気の広場

気の世界あれこれ・・・
  日常雑感あれこれ・・・

マイナス・コトバを封ずる ・・・ 3.コトバひとつ

2010-07-30 22:15:41 | Weblog
あるときまで 私は冬の寒さは平気でも

  夏の暑さがひどくこたえていました。

夏に弱い体質なのだ ・・・ と思っていました。


梅雨があけると 「ああ また暑い夏が始まる」

  と心のなかでつぶやいたものでした。


これは夏にたいする不平です。

自然現象に対して不満をいったとて

  なにも得るところはありはしません。



ある年の梅雨のあけたころ ふと発心して

「このひと夏 ”あつい”をぜったい口にすまい」と誓い 実行しました。


すると驚いたことに その夏のあいだ

  暑さを苦痛に感じないで通すことができたのです。


それ以後 毎夏 ずっとそうなのです。


むしろ 夏の暑さを 痛快に感じるようにさえなりました。

夏は熱いからこそいいのです。

そして 積極的に汗を出すようにつとめました。

いくらでも流れ出ます。それが気持いい ・・・ 。


「夏に弱い体質」では けっしてなかったのです。

夏に不平をいう心が そのような誤った自覚をつくらせていたのです。

弱かったのは 体ではなくて 心のほうだったのです。


「あつい」の一語を封じただけで

  これだけの変化と成長がえられたのでした。



同じころ「つかれた」というコトバをやめてみることにしました。


すると 疲れるという事実はあっても

  それを意識することは少なくなりました。

そのぶん ガンバリがきくようになってきました。


生命力を自動車にたとえるなら コトバひとつが かんたんに

  それのアクセルにも ブレーキにもなりうるのです。


コトバを 気のブレーキにつかってはなりません!



* ちなみに 以後 我家にはクーラーはありません。
  扇風機はあるものの 基本的には使っていません。





 

