ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート

「神話探偵団~スサノオ・大国主を捜そう!」を、「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート」に変更します。雛元昌弘

縄文ノート178 「西アフリカ文明」の地からやってきたY染色体D型日本列島人 4/4

2023-09-16 11:37:13 | 縄文文明

5 西アフリカで「命(DNA)の祭典」「人類誕生の祭典(マザーランド・フェスティバル、バースランド・フェスティバル)」を

⑴ 海人(あま)族と山人(やまと)族~日本列島への移動ルート

 Y染色体亜型、言語(言語構造、倭音倭語、農耕・食物語、宗教語、性器語)、食物・食文化(イモ・イネ・雑穀、モチモチ・ネバネバ食、ソバ・豆)、霊(ひ)宗教の総合的な分析から、Y染色体D型人はニジェール川流域の「西アフリカ熱帯雨林」で誕生し、ヒョウタンなどを持ってコンゴ川を遡り、東アフリカ湖水地方に移住し、アフリカの角(ソマリアとエチオピア)から中央・南・東南アジアを通り、Y染色体O型人と交わり「海・海辺の道」を通って竹筏と丸木舟で日本列島にやってくるとともに、Y染色体D型人の一部は東インド・ミャンマー高地からチベットを経てモンゴル・シベリアを経由して北海道に渡り、日本列島人で合流したと結論づけました。―縄文ノート66 竹筏と「ノアの箱筏」(210405・6)、「63 3万年前の航海実験からグレートジャーニー航海実験へ」(210324)、「152 朝鮮ルート、黒潮ルートか、シベリアルート、長江ルートか?」(220918)参照

 以上の分析から、縄文人は海人(あま)族(漁労・水辺栽培民)と山人(やまと)族(狩猟・焼畑民)の2つの文化を持って日本列島にやってきたと考えます。

 縄文人の海人(あま)性としては、琉球から北海道にかけて貝輪とヒスイ(霊吸い)、黒曜石の交易(妻問夫招婚の贈物)の交易を行い、さらに朝鮮半島・シベリアとも黒曜石交易は広がり、丸木舟を作る丸ノミ石斧は東南アジアから琉球・九州に分布し、曽畑式土器もまた琉球から九州、朝鮮半島南部へと交流や往来があったことを示しています。―縄文ノート「27 縄文の『塩の道』『黒曜石産業』考」(200729→1216)、「144 琉球の黒曜石・ヒスイ・ソバ・ちむどんどん」(220627)、「161 『海人族旧石器・縄文遺跡群』の世界遺産登録メモ」(230226)参照 

 この海人(あま)族のルーツは西アフリカのニジェール川流域と海岸で半身浴(Half body swimming)により魚介類やカエル・ヘビ・トカゲ・ワニなどを食べていた人類誕生から始まり、さらにコンゴ川を遡り東部湖水地方で暮らし、神山天神信仰や銛・黒曜石文化を携え、インド洋から東南アジアの海岸・河川で水芋(里芋)や水稲の水辺農耕を行い、霊(ひ:pee)信仰や性器信仰、龍神(トカゲ龍)信仰を育み、竹筏と丸木舟で日本列島に移動したと考えられます。

 一方、東インド・ミャンマー・タイ・ラオス・雲南高地の照葉樹林帯に移動した山人(やまと)族は、イモ・ソバ・マメなどの焼畑農耕や寒冷地に適した温帯ジャポニカを育てるとともに、イモもちや米もち、納豆などの「モチモチ・ネバネバ食文化」や神山天神の霊(ひ)信仰を育みます。

 両者は西インド・ミャンマーで交流・交易を続け、共同で東南アジアから日本列島へ竹筏と丸木舟でやってきたと考えれ、縄文人はこの海人族と山人族の両方の文化を受け継ぎ、それが古事記の海幸彦(漁師:海人)と山幸彦(猟師:山人)の兄弟部族の対立と共同の歴史に反映したと考えられます。

 私はスサノオ・大国主一族の米鉄交易による建国から縄文社会研究に入ったため、縄文人の海人族性に注目して分析してきましたが、Y染色体D型人の照葉樹林帯文化や焼畑農耕、長野県和田峠・星糞峠や福島県高原山の黒曜石原産地遺跡などを検討するようになり、縄文人は海人族と山人族からなると考えを変えるに至りました。―縄文ノート「44 神名火山(神那霊山)信仰と黒曜石」(201014→210120)、「67 海人(あま)か山人(やまと)か?」(210409)参照

 なお、縄文遺跡が東日本に多いことから、縄文人北方起源説がみられますが、全国各地で地域計画や都市計画をやってきた私の経験からみれば、この説は西日本において縄文遺跡が市街化によって埋もれた可能性を無視した非科学的な説と言わざるをえません。

 縄文海人族が暮らした海辺は現在の漁村集落となり、縄文山人族が暮らした西日本の川沿いの丘陵部では市街化が進んでいるのです。市町村の土地利用計画で新たに住宅地・工業団地の適地を探すとそこにはだいたい縄文遺跡の上に弥生遺跡があって開発ができなかった経験からみて、縄文人にとって居住条件のいいところは古代から中世、近世・近代にかけて宅地として継続されていたに違いないのです。

 発掘された遺跡・遺物だけからの判断は、考古学者の侵しがちなタダモノ(唯物)主義の「サンプル誤差」と言わざるをえません。

 出雲から金属器が発見されていないことから出雲を未開の地として出雲神話を後世の創作と決めつけた考古学・歴史学は、荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡により出雲が日本最大の青銅器の集積地であったことによりひっくり返ったにも関わらず、なんらの反省もなくスサノオ・大国主建国史をいまだに認めず、大和中心史観・天皇中心史観を振り回しています。そのタダモノ(唯物)主義の「建国史ねつ造」の批判・反省のないままに、「縄文東日本中心説」「縄文人北方起源説」がまかり通っていますが、そろそろ卒業してはどうでしょうか? ―縄文ノート「27 縄文の『塩の道』『黒曜石産業』考」(200729→1216)、「117 縄文社会論の通説対筆者説」(220107) 

 

 

⑵ 「Y染色体亜型アフリカ単一起源説」か「メソポタミア中継分岐説」か?

 さらにY染色体D型・O型の縄文人のアフリカからの移動の歴史を辿ると、西欧中心史観(白人中心史観、肉食進歩史観)や中華中心史観(揚子江流域稲作起源説、中国からのY染色体C型・O型拡散説)のインチキが浮かび上がってきます。

 いずれも、西欧人も中国人もアフリカの黒人がルーツであることから歴史を明らかにしようとしていない傾向です。西欧中心史観はユダヤ人の旧約聖書の影響やアフリカ・アジア植民地支配正当化の意識から、人類誕生をメソポタミアあたりから論じたり、人類進歩図を石先槍を持った白人男性像で描き、人類進歩を武器と征服戦争で論じ、中華中心史観は揚子江流域で温帯ジャポニカから熱帯ジャポニカ・インディカが生じた、中国からアジアにY染色体C型・O型人が拡散した、中国人から日本人が派生したなどとする説も見られます。―縄文ノート「68 旧石器人・中石器人は黒人」(210410)、「71 古代奴隷制社会論」(210429)参照

 また神がアダムとイブを創ったとするチグリス・ユーフラテス川沿いの「エデンの園」を人類誕生の地としたい旧約聖書教の影響を受け、メソポタミアの地でF型から北のトルコへG・I・J・R型が、東へN・O・Q型が分岐したという説(崎谷満;図50、Ⅾ型・E型のルーツを東アフリカに置いている)が見られます。

 このような「人類進化メソポタミア中継分岐説」に対して、C型から分岐したY染色体D型・O型の日本列島人やj型・I型、R型などのアフリカからの移動からみて、図51に示すように私はアフリカにおいて人類の基本的な脳力・言語・食・文化・宗教の原型は完成し、その後に中東、南・東南・東アジア、ヨーロッパへ移動したと考える「人類進化アフリカ起源説」です。

 Y染色体D型がナイジェリアで3人見つかっていることからみても、今後、分析がアフリカで進めば、C型・F型・K型・P型・Q型・N型などもアフリカで見つかる可能性があると考えます。

 

⑶ 西アフリカで「命(DNA)の祭典」「人類誕生の祭典」を!

