ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート

「神話探偵団~スサノオ・大国主を捜そう!」を、「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート」に変更します。雛元昌弘

神話探偵団139 史聖・太安万侶の古事記からの建国史

2022-07-29 16:12:23 | 太安万侶

 私のスサノオ・大国主建国論は、古事記(ふるのことふみ)を中心に置き、日本書紀・風土記・万葉集、魏書東夷伝倭人条・後漢書・三国史記新羅本紀などの文献、神社伝承や民間伝承、地名、物証(農耕痕跡・石器・玉器・青銅器・墓等)などを総合的に検討してきましたから、古事記の評価が何よりも重要となります。

 これまで「古事記偽書説」「記紀神話8世紀創作説」「太安万侶非実在説」など、シュリーマン以前の19世紀のヘーゲル左派の「キリスト神話説」「キリスト非実在説」に倣った「日本神話否定史観」に対し、私は太安万侶こそが日本の「史聖」であり、古事記こそが「日本最初の根本史書」であると考えています。

            

 「スサノオ・大国主建国論と天皇家建国論の2層構造」の古事記と、「ドキュメンタリー・ミステリー・ファンタジー3表現」で書き上げた太安万侶の復権と名誉回復を図っておきたいと考えます。

 

① 津田左右吉氏の神話分析は「キリスト神話説」「キリスト非実在説」のコピー

 ウィキペディアは「津田左右吉の成果は、記紀神話とそれに続く神武天皇以下の記述には、どの程度の資料的価値があるかを学術的に解明した点である」「記紀神話から神武天皇、欠史八代から第14代仲哀天皇とその后の神功皇后まで、つまり第15代応神天皇よりも前の天皇は系譜も含めて、史実としての資料的価値は全くないとした」とし、「津田の説は、戦後の古代史研究における大きな成果であり、津田史観と呼べる見解は今日の歴史学・考古学の主流となっている」と高く持ち上げていますが、一方「日本史の坂本太郎や井上光貞は、津田らの研究が『主観的合理主義』に過ぎないという主旨の批判を行っている」「津田が歴史史料以外を信用せず、考古学や民俗学の知見を無視したことに批判がある」との批判も載せています。

     

 しかしながら、この井上氏も「この日本神話は、津田左右吉氏が見事に分析したように、皇室がどうしてこの国土を統治するのか、その由来を説明しようとした政治的な神話であって、おそらく6世紀の宮廷でできたものであろう」「はじめから神々の世界のこととして意識されていたのであって、人の世の話として伝え、記したのではない」「日本神話は、国家観念の形成過程を知るためには最も大事な材料ではあるが、国土統一の史的過程をたどるという主旨からいえば、はじめから問題の外においてよいであろう」(岩波新書『日本国家の起源』)とヨイショしており、私もこの本を大学時代に教養書として読んで「なるほど」と思い込んでいましたから津田史学の根は深いといえます。

 今、必要なことは、津田氏の「成果」なるものを世界史の中で位置づけてみることです。

 私は津田氏の分析は19世紀のドイツのヘーゲル左派の無神論からの「キリスト神話説」「キリスト非実在説」の方法論のコピーであると見ていますが、シュリーマンが1873年にギリシア神話をもとにトロイア遺跡を発見したことを当然ながら津田氏は知り、「歴史的事実の神話的表現」「神話の中に込められた歴史的事実」についての知識を持ちながら、1919年に『古事記及び日本書紀の新研究』などを書いているのであり、この津田史学は歴史学をシュリーマン以前に後戻りさせた大きな誤りを犯していると私は考えます。

 その後、「キリスト教考古学」「聖書考古学」が生まれ、旧約聖書や新約聖書に書かれている記載の真偽が考古学的に解明されてきているにも関わらず、未だに記紀神話の真偽を確かめる「日本神話考古学」「古事記考古学」が本格的に取り組まれていないことは津田史学の悪弊と考えます。森浩一同志社大名誉教授によって神話が考古学的に検証された本を読んだ記憶がありますが、他にまともな研究はないのではないでしょうか?

