イスラエル前編からの続き。
イスラエルを旅していると、”パレスチナ問題”に多かれ少なかれ触れることになります。僕が日本にいるころも、”ガザ”や”ヨルダン川西岸”や”イスラエルで自爆テロ”などの言葉はテレビや新聞で目にすることは多かったです。でも、日本での生活とそれらの言葉はあまりにも距離がありすぎたので、それらについて考えることなどほとんどありませんでした。僕にとっては、同じ遠い場所で行われていることでも、ACミランやFCバルセロナ(どちらもヨーロッパのサッカーチーム)の試合結果や選手移籍情報の方がよほど気になるニュースなのでした。パレスチナ関連のニュースを見ても、いつも、「ああ、こわ。こいつら、頭おかしいんじゃないの?」とか思って、真剣に考えるよりも聞かなかったことにしておこう、みたいな感じで見て見ぬふりをするだけでした。そんな僕もイスラエルに入国し、いろんな人の話を聞き、エルサレムの宿に置いてある本や資料を目にするうちに、それらの問題が少し身近に感じられるようになったのでした。
※イスラエルという国は、”イスラエル”と”パレスチナ自治区”という二つに大きく分けられていて、パレスチナ自治区はさらに”ヨルダン川西岸”と”ガザ”という二つの離れた地区からなっています。歴史的経緯を大雑把にいうと、ユダヤ人が元々パレスチナ人(アラブ人)の土地だった場所を無理やり占領して、元からいたパレスチナ人との妥協案としてヨルダン川西岸とガザの2地区を自治区として認めた、ということだそうです。”パレスチナ問題”というのは、そんなユダヤ人の侵略とそれに抵抗するパレスチナ人との間に起こる問題のことです。
イスラエル在住15年でパレスチナ問題について詳しい日本人Mさんにエルサレムにある分離壁の見学に連れていってもらいました。
分離壁というのは、最近になってイスラエル政府が作ったもので、パレスチナとイスラエルを物理的に壁を作ることによって人も物も自由に移動できないようにしてしまい、パレスチナ人の経済活動を締め付け、生活を困窮させ、全員追い出してしまおうとしているものです。しかも、その壁が作られた場所は、過去にパレスチナ自治区として国際的に認められた場所よりも完全にパレスチナ領土を侵食した場所に作られているのです。このあまりにも酷い暴挙には、国連も正式に”国際法に違反している”として非難しているほどです。しかし、イスラエルは壁を撤去するような予定はなく、むしろ今も建設中なのだそうです。
分離壁には、いくつも監視塔が設置されていてパレスチナ人が壁を乗り越えたりしないように見張っています。僕ら(15人くらいの団体)は、分離壁沿いを延々と歩いたり監視塔を写真に撮ったりしていたため不振に思われたのか、重装備のイスラエル兵がジープでやってきて「何してるんだ?」と聞いて来たので、かなりびびりました。幸いヘブライ語が話せるMさんが、「道に迷っちゃったの。えへへ。」という感じでにこやかに対応してくれたおかげで、何事も起きませんでした。その代わり、無理やりタクシーに乗せられて、壁から遠ざけられました。やっぱり、あまり壁には近づかない方がいいみたいです。
後日、エルサレム近郊のパレスチナ自治区(つまり上記の壁の向う側)を観光している時にお茶をおごってくれた親切なパレスチナ人は、「あの壁ができたせいで、この辺りには全く人がいなくなったよ。壁が出来る前は、エルサレムから車で10分ほどの場所だったし、たくさんの人で賑わっていたのに。。。あの壁のせいで大きく迂回しなければならなくなり、エルサレムからは1時間半かかるようになったんだぜ。そりゃ人は来なくなるよ。。。イスラエル人は、こうやってパレスチナ人を生活できなくさせようとしてるんだ。国際ニュースではこんなこと全然報道してくれないけどね。だから、君達のような旅行者には、自分の国に帰ったら、このことを伝えてほしいんだ。ユダヤ人がパレスチナ人の国にやって来て、パレスチナ人に対していったい何をしているかを。」と言いました。昔ノルウェイに住んでいたという一見裕福そうに見える彼も、パレスチナに戻ってきてからはイスラエルの政策にとても苦しめられているらしいです。
