気の広場

気の世界あれこれ・・・
  日常雑感あれこれ・・・

さらさらと水のごとく

2010-07-19 23:26:18 | Weblog
苦から逃げるのも ことさらこれを求めるのも

  ・・・ ともに自然にそむいています。


与えられた難局に

逃げ腰になるのでなく また ことさら力むこともなく
 
淡々とこれにあたって処理していく

  ・・・ それが理想であるような気がします。


はなはだむずかしいことで

私など とても実行できていませんが

  ・・・ そうありうるように努力はしているつもりです。



  岩もあり木もありされどさらさらと

       たださらさらと水はながるる


私は この歌がとても好きです。

愛唱歌のひとつとして しばしば口のなかで言ってみます。

困難に出あうとこれを口ずさんで 心を無にしようとするのです。


自然物でもって すべてを語った象徴的な表現と

  淡々と流れるような調べがよい ・・・ と 思います。


明治以降の作らしいですが くわしいことはわかりません。


岩があっても木があっても 水は逃げず また力まず

  自然にさらさらと流れるだけで

    そして 岩をも木をもこえていきます。


その無心さ 自然さ ・・・ 

人もこういうように 岩木をこえてゆきたい ・・・ と 思います。



そう言えば かの『老子』も

      「人は水のようであれ」 ・・・ と 教えています。



 

インチキ坊主の金亡者 ・・・ 2.欲

2010-07-19 19:21:07 | Weblog
人間は いろいろな欲から離れえないものです。


そこにこそ人間味 人間らしさもあるのでしょうが

欲も度がすぎると

  生きることが苦しく むずかしくなるばかりです。



  思うこと一つかなえてまた一つ

     三つ四つ五つ六(む)つかしの世や



欲には限りがありません。

ひとつかなえると すぐに新しい もっと大きな欲が出てきます。

欲が肥えふくらむほどに 生きることがむずかしくなってきます。



  果てしなき欲の重荷をせおいつつ

      あえぎあえぎ世を渡るかな


  となると まことにもってイタマシイ話です。


自分の欲が自分を苦しめる十字架となります。



はては


  世のなかを渡り悩みて我とわが

     欲の淵瀬(ふちせ)に身を沈めけり


という人も出てきます。



欲によって自滅するわけですが ・・・

  こういう人 たしかに実在しますよネ。



 

インチキ坊主の金亡者 ・・・ 1.あとから拾う

2010-07-19 12:00:51 | Weblog
  世の人に欲を捨てよとすすめつつ

        あとより拾う寺の住職



なんともいえぬユーモラスな味があって 苦笑をさそわれます。


教訓調を表に出さず

  冷徹な社会風刺といった姿勢をとっていますが

間接に やわらかく 多くの人に

  反省を求めてくるようなところがありますね。


かなり現代的なセンスのようにきこえますが

二宮尊徳翁が弟子たちとの座談の席で

  「こういう古歌がある」といって紹介し

  「お坊さんなんてこんなもんだヨ」と笑った

という話が『二宮翁夜話』に書いてありますから

  かなり古い歌なのでしょうね。


そのころのお坊さんは

民衆に対する精神面の指導者として権威がありましたが

その坊さんが 民衆の納める「浄財」によって

  物質的にも肥えふとっていたわけです。


さて

このごろのお坊さんは

民衆に対する精神面の指導者としての権威は全くなく ・・・

その坊さんが 民衆の納める「浄財」によって

  物質的にだけ肥えふとっている としたら ・・・


「欲を捨てよ」というお説教は たしかに正しい。

ただ お説教した本人が「あとから拾う」ものだから

  人間がますますアサマシく 救いがたくなるわけですが ・・・


  さて ・・・・・・・ 。






 

職場転々 ・・・ みすぼらしき青春 

2010-07-19 10:58:47 | Weblog
職場を転々と変える若者がいます。


いろいろな経験をつみ ひろく社会を眺め

  自分を肥やしていくためにという

プラスの姿勢でなされるのなら

  それもけっこうなことかもしれません。


しかし

苦しいから つまらないから 飽きたから

  というような動機からなされるのであったら

それはまさに 野良犬のような放浪であって

  みすぼらしき青春 というほかはありません。


青年期は 生涯の土台となるべき時期ですから

  これでは先が思いやられる ・・・ というものです。



  重くともわが荷は人にゆずるまじ

       になうにつれて荷は軽くなる ・・・ です。





アラさがし ・・・ 自分はどうか?

2010-07-19 07:02:46 | Weblog
人間だれでもそうですが

  他人のアラは じつによく見えます。

  自分のアラは サッパリ見えません。


肉体とちがって精神面は 鏡に映すことができないからでしょうか?


これに加えて

自分の欠点は認めたくないという我がまた たいていの人にあります。

そこでどうしても

  他人に辛く 自分に甘いということになりますね。


人の世の人間関係がむずかしいことの一半の因は

多くの人が

  こういう自己中心の見かたに立つことにあるのではないでしょうか。


自分は欠点だらけのくせに

  神のような姿勢をとって 他人の非だけをみて裁きます。

人と人の仲がトゲトゲしくならなかったら むしろそのほうがフシギです。


人間同士はたがいに鏡のようなものです。

相手のなかに自分を見ています。


だから

ある人の欠点やマチガイを見て

それが 気になったり 苦になったり 咎めたくなる

  腹がたつ ケシカランと思う ・・・ というときには間違いなく
 
  ・・・ トンデモナイ! と言いたいでしょうが ・・・

それと同一の あるいは同質の非が 自分にある ・・・ ものです。


自分にそういう非がないときには

  ・・・ 他人の非が見えても それが気になりません。

そういう人のみが 他人の非に対して

  愛をもって 効ある忠告ができるのだ ・・・ と 思いますね。



  よしあしは向こうにあらで我にあり

       心直らば影は曲がらじ   ・・・ です。







 

争い(ケンカ)と勝負

2010-07-19 04:58:27 | Weblog
「争い」(ケンカ)と「勝負」とはちがう ・・・ と 私は思います。

次元がちがうのです。


女は知らず

男というものは 勝負こそすべきであれ

  ケンカ口論などに巻き込まれるべきではありません。


そして 男の一生において

真に勝負どころといえる機会は

  せいぜい数回あるぐらいではないでしょうか。


しかもその勝負とは

つねに「おのれとの勝負」という本質をもっている

                 ・・・ と 私は思うのです。


これに克つことによって

  成長し 脱皮し 真我を発掘していきます。


それができる人が 真の成功者になります。


自分にさえ克てぬものが ・・・ 人生に勝てる道理はありませんよ ね。