マイナス・コトバを封ずる ・・・ 2.弱い人間

2010-07-30 20:44:14 | Weblog
人生を強く 楽しく生きたいなら

  コトバの使い方に気をつけなくてはなりません。


どうせコトバを使うなら なるべく創造的にこれを使わなくては

  人のためにも 自分のためにも 損というものですね。


コトバひとつで気というものは 高まりもするし 萎えもするのです。


意図的な自己暗示とは コトバの創造力によって自分心を強くし

  また 潜在能力をを引き出そうとする方法です。

しかし これができる人は すでに相当強い人です。


初心のうちは

「マイナスのコトバをつかわない」ことをまず練習するのが適当である

  ・・・ と思います。


マイナスのコトバをよく口にし

みずからそれの暗示につねにかかっているのが

    弱い人間の特色である ・・・ からです。






マイナス・コトバを封ずる ・・・ 1.コトバは心

2010-07-30 19:00:12 | Weblog
コトバには 現実をつくりだす創造力があります。

これを古代の日本人は 言霊(ことだま)といいました。


コトバは 心から出ます。

心の姿がそのまま コトバになって表現されます。


「心即コトバ」といえるほどで

どういうコトバを口にするかによって
 
  その人の心がわかってしまうのです。

「文は人なり」というよりはるか以前に

「コトバはひとなり」という厳たる法則が存在するわけです。


ということは

「コトバを変えることによって 心を変えることができる」

  ・・・ ことを意味するはずです。


コトバの創造力によって その姿が変えられてゆくのです。






大きい人間 ・・・ 人への迷惑

2010-07-30 08:06:53 | Weblog
大きい人間はかならず 小さなことをキチンとします。


とくに 人への迷惑ということには 細心の「心くばり」をします。
かりに 私生活ではズボラであるとしてもです。

成功する人たちのひとつの絶対の条件であろう と思います。



むかしの「ブルースの女王」淡谷のり子さんは

歌手になってから約60年間というもの

仕事のうえで約束の時間におくれたことは

  一度たりともないそうです。


「女王」になりえた理由がわかったように

  ・・・ 私は思ったことでした。



もっとスゴイ記録があります。


1966年 数え年94で亡くなられた

東大名誉教授というよりも 玄米食の唱導者として名が高く

  その功によって文化勲章を受けられた ・・・

二木謙三医博は 60数年間というもの

大学の講義はもとより 出席を約した公私いかなる会合にも

  無遅刻 無欠勤であったそうです。


このレコード ちょっと破れそうもありませんね。


心身ともに 生命力がとくべつに充実しているのでなくては

  とてもできないことでしょう。


氏は 60をこえてから合気道をはじめ

  六段になられた と聞きおよびます。


氏もまた スーパーマンであったのですね。



* 本日13:30~の 東北電力株式会社様からご依頼の講演会:講師のオシゴト ・・・ 時間に余裕をもって出かけることにいたします。





マスコミから遠ざかれ

2010-07-30 07:05:33 | Weblog
現代人をイライラのセッカチにさせることに

  マスコミが大いに役立っていると思われます。


マスコミにおいてニュースとは たんなるニュースではなくて商品です。

売ろうとする心から 針小棒大の誇張を常習とし

いわゆるセンセーショナリズムでもって 必要以上にさわぎたてます。

おまけに マスコミ的世論を押しつけてきます。


こういうものにとり囲まれていると

神経はピクピク トゲトゲしてくるし

  自分自身の主体的な思想というものが失われてきます。

マスコミの壁のなかに閉じ込められて 自己を失うことになるのです。


一日でもよい 三日でもよい 一週間ならいうことなし ・・・

この マスコミ(新聞 テレビ 週刊誌など)から

  ・・・ 遠ざかってみるといい。

禁酒・禁煙ならぬ ・・・ 「禁マスコミ」です。


マスコミの暴力に対して
 
  ・・・ 「ごめんこうむる」とばかり 開き直ってみるのです。


禁煙のときと同じで はじめはイライラして落ちつかないでしょう。

いわゆる禁断症状であって、マスコミに中毒していることの証明です。


だが 一両日しんぼうすると おおらかな世界が開けてくるでしょう。

自分というものが ドッシリしてくる 腹がすわってくる

  失われた自己の重心がよみがえってくる
 
    ・・・ そんな感じがするでしょう。


オーバーにいえば 原始人にも似たイノチのたくましさが

  身の内からわきでてくるのを覚えるのです。


三日や四日マスコミに触れなくたって

  世のなかから遅れる心配はありません。


いちど試みてみたらいかがですか?




  

シンパイ : 心くばり

2010-07-30 06:14:30 | Weblog
心配性 といってよいような人がいます。

なにごとにつけ、シンパイということを じつによくあそばされる。

ひどいのになると

  心配することが仕事みたいになっている人さえいます。


人間 この世に生きる以上 心配は避けられない心理ですが

  さりとて それもていど問題です。

度がすぎると 実りがないだけでなくて

  自分をも 周囲の人をも暗くすることにしか役に立ちません。


心配とはおおむね

  心のなかでの主観的なグルグル廻りにすぎないものです。

思いのカラまわり ・・・ 本質的にそういうものがあるのです。


「心配は」という字は

音(オン)で読めばシンパイですが

  訓(クン)で読むと「心くばり」となります。


心くばりなら大いにやるべきです。


心配という心のクセのついている人は

心配の気持にとりつかれたらすぐに

「あ シンパイはいけない。心くばりだ 心くばりだ・・・」

  と 呪文のように唱えることにしたらどうでしょう?

コトバによる心の切りかえです。


心配をよくする人は神経質な人です。

この神経質な人に共通する長所は 「細かいことに気がつく」ことです。

だから こういう人たちがシンパイを心くばりに切りかえたら

・・・ 大変な創造力が発揮されるはずですね。






厄年か、役年か?

2010-07-30 03:02:19 | Weblog
厄年(やくどし)という言葉があります。


昔ふうの数え年で

  男なら 25とか42

  女なら 19とか33 とか

こういった年にはきっと悪いことがあるといいます。


こういうふうに考えるのなら

  これは迷信でしかありえないでしょう。

それも 心を暗くさせることにしか役立たぬ迷信です。


ヤクドシとは 本当は「役年」と書くのだそうです。

これからの人生上の新しい役があたえられる

  そういう年のことである というのです。


男の25は これから結婚を考えようという年頃。

まさしく役年です。

42は 社会的に責任ある 指導的な役につこうという年頃。

だから こういう年になったら

  ・・・ よろこび勇まなくてはならないのです。


この説が学問的に正しいかどうかは問う必要がありません。

「考えかたの技術」として ただ そう思えばよいのです。

同音異義語のすこぶる多い

  その点では世界に類があるまい日本語の特性を

  ・・・ こんなふうに活用するのです。


このように考えていれば

いわゆるヤク年において 病気や大失敗に見舞われても

「ハハァ これから役につこうという自分を成長させるための

  天の試練であるのだナ」

というふうに 肯定的に受けとることができますね。


「厄年」という考えでいれば
 
「アア やっぱり」としょげかえるだけです。


コトバの使い方ひとつで 同一の運命の受けとりかたが

  明暗まったく逆になってしまうのです。


「厄年じゃない 役年だ」と

  ・・・ 開き直っていただきたいものです。