 今、アメリカを中心とした欧米中心の経済・政治・軍事のグローバリゼーションに対抗し、ロシアや中国、トルコ、イランなど、各国ではそれぞれの歴史的アイデンティティを過去の最大の帝国版図に求める帝国復古主義者や「神の国」建国を求める旧約聖書原理主義者などの動きとともに、旧植民地国では「グローバルサウス」の連帯が生まれてきています。

 このような時こそ、どの民族も元をたどればアフリカ黒人のDNA・言語・食・文化・宗教をルーツとしているという人類史の原点に立ち返り、「アフリカン・ファースト:もとはみんな黒人であった」という「DNA・言語・食・文化・宗教のグローバリゼーション」から未来を考えるべきではないでしょうか? 自然・いのちをなによりも大事にする共通価値感の形成に向けて人類誕生からの歴史から学ぶべきと考えます。

 大西洋奴隷貿易により西アフリカの奴隷海岸などからアメリカ大陸に売り飛ばされて強制労働させられた黒人は1200~300万人とされており、その多くは殺されたもののアメリカ合衆国にはアフリカ系黒人が約3900万人(12%)、ブラジルには黒人系1600万人・混血10900万人、ハイチにはアフリカ系1050万人・混血50万人、ドミニカにはアフリカ系80万人・混血560万人、キューバには220万人、アルゼンチンには黒人5万人・アフリカ系200万人などざっと7000万人以上のY染色体E型人がおり、中には日本人に多いY染色体D型人も含まれる可能性が高いと考えます。

 父親がベナン人の八村塁バスケ選手や父親がベナン人のサニブラウン短距離走選手、父親がハイチ系アメリカ人の大阪なおみテニス選手、父親がジャマイカ系アメリカ人のハリス米副大統領、タレントのボビー・オロゴンさん(ナイジェリア出身)、オスマン・サンコンさん(ギニア出身)、父親がアフリカ系アメリカ人の副島淳さんなど、西アフリカのY染色体E型人をルーツとしている人達に親近感を感じずにはおれません。

 特に西アフリカから東に進んだY染色体D型縄文人と、西アフリカからアメリカ大陸に連行されたY染色体E型奴隷の子孫(奴隷海岸から運ばれた人の中にはD型人が混じっている可能性あり)のうち日本にやってきた人たちが数万年の歴史をへて日本列島で出会った、という地球一周の壮大なドラマを追究したくなってきています。

 アメリカでは進化論を信じない人が4割と言われていますが、DNA的に兄弟といっていい東に進んだⅮ型人と西に進んだE型人(中にはD型人も)の日本列島での出会いは、旧約聖書の迷信を打破するいいきっかけになると考えます。アレックス・ヘイリーの『ルーツ』のように、このようなテーマに取り組んでもいいというアメリカ大陸から日本にやってきた黒人あるいはハーフの方をご存じでしたら是非、話してみて下さい。

 「縄文ノート76 オリンピックより「命(DNA)の祭典」をアフリカで!」(210527)で私は提案しましたが、人種差別・民族紛争・宗教対立を乗り越えるために、国連が主導して西アフリカにおいて世界平和に向けて「命(DNA)の祭典」「人類誕生の祭典(マザーランド・フェスティバル、バースランド・フェスティバル)」を開催すべきではないでしょうか? オリンピックや万博など競争の祭典ではなく、世界の人種・民族のルーツの共通性を確認する祭典です。

 Y染色体D型・O型の日本列島人のアフリカからの歴史解明はその先駆けとなるべきであり、若い世代の総合的な国際的な研究を期待したいと思います。

 わが国は縄文人のDNA・文化から、西・中央部・北アフリカ諸国・インド・東南アジア諸国やアメリカ大陸の黒人との交流・連携を深めるとともに、特に、スサノオ・大国主建国、大和朝廷からの朝鮮・中国との交易・交流・連携の歴史を大事にし、格差・分断・対立・戦争を乗り越える世界平和の実現に寄与すべきと考えます。

 

 

 

 

 

 


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2023-09-16 11:37:13 | 縄文文明

4 宗教からみた日本人のルーツ

 言語論と同じように、宗教から日本人のルーツを探究する場合もまた、世界宗教の仏教、キリスト教、イスラム教以前に世界各地にあった宗教から論じる必要があります。

 例えば、わが国においては子宝祈願や安産、誕生後のお宮参り、七五三の子どもの成長祈願、豊作祈願・病気治癒・疫病退散・交通安全などは神道、葬式は仏教、結婚式は神社・教会などと国民の宗教活動・行事は混在しています。

 かつて祖父母の家には大黒柱横の長押(なげし)に神棚が置かれ、座敷には仏壇があり、庭には石の祠があって屋敷神・地主神が祀られ、竃にはお札が貼ってありました。地域の神社・寺社という共同宗教施設とともに、各家にも神棚・仏壇や祠の祭壇があったのです。

 宗教から日本人のルーツを考えるにあたっては、3大世界宗教以前の各国・地域の宗教から見ていく必要があります。

 

⑴ 縄文人の霊(ひ:死霊・祖先霊)信仰

 仲間が死ぬと動物たちが悲しむ様子を見せる例は多数報告されています。人類もまた同じで、南アフリカのライジングスター洞窟で発見された埋葬と線画の痕跡は絶滅した人類「ホモ・ナレディ」によるもので34〜24万年前頃と推定されており、ホモ・サピエンスの最古の埋葬跡は8万年前頃とされています。

 採集・栽培・漁労・狩猟生活を行っていた縄文人の宗教については、自然の恵みを願う自然信仰であったと説明されることが多いのですが、動物と人類の歴史に照らすなら人の生や死に関わる宗教が一番の基本であったと考えられます。

 今のところ、人類最古の神殿は12000~8000年前のトルコの「ギョベクリ・テペ」とされていますが、メソポタミアの7000~5000年前頃の「ジッグラト」(日乾煉瓦の巨大な聖塔)とともに、6700~6450年前頃の「阿久尻遺跡方形柱穴列」や6000~5500年前頃の「阿久遺跡の立石・石列」は最古級の祭祀施設であり、「阿久遺跡環状列石」は世界最古の大規模な集団墓地と考えられます。

 その宗教がどのようなものであったのかは、古事記が「二霊(ひ)群品の祖」として「高御産巣日(たかみむすひ)神・神産巣日(かみむすひ)神」とし、日本書紀が「高皇産霊(たかみむすひ)神・神皇産霊(かみむすひ)神」としていることからみて、「霊(ひ)を産む神」を信仰していたことから想定することができます。

 「人=霊人(ひと)」「彦=比古=霊子(ひこ)」「姫=比売=霊女(ひめ)」「卑弥呼=霊巫女=霊御子(ひみこ)」から見て、「人=霊人(ひと)」は「霊(ひ:祖先霊)を受け継ぐ者=物」であり、遺体を朱で覆い子宮に見立てた「柩・棺=霊継(ひつぎ)」は霊を継ぐ入れ物であり、全ての死者は「八百万神(やおよろずのかみ)」としてその霊を祀られ子孫たちへと「霊継(ひつぎ)」が行われたのです。

 私は『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』の原稿を出雲の級友・馬庭昇君に送ったところ、出雲では女性が妊娠すると「霊(ひ)が留まらしゃった」と言うと教えられ、さらに調べると「昔の茨城弁集」では死産を「ひがえり、ひがいり」(霊帰り)としているのです。―縄文ノート「10 大湯環状列石と三内丸山遺跡が示す地母神信仰と霊(ひ)信仰」(200307)、「15 自然崇拝、アニミズム、マナイズム、霊(ひ)信仰」(190129→200411)、「34 霊(ひ)継ぎ宗教(金精・山神・地母神・神使文化)」(150630→201227)、「74 縄文宗教論:自然信仰と霊(ひ)信仰」(210518)参照

 舘野受男(元敬愛大教授)からは「栃木の田舎では、クリトリスのことを『ひなさき』といっていた」と言われ、平安時代中期に作られた辞書「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」を調べるとクリトリス(陰核、さね)のことを「ひなさき(吉舌、雛尖、雛先)」と書いていたのです。「霊(ひ)」が留まる場所の「霊那(ひな)」の先が「ひなさき」だったのです。―「縄文ノート38 『霊(ひ)』とタミル語peeとタイのピー信仰」(201026)参照

 そして、そのルーツを捜すと、沖縄や鹿児島では、女性の性器を「ぴー、ひー」と、熊本では「ひーな」と呼んでいたのです。―「縄文ノート94 『全国マン・チン分布考』からの日本文明論」(181204→210907)参照