 津田氏が戦前に天皇を現人神とする皇国史観と戦った勇気は高く評価し尊敬しますが、記紀神話から真実の歴史を解明する努力をせず、記紀神話の全てを虚偽と決めつけ、「たらい水(記紀神話)とともに赤子(真実の歴史=スサノオ・大国主建国史)」を流してしまい、記紀神話をゴミ箱に掘り込み5世紀以前の日本史をないことにし、太安万侶の尊厳・名誉を汚した責任は大です。

 戦後になっても、わが国の歴史学者たちは、古事記・日本書紀(以下記紀と表記)や魏書東夷伝倭人条などの総合的分析から真実の歴史を探究することを放棄し、中には考古学こそが科学であるという「タダモノ(唯物)史観」に陥り、あるいは日本神話のルーツを朝鮮神話やギリシア神話・東南アジア神話、ユダヤ神話などのコピーとする拝外・卑屈史観まで現れる始末です。翻訳コピー学者が幅を利かしている日本の常識からでしょうが、太安万侶らもまた外国神話をコピーして日本神話を創り上げた、と思い込んだようです。

 このヘーゲル左派流の悪しき伝統は、「太安万侶非実在説」「聖徳太子非実在説」や「金印偽造説」などの亜流を生み出し、19世紀レベルの「あれもおかしい、これもおかしい懐疑主義」の薄っぺらい感想で枯れ木に花を咲かせ、真実の歴史の探究を妨げています。

 太安万侶非実在説の誤りは、1979年に墓と墓誌が発見されたことにより証明されましたが、そのヘーゲル左派流の津田史学の記紀解釈の誤りは未だに正されていません。

       

 考古学は開発でたまたま見つかった遺跡の発掘・整理に追われる「たまたま考古学」に終わっており、とくに悪質なのは発掘遺跡の値打ちをあげるために、記紀や魏書東夷伝倭人条からアマテルや卑弥呼だけをピックアップする「つまみ食い史観」が幅を利かせていることです。記紀神話は信用できないと津田史観に乗っかりながら、ちゃっかりとアマテル神話だけは歴史的事実としてつまみ食いするのですから「ペテン氏学(史学)」という以外にありません。

 アマテル神話を真実として採用するなら、記紀に書かれている大物主(スサノオの御子の大年:代々襲名)一族の美和(三輪)の磯城の歴史、特に大国主と大物主の国づくり連合が成立した時の「大国主が美和山のスサノオ・大物主を祀る」という条件を真実と認め、磯城の「間城(真木)」の向いにある「纏向」の大型建物は大国主一族のスサノオ祭祀拠点として認めるべきなのです。―ライブドアブログ「邪馬台国ノート2 纏向の大型建物は『卑弥呼の宮殿』か『大国主一族の建物』か」(200128)参照 

 シュリーマンを持ち出すまでもなく、わが国ではスサノオ・大国主神話を裏付ける銅矛・銅槍(通説は銅剣)・銅鐸文化を統合した日本最大の青銅器集積地の荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡が1983・1996年に発掘された以上、出雲神話を8世紀の創作とした19世紀のヘーゲル左派流の津田史観は全面的に見直されるべきであったにも関わらず、守旧歴史学には全面的見直しの機運は生まれていないようです。

  

② 右派・左派ともに不都合な古事記神話 

 私は2001年に仕事先の青森県東北町で「日本中央」の石碑に出会い、2003年に小川原湖についてキャットボート(小型ヨット)の原稿を書いている時、八甲田連峰に「雛岳」を発見したことから「日=霊(ひ)」の古代史の研究に入りました。

