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沖縄復帰50周年

2022年05月16日 | 旅 行事

昨日2022.5.15は、沖縄復帰50周年記念式典が天皇陛下のオンライン参加の下で行われた。

岸田首相は「1972年の沖縄復帰が外交交渉で可能になったことは史上稀なこと」とメッセージで成果を強調するが、国連による信託統治を避けて当時ベトナム戦争を続けていた米軍の軍事植民地化を固定した一面がある。当時の佐藤首相による返還合意では「核抜き・本土並み」とされたが、その裏で「有事の核再持込みほかの密約」も明らかになっている。
1952年講和条約、1972年返還協定、最近では辺野古新基地建設、すべてが沖縄抜きで政府の高圧的な決定で進められてきた。
今回も、政府は日米地位協定の改定についてははっきりと否定している。特に、墜落事故、米軍犯罪容疑者、火災-環境汚染事故に対する調査権は、国防には関係なく独立国として当然だが、歴代政権はなぜかおよび腰のままである。
これらは沖縄だけでなく、厚木基地や横田基地周辺でも訴訟問題になっているが泣き寝入り状態のようで腹立たしい!
沖縄デニー知事は「復帰時に政府との約束「沖縄を平和の島にする」が達成されていない、と県民の意志を訴えている。琉球新報が「対米従属的な日米関係の矛盾を構造的差別とし、日本国民の大多数が見て見ぬふりを決め込んでいることに不満」とまで言い切っていることに同感せざるを得ない。



※ 以下は2015.7.15「偏見琉球おきなわ」として投稿 ※


先週の国会は、作家 百田尚樹氏の「沖縄の2紙はつぶさないといけない」「米軍基地の周りに、住み着いた人たち・・」が問題になっている。
しかも、自民党の若手の勉強会の講演でも、「経団連に働きかけて、広告料を絶つくらいのことも・・」と言論の自由を踏みにじる意味の発言。安倍首相の応援団ともいえるグループらしい。
沖縄の歴史と現状に対する無知と偏見からでた言葉だろう。
こういう考え方の人たちは意外に多いような気がする。

先月、アメリカに帰国した牧師も、テニスの雑談で「沖縄のデモのバックには、中国がいます」「沖縄の基地は中国にとってジャマなのです」と言い切る。
アメリカの宣教は、国家と一体、とくに原理主義系の宗派は共和党の延長線といった感じだ。
同世代の知人にも、「沖縄は基地で持っている。地主の中には、六本木ヒルズに住んでいる人もいる」とか、アレコレ否定的なことを言う人がいる。
それにしても、安倍首相の”お友達”は、次々と問題を起こしてくれる。
結婚相手は番狂わせ・ミスマッチが多いが、同性の”お友達にはそれはないとか。類は友を呼ぶ!(たまたま、NHK文化講演会で、姜尚中さんが漱石の「心」をそう解説していた)
沖縄の実態はどうか?
Netや週刊誌の広告では色んな記事が飛び交っているが、、新聞や国会中継の話からも、次のようなことが大体間違いのないセンだと思う。
終戦の年、S20/4月米軍上陸とともに、「銃剣とブルドーザ」で普天間・嘉手納の軍用地として強制接収、公共施設と数か所の部落を追いやった。
72年の本土復帰で、軍用地料として6倍に跳ね上がり、以後毎年のように上げられ、2013年時点で800-900億円、地主合計約38,000人
(一人平均200万円超)、一番は嘉手納弾薬庫の地主18.5億円/年という。
2009年リーマンショック後は、県外から投機買いが増え、県外地主が40%以上にも。
六本木ヒルズに住む人とは、この人たちだろうという。
たしかに基地で潤っている人がいるのは事実らしいが、沖縄全体の民意は、それとは別のはず。県の発表では、基地への経済依存度は6%程度だとのこと。

自分で調べようとせず、都合のよい結論に飛びつくのが一番問題だ。
愛の反対は、まさに無関心・・・。沖縄の人々の"心に寄り添って"考えることがなぜできないのか?
高度成長で育った我々世代には、どうしてもその習慣が抜けきれないようで、実に残念!
新聞によると、アメリカの地方議会でも、「民意に反した移設反対」の議決をしているという。さすが民主主義の国!!