 古代人は妊娠や子が親や祖父母に似るDNAの働きを、霊(ひ)が女性器(ピー・ヒー・ヒナ)に宿り受け継がれると考え、王位継承を「霊継(ひつぎ:日継)と称していたのです。倭音倭語が原日本語であることからみて、その起源は縄文人から受け継いだとみられるのです。

 

⑵ ドラヴィダ族、雲南省イ族、タイ農村部、チベット、ビルマ、卑南・匈奴・鮮卑の「ピー」信仰

 この「霊(ピ・ヒ)」信仰がアジアに広く存在する可能性に気付いたのは、大野晋氏の『日本語とタミル語』でタミル語の「pee(ピー)」が「自然力・活力・威力・神々しさ」を表していることからでした。―「縄文ノート38 霊(ひ)とタミル語pee、タイのピー信仰」(201026)参照

 さらに佐々木高明氏(元奈良女大教授)は『山の神と日本人―山の神信仰から探る日本の基層文化』の中で、「ピー・モ」と「ピー信仰」について大林太良氏の『葬制の起源』を引用し、「死者の霊魂が村を見下ろす山の上や霊山におもむく『山上霊地の思想』がわが国に広く分布する」「この種の山上他界観の文化系統を考える上で目を引くのは、中国西南部の山地焼畑農耕を営む少数民族の人たちである」とし、雲南省のロロ族(夷族・倭族、烏蛮)の「ピー・モ」(巫師)は「なんじ死霊は今からロロ族の故郷である大涼山に到着するまで長い旅立ちをしなければならない」と何度も繰り返し唱えることなどを紹介しています。そして、この死霊(祖霊)が聖なる山に集まるという山上(中)他界の観念や習俗は中国南部から東南アジアの照葉樹林帯の焼畑民の間に広く存在し、水田稲作民に伝えられたとしています。

 文化人類学者の岩田慶治氏のタイの農耕民社会に広く見られるピー(先祖、守護神)信仰についても紹介し、「浮動するピー」「去来するピー」「常住するピー」の3段階があり、「常住するピー」は屋敷神として屋敷地の片隅に祀られるというのです。これは両祖父母の家にあった祠とそっくりです。

 また、大林太良著『民族の世界史4 中央ユーラシアの世界』によれば、7世紀にチベット高原を支配していた「吐蕃王家」のニャティ・ツェンポ王の父もしくは祖父は「ピャー」と呼ばれ、敦煌資料では一族の神は「ピャーのうちのピャー」と呼ばれていたとされています。―「縄文ノート128 チベットの『ピャー』信仰」(220323)参照

 さらに『東南アジア史Ⅰ 大陸部』では、ミャンマーのイラワジ川沿いに「ピュー人」の記載があり、ウィキペディアは「ピューは他称で、漢文史料の「驃」「剽」などの表記、ビルマ語のピュー(Pyu)に由来する。古くはPruと発音され、『ハンリン・タマイン(由来記)』には「微笑む」を意味するPrunに由来すると記されている」としていますが、チベット・ビルマ語系の「ピュー」の語源がオーストロアジア語族のモン語の「Prun:微笑む」であるという説には疑問があり、「ピュー」はチベットの「ピャー(祖先霊)」信仰からきている可能性が高いと考えます。―「縄文ノート132 ピュー人(ミャンマー)とピー・ヒ信仰」参照

 台湾に少数民族の「卑南族」(現地ではピューマ、呉音ではヒナ・ヒナン)がいることは「縄文ノート91 台湾・卑南族と夜這い・妻問夫招婚の『縄文1万年』」でも紹介しましたが、「匈奴」も「ヒョン・ナ」「フンナ」「フンニ」「ションヌゥ」「ヒュン・ノ」などと発音されており、「あいういぇうぉ」5母音だと「ヒュン=ヒョン」になり、チベットを経由し「ピャー」「ピュー」信仰を伝え、同じ遊牧民の鮮卑(センピ)もまたその国名から「ピー・ヒ」信仰であった可能性があります。―「縄文ノート149 『委奴国』をどう読むか?」(220905)参照

 なお、柳田圀男の実弟の民俗研究者の松岡静雄は『日本古語大辞典』において次のように解説しています。

「ヒ族:上代ヒという種族名が存したらしい。ヒイ、もしくはイヒとして、地名、神名等に残る」

・「イヒ族:イヒ川、イヒ田、イヒ森などの地名が諸国に存在する。この種族がヒナともヒダとも呼ばれ、或いはシナ、シダと称えられ、エミシ、エビス、エゾとして知られ、この国の至る所に蕃息していた」

・「ヒナ(夷):ヒ(族名)ラ(接尾語)の呼称。この種族はキ(紀)、アマ(海人)よりも先にこの国に渡来し、原住民コシ(高志)を征服したが、自己もまた新来者によって駆逐せられた」

 邪馬壹国と同時代の後漢霊帝の中常侍(ちゅうじょうじ)の李巡(りじゅん)は東夷9国を「八倭人、九天鄙(テンヒ:あまのひな)」と書いていることからみて、スサノオ・大国主の「委奴国」は「ふぃな(いな、ひな)のくに」であったと私は考えています。―『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』、「縄文ノート149 『委奴国』をどう読むか?」(220905)参照

 以上の「霊(ひ)」信仰の考察は全て一部の2次資料による仮説であり、今後、各国の歴史・民俗・宗教の研究による検証を求めたいと思います。

 

⑶ 「ポンガ」の赤米・カラス行事

 大野晋氏の『日本語とタミル語』からは南インドで体験したドラヴィダ族の「ポンガロー、ポンガロー」の行事が青森・秋田・茨城・新潟・長野の「ホンガ ホンガ」「ホンガラ ホンガラ」の宗教的な繋がりがあることを教えられました。

 大野氏は南インドに始めて調査に出かけた時、1月15日の「ポンガル」の祭りを体験しますが、一方の土鍋には粟と米(昔は赤米)と砂糖とナッツ、もう一方の土鍋には米と塩を入れて炊き、沸騰して泡が土鍋からあふれ出ると村人たちは一斉に「ポンガロー、ポンガロー」と叫び、カラスを呼んで与えるというのです。そして、日本でも青森・秋田・茨城・新潟・長野に小正月(1月15日)にカラスに餅や米、大豆の皮や蕎麦の殻、酒かすなどを与える行事が残り、「ホンガ ホンガ」「ホンガラ ホンガラ」と唱えながら撒くというのであり、インド原住民のドラヴィダ族の小正月の「ポンガ」の祭りが日本にまで伝わっているのです。私は縄文土器の縁飾りはこの「泡立ち=ポンガル」を表現しているのではないかと考えています。―縄文ノート「29 『吹きこぼれ』と『おこげ』からの縄文農耕論」()、「41 日本語起源論と日本列島人起源」(200918→210112)、「108 吹きこぼれとポンガ食祭からの縄文農耕説」(211116)参照

 この大野氏の本を読んで私は納得したことがあるのですが、村づくりの仕事で通った群馬県片品村で赤飯を地面に投げつける花咲地区の「猿追い・赤飯投げ祭り」と越本地区の赤飯を取り合い地面にこぼす赤飯が多いほど豊作になるという「にぎりっくら」の2つの奇妙な祭りがあり、その意味を考え続けていたのですが、やっと元々の祭りはカラスに赤飯を与える神事だった可能性がでてきたのです。―縄文ノート「9 祖先霊信仰(金精・山神・地母神信仰)と神使文化を世界遺産に」(150630)、「34 霊(ひ)継ぎ宗教論(金精・山神・地母神・神使)」(150630→201227)参照

 さらに、「縄文ノート73 烏帽子(えぼし)と雛尖(ひなさき)」(210510)で書きましたが、「平安時代から近代にかけて和装での礼服着装の際に成人男性が被った烏帽子(えぼし)」について、中国の中国唐代の「烏沙(うしゃ)帽」の真似をしたとされているのですが、そもそも名前も形も異なり、何より特徴的なのは前に「雛尖(ひなさき:クリトリス)」「雛形」「雛頭」を付け、女性器信仰を示していることです。

 「烏」は住吉大社、熊野大社、厳島神社などスサノオ一族の神社で神使とされているのですから、烏帽子は唐の「烏沙 (うしゃ) 帽」の真似をしたというより、紀元1・2世紀のスサノオ・大国主建国より前から続くカラス信仰をそのルーツとしている可能性が高いと考えます。

