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おらほの街河辺雄和のいいとこ発見 ~「雄和の産業(林業)」の歴史~

2020-06-09 22:11:08 | 日記
本町の一万余町歩におよぶ林野のうち、九千丁歩の山林は、藩政時代所謂翠蓋天を蔽い緑影池に滴たらんとする状態だったのが、戊辰の役で民家が兵火の災いを蒙ったので五百余の建物の再建材料として、伐採された樹木は夥しかったのである。
また、土地の私有化が認められ、次いで雄物川の舟揖の便が開かれるに至り、木材、薪炭材が年々多量に伐採され秋田市に供給されるようになった。
更に戦時中は造船用材として杉の大樹が次々と伐採され、また代用燃料としての松根油採取のため松木が倒され、自動車燃料用としての製炭材が濫伐された結果、到るところ山容が坊主山になり、自村にあってさえ薪炭材の需給に困るような状況を呈したのである。

従前各地区では、県模範林、官行造林、村行造林を実施し、また有財産を統一し施業計画のもとに造林を行い、他方個人の植林をも奨励し、苗圃を設置する等、山村としての森林資源の維持に鋭意努力されたところである。

本町の森林面積は9138町歩で、総面積の64%を占めており、林業は農業につぐ主産業となっている。
森林の所有区分は国有4.4%、公有7.3%、私有が88.3%となっている。
生産額は過伐による資源不足で、年々減少しており、ことに薪炭の減産が目立っているのは資材の減少ばかりでなく電気、ガス、灯油の普及のためその需要が少なくなったためである。
然し他面公私有林とも伐採跡地の植林や、幼齢樹林の育成のため町では関係団体とはかって造林を強力に推進しているところである。
林産物の搬出に必要な林道開設も順調に進み奥地までトラックによる搬出が可能となっている。

森林組合は昭和34年3月戸米川、種平、川添が合併雄和森林組合として発足、直営苗圃を経営し飛躍的な杉苗の増産を行っているが、昭和49年、大正寺森林組合、河辺町森林組合と雄和町森林組合が広域合併を実施、郡一円を区域とした河辺森林組合として改組された。

出典:雄和町発行「雄和町史」(昭和51年6月発行)



おらほの街河辺雄和のいいとこ発見 ~「雄和の産業(農業)」の歴史~

2020-06-09 11:39:53 | 日記
本町の主要産業は、農業で人口の約80%を占めている。
この地方は農耕によって開発され、生業を農業に求めてきた。
従って南部地方の郷名の稲城もこの稲作生業に因むものであろう。
土壌は概ね埴土、埴壌土で、肥沃である。
気候は農業に適している。
明治時代は耕作方法等に何等の改良もなく、藩政時の旧習を墨守し、遅々として進歩が見られなかった。
そればかりでなく農耕をいやしむ底流さえあった。
明治の中頃から農事を中心に産業の奨励指導機関として郡、町村農会が設けられ、県、郡の行政と相まって、徐々に農事改良に関心がもたれるようになった。
爾後時勢の推移に伴って農業が発達し、今日においては米作においてその収量、品質ともに他に比して優れるとも劣らない成績を示している。

本郡は由来農業を主業とするものが多く、その豊凶は郡の経済の消長に影響することが頗る大きいので、郡としては品質の改良、生産技術の指導等耕種の改善に努力されたのである。
因襲が固くせっかくの指導にかかわらず耳を傾けるものが尠なかった。
明治38年 県令で稲架乾燥、乾田実施、堆肥舎管理規則を公布して斯業の改善につとめることになったので、郡では農家の自覚を喚起する捷径として各村から適任者を選び先進地の酒田、庄内地方を視察させ、更に40年には郡内に3名の指導者を置いて実地指導にあたらせたのである。
また本県農業界の先覚者齋藤宇一郎(現仁賀保町平沢)を招いて川添、仁井田等各村で、乾田実施、稲架乾燥等の効果についての講説を行った結果、覚醒の機運が漸くおこり、改良農事に耳を傾けるものが次第に増加を見るようになった。
明治45年 県は乾田の必行を期して、本県老農で当時生産等検査部長石川理紀之助ほかを町村に派遣して農業水利の基本調査を遂げて、乾田の可否、猶予地区を定めたものである。
大正2年以降 県は農事必行事項として、稲種子の塩水選、乾田実行、稲架乾燥実行、馬耕実施、稲の正条植、牛馬の増殖、堆肥舎建設、苗代跡地利用、除草機利用、苗代乾田の十項を指定、各項の指導奨励にあたった。
由利郡は先達的立場から徹底した指導強化もあって、大正寺地区の実施率は戸米川、種平、川添の3地区に比して稍々進捗していた。

