私は今までの中で奇跡だと思う経験を3回している
一つ目の奇跡は青い鳥が私のところに来てくれたことだが
二つ目の奇跡は15歳の時
高校受験だ
小学生時代は友達から『のうちゃんは将来はお笑い芸人かヤンキーだね』と言われていた。
とにかく、荒くて馬鹿なことばかりしていた小学生時代だった
祖母が自宅で寝たきりの介護状態で、母が介護していた頃で
私もいつも祖母のそばにいて、トイレからお風呂の介助から母のことを手伝っていた。
母は自宅で洋裁の仕事をしていて、それに祖母の介護が24時間365日
毎日が大変で、私も手伝っていたとはいえ、休みや娯楽の楽しみのない母親がとても可哀想だった。
中学2年生になって、近くの公文のような塾に通い出し、私は勉強を頑張っていった。
塾に通う前の成績は200人中真ん中くらいで、勉強のできた姉や兄と比べられては笑われていたが、3番目の子にプレッシャーもなく、毎日あははと過ごしていた。
成績が上がると、テストの点数が前より上がると、
母親がものすごく喜んでくれた。
私は母親を喜ばせたくて、それまで勉強していなくて基礎がなかったのでとても苦しかったのだが、
コツコツ毎日勉強をしていった。
そんな時、小学生時代に仲の良かった友達が、突然会いたいと会いにきてくれて、
友達はバリバリのヤンキーになっていたが、私は超真面目人間になっていた。
志望高校は姉が通っていた都立高校
文武両道の歴史ある名門の進学校だ
なぜその高校にしたのかといえば、家から歩いて通える距離だということと、
部活に器械体操があったからだ。
中三の頃、北京オリンピックがあって、勉強の合間にTVにかじりつくように器械体操の試合を見ていた。
自分も高校に入って器械体操をする。高校生活を夢見て勉強した。
睡眠は3時間と決めて、ご飯食べる時も、トイレの時も、お風呂の時も、通学の時間も、休み時間も、夢の中でも、
本当に寸暇を惜しんで勉強した。それでも学力が足りない。受験は冒険だった。
担任から志望校を変えろと言われたが、私は『変えない 絶対に行く』と言い切った。
私の意思は強く、担任の驚く顔とそれから何も言えなくなっていたことを今でも覚えている。
受験は冒険だった。苦しくて泣きながら勉強した。
進学校だから受験の倍率は例年高く、私の年代は子供が一番多い年だったから競争は激しかった。
それなのに、なぜか、私が受験する年だけが
私の第一希望の都立高校の受験志願者が定員を割った。
もちろん全力で試験に臨んだが、自己採点すれば本来なら合否が微妙だったのだが、
私が受験した都立高校は全員が合格になった
私はそれ以外にも、私立の高校の偏差値がとても高いところも受験して落ちたのに合格するという、そんなあり得ないことも経験した。
母親に、私が合格できると思っていた?と聞いたら、母は絶対に合格すると思っていたという。
私の姿を見て、不安には全く思っていなかったと。
私は母親を喜ばせたい一心で勉強をしていたわけだが、その努力は結局は自分に返っていた。
最後の卒業式の前の日かな、担任からお前はすげーなと言われた。
あんなに自分を追い込むのは15歳だったからできたんだろうね。
本当は毎日が奇跡の連続なわけだが、
ベビーブームで子供の数が多く、受験戦争と言われていた時代に
私の受験する年だけ、志望校が定員割れをするなんてそんなこと
本来なら絶対にあり得ないことで
《天は自ら助くるものを助く》
この言葉を実感として感じた。感謝の気持ちがあふれた。
キラキラした経験だった。
神様が少し味方してくれた
本当にそうとしか思えない。
貴重な経験をした15歳だった。