 土器鍋で赤米を炊いて「ポンガロー、ポンガルー」と吹きこぼれに歓声をあげるというのは、人類がイモや穀類などの糖質食の料理革命に大きなインパクトを受けたことを示しており、吹きこぼれを示す縄文土器の縁飾りも同じです。しかも炊いた赤米を最初にカラスに与えるというのは、カラスが死者の霊(ひ)を高山(神名火山=神那霊山)から天に運ぶという宗教がドラヴィダ族にあり、わが国にも伝わっていた可能性が高いと考えます。

⑷ 「神山天神信仰」

 記紀によると伊邪那美(いやなみ)は死後、遠く離れた出雲国と伯伎国の堺の比婆山(ひばのやま)(霊場山)に葬られたとする一方、伊邪那岐(いやなぎ)は揖屋(いや)(松江市の西)の「黄泉の国」に訪ねていって腐敗したイヤナミの死体を見たとしています。この記載は死者は大地に帰るとともに、その霊(ひ:魂=玉し霊)は神名火山(かんなびやま)(神那霊山)から天に昇ったとする魂魄分離(こんぱくぶんり)の宗教思想があったことを示しています。

 天之御中主神から始まり、群品の祖である「二霊(産霊夫婦:高御産霊神、神産霊神)」を始め、大国主神や伊邪那伎大神・伊邪那美大神や大物主(おおものぬし)大神・猿田毘古(さるたひこ)大神、天照(あまてる)大御神や迦毛(かも)大御神(阿遲鉏高日子根(あじすきたかひこね)神)など多くの神々が登場する「八百万神」信仰は、全ての死者が神として祀られる宗教を示しています。人々は記憶に残る人がどこか別世界に生きているのではないかと考え、親と子が似るというDNAの働きを霊(ひ)が受け継がれると考えたのです。

 ではこの死者の霊(ひ)が神山(神名火山:神那霊山、円錐形のコニーデ式火山)の山上から天に昇るという神山天神思想はいつに遡るのでしょうか?

 その手掛かりは、環状配石の中央に石棒をたてそこから蓼科山に向かって石列のある6000~5500年前頃の阿久遺跡と、その南の19の方形巨木柱列が蓼科山を向いた6700~6450年前頃の阿久尻遺跡、八甲田山を向いた6本柱巨木神殿のある5900-4200年前頃の三内丸山遺跡にあり、神名火山(神那霊山)信仰が縄文時代に遡ることは明らかです。―縄文ノート「35 蓼科山を神名火山(神那霊山)とする天神信仰」(200801→1228)、「104 日本最古の祭祀施設」(211025)、「105 世界最古の阿久尻遺跡の方形巨木柱列群」(211030)参照

 この神山天神信仰のルーツはどこになるのでしょうか? その手掛かりは上2/3が白く下1/3が赤いギザのメンカウラーのピラミッドにありました。ピラミッドは王の墓と考えられてきましたが、表面を白にしたのは万年雪を抱く神山を模したものであり、そのルーツは「母なるナイル」源流の「月の山」ルウェンゾリ山、「神の山」ケニヤ山、「神の家」キリマンジャロにあったのです。―縄文ノート「56 ピラミッドと神名火山(神那霊山)信仰のルーツ」(210213)、「158 ピラミッド人工神山説:吉野作治氏のピラミッド太陽塔説批判」(230118)参照

 「王家の谷」が王墓として選ばれたのは、「母なるナイル」をさかのぼった中流にピラミッド型の山があったからであり、さらにルクソール神殿やホルス神殿、アスシンベル神殿が建てられたのはエジプト人のルーツがナイル上流にあったことを示しています。

 さらにエジプト文明だけでなくメソポタミア・インダス・中国文明にも神山信仰があり、メソポタミア文明のジッグラトは「高い所」を意味する聖塔で、自然の山に対する「クル(山)信仰」が起源で基壇上に月神ナンナルの神殿があり、ティグリス・ユーフラテス川源流域のアララト山は「ノアの箱舟」伝説のある聖山なのです。インダス文明にはンダス川・ガンジス河源流に聖山「カイラス山(スメール山:須弥山)」があり、仏教(特にチベット仏教)・バラモン教・ヒンドゥー教などの聖地とされ、中国では泰山など五岳が神格化され、泰山では帝王が天と地に王の即位を知らせ、天下が泰平であることを感謝する封禅(ほうぜん)の儀式が行われてきました。―「縄文ノート57 4大文明と神山信仰」(210219)参照

 それだけでなくミャンマーやインドネシア、古代マヤ文明、アンデス文明にも神山信仰とピラミッド型神殿が見られ、アフリカを起点とした神山天神信仰が人類大移動とともに世界に拡散したと考えられます。―「縄文ノート61 世界の神山信仰」(210312)参照 

 西アフリカに隣接する「偉大な山」カメルーン山は頂上が吹き飛ばされる前はきれいなコニーデ火山で万年雪を抱く神名火山(神那霊山)であった可能性があり、西アフリカのY染色体D型人はカメルーン山を信仰していた可能性があるとともに、コンゴ川にそって東アフリカ湖水地方に移動し、ルウェンゾリ山やケニヤ山・キリマンジャロに対して神山天神信仰を抱き、インド・東南アジアを経て日本列島にやってきた可能性が高く、Y染色体E1b1b型人はナイル川を下ってエジプト文明を作ったと考えます。―「縄文ノート70 縄文人のアフリカの2つのふるさと」(210422)参照 

 なお、日本には神山を模したピラミッドはありませんが、姫路市の播磨総社(祭神はスサノオの子の五十猛と7代目の大国主)では竹と布と松で全国から神々を呼び寄せる20mの「置山」を作る20年に1回の「三つ山祭」、60年に1回の「一つ山祭」が行われており、そのルーツは古事記に書かれた出雲大社の前に置かれた「青葉山」と考えられます。―縄文ノート31 大阪万博の『太陽の塔』『お祭り広場』と縄文」(201223)参照

 この置山に車を付け、スサノオの霊を京都に運んだのが京都の祇園祭の「山鉾」であり、各地の山車、曳山、山鉾、担ぎ山(御輿、山笠、屋台)へと引き継がれています。―「縄文ノート80 『ワッショイ』と山車と女神信仰と『雨・雨乞いの神』」(210619)参照

 

⑸ 「神籬(ひもろぎ:霊洩木)」信仰

 秋田県鹿角市の大湯環状列石遺跡には3本直列×2組の列柱があり、石川県金沢市のチカモリ遺跡、石川県能登町の真脇遺跡、富山県小矢部市の桜町遺跡には円形の巨木列柱跡が、長野県茅野市の中ツ原遺跡には8本の長形巨木柱跡、青森県青森市の三内丸山遺跡には6本の長形巨木柱跡があり、茅野市の阿久尻遺跡には20の方形柱列痕があります。―縄文ノート「33 『神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観』考」(200801→1226)、「38 『霊(ひ)』とタミル語peeとタイのピー信仰」(201026)、「106 阿久尻遺跡の方形柱列建築の復元へ」(211107)参照

 神社では元々神名火山(神那霊山)を神体とする他、磐座(巨石)や神籬(ひもろぎ=霊洩木)を祖先霊の依り代としており、宗像大社の高宮祭場は神籬を四角の石の方壇で囲っており、平原遺跡や吉野ヶ里遺跡の王墓の前には大柱が立てられていました。

 記紀はイヤナギ・イヤナミは「天御柱(あめのみはしら)」を左右に分かれて廻り、セックスして神々を産んだとしており、出雲大社本殿には構造材ではない「心御柱(しんのみはしら)」の廻りに8本柱の建物で覆いをかけた構造となっており、それは伊勢神宮の「心御柱」や仏塔の「心柱(しんばしら)」に受け継がれています。諏訪の神社や祠の四隅には御柱が建てられ諏訪神社では盛大な御柱祭が7年ごとに行われ、日本の伝統住宅では大黒柱(大国柱)横の長押に神棚を置くなど、神籬(霊洩木)から死者の霊(ひ)は天に昇り、降りてくるという宗教思想は現代に受け継がれています。       

 ではこの神籬(霊洩木)信仰はわが国独自のものなのでしょうか? 