*以下は、2015.5.19那覇出張での記録

大阪都 住民投票 小差で敗戦
変化が起こらず残念!
昨日 沖縄 那覇に来て 5年ぶりに首里城公園を散策、丘の上にあり、結構歩き甲斐がある。 家から17000歩にも!
  
ホテルは うるま市 普天間
昼の暑さは同じでも 夜が蒸し暑く 朝 3ヶ所も蚊に刺された
ゲート通りという商店街は 寂れ 4月にイオンショッピングモールがオープン 空港にもポスターがドコソコに。
TATTOOの店が多いが 米兵用かも?
琉球新報は デモの記事でうめつくされ 目標3万が3.5万と超過
外国人 本土の参加者がこれまでになく多かったという
鳥越さんや 佐藤優さん それに例の 鳩山元首相のコメント
「沖縄のみなさんに迷惑をかけたから ぜひ支援させて! 」と可愛いことを、、、

政権への不満が 爆発して本気度100%ですが、
街は 何となく
前回より 活気がないように感じた次第です


*以下は、2010.10.29の沖縄本島旅行記

今週、海兵隊基地で話題の沖縄に仕事で行き、4日間で沖縄本島を往復してきた。
前回は那覇市内を中心だったが、今回は北部やんばる(山原)での仕事。
日曜に那覇空港に着くと30℃、むっと来る暑さで、東京の朝の肌寒さがうそのよう。
名護まで西海岸経由の路線バスで3Hr、普天間、嘉手納など米軍の基地のフェンスが延々と続く。


市街地にある海兵隊の普天間基地には、フェンスと境界の木々の合間に飛行機も見える。
北へ少し行くと、嘉手納飛行場、ここは空軍の施設だ。このあたりが読谷(ヨミタン)、北谷(チャタン)で、S20/4月、米軍が上陸した海岸がある。この後4ケ月余り、梅雨の悪条件の中での沖縄決戦が続いた。
戦後、米軍はそのまま基地を作り、代わりに周辺に沖縄県民を住まわせた。
本島の20%が米軍基地、その用地は県民の所有で地代は日本政府が肩代わりしている。(今でも、反戦地主の抵抗は続いている)
いわゆる金丸副首相が仕組んだ”思いやり予算”だ。今日の新聞でも、閣議決定として防衛大臣は従来通りの負担を明言している。
2Hrほどで、日が沈みかけたころ、万座ビーチなどいくつもの有名なビーチが続く。
夕焼けに染まる海岸線とリゾートホテル群の明りが、観光気分を盛り上げる。

今回は、琉球処分、尖閣島の問題もあり、事前に2,3冊の本で知識を仕込んで、おさらいの旅と言ったところ。
マスコミで目にする割に、実に知らないことが多く、恥ずかしいくらい。
高校生の修学旅行が目についたが、若いうちに戦争と戦後の歴史に触れる機会として、沖縄は最適だと思う。

日曜とあって、遊び帰りの小学生が男女仲良く、三々五々と、バスに乗り下りする。子供らしい素朴な様子に、心が和む。
それと、日曜・祝日は、中学以上の1人に小学生3人まで無料とか。子供を社会で育てる気持が感じられる。

翌日、名護から北端の辺土岬への海岸は、碧々として実にきれいだ。この辺もサンゴ礁の海かも。
残念ながら崖が迫ってほとんど平地が無い。”やんばる”といって亜熱帯の森に天然記念物のゲラ、ヤマガメなどが生息する。
土地の人の話では、最近は轢かれたハブを見ない、という。
北部の3つの村に、プロゴルファーの宮里藍ちゃん一家が住む東村がある。
こういう貧しい辺鄙なところで生まれ、戦争の悲惨さに囲まれて育ったから、精神的にもたくましくなるのだろう。
名護市から30km北に、オクマビーチという米軍の保養地がある。
身分証明書で中に入り、遊戯場やバンガロー、海水浴場など家族休暇の施設を観て回る。
ちょっとしたお店があり、お釣りはドルだ。
一部は日本に返還され、JAL関連の経営になっているが、残りは代替地が決まらずそのまま米軍が使用中。
普天間基地(海兵隊)と同じ。