ある日、イスラエル観光の目玉の一つベツレヘムへ行きました。ここは、キリスト生誕教会がある場所で、キリスト教徒にとって聖地の一つといえる場所ですが、なんとパレスチナ自治区の中にあり、住人はほとんどがパレスチナ人のムスリムなのです。町は綺麗でしたが、不思議な空気が漂っていました。イスラエル領からパレスチナ自治区に入るには、イスラエル兵による物々しいチェックポイントを通過し、分離壁を超えなければいけません。「パレスチナ人が3時間も4時間も長蛇の列を作って待たされている」という記事を読んだことがあるのですが、僕が行った時は行列はほとんどなく、チェックも甘くてすんなり通過することができました。
ベツレヘムで見た分離壁。いたるところにポスターが貼ってあったり、絵やメッセージが書いてあったり。主に、イスラエルの抑圧に対する怒りや、平和を求めるようなものが多かったです。
ベツレヘムにあったパレスチナの国旗。元はヨルダンの一部だっただけあって、ヨルダン国旗とそっくりです。
また別の日、韓国人旅行者と二人でヘブロンというパレスチナ自治区の町に行きました。事前にネット情報や宿にある本や資料で、ヘブロンがユダヤ人とパレスチナ人の争いが激しい場所という事を知って、行ってみようと思ったのです。イスラエル入国前からパレスチナ自治区のどこかで一泊したいと思っていたのですが、それをこのヘブロンにしようと決めて、エルサレムの宿をチェックアウトしてバックパックを背負って移動しました。ヘブロンについてみると、結構活気のあるアラブの町でした(まるでシリアのようです。)。しかし、宿を探してみると、町にはホテルが1件しかないらしく、そのホテルも一泊4000円もするし見た目も普通のビジネスホテルという感じで、僕らのような長期旅行者が泊まるような感じではありませんでした。(もう一人の韓国人は僕よりも低予算な旅行者ですし)仕方なく、ホテルのフロントに荷物を預けさせてもらって、日帰りで観光して帰ることにしました。
ヘブロンでは武装した兵士の小隊が街中を物々しく歩いています。
前述した預言者アブラハム(ユダヤにもイスラムにも重要な聖者)の霊廟のあるモスク(イブラヒム・モスク)を探して町を歩いていると、あるパレスチナ人に話しかけられました。「こんにちは」とか、そういう片言の日本語で。どうやら、途上国の観光でよくあるような押し売りガイドのようです。普段なら適当にあしらうか追っ払うかするのですが、ヘブロンについてはガイドブックにもほとんど記述がないし、地図もないので、このガイドについていくことにしました。
アラブ人商店街で、お土産屋に強引にパレスチナ人のかぶりものをつけられて楽器を弾かされる。
イブラヒム・モスクへ入るには、いくつもの荷物チェックを受けなければなりませんでした。ガイドが言うには、数年前にユダヤ人がモスクの中で銃を乱射するという事件があったそうです。なんという血生臭い。。。
次に、そのガイド(名前はジャマール)は、H2地区(ユダヤ地区)を案内してくれました。ヘブロンは、ユダヤ人が移り住んできたH2地区とパレスチナ人が住むH1地区とに分かれています。僕らがバスでまず着くのがH1地区で、アラブ的で雑多な活気のある場所でした。そして、もう一方のH2地区こそが、イスラエルの旅で僕が最も印象に残った場所となりました。
まず、イブラヒム・モスクがH1とH2のちょうどその境目にあります。
イブラヒム・モスクのすぐ裏はシナゴーグ(ユダヤ教の礼拝堂)になっていて、ここでもアブラハムを祭っているそうです。そんなユダヤ教の聖地があるので、ヘブロンにユダヤ人が入植してきて、そのH2地区ができたということです。そして、そのユダヤ人の入植こそが、このヘブロンに大きな問題を作りました。