 事例調査は限られますが、『山の神と日本人―山の神信仰から探る日本の基層文化』に掲載されたタイの「ピーを祭る小祠」を見ると、木を前に祠が置かれその前の両側には木が立てられており、諏訪大社の神長官守矢家の「神長官邸みさく神境内社叢」の神木・かじのきの前に祠を置き、四隅に御柱が立てているのと似通った構成となっています。またその裏に登ったところの実家の畑に建築家・藤森照信氏が立てた3つの茶室「高過庵(たかすぎあん)」「低過庵(ひくすぎあん)」「空飛ぶ泥舟」の同じ敷地内にはタイの祠と同じような祠が建てられており、同じ宗教思想を伺わせます。―縄文ノート「23 縄文社会研究会『2020八ヶ岳合宿』報告」(200808→1209)、「38 『霊(ひ)』とタミル語peeとタイのピー信仰」(201026)参照

 若月利之島根大名誉教授によれば、ナイジェリアの「イボ人に祖霊信仰(霊(ひ)信仰)があり、日本のお地蔵さまと神社が合体した『聖なるJujuの森』がある」とのことであり、まだ写真など現地に確認をとっていませんが、祖先霊信仰と神籬(霊洩木)、祠のルーツがアフリカに遡る可能性もあります。―「縄文ノート70 縄文人のアフリカの2つのふるさと」(210422)参照)

 またネパールには「雨を呼ぶ女神」マチェンドラ(観音菩薩)の祭りでは木を蔓で組み上げて青葉で飾って木に模した20mを超える山車を「ワッショイ ワッショイ」の掛け声で引き歩く祭りがありますが、仏教伝来以前からあった神木信仰を伝えている可能性も考えられます。―「縄文ノート80 「ワッショイ」と山車と女神信仰と「雨・雨乞いの神」(210619)」参照

 

 時代と場所が異なりますが、西アフリカの奴隷海岸から連れ出された奴隷たち「アフリカン・アメリカン」は儀式を通じて精霊を下す宗教をアメリカに持ち込み、ハイチのヴードゥー教では万物生成の源である、大地と天空を結び付ける聖霊たちの木である「建物の中央の柱(ポトミタン)」を中心に音楽とダンスを伴った招霊の儀式が行われるというのです。―「ブラックミュージックの魂を求めてー環大西洋音楽文化論」(中村隆之、『世界』2023.10)参照

 アフリカ西海岸の『聖なるJujuの森』にそのような神木信仰が残っているのかどうか未確認ですが、「中央の柱(ポトミタン)」は出雲大社などの「心御柱」や民家の「大黒柱(大国柱)」、古事記の「天御柱」の記述などのルーツの可能性があると考えます。

 

⑹ 「龍神」信仰

 縄文時代中期(5400~4400年前頃)に信濃川中流域を中心にした「火焔型土器」の縁の上の4つの紋様について、これまで「火焔」説、「鶏頭冠」説、「水面を跳ねる魚」説、「四本脚の動物」説が見られましたが、めらめらと燃え上がる火焔や鶏頭にはどうみても見えません。

 「4本足」「頭と背中にギザギザがある」「尻尾をあげている」という3条件からみて、縄文人はカブトトカゲから空想上の「トカゲ龍」をデザインした可能性が高いと考えました。―「縄文ノート 36 火焔型土器から『龍紋土器』へ」参照

 このレジュメを『蘇れ古代出雲よ』などの著者のノンフィクションライターの石飛仁さんに送ったところ、「出雲神楽ではヤマタノオロチは『トカゲ』である」とのメールをいただきました。出雲大社では海蛇を「龍神様」として稲佐浜では神使として神迎神事を行っていますが、元々はトカゲ龍信仰が縄文時代からスサノオ・大国主の鉄器時代に続いている可能性が高くなりました。―「縄文ノート39 『トカゲ蛇神楽』が示す龍神信仰とヤマタノオロチ王の正体」参照

 龍といえば中国皇帝のシンボルであり、龍神信仰は中国からきて「琉球(龍宮)」や出雲の龍神・トカゲ龍神楽、各地の龍神信仰に繋がったと考えられ、ウィキペディアも「竜の起源は中国」としていますが、「インドの蛇神であり水神でもあるナーガの類も、仏典が中国に伝わった際、『竜』や『竜王』などと訳された」ともしており、中国起源説とともにインド蛇神起源説もみられます。 

 2020年のNHK・BSの「古代中国 よみがえる英雄伝説 『伝説の王・禹~最古の王朝の謎~』」などによれば、中国最古の夏王朝(4080~3610年前頃)の王都の二里頭遺跡でトルコ石の龍の杖と龍の文様の入った玉璋(ぎょくしょう:刀型の儀礼用玉器)が発掘されたとし、夏の龍信仰が各地に広まったかのように解説していましたが、ベトナム・四川省の龍の形がリアルであるのに対して二里頭のものはより抽象化されてシンプルになっており、むしろ南方系のトカゲ龍を起源としたデザインであり、長江流域を経て、黄河流域に広まった可能性が高いと考えます。

 日本でもトカゲはヤモリ(家守)は害虫を食べる益獣とされていますが、東南アジアにおいてもインドネシアのコモドオオトカゲを除いて人間に害を及ぼすことはなく、ネズミなどを駆除する益獣とされ、天と地、川や海を行き来し、雨を降らせる神として崇拝されており、そこから龍神が生まれたと考えられます。

「龍」は倭音倭語では「たつ」であるのに対し、呉音漢語「リュウ」、漢音漢語「リョウ」であることからみて、縄文土器の「トカゲ龍縁飾り」は中国から伝わったのではなく、東南アジアの天に昇り雨を降らせる水神のトカゲ龍の信仰が伝わり、祖先霊と共食するお粥や煮炊き料理の湯気が天に昇る土器鍋のデザインとした可能性が高いと考えます。

 

⑺ 妊娠土偶・女神信仰

 子どもを産み育て、採集・漁労などの教育行う母親や祖母は、血の繋がりが確実な次世代・次々世代に尊敬されてきました。それは安産を願う縄文時代の妊娠土偶や出産紋土器、女神像、女神山(御山)信仰に現れており、世界各地の石器時代の像にもみられます。―縄文ノート「23 縄文社会研究会『2020八ヶ岳合宿』報告」(200808→1209)、「32 縄文の『女神信仰』考」(200730→1224)、「75 世界のビーナス像と女神像」(210524)、「99 女神調査報告3 女神山(蓼科山)と池ノ平御座岩遺跡」(210930)、「103 母系制社会からの人類進化と未来」(211017)参照

 安産のお守りで出産後は壊された乳房や性器を強調した妊娠土偶に対し、女神像は乳房・性器を小さくして仮面をかぶるなど抽象化・シンボル化した形になり、祖先霊祭祀を司る若い女神を表し、信仰の対象として使われたと考えます。

 すでに見たように「霊(ひ)信仰」において、女性器を「ひな(霊那:霊の留まるところ)」といい、烏帽子の前に「雛尖(ひなさき)」を付けるわが国の女性器信仰もまた女神信仰を示しています。

 このような妊娠女性像と女神像は西欧やロシア各地にみられ、今のところ最古のホーレ・フェルスのヴィーナス(ドイツ:マンモスの牙、6㎝)は3.6万年前頃ですが、日本の粥見井尻土偶(三重県松阪市:土偶、6.8㎝)や相谷熊原土偶(滋賀県東近江市:土偶、3.1)は1.3万年前頃(縄文時代草創期)のものです。―縄文ノート「75 世界のビーナス像と女神像」(210524)、「86 古代オリンピックとギリシア神話が示す地母神信仰」(210718)、「126 『レディ・サピエンス』と『女・子ども進化論』」(22030)

 女性・女神信仰のもとで、これらの妊娠女性像や女神像はそれぞれの別の地域で作られるようになったのか、それともアフリカで共通する文化があって受け継いだのか、今のところ後者を裏付ける物証はありません。

 

⑻ 男性器信仰

 縄文時代の石棒は棒状のものと勃起した男根を模したものがあり、別々のものではなくどちらも男性器を表し、石棒を円形石組に立てたものは男根を女性器に挿したものと考えられます。この男根信仰は明治政府に禁止されるまで各地に見られ、いまも所々に残されています。―縄文ノート「15 自然崇拝、アニミズム、マナイズム、霊(ひ)信仰」(190129→200411)、「34 霊(ひ)継ぎ宗教論(金精・山神・地母神・神使)」(150630→201227)、「41 日本語起源論と日本列島人起源説 」(200918→210112)、「100 女神調査報告4 諏訪大社下社秋宮・性器型道祖神・尾掛松」(211003)、「102 女神調査報告6 北沢川・月夜平大石棒と男根道祖神」(211013)参照

