【大正寺(だいしょうじ)】
鎮守の元郷社新波神社は住古荒波明神(または地主明神)といった。
仏教興隆時に大聖不動明王を合祀大正寺と改号、当地方の鎮守とし、教育及び宗教の中心とされ以来大正寺は当地方の象徴となり自然に地方的名称となった。
文治2年 陣代安東氏は大正寺太郎と、応仁年代新田氏は大正寺兵衛尉と名乗り、慶長年以降藩政時には大正寺郷(大正寺6ゕ村、下川大内1カ村、亀田6ゕ村、大沢郷3ゕ村、強首村1ゕ村、計17ゕ村)と呼称し(現在でも近郷近在では新波神社を大正寺の不動様と称している。)町村制実施によって、新波、向野、繋、神ヶ村、碇田、萱ケ沢の6ゕ村を合併して古代からの総称地名をとり大正寺村となったものである。
【新波(あらわ)】
新波、荒和、新和村と旧記にあるが、明治初年新波村となった。
鎮守を新波明神と称し、延暦の頃新波の玉岐という士族がおり、広徳年由利の八陣代に新波小太郎の名がある。
アイヌ語でアラパとは水によってものを運搬することから出た地名、新波神社を現地に遷宮するとき一天俄かにかきくもり大雨沛然、山川草木鳴動して新波磯に打ちくだくかごとくとも伝え、慶長の最上義光分限帳に大正寺郷新波村とある。
【向野(むかえの)】
川向の平野地帯の意からの地名で、延歴年代に開拓されたが度重なる雄物川の氾濫により荒撫地化したものを寛文初年に再び開拓したものである。
当時は新和新田と称したが享保16年向野村として独立したものである。
源藤太郎(げんどうたろう)…雄物川河岸の下流地域、藩政時代雄物川を大正寺川といい、関東の利根川の坂東太郎の異名になぞらえて地名としたもの。
【繋(つなぎ)】
秋田の古代駅路(由理の柵と秋田間)の白谷駅(繋字西の沢槽館)は奈良時代の天平宝字年代に水駅として交通の要所で水陸を結ぶ地点からの地名、稲城郷のなまり、神社縁記の通波(つなみ)の転訛等考えられる。
慶長の最上分限帳には大正寺郷繋村とある。
【神ケ村(じんがむら)】
神社縁記には、社前の川上の意から神上村とある。
地域に産土神と氏神が22社も奉祀され神ヶ村の名に応わしく、西方の高峯「神岳森」は住古山岳高山信仰時代に崇拝したと伝えその麓の里から地名となったものと推料され最上分限帳に大正寺郷神ヶ村とある。
【碇田(いかりだ)】
地域の中央部を迂曲する河川を堰堤でせき止め、灌漑水としている。
淀み水、碇り水によって耕作する田に由来するか、最上分限帳に大正寺郷猪狩田とあり、猪の狩場を連想するが稲刈田の当て字で、また碇田村とも書いているが後代碇田村と改めたものという。
明治9年 大台地区を萱ケ沢に分離編入した。
なお、クネソエに鎮座の釜大神社の正徳5年(1715年)の奉造棟札に「伷理郡亀田領飯田村」とあり、また文化3年(1806年)再建棟札には「碇田村」、「飯穫田村」等と書かれている。
【萱ケ沢(かやがさわ)】
開拓前、萱の繁茂したことから萱沢と称したもので地名的に大きな意味がない。
日吉山長円寺は延歴年代、鷲泉寺は康応年代の創建、最上分限帳に「萱沢」とあり一般も萱沢と通称しており、明治初年萱ケ沢としたもの。
中ノ沢は天正年代の開拓、元和9年の記録に中ノ沢の地名がある。
出典:雄和町発行「雄和町史」(昭和51年6月発行)
鎮守の元郷社新波神社は住古荒波明神(または地主明神)といった。
仏教興隆時に大聖不動明王を合祀大正寺と改号、当地方の鎮守とし、教育及び宗教の中心とされ以来大正寺は当地方の象徴となり自然に地方的名称となった。
文治2年 陣代安東氏は大正寺太郎と、応仁年代新田氏は大正寺兵衛尉と名乗り、慶長年以降藩政時には大正寺郷(大正寺6ゕ村、下川大内1カ村、亀田6ゕ村、大沢郷3ゕ村、強首村1ゕ村、計17ゕ村)と呼称し(現在でも近郷近在では新波神社を大正寺の不動様と称している。)町村制実施によって、新波、向野、繋、神ヶ村、碇田、萱ケ沢の6ゕ村を合併して古代からの総称地名をとり大正寺村となったものである。
【新波(あらわ)】
新波、荒和、新和村と旧記にあるが、明治初年新波村となった。
鎮守を新波明神と称し、延暦の頃新波の玉岐という士族がおり、広徳年由利の八陣代に新波小太郎の名がある。
アイヌ語でアラパとは水によってものを運搬することから出た地名、新波神社を現地に遷宮するとき一天俄かにかきくもり大雨沛然、山川草木鳴動して新波磯に打ちくだくかごとくとも伝え、慶長の最上義光分限帳に大正寺郷新波村とある。
【向野(むかえの)】
川向の平野地帯の意からの地名で、延歴年代に開拓されたが度重なる雄物川の氾濫により荒撫地化したものを寛文初年に再び開拓したものである。
当時は新和新田と称したが享保16年向野村として独立したものである。
源藤太郎(げんどうたろう)…雄物川河岸の下流地域、藩政時代雄物川を大正寺川といい、関東の利根川の坂東太郎の異名になぞらえて地名としたもの。
【繋(つなぎ)】
秋田の古代駅路(由理の柵と秋田間)の白谷駅(繋字西の沢槽館)は奈良時代の天平宝字年代に水駅として交通の要所で水陸を結ぶ地点からの地名、稲城郷のなまり、神社縁記の通波(つなみ)の転訛等考えられる。
慶長の最上分限帳には大正寺郷繋村とある。
【神ケ村(じんがむら)】
神社縁記には、社前の川上の意から神上村とある。
地域に産土神と氏神が22社も奉祀され神ヶ村の名に応わしく、西方の高峯「神岳森」は住古山岳高山信仰時代に崇拝したと伝えその麓の里から地名となったものと推料され最上分限帳に大正寺郷神ヶ村とある。
【碇田(いかりだ)】
地域の中央部を迂曲する河川を堰堤でせき止め、灌漑水としている。
淀み水、碇り水によって耕作する田に由来するか、最上分限帳に大正寺郷猪狩田とあり、猪の狩場を連想するが稲刈田の当て字で、また碇田村とも書いているが後代碇田村と改めたものという。
明治9年 大台地区を萱ケ沢に分離編入した。
なお、クネソエに鎮座の釜大神社の正徳5年(1715年)の奉造棟札に「伷理郡亀田領飯田村」とあり、また文化3年(1806年)再建棟札には「碇田村」、「飯穫田村」等と書かれている。
【萱ケ沢(かやがさわ)】
開拓前、萱の繁茂したことから萱沢と称したもので地名的に大きな意味がない。
日吉山長円寺は延歴年代、鷲泉寺は康応年代の創建、最上分限帳に「萱沢」とあり一般も萱沢と通称しており、明治初年萱ケ沢としたもの。
中ノ沢は天正年代の開拓、元和9年の記録に中ノ沢の地名がある。
出典:雄和町発行「雄和町史」(昭和51年6月発行)