 そして『古事記』に初めて目を通してビックリしたのは、日本神話はスサノオ・大国主の建国を中心に書かれ、高天原の所在地は「筑紫日向橘小門阿波岐原」、ニニギが天下ったのは薩摩半島南西端の「笠沙阿多」(仕事で通いニニギの妻の阿多都比売伝承があることを知っていました)だったことです。九州天皇家3代は阿多を拠点としており、姫路西高校の修学旅行で連れて行かれた宮崎県の鵜戸神宮など縁もゆかりもない後世のでっち上げだったのです。

 修学旅行コースに鵜戸神宮を入れるなら、同時に南さつま市の阿多にも生徒を連れて行き、縄文遺跡や古事記を勉強させるべきでしょう。すぐ近くには丸木舟製作道具の丸ノミ石器や琉球・韓国でも発見されている曽畑式土器の栫ノ原遺跡があり、縄文時代からの海人族の重要な交易拠点であったのです。

 皇国史観は高天原の所在地を天上にして天皇一族を「天津神」「天孫族」とし、スサノオ・大国主一族を「国津神」とし、出雲を地下の「根の国」、笠沙2代目のホオリ(山幸彦=山人(やまと)=猟師)と3代目のウガヤフキアエズの妻となった姉妹の住む「龍宮(琉球)」を海底とする垂直構造に置き換えて日本神話を歪曲しましたが、古事記をちゃんと読めばスサノオ・大国主やアマテル(天照)、ニニギらの神話は「水平構造」で記述されているのです。―ライブドアブログ「邪馬台国ノート:琉球論1~7」(200131~0220)参照

 皇国史観を受け継いだ戦後の天皇中心史観=大和中心史観の一番の弱点は、この「高天原神話・天下り神話」であり、元々のこの国の建国者が大国主であることを「国譲り神話」は示し、天皇一族のルーツは薩摩半島であるとしているのです。そこで右派の天皇建国論の歴史家たちは、スサノオ・大国主一族の建国史である記紀神話は全面的に無視する以外になく、津田史観は好都合であったのです。

 一方、反皇国史観の左派・リベラルの反天皇制の歴史家たちは天皇神話を全面否定したいために、津田史観を金科玉条としてスサノオ・大国主神話と天皇神話をまとめて8世紀の創作にしてしまったのです。日本神話は無視すべきものであり、日本神話から真偽を選り分け、真実の歴史を解明するなどトンデモないことだったのです。

 冤罪事件でよく語られる「腐ったリンゴと毒入りリンゴ」に例えると、記紀神話を「腐ったリンゴ」とみて腐ったところだけ捨てて美味しく食べるか、「毒入りリンゴ、食べたら死ぬで」として全部を捨ててしまうかですが、戦後の右派(天皇中心史観・大和中心史観)は日本神話からアマテル、魏書東夷伝倭人条から卑弥呼だけをつまみ食いし、左派は「神話=腐ったリンゴ」として全て捨ててしまったのです。

 今、必要なことは、記紀神話の「腐った部分(後世の創作)」と「生の部分(真実の伝承)」を仕分けし、「伝言伝承ミス」(襲名など)や「意図した矛盾表現」「真実の神話的表現(カモフラージュ作戦)」などに注意しながら、紀元前1世紀からのスサノオ・大国主建国の歴史を解明することです。

 今さら19世紀のヘーゲル左派の方法論ではありません。

 

③ 「史実の神話的目くらまし表現」の太安万侶のテクニック

 古事記序文の冒頭で太安万侶は「乾坤初分(けんこんはじめてわかれ)參神作造化之首(さんしんぞうけのおびととなり)、陰陽斯開(いんようここにひらけ)二靈為群品之祖(にひぐんぴんのおやとなる)」と書きながら、本文では「天地初発之時、於高天原成神名、天之御中主神、次高御産巣日(たかみむすひ)神、次神産巣日(かみむすひ)神。此三柱神者、並獨神成坐而、隱身也」としています。序文では參神(天之御中主、高御産巣日、神産巣日)のうちの「二靈為群品之祖」として二靈(にひ)を神々を産んだ祖としながら、本文では三柱を「獨神」として異なる説明をしています。また、本文の「二日」を序文は「二靈(ひ)」と表記していますが、日本書紀もこの2神を「高皇産霊(たかみむすひ)・神皇産霊(かみむすひ)」と明記し、この「産霊(むすひ)2神」を海人族の始祖神としているのです。古事記・日本書紀は、この国の始祖神をアマテルではなく、産霊(むすひ)2神にしているのです。