 この性器信仰について、私は多産・安産の霊継(ひつぎ)を願う男性優位のシンボルと見ていましたが、群馬県片品村の上小川地区では女体山(日光白根山)に木製の「金精(男性性器型)奉納」の登拝行事は男性のみが行っており、男が性器型などのツメッコを作り甘い汁粉に入れて煮て、裏山の十二様(山の神:女神)に供えて帰って食べる針山地区の「十二様祭り」は十二様が嫉妬するので集落の13歳以上の女性は甘酒小屋に集まり参加できないということからみて、金精信仰は女神に男根を捧げる祭りであり、女神の依り代であると考えるようになりました。―「縄文ノート9 祖先霊信仰(金精・山神・地母神信仰)と神使文化を世界遺産に」(150630)参照

 そうすると、環状集落や環状列石の中心に石棒を立て、家の中では女性が調理する囲炉の角に石棒を立てているのは、祖先霊が宿る神名火山(神那霊山)から石棒(金精:男性器)に女神が降りてくることを願い、女神とともに共食し、霊継(ひつぎ:多産・安産)を願った母系制社会の宗教を示していると考えられます。―「縄文ノート159 縄文1万5千年から戦争のない世界へ」(230203)参照 

 それは縄文人オリジナルというより、ヒンドゥー教以前からあるインドのリンガ(男根)・ヨニ(女陰)崇拝や、妻問婚の残るブータンの男性器崇拝とルーツを同じくする可能性が高いと考えます。

 なお、わが国においては、縄文時代の母系制社会の女神の依り代である石棒崇拝から、男根道祖神、男女性器道祖神、夫婦道祖神へと時代とともに変化してきています。―「縄文ノート102 女神調査報告6 北沢川・月夜平大石棒と男根道祖神」(211013)参照 

 

⑼ 仮面と太鼓

 前述の「ブラックミュージックの魂を求めてー環大西洋音楽文化論」では、奴隷たちの抵抗として手放さなかったアフリカ文化として「かぶり物、釣り、ドラミング」の3つを紹介し、「かぶり物の習慣はアフロ・アメリカの全域にわたって見られ・・・かぶり物はきわめてアフリカ的なものである」、「ドラミングはアフリカ由来の精神文化を体現するものです」、「魚釣りの技術の伝来には諸説あります(アフリカ起源、先住民に学んだ、植民者に学んだ)」としています。

 まず「かぶり物」ですが、前述のように縄文の「仮面の女神・土偶」は神楽などに受け継がれており、アフリカがルーツの可能性があります。

 ドラミングは、ナイジェリア・カメルーン・ガボン・コンゴ共和国に棲むニシゴリラや東部高地湖水地方に棲むヒガシゴリラ(マウンテンゴリラ)の胸を叩くドラミングや、チンパンジーやボノボ(中央部のコンゴ民主共和国)が木の幹が地面近くでスカートのひだのように広がっている「坂根」を足で蹴ったり手で叩いてドドドンドンと太鼓のように音を出し、追跡中にボノボの姿を見失うと現地ガイドは山刀で坂根を叩き「ピャアピャアピャア」と返事をするので居場所がわかる、何度やっても必ず返事をすると古市剛史教授(京大霊長類研究所)は書いており、威嚇やコミュニケーションの手段であったドラミングを、人類は歌や踊りとともに、宗教儀式に取り入れたものと考えられます。―「縄文ノート70 縄文人のアフリカの2つのふるさと」(210422)参照

 西アフリカ原産のヒョウタンを使ったドラムについて、「大きなひょうたんに動物の皮を張って叩いたのが太鼓のはじまり。アフリカ、アジアなど世界中にひょうたん太鼓があります」https://hanabun.press/special/hyotan110/)、「アフリカの文化を代表する植物を一つあげるとしたら、ひょうたんを選ぶ人が多いのではないだろうか。サハラ以南のアフリカのほぼ全域で栽培、加工、使用され、日常の容器から威信財としての容器、宗教儀式に使う容れ物、楽器、時には衣服にいたるまでの幅広い用途で用いられるひょうたんはアフリカの人々の暮らしの中に、信仰の中に深く根付いていて、アフリカ各地の文化の中で非常に重要な役割を果たしている」「ひょうたんを胴にして作ったドラム。さまざまな大きさのものがある。西アフリカに多く見られ、とくに有名なものがブルキナファソでベンドレと呼ばれるひょうたんドラムである」(アザライ「ひょうたん楽器特集Ⅱ」(https://www.azalai-japon.com/mois/instrument-calebasse2-sp.html)とされており、ヒョウタンを持ってきた縄文人が「ヒョウタン太鼓」文化も持ってきて祭りなどに使った可能性はありますが今のところ未発見です。

 縄文前期末期から中期終末にかけて長野・山梨県の中央高地から関東地方を中心に東日本各地に分布する有孔鍔付(ゆうこうつばつき)土器には、「種子貯蔵容器説」「酒器説」「土製太鼓説」「酒造具説」が見られますが、胴が膨らんだ樽型のものは「ヒョウタン太鼓」を模した可能性があります。

 縄文時代の土笛や石笛、琴が見つかっている以上、アフリカをルーツとする太鼓文化はY染色体D型人により伝わった可能性が極めて高く、ヒョウタンや木製品を含めて発見される可能性はあると考えます。

 そして、これらは「アフリカン・アメリカン(アメリカス)文化(ネオ・アメリカ文化)」と同じように、「アフリカン縄文文化・宗教」と言うべきと考えます。

 

⑽ 霊(ひ)信仰から自然信仰・神使信仰・精霊信仰へ

 死者を偲び、死後の世界を考えた人類は、肉体は大地に帰っても死者の霊(ひ)は残り、神山から天に昇ると考え、宗教施設として神山型(ピラミッド型)の神殿を建て、あるいは高木を神籬(霊洩木)として霊(ひ)の依り代とし、水蒸気や湯気が天に昇り雨となって降りてくることから龍神信仰や水神信仰を考え、雷が天から降ってきて火をもたらすことから雷神信仰を考えたと思われます。

 神山や神木、雨や雷、天や太陽・月、蛇やトカゲ・鳥・狼・猿・鹿などの信仰を「自然信仰」とみなす説もありますが、図43・44に示すように、全て「霊(ひ)信仰」が基本となっており、天と地、山と里、海と里を繋ぐ動物たちは「神使」として崇拝されたと考えます。同時に、この霊(ひ)信仰は全ての生物や自然にも霊(ひ)があると考える「自然信仰」「精霊信仰」へと繋がりました。

 そして、この宗教思想はY染色体D・O型人がアフリカから中央・南・東南アジアを経て、日本列島に持ってきたと考えます。

 


縄文ノート178 「西アフリカ文明」の地からやってきたY染色体D型日本列島人 2/4

2023-09-16 11:37:13 | 縄文文明

3 食物・食文化からみた日本人のルーツ

 これまで「和魂漢才」「和魂洋才」といいながら、実際には「漢才・洋才」の翻訳家にすぎない歴史観のもとで正当に評価されなかった大野晋氏の「日本語ドラヴィダ(タミル)語起源説」とともに、「海の道の南方起源説(柳田圀男ら)」「照葉樹林文化論(中尾佐助・佐々木高明氏ら)」「縄文農耕論(藤森栄一氏ら)」などの復権を行うべき時と考えます。すべての論点について整合性のとれた「最少矛盾仮説」として、日本の農業・食文化のルーツを解明すべきと思います。

 農業・食関係の言語がドラヴィダ系であることはすでに見てきましたが、農耕と食文化の起源については「母なるアフリカ」から検討する必要があると考えます。―縄文ノート「25 『人類の旅』と『縄文農耕』、『3大穀物単一起源説』」(140613→201213)、「26  縄文農耕についての補足」(200725→1215)、「28 ドラヴィダ系山人・海人族による日本列島稲作起源論」(201119→1217)、「29 『吹きこぼれ』と『お焦げ』からの縄文農耕論」(201123→1218)、「55 マザーイネのルーツはパンゲア大陸」(210211)、「70 縄文人のアフリカの2つのふるさと」(210422)、「81 おっぱいからの森林農耕論」(210622)、「89 1 段階進化論から3段階進化論へ」(210808)、「108 吹きこぼれとポンガ食祭からの縄文農耕説」(211116)、「109 日本列島そば好きラインー蕎麦と焼畑」(211121)、「111 9万年前の骨製銛からの魚介食文明論」(211128)、「140 イモ食進化説―ヤムイモ・タロイモからの人類誕生」(220603)、「縄文141 魚介食進化説:イモ・魚介、ときどき肉食」(220611)、「142 もち食のルーツは西アフリカ」(220619)、「150 人類・イネ科と恐竜の起源はアフリカ(パンゲア大陸)」(220909)参照

