毎日、異常な暑さの今日この頃ですが、路地に咲いているひまわりだけは、私の出番よ、とばかりに太陽色の大きくて元気な花を咲かせています。
当校の、2階受付のカウンターにも、野生のひまわりを職員がもってきてくれて、花瓶に生けていますが、まるで自己主張しているように大輪の花を咲かせています。
猛暑の夏を迎える頃、やはり長崎県人としては、忘れてはならない歴史にたどり着きます。
ここ数日の新聞で特集としても取り上げられた記事の中に、「長崎の鐘」「この子を残して」など原爆の悲惨さを文章の上に残している永井隆博士のことが書いてありました。生誕100年に当たる今年、8月9日の原爆記念式典で読まれる長崎平和宣言文の中に、博士の言葉が盛り込まれることになったそうです。
自らも被爆しながら医師として救護活動に奔走し、このことを後世に伝えなければという使命観から子どもたちに書いてもらった作文を編纂したりしました。妻を原爆で亡くした後、浦上の人々や教会の援助により建てられた、「己の如く隣人を愛せよ」との意味から『如己堂』と名づけられたその2畳一間の建物で2人の子どもと生活し、同時にその場所は、人々のよりどころとなりました。床に伏せた博士は、それでも原爆症の研究をし、そして人々を励まし続けたといいます。
今、長崎では、被爆体験を後世へ伝えるべく、すでに高齢になられた方が病状を押して、長崎を訪れる人々や、若い世代、高校生に話をしてくれています。
新聞の記事では、92歳の男性、山口さんが、はるばるアメリカから来てくれた高校生に感激し、杖をつきながらも体験談を話してくれたそうです。当時の凄惨な光景が脳裏によみがえったのか、山口さんは何度も声を詰まらせ、「平和の大切さを考えてください。」と訴えました。原爆投下国であり核保有国であるアメリカの若者に・・・。
講演後、一人の女子高校生が、山口さんに「アメリカに帰って話を伝えます。」と握手を求めました。記憶の中だけに残している山口さんの体験と思いは、アメリカに渡るでしょう。その高校生は、「平和のバトンを受け取りました。」と言い、周りからは大きな拍手がわき、もらい泣きする高校生もいたそうです。
あの日が人々の記憶の中から消えていくことへの恐怖を、被爆者のかたがたは感じているのだと、記していました。
日々何不自由なく生活している私たちは、平和であることに慣れすぎて平和の有り難さを忘れてしまっています。私たちには、この当たり前の平和を、次の世代に引き継ぐ役割があります。それが平和のバトンタッチなのです。
永井博士の思い、戦争を経験した方々一人一人の思い。それらをこの長崎だからできることとして、全世界に発信していかなければならないと思います。
永井博士の病床には、いつも子どもたちからプレゼントされた野辺の花が満ちていたそうです。その中には、元気いっぱいのひまわりの花もあったのではないでしょうか。
この8月、平和について考える時間を、持ちたいと思いました。
当校の、2階受付のカウンターにも、野生のひまわりを職員がもってきてくれて、花瓶に生けていますが、まるで自己主張しているように大輪の花を咲かせています。
猛暑の夏を迎える頃、やはり長崎県人としては、忘れてはならない歴史にたどり着きます。
ここ数日の新聞で特集としても取り上げられた記事の中に、「長崎の鐘」「この子を残して」など原爆の悲惨さを文章の上に残している永井隆博士のことが書いてありました。生誕100年に当たる今年、8月9日の原爆記念式典で読まれる長崎平和宣言文の中に、博士の言葉が盛り込まれることになったそうです。
自らも被爆しながら医師として救護活動に奔走し、このことを後世に伝えなければという使命観から子どもたちに書いてもらった作文を編纂したりしました。妻を原爆で亡くした後、浦上の人々や教会の援助により建てられた、「己の如く隣人を愛せよ」との意味から『如己堂』と名づけられたその2畳一間の建物で2人の子どもと生活し、同時にその場所は、人々のよりどころとなりました。床に伏せた博士は、それでも原爆症の研究をし、そして人々を励まし続けたといいます。
今、長崎では、被爆体験を後世へ伝えるべく、すでに高齢になられた方が病状を押して、長崎を訪れる人々や、若い世代、高校生に話をしてくれています。
新聞の記事では、92歳の男性、山口さんが、はるばるアメリカから来てくれた高校生に感激し、杖をつきながらも体験談を話してくれたそうです。当時の凄惨な光景が脳裏によみがえったのか、山口さんは何度も声を詰まらせ、「平和の大切さを考えてください。」と訴えました。原爆投下国であり核保有国であるアメリカの若者に・・・。
講演後、一人の女子高校生が、山口さんに「アメリカに帰って話を伝えます。」と握手を求めました。記憶の中だけに残している山口さんの体験と思いは、アメリカに渡るでしょう。その高校生は、「平和のバトンを受け取りました。」と言い、周りからは大きな拍手がわき、もらい泣きする高校生もいたそうです。
あの日が人々の記憶の中から消えていくことへの恐怖を、被爆者のかたがたは感じているのだと、記していました。
日々何不自由なく生活している私たちは、平和であることに慣れすぎて平和の有り難さを忘れてしまっています。私たちには、この当たり前の平和を、次の世代に引き継ぐ役割があります。それが平和のバトンタッチなのです。
永井博士の思い、戦争を経験した方々一人一人の思い。それらをこの長崎だからできることとして、全世界に発信していかなければならないと思います。
永井博士の病床には、いつも子どもたちからプレゼントされた野辺の花が満ちていたそうです。その中には、元気いっぱいのひまわりの花もあったのではないでしょうか。
この8月、平和について考える時間を、持ちたいと思いました。