 この序文と本文の明らかな食い違いから、津田流合理主義的解釈だと「太安万侶はバカ」になるのでしょうが、太安万侶は虚偽の神話(高御産巣日、神産巣日は独身の日を産む神)と、真実の歴史(高皇産霊・神皇産霊は人々(群品)=霊(ひ)を産む夫婦神)を同時に記して読者に判断をゆだね、「天皇中心建国史」を書きながら「スサノオ・大国主建国史」も同時に書き残しているのです。

 同じように、「天地初発時(てんちはじめてひらけたとき)」に「高天原」は天にあったかのように書きながら、高天原は地上の「筑紫日向(ちくしのひな)橘小門(たちばなのおど)の阿波岐原(あわきばる)」にあったとしているのです。

 また、スサノオ~大国主7代の系譜を載せながら、大国主がスサノオの娘の須勢理毘売と結ばれる物語を書き、さらに大国主一族10代の系譜を載せた後に、アマテル(スサノオの姉)が大国主に国譲りさせる話がでてくるのですから、懐疑主義者にとっては太安万侶は混乱したバカにしか見えないのでしょう。

 しかしながら、私の祖母の家が江戸時代、代々「太郎右衛門を」襲名していることからみても、スサノオやアマテルなどは襲名していた可能性が高く、太安万侶の時代にはそれこそが常識であっていちいち説明を付けなかったと考えられます。また、太安万侶は4人の実在アマテル(スサノオの異母妹、大国主の筑紫妻・鳥耳、筑紫大国主王朝11代目の卑弥呼、12代目の壹与(復活アマテル))を一人のアマテルに合体させて天皇中心史とするとともに、スサノオ・大国主16代の歴史も隠すことなく上手くちゃっかりと書き残しているのです。

 なおイヤナミの死後、イヤナギはアマテルやスサノオ「筑紫日向橘小門阿波岐原」で禊をして筒之男3兄弟(博多を拠点とする住吉族)や綿津見3兄弟(志賀島を拠点とする安曇族)、アマテル・月読・スサノオたちを生んだと書く一方で、スサノオは八拳髭が胸にかかるまで母の根の堅州(かたす)国に行きたいと泣いたと書き、イヤナギが出雲の揖屋でイヤナミに妻問いして生まれたスサノオは長兄であり、イヤナミの死後、筑紫の各地でイヤナギが妻問いして生まれた御子たちが異母弟・異母妹であることを隠していないのです。―ライブドアブログ「帆人の古代史メモ:アマテル論1~8(200216~0319)」、『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

 さらに、太安万侶は笠沙天皇家初代のニニギが阿多都比売を妻とし醜い姉の石長比売(いわながひめ)を親の元に返して呪いをかけられ、「天皇命等之御命不長也(天皇らの御命は長くないなり)」と書く一方で、2代目のホホデミは「伍佰捌拾歲(五百八拾歳)」とし、4代目の大和天皇家の初代・ワカミケヌ(8世紀に神武天皇の忌み名)を137歳とするなど16代の天皇年齢を倍に長くしています。

 このような混乱から太安万侶のレベルは低い、古事記は信用できないとしてきたのがこれまでの歴史家たちですが、神話時代32代(新唐書)のうちの16代を天皇家の正史とし、スサノオ・大国主16代を隠してしまったことのつじつま合わせを太安万侶はきちんと埋め合わせ、真実の歴史解明の手掛かりを後世に残しているのです。―「神話探偵団131 『古事記』が示すスサノオ・大国主王朝史」『スサノオ・大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』等参照