ユダヤ人は、ヘブロンのイブラヒムモスク周辺で元々パレスチナ人が住んでいた場所からパレスチナ人を無理やり追い出し、そこに移り住みました。それに反発するパレスチナ人を押さえつけるために、ユダヤ人入植者とほぼ同数かそれ以上の数のイスラエル兵が配備されて、入植者と一緒になって徹底的にパレスチナ人をいじめました。もちろん、パレスチナ人はそれに反抗しました。毎日殺し合いがありました。しかし、イスラエル側は戦車と機関銃で完全武装しているのに対してパレスチナ側は投石しか武器がなかったために、主に殺されるのはパレスチナ人でした。H2地区の商店はほぼ閉鎖され、町はゴーストタウンになりました。それが2001年~2003年くらいにあった第二次インティファーダと言われる時代です。僕らを案内してくれたジャマールも、昔はここでパン屋をしていたけど、その時代に店が無くなって以来、今もずっと仕事がないと言っていました。激しい争いは終わったけど、今も、商店はほとんど閉まっているし、通行人はほとんどいないし、ユダヤ人の住んでいる家だけは洗濯物がかかっていて生活観があって、そんなユダヤ人を守るためだけに武装したイスラエル兵がたくさんいて、とにかく殺伐とした雰囲気です。イスラエル兵の視線は鋭かったし、歩いていて怖かったです。活気のあるH1地区(アラブ地区)とは対照的でした。ちなみに、ジャマールいわく、ここに住んでいるユダヤ人は、仕事もせずに毎日ただ礼拝だけをしているらしいです。
ヘブロンH2地区。本当に閑散としています。
H2のパレスチナ商店街はほとんど店が閉まっているのですが、生活道路としては現在も使われていて、その上の階にはユダヤ人が住んでいます。そのユダヤ人達は、パレスチナ人に対して嫌がらせのために、ゴミを下の商店街に向けて捨てているそうです。今はパレスチナ人がゴミを防ぐためのネットを設置していて、そこにたくさんのゴミが積み重なっていました。
この地区の建物は、ほとんどが人気のない廃墟のようで門も閉ざされているのですが、そのうちの門が開いている4階建てのビルにジャマールは案内してくれました。屋上から町を眺めてみよう、ということだそうです。そのビルには、パレスチナ人の家族が数世帯暮らしているみたいで、階段には小さな子供が何人もいたし、屋上には洗濯物がたくさん干してあります。イスラエル兵がいないそこで、彼はパレスチナ問題について語ってくれました。
「ユダヤ人が来てパレスチナ人は追い出されて生活が出来なくなった。昔は激しい戦闘があったが、今は落ち着いている。でも、イスラエル人は毎日何人かのパレスチナ人を殺している。そして、パレスチナ人もパレスチナ人を殺している。ファタハとハマスが殺しあっている。」(注:パレスチナには二つのグループがあり、一方がイスラエルとの協調路線で政権を握っているハマス(PLO系)、もう一方がイスラエルへの徹底抗戦を訴えるハマス。現在両グループはガザ地区で内戦状態であり、激しく殺しあっているらしい。)
「どちらのグループを支持しているの?」
「俺はどちらのグループも嫌いだ。あいつらはバカだよ。」
一通り彼の説明を聞いた後、彼は同じビルのとある部屋に案内してくれました。彼は、そこが彼の住んでいる部屋だと言います。しかし、キッチンを含めて3部屋あるその部屋の中には椅子とテーブルとマットレスしか物がなく、がらんとしていて人が住んでいる気配がありません。電球も無く、まるで廃墟です。奥の部屋のマットレスには、浮浪者のような人が寝ていました。僕らを見ると、彼はうわごとのように何かをつぶやきます。ジャマールは、「彼は頭がおかしいんだ。気にしないで。」と言いますが、気になります。しばらくテーブルと椅子しか置いてない部屋で話をした後、「もし良かったら、ここに泊まってもいいよ。」と言ってくれました。僕が金は取るのか?と率直に聞いたら、「金はいらないよ。好意でやってるんだ。よく旅行者を泊めてあげてるんだ。」と言います。はっきり言って、迷いました。ジャマールは悪い人ではなさそうだけど、浮浪者が勝手に出入りする廃墟のような部屋。。。電球すら無いし、夜はどうなるんだ。。。
もう一人の韓国人旅行者は、ヘブロンには泊まらずに日帰りするつもりだったので、エルサレムの宿はチェックアウトせずに来てたのですが、彼女に相談すると、「面白そうだから泊まってみたいけど、ちょっと怖いなあ。でも、無料だし。。。」と言うので、僕も面白そうだという気持ちが、だんだん勝ってきて、二人とも泊めてもらうことにしました。一人だと怖かったけど、二人なら心強いので。僕の方は、元々ヘブロンに一泊するつもりだったので、ラッキーといえばラッキーな展開でした。
