区では旧豊島村における北野田高屋有官行造林192町歩などはその好例というべきであろう。昭和30年の町村合併にも財産区として引継がれ、有権地域の人びとはもとより、町としても直接間接を問わず財政的な恩恵を享受してきてるのである。
出典:河辺町発行「河辺町史」(昭和60年10月発行)