 このように、太安万侶はスサノオ・大国主一族の真実の歴史と、天皇家を中心とした国史の両方をどちらとも読めるように、前者は神話的表現で、後者は矛盾表現と虚偽表現を使い分けながら書き残しているのです。

 

④ 史聖・太安万侶は「ドキュメンタリー・ミステリー・ファンタジー作家」

 1979年に太安万侶の墓と墓誌が発見され、「太安万侶非実在説」は消え去りましたが、今度は墓誌の「従四位」が中級貴族レベルの位であり、皇族(舎人親王)が関わった正式な史書『日本書紀』と較べてレベルが低い、というような見方がでてきています。「目方で男が 売れるなら こんな苦労もかけまいに」はフーテンの寅さんの『男はつらいよ』の歌詞ですが、「肩書で真実が決まるなら」と考えている歴史家がいるようです。

 「レベルの低い歴史家」「天皇家の権威を高めるために歴史を捻じ曲げて書いた歴史家」というレッテルを張られた太安万侶に対して、私は「太安万侶は天皇家のための歴史書を書きながら、スサノオ・大国主建国の真実を密かに後世に残した偉大な歴史家」であり、天皇家のための「表の歴史書」と、スサノオ・大国主建国の「裏の歴史」「真実の歴史」を伝え残した歴史家、としてその功績をたたえたいと考えます。

 司馬遷の『史記』などを詠んできた歴史家は『古事記』を読んで、「これは歴史書ではない」と頭から決めつけたのも当然かと思います。揖屋でイヤナミ(伊邪那美)が国々や人々を生み、死んだときにはイヤナギ(伊邪那岐)が「黄泉国」を訪ね、「筑紫日向(ちくしのひな)」に行ったイヤナギが禊をして黄泉の汚垢(よごれたあか)」から神々を生んだり、アマテルが死んだ後に天石矢戸(石棺の蓋)から復活したり、スサノオが殺した大気津比売の死体から五穀や蚕が生まれ、大国主が稲羽の白兎を助け、兄弟王子たちに2度殺された大国主が生き返る話や、有名なヤマタノオロチ退治が出雲国風土記には書かれていないなど、記紀神話は到底信用できないと考えるのは無理はありません。

 おそらく歴史家の皆さんは、推理小説(ミステリー)やファンタジーなどのフィクションは大嫌いで、ドキュメンタリーですら歴史書より低く見ていると思いますが、もしも推理小説に関心がある人であれば、いくつもの矛盾した証拠の中に真実の手掛かりを巧妙に伏せ、鋭い読者が「真犯人」にたどり着けるように書く推理小説家の手法や、空想的なウソ話で人間の変わることのない真実(友情や愛情、勇気、正義、人の悲しみなど)を伝えようとするファンタジー小説家の手法に敏感であったはずです。

 太安万侶の古事記には矛盾する話や非現実的な話がいくつもでてきますが、そこにミステリー作家やファンタジー作家の手法があると考えるかどうかが、『プレバト』流にいえば「才能あり」と「才能なし」「凡人」との分かれ目ではないでしょうか?  