電球が無かったのは不安だったけど、H1地区(アラブ地区)のホテルに荷物を取りに行ってから部屋へ帰る途中でジャマールは電球を買ったので(支払いは僕)、とりあえず大丈夫になりました。
それに、宿は無料だと言っていたけど、ジャマールの生活はかなり苦しそうなので、こうして電球を買ってあげたり、食べ物を買ってあげたりして、宿代とガイド代を彼へ返していけばいいかとも思いました。
部屋に帰った後、3人で椅子に座って向かい合ったのですが、ジャマールの英語は、ガイド内容を説明することはできるけど、会話のキャッチボールをするにはかなり不足していたので、会話は全然続かずにずっと沈黙の時間が流れていました。どんどん日が暮れていく廃墟のような何もない静かな部屋で、パレスチナ人と韓国人と向き合って沈黙の時間を過ごすというのは、かなりシュールな体験でした。
窓辺でポーズを取るジャマールとジャマールの部屋
することがないし寒くなってきたし眠たくなってきたので、8時には布団に入りました。そんなに早く寝れるわけがないので、韓国人とぼそぼそ話をしていると、外で花火があがる音が聞こえました。パパンパパパパパンという感じで、かなり長く続いています。そのうちに、ジャマールがむくっと起きてきて言いました。「あれは銃の音だ。マシンガンだ。毎日こうやってイスラエル兵が撃っているんだ。」すぐには信じられなかったけど、確かに花火が上がっているのは、この部屋からは見えないし、外を見ても花火を見物している人の姿もなかったです。音も、花火にしては連続して鳴りすぎているような気もします。とにかくその音はたまに鳴り止んだりしながらも、ずっと続いていました。そのうち、ジャマールが何か興奮してきてました。昼よりも目が変に光っていました。
「俺はムスリムが本当に嫌いなんだ。なんなんだあいつらは。イスラエルやユダヤ人は好きだよ。ムスリムを殺すからな。アメリカも好きだ。イラクでムスリムを殺しまくっているからな。」
冗談で言っているような雰囲気では無かったです。そして、アラビア語で何かをまくしたてられました。その時、彼の顔は狂ったような笑みが浮かんでいました。僕は恐怖しました。
「ごめんなさい。アラビア語は全然わからないんです。」と言ったら、急に彼は落ち着きました。そして、やすらかな顔に戻り「おやすみ」と言って布団に戻りました。銃声だか花火の音だかは、この間もずっと続いていました。窓の外に青白い閃光が水平に走ったような気がしました。僕も、そのパパパパパンという乾いた音の中で眠りにつきました。
翌朝、ジャマールには朝食をおごってあげ、300円をチップとして払い、さよならをしました。そして、約27時間ぶりにエルサレムに戻りました。なぜか凄く懐かしく感じました。エルサレムでは、アラブ人もユダヤ人もキリスト教徒も観光客も、みんなごったまぜになって独特の活気を作り出していました。それを見て僕はとてもほっとしたのでした。
ベツレヘムの壁に書かれた”一つの手に五本の指”。仏教、ヒンズー教、イスラム教、ユダヤ教、キリスト教がそれぞれの指になっています。
<参考>
パレスチナ問題について、僕が感銘を受けたサイト。
・数年前の第二次インティファーダ時代にイスラエルを旅した人の旅行記。
http://www.sakusha.net/palestine1.html
http://www.sakusha.net/palestine2.html
http://www.sakusha.net/palestine3.html
http://www.sakusha.net/palestine4.html
・僕と同時期にイスラエルに滞在しているジャーナリストの日記。
http://www.doi-toshikuni.net/j/index.html
僕が訪れたヘブロンについての記事。
http://www.doi-toshikuni.net/j/column/20070330.html
http://www.doi-toshikuni.net/j/column/20070505.html
特に感銘を受けたジェニンについての記事。
http://www.doi-toshikuni.net/j/column/20070328.html