琉球国とは、どういう経過を経て出来たのだろうか。
13Cから中部・南部の支配者が城塞型グスクを築き、勢力争いを続け、3つの小王国が生まれた。(三山時代)
すでにこの時代、中国皇帝と”冊封”関係があった。(貢物を贈り、中国皇帝から地位を保障してもらうこと)
この中から、1420年最初の統一王朝が生まれた。
その後、第一尚氏、第二尚氏王朝へと続き、明治政府による1879年琉球処分まで、450年以上に亘り独立国として繁栄した。
鎖国の日本をはじめ、対明貿易、東南アジアとの南蛮貿易、朝鮮半島など交易の拠点となる海洋王国であった。
しかし、大航海時代のポルトガルの進出、中国密貿易により貿易ルートが閉ざされ、ついに1609年、薩摩の支配下に入り、幕藩体制に組み込まれる。
明治維新(1868)、廃藩置県(1871)のあとで、1872年わざわざ明治政府は琉球藩を作った。
第二尚氏は、大名家と同様、華族(侯爵)として厚遇された。
一足飛びに沖縄県とするには、首里の支配層にはショックが大き過ぎること、中国との外交関係を配慮したものという。
その後も、琉球側の抵抗は強く、1879年処分官による沖縄県が誕生、これを「琉球処分」という。
一方で、中国国内での欧米列強並みの通商権を得るために、先島(宮古・八重山諸島の総称)を売り渡そうと合意にこぎつけ、中国との調印を残すのみとなっていたことが判明。これは中国側の都合で延び延びとなり、ついに廃案となった。
「琉球は日本固有の領土、琉球人は日本人」という国家統一の論理の正体が垣間見える事件と言われる。
問題の尖閣諸島も、この先島に含まれていたのだろうか?疑わしい。
その後も、明治政府は、従来の支配層の懐柔のため、本土と異なる政策をとる。
「旧慣温存」:薩摩支配の土地・租税・地方行政制度を温存し、農民など一般県民の窮乏生活は30年以上続き、ほどなく第2次大戦を迎えることになる。”本土並み”の悲願は夢に終わったまま・・・
大戦では、最後の戦場として、本土決戦の衝立となる悲惨な戦いの犠牲を強いられた。
女子師範・第1高女たちの「ひめゆり学徒隊」の悲しい出来事はいつまでも心に残る。
1日でも長く戦え!とばかり、何十もの壕(ガマ)が作られ、そこで集団自決が行われた。
幼児を含む一般人の自決については、軍の命令があったか否かの裁判は今も続いている。
先週も、2歳くらいの幼児までが軍属(英霊)として、靖国神社に合祀されていることへの抗議に対する判決が出されている。
たしか、靖国神社側の判断に委ねる内容だった。

帰りの日、太田少将らの自決の場となった旧海軍司令部壕を見る。
つるはしとスコップだけで、450mもの壕を作り、持久戦を戦った。
発電機、配線の跡やデコボコした坑道、自決の際の手りゅう弾の跡が生々しく残されている。
太田少将は、沖縄県民の奮闘と惨状を切々と綴った電報を残した。
最後に言う「一本一草焦土と化し、糧食六月一杯を支えるのみなりと言う 沖縄県民斯く戦えり
  県民に対し 後世特別の高配を賜らんことを」
沖縄守備軍の最後は、摩文仁の丘の洞窟、司令官が自決しても、生きている限り最後まで戦えと命じた。
このため、沖縄の降伏調印は、日本降伏の8月15日から23日後の9月7日となった。
摩文仁の丘には、全都道府県の慰霊碑が並び、全国からの訪問が絶えないという。
しかし、相も変わらず「勇敢」「大義」など美辞麗句に溢れているとのこと。(少し残念だが)


1972年、念願の本土復帰、沖縄本島と先島(尖閣諸島も含む)がアメリカ占領から日本に返還された。

こうやって、琉球(この呼び方は中国式で、日本式が沖縄とのこと)の基地と領土問題について、少しかじってみると、普天間も尖閣諸島も、実に難しい外交を迫られていると思う。























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沖縄復帰50周年 (ヒキノ)
2022-05-16 14:33:34
拝読させていただきました。正論です。
これからも続けてください。

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