 私は太安万侶は世界でも珍しい「歴史ドキュメンタリー・ミステリ―・ファンタジー作家」であり、「史聖・太安万侶」として「歌聖・柿本人麻呂」や後の「俳聖・松尾芭蕉」「画聖・葛飾北斎」に並び称されるべきと考えます。この4聖人の中で太安万侶だけが低い評価を受け、古事記を文学的に分析すことなどなかった「津田史観」の非科学的な歴史学のレベルにはびっくりです。

 太安万侶は「歴史家」であるとともに、「日本初の偉大なドキュメンタリー・ミステリー・ファンタジー作家」であたという視点で古事記は読み解くべきと考えます。ここは歴史家ではなく、素人のミステリー・ファンタジー大好きの皆さんの出番です。

 ここで1つだけ雉鳴女・天若日子連続殺人事件の事例をあげておきたいと思います。ーライブドアブログ「帆人の古代史メモ:アマテル論6 『天若日子殺人事件』と『事代主入水自殺事件』」、『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

 古事記によれば、アマテル2(筆者説は大国主の筑紫妻・鳥耳)は大国主の下に御子のホヒ(穂日)を派遣しますがホヒが大国主に媚びて3年間報告しなかったので、ワカヒコ(天若日子)に「天魔迦子弓(あめのまかこゆみ)」と「天之波波矢(あめのははや)」を持たせて出雲に派遣します。ところがワカヒコは大国主の娘・下照比売(したてるひめ:母は宗像族の 多紀理毘売)と結ばれて8年間高天原に報告しなかったため、雉鳴女(きじのなきめ)を派遣して命令を伝えたところ、ワカヒコは「天乃波止弓(あめのはとゆみ)」を使い「天之加久矢(あめのかくや)」で鳴女を射殺し、高天原に届けられた矢を犯人へ還矢(かえしや)したところ、ワカヒコの胸に当たったというのです。

 そこで、アマテル2は高天原からホヒの息子のヒナトリ(天日名鳥:天鳥船)に建御雷(たけみかづち)を添えて出雲に派遣し、事代主(ことしろぬし:言代主)を自殺に追い込み、建御名方(たけみなかた)を諏訪湖まで追って降伏させ、大国主を引退(国譲り)させてホヒ・ヒナトリ親子が大国主の後継王となったとしています。

 ここで問題なのは、ワカヒコは「天之波波矢(あまのははや)」を持っていたのに、ナキメとワカヒコは「天之加久矢(あまのかくや=天鹿食矢)」で射殺されていることです。名前からみて前者は海人族(漁師族)のボウフィッシング(弓矢漁)の矢で、後者は山人族(猟師族)の鹿狩り用の重い貫通力のある矢と考えられます。

 古事記はワカヒコがナキメを天之加久矢で殺し、高天原の高木神がその矢を返したところ犯人のワカヒコに当たったとし、高天原の内部争いのように書いていますが、推理小説ファンとしては納得しないのではないでしょうか?

 ワカヒコがナキメを殺すなら、射損じることのない使い慣れた天魔迦子弓(あめのまかこゆみ)と天之波波矢(あめのははや)を使うでしょうし、ホヒの一族が大国主に気に入られているワカヒコを殺すなら、犯人が猟師族(山人)が使う天之加久矢(あめのかくや)を使うことは考えにくいことです。

 大国主の180人の御子たちの後継者争いで、出雲の言代主、筑紫日向のホヒ、壱岐のワカヒコ、諏訪のタケミナカタ(建御名方)のうち、ワカヒコを殺したのはホヒの一族なのでしょうか?

 太安万侶はちゃんと手がかりを書いています。筑紫日向(ひな)の高天原(海の一大国(いのおおくに)に対し山の壹の国)のアマテル2(鳥耳)はホヒの子のヒナトリ(天日名鳥=天鳥船)と建御雷を出雲に派遣しますが、大国主に談判した時、大国主は「僕者不得白、我子八重言代主神是可白」(僕は白すことができない。我が子、八重言代主神、これ白すべし)と、ワカヒコ殺害の白黒は知らない、言代主(ことしろぬし)に聞けといったとしているのです。

 古事記では剣を後ろの波際にたて、その前に座って建御雷が国譲りの交渉を行ったかのように書かれていますが、「白す」とは「お白州」や「白黒」の表現に見られるように、真実を問う表現であり、国譲りの問答ではなく、ワカヒコ殺害の真相解明をヒナトリたちは大国主に求めたのです。