イスラエルを旅していると、”パレスチナ問題”に多かれ少なかれ触れることになります。僕が日本にいるころも、”ガザ”や”ヨルダン川西岸”や”イスラエルで自爆テロ”などの言葉はテレビや新聞で目にすることは多かったです。でも、日本での生活とそれらの言葉はあまりにも距離がありすぎたので、それらについて考えることなどほとんどありませんでした。僕にとっては、同じ遠い場所で行われていることでも、ACミランやFCバルセロナ(どちらもヨーロッパのサッカーチーム)の試合結果や選手移籍情報の方がよほど気になるニュースなのでした。パレスチナ関連のニュースを見ても、いつも、「ああ、こわ。こいつら、頭おかしいんじゃないの?」とか思って、真剣に考えるよりも聞かなかったことにしておこう、みたいな感じで見て見ぬふりをするだけでした。そんな僕もイスラエルに入国し、いろんな人の話を聞き、エルサレムの宿に置いてある本や資料を目にするうちに、それらの問題が少し身近に感じられるようになったのでした。
※イスラエルという国は、”イスラエル”と”パレスチナ自治区”という二つに大きく分けられていて、パレスチナ自治区はさらに”ヨルダン川西岸”と”ガザ”という二つの離れた地区からなっています。歴史的経緯を大雑把にいうと、ユダヤ人が元々パレスチナ人(アラブ人)の土地だった場所を無理やり占領して、元からいたパレスチナ人との妥協案としてヨルダン川西岸とガザの2地区を自治区として認めた、ということだそうです。”パレスチナ問題”というのは、そんなユダヤ人の侵略とそれに抵抗するパレスチナ人との間に起こる問題のことです。
イスラエル在住15年でパレスチナ問題について詳しい日本人Mさんにエルサレムにある分離壁の見学に連れていってもらいました。
分離壁というのは、最近になってイスラエル政府が作ったもので、パレスチナとイスラエルを物理的に壁を作ることによって人も物も自由に移動できないようにしてしまい、パレスチナ人の経済活動を締め付け、生活を困窮させ、全員追い出してしまおうとしているものです。しかも、その壁が作られた場所は、過去にパレスチナ自治区として国際的に認められた場所よりも完全にパレスチナ領土を侵食した場所に作られているのです。このあまりにも酷い暴挙には、国連も正式に”国際法に違反している”として非難しているほどです。しかし、イスラエルは壁を撤去するような予定はなく、むしろ今も建設中なのだそうです。
分離壁には、いくつも監視塔が設置されていてパレスチナ人が壁を乗り越えたりしないように見張っています。僕ら(15人くらいの団体)は、分離壁沿いを延々と歩いたり監視塔を写真に撮ったりしていたため不振に思われたのか、重装備のイスラエル兵がジープでやってきて「何してるんだ?」と聞いて来たので、かなりびびりました。幸いヘブライ語が話せるMさんが、「道に迷っちゃったの。えへへ。」という感じでにこやかに対応してくれたおかげで、何事も起きませんでした。その代わり、無理やりタクシーに乗せられて、壁から遠ざけられました。やっぱり、あまり壁には近づかない方がいいみたいです。
後日、エルサレム近郊のパレスチナ自治区(つまり上記の壁の向う側)を観光している時にお茶をおごってくれた親切なパレスチナ人は、「あの壁ができたせいで、この辺りには全く人がいなくなったよ。壁が出来る前は、エルサレムから車で10分ほどの場所だったし、たくさんの人で賑わっていたのに。。。あの壁のせいで大きく迂回しなければならなくなり、エルサレムからは1時間半かかるようになったんだぜ。そりゃ人は来なくなるよ。。。イスラエル人は、こうやってパレスチナ人を生活できなくさせようとしてるんだ。国際ニュースではこんなこと全然報道してくれないけどね。だから、君達のような旅行者には、自分の国に帰ったら、このことを伝えてほしいんだ。ユダヤ人がパレスチナ人の国にやって来て、パレスチナ人に対していったい何をしているかを。」と言いました。昔ノルウェイに住んでいたという一見裕福そうに見える彼も、パレスチナに戻ってきてからはイスラエルの政策にとても苦しめられているらしいです。