昭和33年 町村合併に伴い新村建設計画を策定、10カ年の実施計画が定められた。
この計画は主産業である産業計画を重点に交通、教育、更生、行政機構整備等となっているが、農業経営の多角化、農業基盤の整備改良等を産業振興計画の内容としており、農業経営の合理化と農業生産力の増強のため、昭和39年11月、農村問題の権威者、東京農業大学教授我妻東策農学博士の臨場を得て、農業経営診断を行い、今後の指標としたものである。

本町は農業が主産業で、農家戸数は82%を占め、その生産額は、総生産額の90%に達している。
一戸当りの平均経営面積は1丁4反歩で、県平均を若干下回っているが、しかし稲の単作経営で零細農家の増加が目立っており自立農家が尠ない。
したがって農業外収入にたよる兼業農家の数が年々増え続けており、農閑期の通勤兼業と県外出稼ぎ者が多くなっている現状である。
町では経営規模の拡大と多角化に重点を置いて、経営規模の革新を図るため、農業振興計画と畜産振興計画を立てて、農業の基盤である土地条件の整備と畜産の奨励を企図したのである。
更に農業の生産性を高め、農業所得の増大に期すため、37年度に農業構造改善事業の実施指定を受け、「米プラス畜産」の営農指導を積極的に行い、3カ年に、これに必要な土地基盤整備、稲作の省力栽培、肥育牛の共同施設の整備、家畜の導入を強力に進めた。
この結果として農業機械の大型化が急速に進みトラクターによる耕起、ヘリコプターによる病害虫防除まで行われるようになり、家畜の飼育頭数が増え畜産収入が増大し、またこれに即応した耕地整理や草地造成も行われたのである。
しかし、農業と他産業の所得格差は大きく、農家の零細化や出稼ぎなどによる兼業農家が増え、自立農家の創設は容易ではない現状である。

現在本町の水田面積の74.3%は、既に耕地整理および土地改良事業によって整理改良されているが、このうち能動の拡幅、区画の拡張、水利上の幹支線用排水路の改良等要再整理面積は約62%となっている。未整理面積25.7%は、山間部にあって積雪期間が長く寒冷地帯で土地改良事業が遅れているが、このうち47%は整理が可能と見込まれている。
稲作の安定増収や農業機械化による作業能率を高めるためには、その基盤である土地条件の整備改良が大切である。
町としては、老朽溜池の補強や頭首工、機会揚水、用排水路の整備、暗梁排水、客土、区画整理、農道改良など耕地の整備に努めている。
農業構造改善事業では平尾鳥、椿川、下黒瀬、向野、繋等、また団地圃場整備事業によって金ケ崎(種沢)、神ヶ村、県単独圃場整備事業として中ノ沢、碇田更に空港関係によるものなど年々区画整理が行われている。
また客土、機会揚水、溜池、農道、用水路等の事業実施によって農業生産力の増強に寄与している。
更に新波、女米木地区、向野、相川開拓地内に開田がなされ、客土や小規模な田区改良は各所で行っている。


出典:雄和町発行「雄和町史」(昭和51年6月発行)


おらほの街河辺雄和のいいとこ発見 ~雄和町の沿革~

2020-06-08 18:21:30 | 日記
【平安時代】
平安時代の初期、東征、従軍士等の土着によって開拓が進められた。
和名類抄による所属郡郷は、雄物川の東岸地区(種平、川添)は秋田郡成相郷に、西岸地区(大正寺、戸米川、川添の下黒瀬)は河辺郡稲城郷及び余部郷にあたっており、その後(平安の末期)河辺の郡名は停廃され、由利郡となった。

