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イスラエル旅行記

旅行記が完成したので、あとは普通に。、

66.試練という人生の荒野 B

2006年09月26日 | Weblog
 【写真:チンの荒野】

「しかしですね、イスラエルの荒野は、水さえあればほとんどの土地は生き返ると言われています。その証拠にですね、こんな状態でも一日雨が降れば、次の日は辺り一面、じゅうたんを敷き詰めたように緑になってしまうんです。ですから水さえあれば、この荒野が救われるという訳です。そして今、みなさんがご覧になっているこの荒野に水が必要なように、私たち人生の荒野には、イエス・キリストがお与えになる『生ける水』が必要なんですね」
「なるほど」
「うまいですな」
「それで、イエス・キリストは次のように言われました。『わたしが与ええる水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が湧き上がるであろう』と」(ヨハネ4:5~14)
 説明のうまさに感心して拍手で応えます。
「それでは、みなさん、そろそろ水を飲んでください」
 荒野における水一杯の大切さ、これを知って初めて、イエスさまの教えが本当に理解出きるのだと思いました。旅行中、毎日、子供の哺乳瓶のように水を持ち歩いたおかげで、身体で聖書を理解したような気分です。

 思えば、偉大な人はみな荒野に導かれてきました。アブラハム然り、モーセ然り、ダビデも、エリヤもまた然り。なぜ? なぜ神は人を荒野に導くのでしょうか。・・・信仰を試し、精神を鍛えるには、荒野こそ最もふさわしい場所だからに違いありません。
 あの偉大なモーセは、荒野に追放されて主の声を聞きました。
イエス・キリストは荒野に導かれてサタンに試みられ、
パウロは3年間、アラビアの砂漠で祈りの生活をしていました。
またサウルから逃げたダビデも、ユダの荒野にいました。(サム23:14)
そして、イゼベルから逃れたエリヤは、ベエルシェバの荒野で死を求め、シナイ山まで導かれました。(列上18:46、19:1~8)

 人は追いつめられ、死にそうになって初めて、神に触れるのかも知れません。研究が進んで、やがてこの荒野にも花咲く日が訪れることでしょう。その時まで、この荒れた土地は休みを得て、安息を楽しむに違いありません。(レビ26:34、43)
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65.試練という人生の荒野 A

2006年09月26日 | Weblog
 【写真:荒野の中の緑】

 ロトの妻に別れを告げ、紅海方面に向います。しばらくすると荒野の中に一握りの緑が見えました。メロン畑です。昨年の峯崎ガイドさんの案内が思い出されます。

「イスラエルではね、あらゆる方法で、荒野を緑にする研究が行われています。今はいろんな物が作れるようになりました。ピーマンなんかね、りんごくらいもある大きいものなんですよ。
 余談ですけど、昨年ちょっと帰国した時ですね、実は近くのスーパーでイスラエルのピーマンを見つけたんですよ。あの荒野で作られたピーマンが、こ~んな所までやってきたのかと思ったら感動してしまいましてね。一個500円でしたけど、愛しくなっちゃって思わず買ってしまいました。野菜も果物も、荒野で作られたものは甘味があって、普通のものより美味しいと言われています。いろんな悪条件の中で育つわけですからね」
 みなうなずいています。
「人間も同じではないでしょうか。試練という人生の荒野を幾つも乗り越えてきた人は、ひと味違いますよね。このように、イスラエルの人たちは、自然から多くの教訓を得て生活してきました」

 流れるように過ぎた一握りのメロン畑と、果てしなく続く荒野。こんな中でさりげなく教えを説くガイドさんの言葉に、強烈な御霊を感じながら、食い入るように荒野を見つめ続けました。

 モルモン書には、リーハイが家族を連れてエルサレムから紅海に近い荒野に出発したと書かれています。紀元前600年のことでした。リーハイとは、エジプトに売られたあのヨセフの子孫です。(1ニーファイ5:14)
 私たちも今、紅海の近くの荒野を走っています。想像を絶する世界にいます。いくら神の導きとは言え、こんな所に連れ出されて不平を言わない人がいるでしょうか。見渡す限り、見事に何もない。水も草も、身を寄せる木陰もありません。ただあるのは、赤茶けた、あるいは粉をふいたような大地と、カンカン照りの太陽だけ。
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