ある日、イスラエル観光の目玉の一つベツレヘムへ行きました。ここは、キリスト生誕教会がある場所で、キリスト教徒にとって聖地の一つといえる場所ですが、なんとパレスチナ自治区の中にあり、住人はほとんどがパレスチナ人のムスリムなのです。町は綺麗でしたが、不思議な空気が漂っていました。イスラエル領からパレスチナ自治区に入るには、イスラエル兵による物々しいチェックポイントを通過し、分離壁を超えなければいけません。「パレスチナ人が3時間も4時間も長蛇の列を作って待たされている」という記事を読んだことがあるのですが、僕が行った時は行列はほとんどなく、チェックも甘くてすんなり通過することができました。
ベツレヘムで見た分離壁。いたるところにポスターが貼ってあったり、絵やメッセージが書いてあったり。主に、イスラエルの抑圧に対する怒りや、平和を求めるようなものが多かったです。
ベツレヘムにあったパレスチナの国旗。元はヨルダンの一部だっただけあって、ヨルダン国旗とそっくりです。
また別の日、韓国人旅行者と二人でヘブロンというパレスチナ自治区の町に行きました。事前にネット情報や宿にある本や資料で、ヘブロンがユダヤ人とパレスチナ人の争いが激しい場所という事を知って、行ってみようと思ったのです。イスラエル入国前からパレスチナ自治区のどこかで一泊したいと思っていたのですが、それをこのヘブロンにしようと決めて、エルサレムの宿をチェックアウトしてバックパックを背負って移動しました。ヘブロンについてみると、結構活気のあるアラブの町でした(まるでシリアのようです。)。しかし、宿を探してみると、町にはホテルが1件しかないらしく、そのホテルも一泊4000円もするし見た目も普通のビジネスホテルという感じで、僕らのような長期旅行者が泊まるような感じではありませんでした。(もう一人の韓国人は僕よりも低予算な旅行者ですし)仕方なく、ホテルのフロントに荷物を預けさせてもらって、日帰りで観光して帰ることにしました。
ヘブロンでは武装した兵士の小隊が街中を物々しく歩いています。
前述した預言者アブラハム(ユダヤにもイスラムにも重要な聖者)の霊廟のあるモスク(イブラヒム・モスク)を探して町を歩いていると、あるパレスチナ人に話しかけられました。「こんにちは」とか、そういう片言の日本語で。どうやら、途上国の観光でよくあるような押し売りガイドのようです。普段なら適当にあしらうか追っ払うかするのですが、ヘブロンについてはガイドブックにもほとんど記述がないし、地図もないので、このガイドについていくことにしました。
アラブ人商店街で、お土産屋に強引にパレスチナ人のかぶりものをつけられて楽器を弾かされる。
イブラヒム・モスクへ入るには、いくつもの荷物チェックを受けなければなりませんでした。ガイドが言うには、数年前にユダヤ人がモスクの中で銃を乱射するという事件があったそうです。なんという血生臭い。。。
次に、そのガイド(名前はジャマール)は、H2地区(ユダヤ地区)を案内してくれました。ヘブロンは、ユダヤ人が移り住んできたH2地区とパレスチナ人が住むH1地区とに分かれています。僕らがバスでまず着くのがH1地区で、アラブ的で雑多な活気のある場所でした。そして、もう一方のH2地区こそが、イスラエルの旅で僕が最も印象に残った場所となりました。
まず、イブラヒム・モスクがH1とH2のちょうどその境目にあります。
イブラヒム・モスクのすぐ裏はシナゴーグ(ユダヤ教の礼拝堂)になっていて、ここでもアブラハムを祭っているそうです。そんなユダヤ教の聖地があるので、ヘブロンにユダヤ人が入植してきて、そのH2地区ができたということです。そして、そのユダヤ人の入植こそが、このヘブロンに大きな問題を作りました。
