気の広場

気の世界あれこれ・・・
  日常雑感あれこれ・・・

願いと裏腹に ・・・ 執着(とらわれ)

2010-07-12 06:47:40 | Weblog
2010/05/26 撮影



私は 自己を省みて

無常なら無常に身を打ち任せて

その無常を支えている永遠なるものに

  より頼んで生きたいのですが ・・・

今までの行程は

  願いと裏腹に遠いものだった ・・・ と感じています。


どうも人一倍 執着(とらわれ)の強い人間のようでして

執着が受肉して人となったのが 私なのだ

                ・・・ とさえ思えます。

肉をまとった人間の宿命なのかもしれません。


日がな一日

「 私は私の、私に私を私が 」 と言って

     ・・・ 私の命から離れることができません。


あの人を変えたい

よくしてあげたい ・・・ と よきことに捉われやすくなります。

    ・・・ 大いに自戒すべきところです。



「 淀みに浮かび
    かつ消え
      かつ結びて
        とどまることなきうたかた 」 ・・・ ですね。





未熟児の親がふえてきた

2010-07-12 05:12:56 | Weblog
幼児の行動を観察していると

悲しみや喜びを

  実に素直に発現するのに驚きます。

「素直」を名づけて ・・・ 「仏」と呼びたいほどです。


ところが この頃

むずかって泣く赤ちゃんの泣き声を

  自分に意地悪をしていると感ずる母親

            ・・・ が増えているそうです。

赤ちゃんが親に意地悪などするはずがないのですが

        ・・・ どうも そう思えるらしいのです。


物理的には親になっているのですが

心理的には母性が育っておらず

  未熟児のような母親が増えているわけです。


時々 街やマーケットの雑踏の中で

感情に任せて

  子を打ち叩いたり

  歩行も定まらぬ幼児を放置して

    サッサと先へ行ってしまう親をみかけたりします。


身を切るように泣く幼児の声を聞いていると ・・・

「いまに、この悲しみの仇を取ってやる」

      ・・・ と叫んでいるようにさえ聞こえます。











気づくまで ・・・ わが老師のお声

2010-07-12 04:10:41 | Weblog
自分が

  生かされて生きるいのちであること

  待たれて

  赦(ゆる)されて生きるいのちであること

そして すべての出来事が

  自分に与えられた学習であることに気づくなら

これ 人間の成長 悟り ・・・ と言い得るものでしょう。


気づくまで常に問われて生きる ・・・ のが

  「私」である ・・・ と思います。


事あるごとに

  ・・・ わが尊師のお声が聞こえてきます。


  「これでも感謝できるか」

  「これでも赦せるか」

  「これでも学べるか 如何じゃな ・・・」

                 ・・・ と。





おかあさん ・・・ 優しい手

2010-07-12 01:20:55 | Weblog
先ほど開いた 若いお母さんが書いたブログに ・・・


・・・・・ (略)

写真は
お気に入りのお人形を
おぶっています

まねっこ

今日は
床に4回おしっこ…と
湯飲みを1個、
私の真似しておぼんで運んでいるところを
落として割りました~


        ・・・ というのがありました。


その写真に映る一歳ほどの女の子の

まわした後ろ手が ・・・
 
  なんとも なんとも 可愛くて 優しいのです。

それは きっと

  その子のお母さんの優しさ ・・・ なのでしょうね。


・・・ なんとも 嬉しくなりました。



    おかあさん


  心の窓を 開けてごらん

  きっと そこには

  時という風が 吹いているから

  その風に 手をさし出してごらん

  きっと その手に

  何かが うつるから

  たぶん そこには

  おかあさんが うつるから