 その後、ヒナトリにワカヒコ殺害を問い詰められ、言代主が美保の岬で「入水自殺」していることを見ると、「天之加久矢=天鹿食矢」による暗殺は偽装工作で、ワカヒコ殺害の真犯人は言代主だった可能性が浮かび上がります。

 太安万侶は雉鳴女・天若日子連続殺人事件の犯人を「ホヒ説」「事代主説」の両方で書いているのですが、後継者争いに別の5人目の御子がいて犯人であった可能性はないとはいえませんが、大国主の「我が子、八重言代主神、これ白すべし」の発言は大国主が事代主を疑っていた可能性が高いと考えます。

 この事件はこれまでほとんど注目されてきていませんが、ミステリーファンの皆さんは、「連続殺人」「凶器の矛盾」「高天原からの還矢の不自然さ」「関係者の自殺」などから真犯人は誰か、推理を働かせてみて頂きたいと考えます。

 そうすれば、大国主のアマテルへの国譲り神話が天皇家への権力移譲ではなく、大国主が全国各地でもうけた180人の御子たちの後継者争いであり、筑紫日向の高天原のアマテル2(鳥耳)の御子であるホヒが後継王となったという真実の歴史に気付くに違いありません。

 太安万侶は時代の異なる実在した4人の襲名アマテルを合体して1人のアマテルにし、天皇家の祖先として大国主から国譲りされたとしながら、真実の歴史もまた秘かに伝えているのです。

  

 皇国史観・反皇国史観に感染していない若い世代の皆さんには、是非とも古事記・日本書紀神話をミステリー・ファンタジーとして読み直してみていただきたいものです。

 なお、その際には神話時代については、全て倭音倭語で読むべきと考えます。特に、大海人皇子(おおあまのおうじ)が壬申の乱で勝利し、武(あまたける)天皇となったことをみても、古事記(ふるのことふみ)分析においては、海人=天として分析していただきたいものです。

 スサノオ・大国主の葦原中国(委奴国)からの伝統的な部族社会連合から天皇中心の中央集権国家を目指した天武天皇は、「帝皇及び本辞」「帝皇日継及先代舊(旧)辭」を稗田阿礼に誦(よ)み習わし、それを太安万侶が編集したと古事記序文は記していますが、この「本辞=旧辞」は聖徳太子と蘇我馬子が編纂した「国記」ではないか、と私は考えています。スサノオ系の蘇我一族(「あいういう」5母音では蘇我=須賀)の聖徳太子・蘇我馬子作成の「国記」には、おそらく32代の神話時代から大和天皇家への歴史が正しく記述されていたと私は推測しています。

 太安万侶は4人の襲名アマテルを1人に合体して天皇家中心の歴史に書き直しますが、同時にスサノオ・大国主16代の系譜を載せるなど、秘かに真実の歴史を隠すことなく秘かに書き残しています。

『プレバト』の夏井いつきさん流に言えば、「太安万侶、すごい」です。

⑤ 「2層構造・3表現」の古事記神話

 以上から、私は古事記は「スサノオ・大国主建国と天皇家建国の2層構造」の歴史を「ドキュメンタリー・ミステリー・ファンタジー3表現」で太安万侶が書き上げた日本史の根本史料であると考えています。

 近代合理主義の感覚で古事記を歴史書として読んだことがそもそものボタンの掛け違いであり、「歴史家でありドキュメンタリー・ミステリー・ファンタジー作家」であった太安万侶の作品として古事記を読むべきなのです。

 「レベルの低い歴史家」「天皇家の権威を高めるために歴史を捻じ曲げて書いた歴史家」とされた太安万侶の汚名が張らされない限り、日本の歴史学を私は科学として認めることはできません。

 「史聖・太安万侶」の復権を求めたいと思います。

  

□参考□

<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(前同42号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(前同43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

  ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/