ユダヤ人は、ヘブロンのイブラヒムモスク周辺で元々パレスチナ人が住んでいた場所からパレスチナ人を無理やり追い出し、そこに移り住みました。それに反発するパレスチナ人を押さえつけるために、ユダヤ人入植者とほぼ同数かそれ以上の数のイスラエル兵が配備されて、入植者と一緒になって徹底的にパレスチナ人をいじめました。もちろん、パレスチナ人はそれに反抗しました。毎日殺し合いがありました。しかし、イスラエル側は戦車と機関銃で完全武装しているのに対してパレスチナ側は投石しか武器がなかったために、主に殺されるのはパレスチナ人でした。H2地区の商店はほぼ閉鎖され、町はゴーストタウンになりました。それが2001年~2003年くらいにあった第二次インティファーダと言われる時代です。僕らを案内してくれたジャマールも、昔はここでパン屋をしていたけど、その時代に店が無くなって以来、今もずっと仕事がないと言っていました。激しい争いは終わったけど、今も、商店はほとんど閉まっているし、通行人はほとんどいないし、ユダヤ人の住んでいる家だけは洗濯物がかかっていて生活観があって、そんなユダヤ人を守るためだけに武装したイスラエル兵がたくさんいて、とにかく殺伐とした雰囲気です。イスラエル兵の視線は鋭かったし、歩いていて怖かったです。活気のあるH1地区(アラブ地区)とは対照的でした。ちなみに、ジャマールいわく、ここに住んでいるユダヤ人は、仕事もせずに毎日ただ礼拝だけをしているらしいです。
ヘブロンH2地区。本当に閑散としています。
H2のパレスチナ商店街はほとんど店が閉まっているのですが、生活道路としては現在も使われていて、その上の階にはユダヤ人が住んでいます。そのユダヤ人達は、パレスチナ人に対して嫌がらせのために、ゴミを下の商店街に向けて捨てているそうです。今はパレスチナ人がゴミを防ぐためのネットを設置していて、そこにたくさんのゴミが積み重なっていました。
この地区の建物は、ほとんどが人気のない廃墟のようで門も閉ざされているのですが、そのうちの門が開いている4階建てのビルにジャマールは案内してくれました。屋上から町を眺めてみよう、ということだそうです。そのビルには、パレスチナ人の家族が数世帯暮らしているみたいで、階段には小さな子供が何人もいたし、屋上には洗濯物がたくさん干してあります。イスラエル兵がいないそこで、彼はパレスチナ問題について語ってくれました。
「ユダヤ人が来てパレスチナ人は追い出されて生活が出来なくなった。昔は激しい戦闘があったが、今は落ち着いている。でも、イスラエル人は毎日何人かのパレスチナ人を殺している。そして、パレスチナ人もパレスチナ人を殺している。ファタハとハマスが殺しあっている。」(注:パレスチナには二つのグループがあり、一方がイスラエルとの協調路線で政権を握っているハマス(PLO系)、もう一方がイスラエルへの徹底抗戦を訴えるハマス。現在両グループはガザ地区で内戦状態であり、激しく殺しあっているらしい。)
「どちらのグループを支持しているの?」
「俺はどちらのグループも嫌いだ。あいつらはバカだよ。」
一通り彼の説明を聞いた後、彼は同じビルのとある部屋に案内してくれました。彼は、そこが彼の住んでいる部屋だと言います。しかし、キッチンを含めて3部屋あるその部屋の中には椅子とテーブルとマットレスしか物がなく、がらんとしていて人が住んでいる気配がありません。電球も無く、まるで廃墟です。奥の部屋のマットレスには、浮浪者のような人が寝ていました。僕らを見ると、彼はうわごとのように何かをつぶやきます。ジャマールは、「彼は頭がおかしいんだ。気にしないで。」と言いますが、気になります。しばらくテーブルと椅子しか置いてない部屋で話をした後、「もし良かったら、ここに泊まってもいいよ。」と言ってくれました。僕が金は取るのか?と率直に聞いたら、「金はいらないよ。好意でやってるんだ。よく旅行者を泊めてあげてるんだ。」と言います。はっきり言って、迷いました。ジャマールは悪い人ではなさそうだけど、浮浪者が勝手に出入りする廃墟のような部屋。。。電球すら無いし、夜はどうなるんだ。。。
もう一人の韓国人旅行者は、ヘブロンには泊まらずに日帰りするつもりだったので、エルサレムの宿はチェックアウトせずに来てたのですが、彼女に相談すると、「面白そうだから泊まってみたいけど、ちょっと怖いなあ。でも、無料だし。。。」と言うので、僕も面白そうだという気持ちが、だんだん勝ってきて、二人とも泊めてもらうことにしました。一人だと怖かったけど、二人なら心強いので。僕の方は、元々ヘブロンに一泊するつもりだったので、ラッキーといえばラッキーな展開でした。
