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おらほの街河辺雄和のいいとこ発見 ~「河辺の発電所の興亡」~

2020-06-18 17:41:40 | 日記
岩見川は急流で、水量が豊富である。
この豊富な水を利用して明治30年代から40年代にかけて4つの発電所が建設されている。
明治の後半から大正、昭和の初め頃までこれらの発電所が、河辺町地域に与えた影響はいろいろな面で少なくない。
三内川発電所以外は詳しい資料に乏しいが、発電所のなりたちなど沿革をひも解いてみることもわが町の歴史を知るために必要なことと思われる。

【三菱発電所】
明治30年4月15日 三菱合資会社が荒川鉱山に電気を供給するため、岩見川に発電所を設置することになった。
これに伴い岩見川の流水を使用することついて、岩見三内村に願い書が出され村会にはかられて、灌漑用水その他関係住民の使用に支障がないということで承認された。
この流水使用について三菱から村に対して年間100円の水利用のための料金を、使用が継続される期間中支払われることになった。
当時村の年間予算は2215円(明治31年当初)ほどであり、村の収入として相当の額であった。
岩見川最初の発電所は岩見字穴渕の附近に「三菱第二発電所」として明治30年に起工し、同34年に完成したのである。
注(三菱第一発電所は仙北郡荒川地区に、喇沢発電所として明治30年に完成している。)
当時はまだ秋田市にも電灯が点灯されていないころであり、風が吹いても消えないランプとして評判が高く、見学者が多数訪ねて来たという。
第二発電所は荒川鉱山が休山になる昭和15年まで創業した。

【第3発電所】
明治37年 岩見字小平岱に「三菱第三発電所」が建設された。
水の取水口から発電所まで、板(栗材、桧材)で作った水路が延々と続き、発電機は一本の圧力管により回転していた。
この発電所は岩見三内にある三つの三菱発電所の中での最も最後まで使用され、荒川鉱山の休山後は畑鉱山へ売電し、更に昭和21年には岩見電気協同組合(鵜飼、新川、小平岱、福田、東の五加入)が買収し、組合直営の発電所になった。
戦後間もない電力事情が悪化するなかにあって、当時これらのでは安い電力を豊富に使い、東北でも最も電化が進んだ文化的地域として名声を博したものである。
しかし年を経るに従い設備が老朽化し、加えて水路の破損、機械修理費の増大、更に電力料金の延滞などから経営困難となり、昭和36年に廃業するに至った。

【第四発電所】
明治45年 鵜飼の大又川に設置された。
この発電所は昭和21年畑鉱山への送電が中止されるに及んで閉鎖されるに至った。
岩見三内から荒川鉱山への送電線は、第二、第四発電所は協和町船岡の庄内を通り、第三発電所は船岡の猫の沢近くを経由して荒川鉱山へ送電されていた。
当時の送電線に使用される電柱はほとんど木柱で、峠や深い谷を越える部分のみ鉄塔であった。
発電所が廃止されてからすでに40年が経過し、往時この谷深い山里にエネルギーの先端をゆく発電事業という華やかな文化をもたらした三菱発電所の跡地は、その場所すらもわからぬ過疎の草深い空地となっていることは往時を知っている人々にとって一抹の寂しさを感じさせるものがある。

