ナサラ農法開発者の翡翠先生のブログ

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終戦記念日(語り継ぐ・・)

2010-08-15 23:48:18 | 近況ニュース

8月15日終戦記念日。今年で65年という年月が経ちました。かなり古い昔の話しのように感じますが、まだそれほど遠い過去のことではないように思います。その当時を語れる人もまだ多くいます。しかし、年々減ってきていることは間違いありません。5年後10年後になると戦場に行かれた方の話は、ほとんど聞くことが出来なくなるでしょう。

旧家であれば、何処の家にも軍服を着た写真が掲げられているほど、ほとんどの親族に犠牲者は、いることだと思います。私の親族もその一つといえるでしょう。

大本家の叔父は、戦死したと遺骨まで届き葬儀も終え、1年以上経ってから本人が、返ってきたという出来事もあります。これは珍しいケースでなく、よく耳にするケースです。それほど、戦死した方が多く、分からないほどになっていたということでしょう。

当時のことをよく話してくれた知人も今は、この世にはいませんが、戦場の悲惨さをよく話をしてくれました。その方は、「戦場で、幾ら待てども武器も食料も何も届くことがなく、敵と戦う前に餓死していく仲間が次々と現れ、とにかく草やミミズ、鼠、昆虫等なんでも食べて、戦うまで生き残ることだけに、精一杯だった。」と言われていました。「それから、どうなったのか?」と尋ねると「飲まず食わずで、結局、餓死状態の手前で気を失い、気が付くと敵の捕虜になっていた。しかし、食べ物もしっかり食べさせてもらって、捕虜になってよかったと思うほど空腹の体には、有難かった。こんなことは、口が裂けても当時は言えないがな~。そして、捕虜のまま終戦を迎えることとなったのだが、敵からの情報で、我々は、戦死したというラジオが流れているといわれ、そんな馬鹿なと思っていたが、ラジオを聞かせてもらい、玉砕したと聞いた時、それは悲しい情報だった。そして、捕虜のみんなで死ぬことを考えた。」と言っていました。

「当時、玉砕とはどう考えていたのか?」と聞くと「国のために、戦死した者や捕虜となるより、自ら命を落とすことかな。だから恥をかいているようで、死のうとしたんじゃが、牢屋では何もないので、何も出来なかった。」と言われていました。

「玉砕というと国のために勤めたようで、栄光のような感じだったが、現実は、物資も何も届かなくなり、どれだけ応援や物資要求をしても、何も返答もなくなり、結局、国に見捨てられた捨て駒だったな~、わしが、こんな事を言ったなんて決して言ってはいかんぞ~、連れてかれて殺されるかも知れん。」と言われていました。

この話は、10数年前の話です。

玉砕という言葉で美化し、戦争に対する理解を得るための一つの統一化の手法だったのかも知れませんね。

 

食することの有難さ、自然の恵みに感謝し、戦争を二度と起こさないように、語り繋いでいかなくてはなりませんね。

 

今一度慰霊し、安心な社会構築を願いたいと思います。