⑴ イモ食のルーツ

 Y染色体E型人が住み、Ⅾ型人も見つかっているナイジェリアで水田稲作の指導を行っている若月利之島根大名誉教授に問い合わせたところ、次のような返事があり、イボ族の根作ともち食、魚介食を教えられました。

 <若月利之島根大名誉教授より>(「縄文ノート70 縄文人のアフリカの2つのふるさと」参照)

① ナイジェリアの3大部族は北のハウサ(イスラム、軍人向き?)、南西のヨルバ(キリスト教と祖霊信仰、文化人向き)、南東のイボ(キリスト教と祖霊信仰、科学者向き?)と言われています。

② イボにはJujuの森があり、日本のお地蔵さまと神社が合体した「聖なる」場所は各村にあります。

③ イボの根作は多様性農業の極致です。

④ イボ(とヨルバ)の主食はヤムもち(日本の自然薯と同種)で、大鯰と一緒に食べるのが最高の御馳走。古ヤムのモチは日本のつき立てものモチよりさらにおいしい。貝は大きなタニシをエスカルゴ風に食べます。男性の精力増強に極めて有効。

 ムギ・コメ・トウモロコシの「イネ科農耕」の前に、切って棒で穴を開けて植えれば栽培が容易な「イモ食文化+魚貝食文化」のルーツが西アフリカであった可能性が高いのです。

 縄文ノート「25 『人類の旅』と『縄文農耕』、『3大穀物単一起源説』」「26  縄文農耕についての補足」でわが国の里芋行事からのイモ食についてふれましたが、私自身の体験でも、たつの市の祖母の家の縁側では月見のお供えとして里芋を供えており、絵本で見ていたお月見団子でなくてガッカリした記憶がありますが、なぜ里芋なのか不思議に思ったものです。

 その疑問は、NHKの番組・ビデオの『人間は何を食べて来たか-第3集 太古からのメッセージ~タロイモ・ヤムイモ~』で奄美大島のサトイモを主食にしていた名残の8月の祖先霊を祀る新節(あらせつ)の祭りや山形県河北町の芋名月の祭りから解けました。元々はお月見には里芋を供えていたのです。

 番組ではその起源地をミャンマー・タイのあたりとし、ニューギニアやタイのイモ食を取り上げていましたが、私は現在のイモ生産と食文化から見て、西アフリカをルーツとして書きました。

 「縄文ノート26 縄文農耕についての補足」では樹上生活を維持した「チンパンジーは主に果実を食べるが種子、花、葉、樹皮、蜂蜜、昆虫、小・中型哺乳類なども食べる」とし、「縄文ノート70 縄文人のアフリカの2つのふるさと」では、ギニアのチンパンジーが「水たまりの沢ガニを日常的に食べている」ことや、チンパンジーよりヒトに近いボノボが「乾いた土地や沼を掘ってキノコや根粒菌などを食べる」「ヤゴや川虫を食べる」ことを書きました。

 火事で森林が焼けた時、そこでは香ばしい香りのする焼芋や焼米・焼麦・焼ヒエなどの穀類やササゲなどの焼豆やゴマなどの美味しい匂いが漂っていたはずで、好奇心の旺盛なチンパンジーやボノボはその匂いに引き付けられて食べる機会があった可能性は高いと考えられます。―「縄文ノート81 おっぱいからの森林農耕論」(210622)参照

 2014年6月に書いた「『人類の旅』と『縄文農耕』、『3大穀物単一起源説』」(縄文ノート25 として公開)では主に穀類食の起源について論じましたが、最後に「8 イモ食のルーツ」として次のように書きました。

 旧石器人・縄文人の主食を論じる時、すっぽり抜け落ちているのは、籾やプラントオパール、土器圧痕などの痕跡が残らない「イモ類」です。

 アフリカ原産のタロイモ(タイモ、エビイモ、タケノコイモ、サトイモ)やヤムイモ(ヤマノイモ、山芋)を主食とした熱帯・亜熱帯・温帯のイモ食文明の解明は「穀物文明史観」のもとで遅れているといわざるをえません。

 現在、ヤムイモの生産地はナイジェリアが7割近くを占め西アフリカが中心で、タロイモもナイジェリアが34%を占め、中国17%、カメルーン16.%、ガーナ14%、マダガスカ2%と続いています。

 ヒョウタンや稲と同様に、「マザーイモ」もまた西アフリカを原産とし、「海の道」を通ってタロイモ・ヤムイモは東進し、日本にたどり付いた可能性があります。「田芋・里芋(タロイモ)」「山芋(ヤムイモ)」の「田・里・山」の名称区別や「タロ=田」「ヤム=山」の名称の符合からみて、芋栽培の起源は旧石器時代に遡る可能性があります。

 さらに「縄文ノート140 イモ食進化説―ヤムイモ・タロイモからの人類誕生」(220603)では、次のように書きました。長くなりますが引用します。

 糖質・DHA食による頭脳発達では、熱帯果実からの糖質摂取や昆虫やカニ・貝などからのオメガ3脂肪酸食(わかりやすくDHA食と表現)摂取により、まずサルからゴリラ、チンパンジー・ボノボへの頭脳の進化が第1段階でおこり、さらに第2段階として人類の誕生に繋がったと考えます。

 チンパンジーよりも人類が頭脳を発達させた糖質食としては、火事や噴火などで地中の焼イモ・蒸しイモの匂いに気付き、手や棒で掘ってイモムシなどを食べていた延長でイモを掘り、焚火で焼いてあるいは土中に埋めてその上で焚火をして蒸しイモを食べるようになるとともに、焼麦や焼米を食べた体験から穀物食と穀類栽培(焼畑農業)が生まれたと考えます。

 穀物食は煮るか粉にして焼く必要があるのに対し、焼イモ・蒸しイモは焚火ができれば容易に食べられ、焚火とともにまず焼イモ・蒸しイモ食が進み、次の段階で穀物食が生まれたと考えられます。そして、森を焼けば焼イモ・蒸しイモ・焼麦・焼米が手に入り、さらに焼野原からイモや穀類が育つことを知り、種イモや麦・米を植える焼畑農業への転換は雷火事や火山から火を入手できれば容易であったと考えられます。

 イモ食は焼イモ・蒸しイモ・イモ煮など簡単に食べられるのに対し、米は「収穫→乾燥→脱穀→籾摺り→炊飯など」、麦は「収穫→乾燥→脱穀→製粉→窯焼きなど」の作業が必要であり、加工具や調理器具(土器鍋、石窯・壺窯など)を必要としますから、人類誕生からの糖質食は長い期間、焼イモ・蒸しイモ食、続いて石焼イモ煮食、土器鍋蒸しイモ・イモ煮食へと発展したと考えられます。

 穀類のようなプラントオパールも残らず、木の芋掘り棒やイモ餅をつくる臼・杵などは痕跡が残らず、直接的な考古学的証拠の発見は難しいのですが、人類誕生のアフリカ熱帯雨林地域がヤムイモ・タロイモの原産地でヤムもち食が行われていること(ヤム餅・フフを大ナマズと食べるのが最高のごちそう)、縄文土器おこげの炭素窒素同位体比分析、現在の採集狩猟民のイモ食生活、さらには日本各地に残る田芋祭や里芋祭、いも正月や芋名月(十五夜)などの祭り、イモ雑煮を引き継いだ正月の丸餅雑煮の行事食、米の餅食文化などを総合的に検討すると、人類が焼イモ食から穀物食へと進化を遂げたことは「最少矛盾仮説」として成立すると考えます。

 西アフリカ原産のヒョウタンが縄文遺跡から見つかっている以上、ヤムイモ・タロイモもまたY染色体D型人によってこの地からわが国にもたらされた可能性が高く、DNA分析による原産地の確定と縄文土器鍋のおこげの分析による縄文イモ食の証明が求められます。

 

⑵ 稲作のルーツ

 私は稲作のルーツを求め、パンゲア大陸の西アフリカとアメリカ東部が接していた地域をイネ科植物の原産地とする「3大穀物(米・小麦・トウモロコシ)単一起源説」を追いかけてきました。図24は最初の仮説図で、図25はその後の検討による修正図です。―縄文ノート「25 『人類の旅』と『縄文農耕』と『3大穀物単一起源説』」、「55 マザーイネのルーツはパンゲア大陸」、「150 人類・イネ科と恐竜の起源はアフリカ(パンゲア大陸)」参照