【鎌倉時代】
鎌倉時代となって、東岸の秋田地方には橘氏が、西岸の由利地方には由利氏鳥海氏が地頭に命じられた。

【南北朝時代】
南北朝時代から室町時代に、秋田郡地方は安東氏の所領となったが、由利地方はこれを滅ぼした家臣の滅亡後無郡司時代となった。

【戦国時代】
戦国時代に至って安東氏の配下豊島氏がこの地方を領して、領域を秋田郡から分けて豊島郡とした。
この頃由利地方は、所謂由利十二頭と称される小頭が各地域に割拠していた。

【江戸時代】
江戸時代となって、安東氏は常陸国に、常陸国水戸の佐竹氏が秋田に転封となり、由利地方は山形の最上氏の所領となったが元和年代に最上氏が改易され、宇都宮の本多氏にが移封されたものの、これを辞し由利郡は分領され、亀田に岩城氏が信州から移封された。
この時点で秋田と亀田両藩の領地交換(「新屋地方」を秋田領とし「黒瀬および仙北郡円行寺等」を亀田領に)が行われ、寛文年代に豊島郡は河辺郡と改められたのである。
明治初年の廃藩置県にいたる270年間、戸米川、種平、川添地区は秋田藩佐竹氏の、大正寺および下黒瀬(亀田藩に編入後「下」を冠した)は亀田藩岩城氏と、二つの藩政下にあった。

【近世代】
明治4年 廃藩置県によって、秋田県と亀田県となったが、同年末県の統廃合によって亀田県は秋田県に吸収合併された。(下黒瀬はこのとき、現川添地区に復したのである。)
明治11年 郡区町村編成にあたって、従前のように相川村ほか2ゕ村(現戸米川地区)、種沢村外2ゕ村(現種平地区)、椿川村外6ゕ村(現添川地区)は、河辺郡に、新波村外5ゕ村(現大正寺地区)は、由利郡に所属した。
明治22年 町村制実施時には、前記の相川村外2ゕ村と種沢村2ゕ村を合わせ6ゕ村をもって中川村とし、椿川村外6ゕ村で川添村に、新波村外5ゕ村で大正寺村としてそれぞれ誕生した。
明治28年 中川村は旧相川村外2ゕ村をもって戸米川村に、旧種沢村外2ゕ村をもって種平村に分離した。
昭和23年 由利郡所属の大正寺村は郡区域を変更して河辺郡に編入となった。
昭和31年 大正寺、戸米川、種平村を合併し雄和村とし、翌32年川添村を合併した。
昭和47年 町制施行、雄和町となった。


出典:雄和町発行「雄和町史」



おらほの街河辺雄和のいいとこ発見 ~「河辺の林業」の歴史~

2020-06-07 15:28:19 | 日記
佐竹義宣は、慶長7年(1602)に常陸54万石からその半ばにも満たない20万石余の秋田に遷封されたが、積雪寒冷の東北は米の単作地という悪い条件の下に領内支配の体制をつくらなければならなかった。
早速領内の検地を実施し、収入を調査し年貢徴収の実態を把握することにつとめた。
このようにして新しい領内の収入を調査してやがて給人等の知行対策として新田の開発、鉱山や山林資源の開発して小藩なりに幾分でも収入を増加させるべく財政施策を進めていった。
佐竹義宣が、秋田に移封された頃は、秋田にも至るところに杉の美林が豊富であったといわれる。
当時の美林は、米代川流域に多かったが、雄物川の流域は必ずしも美林が多かったとばかりは言えないのではなかったろうか。
当時の佐竹の家老澁江政光は、その遺言の条項の中で、「国の宝は山なり、然れども伐り尽くすときは用に立たず、尽きざる以前に備を立つべし。山の衰は即ち国の衰なり。」という言葉を残している。
藩政以前秋田氏(安東氏)の時代から、すでに秋田の杉は遠く関西方面へ舟積されていたといわれるが、これらの杉は岩見川の流域からも伐り出されて湊(土崎)あたりから海路輸送されたことであろう。
文化、文政の頃になって、藩の木山方吟味役として林政に携わった加藤景林の「山林盛衰考」には、伐採量が多くなりながらも植付、撫育などが行き届かないために木の大きいところは大方伐りつくし、このままでは将来が心配であるということを強調している。藩においても山林の保護育成に関して、再三にわたり仰せ渡しなどを出したほか地焼などについても相当厳しく取り締まっていた。