【三内川発電所】
明治41年 帝国鉄道院が土崎に鉄道工場を開設するにあたり、その動力源として三内川に水力を利用した発電所を作ることを計画した。
この計画に基づいて明治37年頃より、鉄道作業局において発電所建設予定地の調査が進められていた。
最初測量隊が調査したのでは、いまの発電所跡の位置より奥地約6キロメートル上流で、深渕沢に設置し、さらにその上流約4キロメートル、黒渕(井出舞沢と本流の分岐点)に堰堤を設置することに決定していた。
ところが明治40年 富士能農技師一行が再度来村して調査をした結果、藩政時代に萱森野開拓のため灌漑用水路としてこのあたりを計画し、地理的な困難から放置したという経緯なども参考にして、最終的には現在農林漁業資料館のある旧発電所の位置に決定し、帝国鉄道院土崎工場三内川発電所として認可を受け、明治41年4月から工事に着工したのである。
発電所の建設では特に水路工事が困難を極め、第一期工事は熊谷組(熊谷貞之助-関東の人)が、工費15万円程度で落札し、約1か年間工事を担当し、堰堤より俗称鳥沢までの区間、2600メートル附近まで進めた。第二期工事は大島組(大島養蔵-福島県の人)が、工費約13面円で落札して工事を継続して施工したのである。こうして2カ年の日数を費やし、延長3300メートルの水路が完成したわけである。
この間、水圧管や発電室等の建設も進められ、当時水車と発電機2台が設置された。
この発電機はドイツのシーメン・シュケルト社の製品で、水車はスイスのイッシャー・ウイッシュ社製のものであり、当時は舶来品といわれ、人々の目をみはらせたものだという。
こうして明治44年4月16日、3年5ヶ月の工期と、総額45万円にのぼる工費を費やし、東部鉄道管理局三内川発電所として創業したのである。
その後土崎工場の規模が漸時拡大され、設備も増加したため電力需要も伸び、大正11年7月3日水車と発電機各一台が増設され、この機会は水車が東京電業社より、発電機は芝浦製作所と国産のものが使用されている。
そして昭和10年以降から土崎工場の規模がさらに拡張され、作業量も著しく増加するようになったため、昭和13年3月31日、東京電業社と芝浦製作所の水車と発電機各一台が増設されて総出力800KVAの電力が、土崎工場はもとより、秋田駅構内にも送電したのである。
こうして明治44年以来、国鉄三内発電所として親しまれ、電力供給はもとより、地元河辺町にも大きな役割を果たしてきた発電所も、電力需要の変動や、国鉄経営合理化のため、昭和46年3月31日に廃止され、その六十有余年の歴史を閉じたのである。

発電所が廃止されるとともにその跡地と建物はまちに払い下げられ、発電機は寄贈された。
町では三内川発電所の操業を物語る発電機の保存と歴史を伝えるため、機械を中心に古い民具や農林作業用具を集め、旧発電所跡地に「農林漁業資料館」を建設し、かつての職員官舎の一部を改装して、現在「老人福祉センター」に利用しているのである。

【岩見ダムと県営岩見発電所】
県の岩見ダム建設計画のスタートは、昭和43年から始められていた。
「洪水と干ばつ、この二つを防ぐのが岩見ダムのねらいである。」岩見川流域の水田2960ヘクタールは、たび重なる洪水で荒れ、その一方、水田面積が広いため干ばつ時には水争いを繰り返してきた。
これを解消するとともに、国土の保全、灌漑用水の確保と産業発展のため、ダムを利用して発電を行うという、多目的に設計されたのがこの岩見ダムである。
ダムの造られた地点は、役場から約20キロ、旧三内川発電所の取水用堰堤より上流約300メートル、筑紫森山麓の岩盤をせきとめ、堤高(ダムの高さ)66.5メートルの重力式コンクリートダムで、県内では北秋早口ダムに次いで8番目にできる。
このダムに水を貯めるとその湛水面積95万平方メートルは、県営球場(17000平方メートル)の53倍の広さで、1930万平方メートルの総貯水量は、秋田市上下水道量の約200日分に当たるといわれている。
昭和54年 竣工式を施工。
岩見ダム建設は、予備調査以来10年の歳月と、総額110億円の巨費を投じて完成した。

ダムはすべて最新の近代的な施設、設備によって管理され、ダムの水源となる財の神国有林、73平方キロメートルの集水地内に設置された雨量計は、常時自動的に記録され平常時の流水量は勿論、洪水の際刻々に増大される流水量も、コンピュータによって計算され、応急の対策が講じられるシステムになっている。
そのほか、ダムの周辺はもとより、下流沿岸の状況もテレビカメラによってとらえられ、水の放流や緊急の場合における指示や伝達が、対岸数カ所に設置された警報装置を通して行われているのである。



出典:河辺町発行「河辺町史」(昭和60年10月発行)