【戸米川(とめかわ)】
合併の旧村名の戸賀沢の「戸」、女米木の「米」、相川の「川」を結び合せた村名で、町村制実施当時の考案村名として戸賀沢、女米木、相川の各一字を結び戸米川村、女米木と相川を結合させた女米川村、高尾山麓に因み「高麓村」(たかふもと)とも考えられた。
【相川(あいかわ)】
雄物川も川添にある銅屋(どうや)と高埜(こうや)を併せ、合川、相川としたともみれるが、同地方の開拓者鳥海家の祖の前住は元雄勝郡須川村相川(現湯沢市)で故郷の地名をとって相川村としたとも伝承。
【女米木(めめき)】
住古高尾山(鷹雄山、鷹尾山、高雄山)を竜頭嶽と呼び山麓の里を竜頭村といったが、白石の善五郎の娘の米子を略奪した夜叉鬼に因んで米女鬼村となり、藩政時に女米木に改めたという。
なお、高尾山縁記には、宝亀年代(770年代)には龍頭村、大同2年(807年)女米「米女」鬼村に改め、更に慶長7年(1601年)に女米木村としたとある。
【戸賀沢(とかざわ)】
女米木の地域でこう荒撫地だった当時、雄物川河畔の河原を浜と見立てて外ヶ浜といい、その後開田に伴い一の集落を構成し外ヶ沢に改めたが、各戸の生活の富裕を希求祈念し「外ヶ」(とが)を「戸賀」の文字に改めたもの。
現住の先祖の土着は戦国時代ともいうが、片田の西方善知鳥坂の地名等から原住民が住んでいたでないかとの伝承もある。
藩政時代には18戸の集落で、これ以上戸数が増加すると村が衰微するとの言い伝えがあり極力増加を避けたという。
宝暦5年(1755年)の検地帳が現存していると伝えている。
藩政時代の「六郡郷村誌」とまた明治初年の「羽陰温故誌」に「此村より女米木に来る道傍に石あり長4尺丸9抱程中うつろなり其空中に名付け難き形の石あり花を立る穴二つ三つあり人呼んで神とし仰く元山沢に有りしを不思議として数人を以て此処に移し立つといへり色薄赤く又白き石なり奇なり雅石といふべし」とあるが、この奇石は詳かでないが、旧戸米川小学校敷地の道路向側の字金山沢17番1に所在している。
出典:雄和町発行「雄和町史」(昭和51年6月発行)
合併の旧村名の戸賀沢の「戸」、女米木の「米」、相川の「川」を結び合せた村名で、町村制実施当時の考案村名として戸賀沢、女米木、相川の各一字を結び戸米川村、女米木と相川を結合させた女米川村、高尾山麓に因み「高麓村」(たかふもと)とも考えられた。
【相川(あいかわ)】
雄物川も川添にある銅屋(どうや)と高埜(こうや)を併せ、合川、相川としたともみれるが、同地方の開拓者鳥海家の祖の前住は元雄勝郡須川村相川(現湯沢市)で故郷の地名をとって相川村としたとも伝承。
【女米木(めめき)】
住古高尾山(鷹雄山、鷹尾山、高雄山)を竜頭嶽と呼び山麓の里を竜頭村といったが、白石の善五郎の娘の米子を略奪した夜叉鬼に因んで米女鬼村となり、藩政時に女米木に改めたという。
なお、高尾山縁記には、宝亀年代(770年代)には龍頭村、大同2年(807年)女米「米女」鬼村に改め、更に慶長7年(1601年)に女米木村としたとある。
【戸賀沢(とかざわ)】
女米木の地域でこう荒撫地だった当時、雄物川河畔の河原を浜と見立てて外ヶ浜といい、その後開田に伴い一の集落を構成し外ヶ沢に改めたが、各戸の生活の富裕を希求祈念し「外ヶ」(とが)を「戸賀」の文字に改めたもの。
現住の先祖の土着は戦国時代ともいうが、片田の西方善知鳥坂の地名等から原住民が住んでいたでないかとの伝承もある。
藩政時代には18戸の集落で、これ以上戸数が増加すると村が衰微するとの言い伝えがあり極力増加を避けたという。
宝暦5年(1755年)の検地帳が現存していると伝えている。
藩政時代の「六郡郷村誌」とまた明治初年の「羽陰温故誌」に「此村より女米木に来る道傍に石あり長4尺丸9抱程中うつろなり其空中に名付け難き形の石あり花を立る穴二つ三つあり人呼んで神とし仰く元山沢に有りしを不思議として数人を以て此処に移し立つといへり色薄赤く又白き石なり奇なり雅石といふべし」とあるが、この奇石は詳かでないが、旧戸米川小学校敷地の道路向側の字金山沢17番1に所在している。
出典:雄和町発行「雄和町史」(昭和51年6月発行)