本町の一万余町歩におよぶ林野のうち、九千丁歩の山林は、藩政時代所謂翠蓋天を蔽い緑影池に滴たらんとする状態だったのが、戊辰の役で民家が兵火の災いを蒙ったので五百余の建物の再建材料として、伐採された樹木は夥しかったのである。
また、土地の私有化が認められ、次いで雄物川の舟揖の便が開かれるに至り、木材、薪炭材が年々多量に伐採され秋田市に供給されるようになった。
更に戦時中は造船用材として杉の大樹が次々と伐採され、また代用燃料としての松根油採取のため松木が倒され、自動車燃料用としての製炭材が濫伐された結果、到るところ山容が坊主山になり、自村にあってさえ薪炭材の需給に困るような状況を呈したのである。
従前各地区では、県模範林、官行造林、村行造林を実施し、また有財産を統一し施業計画のもとに造林を行い、他方個人の植林をも奨励し、苗圃を設置する等、山村としての森林資源の維持に鋭意努力されたところである。
本町の森林面積は9138町歩で、総面積の64%を占めており、林業は農業につぐ主産業となっている。
森林の所有区分は国有4.4%、公有7.3%、私有が88.3%となっている。
生産額は過伐による資源不足で、年々減少しており、ことに薪炭の減産が目立っているのは資材の減少ばかりでなく電気、ガス、灯油の普及のためその需要が少なくなったためである。
然し他面公私有林とも伐採跡地の植林や、幼齢樹林の育成のため町では関係団体とはかって造林を強力に推進しているところである。
林産物の搬出に必要な林道開設も順調に進み奥地までトラックによる搬出が可能となっている。
森林組合は昭和34年3月戸米川、種平、川添が合併雄和森林組合として発足、直営苗圃を経営し飛躍的な杉苗の増産を行っているが、昭和49年、大正寺森林組合、河辺町森林組合と雄和町森林組合が広域合併を実施、郡一円を区域とした河辺森林組合として改組された。
出典:雄和町発行「雄和町史」(昭和51年6月発行)
また、土地の私有化が認められ、次いで雄物川の舟揖の便が開かれるに至り、木材、薪炭材が年々多量に伐採され秋田市に供給されるようになった。
更に戦時中は造船用材として杉の大樹が次々と伐採され、また代用燃料としての松根油採取のため松木が倒され、自動車燃料用としての製炭材が濫伐された結果、到るところ山容が坊主山になり、自村にあってさえ薪炭材の需給に困るような状況を呈したのである。
従前各地区では、県模範林、官行造林、村行造林を実施し、また有財産を統一し施業計画のもとに造林を行い、他方個人の植林をも奨励し、苗圃を設置する等、山村としての森林資源の維持に鋭意努力されたところである。
本町の森林面積は9138町歩で、総面積の64%を占めており、林業は農業につぐ主産業となっている。
森林の所有区分は国有4.4%、公有7.3%、私有が88.3%となっている。
生産額は過伐による資源不足で、年々減少しており、ことに薪炭の減産が目立っているのは資材の減少ばかりでなく電気、ガス、灯油の普及のためその需要が少なくなったためである。
然し他面公私有林とも伐採跡地の植林や、幼齢樹林の育成のため町では関係団体とはかって造林を強力に推進しているところである。
林産物の搬出に必要な林道開設も順調に進み奥地までトラックによる搬出が可能となっている。
森林組合は昭和34年3月戸米川、種平、川添が合併雄和森林組合として発足、直営苗圃を経営し飛躍的な杉苗の増産を行っているが、昭和49年、大正寺森林組合、河辺町森林組合と雄和町森林組合が広域合併を実施、郡一円を区域とした河辺森林組合として改組された。
出典:雄和町発行「雄和町史」(昭和51年6月発行)