義宣が秋田へ移封された当時は、うっそうとたる森林もこのようにして膨大な目次需要を満たすために伐採されたために、二代義隆の時代になってからは、ところどころの山に衰えが見え始めてきたりしたので、いきおい伐採制限に必要に迫られるようになってきた。
この頃から藩としても無尽蔵ではない森林の保護育成を考え、一定区域を定めての御留山、御礼山などを定めて住民の自由に入山することを禁止せざるを得なくなった。半面このような早期の積極的な山林の保護政策、植林の奨励などが後世における秋田の美林の実現につながったことにもなったといえよう。
河辺では、岩見三内地区の岩見山、財の神即ち現在の国有林が御直林(藩の直轄林)であった。
御直林の伐採は「直杣」という藩行斫伐で行われるのが原則で、その方法は山林を伐採する場所から予定出材量、予定伐採経費を定めておき入札によって請負者を定め事業を行うものである。

新田開発を推し進めさらに農業生産を高めていく為には、水源涵養林や水害防止のための川除柳林などの育成にも努める必要があった。
このような事態に即して藩が本格的に取組んでいったのが、留山と札山の制であったといえよう。
留山というのは杉を中心に有用樹種を藩が独占して利用するために、特定の山林を指定して伐採を禁止する山のことであった。
札山は山林の保護育成のために、伐採や入山を禁止する制札を藩が交付しその制札を掲げた山林をいう。札山は、留山とやや趣を異にし山林全体の保護という目的が強く、その制札も保護の目的により内容を異にする。

山守には、木山方という役所から即ち藩から命令された御山守と、村落で雇い入れた山守との二種類があった。どちらも身分は公の役人に準ずる者であったが、木山方から命じられた御山守の方は上位であった。
山守の職務は、随時山を回り山林の風水害、地焼(野火など)の立ち会い、徒伐などの取締りなどで50本以上の伐木の立会い、それに杉の種を蒔いたり植林などの指導、林役人が廻山したりするときの山案内などであった。

現在の岩見山、財の神両国有林のいわゆる御直山(おじき山)で、一般には杉や桧などは伐採することは禁止されていた。しかし薪を伐ったり、草や萱など刈ったりすることは許されていた。その代わり麓村としてふだん村人は山火事の予防や徒伐の防止などには村の責任をもって常に失態のないように注意することが義務付けられていた。
御直山を中心とした藩直轄の山々が国有林として新しい経営に切替えられたのは、明治19年6月に大林区署が設けられてからのようである。
秋田でも藩直轄の山が林制の改革によってその大部分が国有林に編入されたものの、そこには多くの問題が残されていて、関係住民の抵抗などもいろいろなところで表われ、国有林解放運動などもその一環であろう。
明治年代における国有林の経営は、国家権力を背景として民間に圧力を加えて服従させようとする傾向が強かった。
明治26年7月29日、当時の岩見三内村会において国有林の編入の解除、あるいは払い下げについてつぎのような請願が為されている。
岩見三内村岩見字の岩見山国有林、同じく三内字財の神国有林の二つの山を、佐竹藩時代のように村でも自由に木を伐ったり、それを売ったりして村民の生活のためにできる山に戻してもらうよう請願する。但しこの願いをかなえることができないならば山を払い下げて貰いたい。
明治32年に不要存置林の処分が開始され、以来秋田大林区署は、県内の小面積でしかも点在している経済価値の少ない箇所や、農耕適地を払い下げた。
旧岩見三内村で明治40年に三内字内沢の国有林157町歩が16000円で払い下げられた。

大正9年10月、官行造林法が実施されることになり、この実行は秋田大林区署(営林局)が管轄することとなり、その施行役所として署内に秋田県公林野官行造林書が置かれた。
大正13年、営林署官制によって官行造林署は廃され、官行造林事業は営林署に引継がれ、国有林野事業として推し進められた。
官行造林事業が、県の公有林野の開発に注いだ実績は誠に大きかったといえよう。
河辺地区では旧豊島村における北野田高屋有官行造林192町歩などはその好例というべきであろう。昭和30年の町村合併にも財産区として引継がれ、有権地域の人びとはもとより、町としても直接間接を問わず財政的な恩恵を享受してきてるのである。