電球が無かったのは不安だったけど、H1地区(アラブ地区)のホテルに荷物を取りに行ってから部屋へ帰る途中でジャマールは電球を買ったので(支払いは僕)、とりあえず大丈夫になりました。
それに、宿は無料だと言っていたけど、ジャマールの生活はかなり苦しそうなので、こうして電球を買ってあげたり、食べ物を買ってあげたりして、宿代とガイド代を彼へ返していけばいいかとも思いました。
部屋に帰った後、3人で椅子に座って向かい合ったのですが、ジャマールの英語は、ガイド内容を説明することはできるけど、会話のキャッチボールをするにはかなり不足していたので、会話は全然続かずにずっと沈黙の時間が流れていました。どんどん日が暮れていく廃墟のような何もない静かな部屋で、パレスチナ人と韓国人と向き合って沈黙の時間を過ごすというのは、かなりシュールな体験でした。
窓辺でポーズを取るジャマールとジャマールの部屋
することがないし寒くなってきたし眠たくなってきたので、8時には布団に入りました。そんなに早く寝れるわけがないので、韓国人とぼそぼそ話をしていると、外で花火があがる音が聞こえました。パパンパパパパパンという感じで、かなり長く続いています。そのうちに、ジャマールがむくっと起きてきて言いました。「あれは銃の音だ。マシンガンだ。毎日こうやってイスラエル兵が撃っているんだ。」すぐには信じられなかったけど、確かに花火が上がっているのは、この部屋からは見えないし、外を見ても花火を見物している人の姿もなかったです。音も、花火にしては連続して鳴りすぎているような気もします。とにかくその音はたまに鳴り止んだりしながらも、ずっと続いていました。そのうち、ジャマールが何か興奮してきてました。昼よりも目が変に光っていました。
「俺はムスリムが本当に嫌いなんだ。なんなんだあいつらは。イスラエルやユダヤ人は好きだよ。ムスリムを殺すからな。アメリカも好きだ。イラクでムスリムを殺しまくっているからな。」
冗談で言っているような雰囲気では無かったです。そして、アラビア語で何かをまくしたてられました。その時、彼の顔は狂ったような笑みが浮かんでいました。僕は恐怖しました。
「ごめんなさい。アラビア語は全然わからないんです。」と言ったら、急に彼は落ち着きました。そして、やすらかな顔に戻り「おやすみ」と言って布団に戻りました。銃声だか花火の音だかは、この間もずっと続いていました。窓の外に青白い閃光が水平に走ったような気がしました。僕も、そのパパパパパンという乾いた音の中で眠りにつきました。
翌朝、ジャマールには朝食をおごってあげ、300円をチップとして払い、さよならをしました。そして、約27時間ぶりにエルサレムに戻りました。なぜか凄く懐かしく感じました。エルサレムでは、アラブ人もユダヤ人もキリスト教徒も観光客も、みんなごったまぜになって独特の活気を作り出していました。それを見て僕はとてもほっとしたのでした。
ベツレヘムの壁に書かれた”一つの手に五本の指”。仏教、ヒンズー教、イスラム教、ユダヤ教、キリスト教がそれぞれの指になっています。
<参考>
パレスチナ問題について、僕が感銘を受けたサイト。
・数年前の第二次インティファーダ時代にイスラエルを旅した人の旅行記。
http://www.sakusha.net/palestine1.html
http://www.sakusha.net/palestine2.html
http://www.sakusha.net/palestine3.html
http://www.sakusha.net/palestine4.html
・僕と同時期にイスラエルに滞在しているジャーナリストの日記。
http://www.doi-toshikuni.net/j/index.html
僕が訪れたヘブロンについての記事。
http://www.doi-toshikuni.net/j/column/20070330.html
http://www.doi-toshikuni.net/j/column/20070505.html
特に感銘を受けたジェニンについての記事。
http://www.doi-toshikuni.net/j/column/20070328.html