出典:河辺町発行「河辺町史」(昭和60年10月発行)


おらほの街河辺雄和のいいとこ発見 ~「河辺の畜産と漁業」のむかし~

2020-06-07 11:42:29 | 日記
~畜産編~
東北地方は平安時代の遠い昔から良馬の産地として名高く、京都の方からも買い付けに来たという記録がある。
明治41年、河辺群で豊島村に種付所をつくった。
この事業は種牡牛馬の貸与、牛馬品評会、競馬会、採草地品評会等であった。
このように郡をあげての努力によって、大正9年8月、川添地区の椿台に、豊島村上野台にまたがるところに、「秋田県種畜場」が設けられることになった。
種畜場は昭和6年頃から牛馬だけでなく、緬羊、豚、兎の蕃殖育成なども、広く行われた。
この大規模な種畜場も戦後はまったく姿を変え、県の原種農場となり、さらに林業センターへと姿を変えていったのである。

~漁業編~
岩見川は往時、水量も豊富で流れも清冽であり、上流の渓流には岩魚(いわな)、山女(やまめ)が住み、季節になると鮎、鱒、鮭ものぼってきたし、うぐい(くきざっこ)なども多く、春の産卵期には特に味もよく、人工的に浅瀬をつくって集め、投網を打って大量にとることができた。鰍(かじか)もたやすく獲ることができ、人々の食膳を賑わしてくれた。
9代目の佐竹藩主義和(よしまさ)公の日記の中に「すなどりの記 古文書に見られる藩政時代の文芸」に次のような一説がある。
「文化のとし水無月(6月)はじめ4日、河辺郡岩見裏むらとなんいへる所に出たつ、このわたりの名だたる渕のみづいときよらかなりければ、この渕に鱒、やまめてふ魚のあまたありて、ところにすみされたるものは幼き頃よりかの渕に水くぐるわざになれて、まかぎなどをもて引かけつつうきあがりぬるも、いと興あり」(原文)
つまり、水くぐりをしてかぎで魚をひっかけてくる様子を、殿様の御覧に入れたのである。
岩見川の鮎は昔から有名で、菅江真澄の「月のいでわ路」に、岩見川の鮎という題で次のように記されている。
「岩見川の鮎はことによく、にもせり(匂い)もなむ人の云う。此河のあゆは黄金色なりといへり・・・」とある。
鮎の漁獲方法には、「火ぶり」という火で鮎を追う方法や、鵜飼いによる方法、鵜縄など変わったものも多く、年々進歩し、漁獲者の数も多くなるに随い、反対に魚類の繁殖が減ってきている。
大正11年、県が本田(雄和町)に、岩見川孵化場を設置され、親鮭、親鱒を捕獲して、毎年50万尾を孵化して県内主要河川に稚魚の放流を行ったが、岩見川の改修などが原因して、昭和8年には親魚が不漁となり、漁業不振のため閉鎖してしまった。
さらに、大正12年戸島の堰堤がコンクリートで大改築されてからは魚類が上流に登れなくなり、鮎は勿論、鮭も鱒も不足になったので、上流の人々はここに魚道を造るよう県に陳情を続け、ようやく魚道ができたのである。
岩見川の鮎漁も秋田市をはじめ、県内各地の釣愛好者達で解禁の時は賑わったが、度重なる河川改修、コンクリートの頭首工を設置するなどのため、魚族の減少が著しく、往年の漁獲量は夢物語となってしまった。
最近は観光地としてもレジャーの面からも重要視されているので、岩見川の魚族を保護し、乱獲を防ぐとともに、汚染から川を守り魚類の繁殖を図る目的のもと昭和24年10月14日岩見川漁業協同組合が設立され、鮎、鱒などの増殖を目的として稚魚の放流、捕獲魚種による漁期や魚体に制限を設けるなど、併せて河川の環境整備などに力を注いできているきて。

 
出典:河辺町発行「河辺町史」(昭和60年10月発行)