 ウィキペディアによるとイネ科イネ属は23種77系統が知られており、20種が野生イネであり、2種の栽培イネはアジアイネ(インディカとジャポニカ)とアフリカイネ(西アフリカで局地的に栽培)があるとされています。

 中華中心史観により長江流域の温帯ジャポニカからインディカが生まれたとするような珍説が見られますが、全ての生物や人類誕生と同様に、突然変異による種の多様性が生まれやすい熱帯雨林こそが穀類やサトウキビ・タケ・ヨシなどの全イネ科植物の誕生地であると私は考えており、遺伝子分析によるイネ科植物の原産地の研究が求められます。

 人類の移動とともに栽培地が拡散し、雨季・乾季のある熱帯のインディカから熱帯ジャポニカが生まれ、高度差のある東インド・ミャンマーの冷涼地で温帯ジャポニカが生まれ、長江を下って中国に伝わるとともに、海の道を通って日本列島に伝わったと考えます。

 佐藤洋一郎総合地球環境学研究所名誉教授によるRM1遺伝子の国別分布をみると、日本はa・b・c型で、中国・朝鮮にみられるd・e・f・g型が見られません。朝鮮にb型がないことからみて、朝鮮から日本に米が伝わった可能性がまず否定されます。さらにd・e・f・g型が見られないことは、日本の温帯ジャポニカは中国からではなく、別ルートの可能性が高いことを示しています。―「縄文ノート26 縄文農耕についての補足」参照

 もし中国から日本にイネが伝わったのなら朝鮮と同じようにd・e・f・g型も見られるはずですが、これらがない原因としてはインド東部・ミャンマー高地からの移動に伴い選別したabc型だけを運んだ「ボトルネック効果」と、倭人だけが育種技術に優れ収穫量の多い米の選択的栽培を先進的に行った可能性が考えられますが、前者の可能性がより高いと考えます。

 なお、私は若月氏に教えられ、NHKの「人間は何を食べてきたか:サバンナの移動漁民~アフリカ・ニジェール川~」を見るまでアフリカイネは陸稲と思い込んでいましたが、水稲と訂正します。

 

⑶ 雑穀・根菜・イネのルーツ

 古い資料ですが中尾佐助著の『栽培植物と農耕の起源』(岩波新書、1966年)は、農耕文化として根栽農耕文化、サバンナ農耕文化、地中海農耕文化、新大陸農耕文化をあげています。―「縄文ノート26 縄文農耕についての補足」(200725→1215)参照

 中尾説はヤムイモ・タロイモなどの根菜農耕文化と、縄文時代から栽培されているアワ・ヒエ・キビの雑穀についてサバンナ農耕文化をあげているのは画期的な着想と思いますが、2つの問題点を感じます。

1つは、「根菜農耕文化」をアフリカではなく東南アジアとしている点です。西アフリカから中央アフリカにかけての熱帯雨林とその外側には雨量の豊富な地域があり、「サバンナ農耕文化」とは異なる「田芋・水稲農耕文化」がニジェール川流域などにはあった可能性が高いのです。

 私が小学校時代に過ごした岡山市郊外には江戸時代からの干拓農地が広がっており、私の記憶では「里芋」=「田芋」であり、田芋と水稲はもともとは同じ栽培条件であったと考えられます。

2つ目は、中尾氏は東インド・ミャンマー・雲南高地の「照葉樹林帯文化論」を展開しながら奇妙なことに「稲作農耕文化」をあげず、その起源地を示していないことです。「稲作農耕文化」をインド・東南アジア起源とするか西アフリカにするか、迷いがあったのではないでしょうか。

 「ヒョウタンから駒」ではありませんが、縄文ヒョウタンとY染色体D型をたどると、「根菜農耕文化」は「田芋・水稲農耕文化」として西アフリカを起源とする可能性が浮かび上がります。

 エンゲルスは「家族史(の研究)は、1861年、バッハオーフェンの『母権制』の刊行をもってはじまる」としましたが、バッハオーフェンは、農耕文化以前の「野生的自主的生産は、母なる大地から野生植物が、最も豊かに繁茂する沼沢地生活に見ることができる」としています。農耕文化もまたこの沼沢地から発生したとみるのが自然でしょう。

 若い研究者のみなさんの調査・分析に期待したいと思います。

 

⑷ 「モチモチ・ネバネバ食」のルーツ

 外国人に日本文化のクールを発見してもらうNHKの番組『クールジャパン』を見ていると、「モチモチ・ネバネバ食」は欧米人とは異なる食文化であることを実感します。

 「縄文ノート28 ドラヴィダ系海人・山人族による稲作起源論」ではモチイネが東インド・ミャンマー・タイ・ラオス・雲南などの高地で栽培されていることを示し、「縄文ノート14 もち食のルーツは西アフリカ」ではもち米の分布が中国沿岸部から日本へと広がっていることを示しました。

 また、縄文ノート「132 ピュー人(ミャンマー)とピー・ヒ信仰」では納豆食がこの地域と重なることを示しました。

 さらに縄文ノート「70 縄文人のアフリカの2つのふるさと」「142 もち食のルーツは西アフリカ」では、西アフリカや中央アフリカでは「フフ(ヤムもち:日本の山芋・長芋と同種)」を主食にしており、「モチモチ・ネバネバ食」はイモもちをルーツとし、Y染色体D型人により、東インド・ミャンマー・タイ・ラオス・雲南高地で定着し、さらに日本列島に運ばれた可能性が高いと考えられます。   

 志和地弘信東京農大教授によれば、「イモ類は高温、乾燥など気候の変化に強い。干ばつのリスク対策にもってこいだ」とされており、気候変動と人口増加・戦争により心配される食料危機に対し「イモ・イネ複合農耕文化」(イネは雑穀を含む全イネ科穀類)を見直し、各国の食料自給率の向上を図ることが求められます。

 

⑸ 「ソバ・豆」のルーツ

 縄文時代から栽培されているソバもまた、「縄文ノート109 日本列島そば好きラインー蕎麦と焼畑」で書きましたがインド東部・ミャンマー高地が原産地とされています。

 赤米神事(ドラヴィダ族や対馬)の代わりに赤飯に使われるササゲはアフリカ原産で、ナイジェリアやニジェールなどで生産と消費が拡大しているとされています。

 日本の赤褐色のササゲの他に、白・黒・淡褐色・紫色など様々な色があり、黒目豆(ブラック・アイ・ピー)はナイジェリア北部が原産とされています。

 大豆・小豆の原産地は東アジアとされていますが、原種のツルマメ、ヤブツルアズキは日本にも自生しており、紀元前4000年頃より栽培化されたことが明らかとなっており、沖縄の久高島には「イシキ浜に流れ着いた壺(またはヒョウタン)の中に麦・粟・アラカ(もしくはクバ=ビロウ)・小豆の種子が入っていた」という伝承が伝えられていることからみて、ヒョウタンとともに種子が持ち込まれた可能性が高いと考えます。

 ソラマメも北アフリカかメソポタミアが原産とされており、これらのマメ類の原種「マザービーンズ」もまた西アフリカが原産地の可能性があると考えます。

 

⑹ 粉食のルーツ

 縄文遺跡から発見される石臼(石皿)について、奇妙なことにわが国の学者たちは「ドングリ粉食」の道具ですが、そのルーツはどこなのでしょうか?

 ウィキペディアによると、アフリカ湖水地方のルウェンゾリ山の麓のエドワード・アルバート湖畔の20000~8000年前頃のイシャンゴ文明には石臼・粉砕用石器と多くの骨製の銛と魚骨を伴っているとされ、「イシャンゴの骨」(その刻み目については数式説・カレンダー説あり)は「2万年前頃」とされていますが、2つの湖を繋ぐセムリキ川では9万年前の骨製の銛が見つかっています。―縄文ノート「61 世界の神山信仰」(210312)、「62 日本列島人のルーツは『アフリカ湖水地方』」、「70 縄文人のアフリカの2つのふるさと」(210422)、「111 9万年前の骨製銛からの魚介食文明論」(211128)参照

 

 この9万年前の骨製銛の発見は、この地のイシャンゴ文明の石臼・粉砕用石器も2万年前よりさらに遡る可能性を示しており、コーカサスからメソポタミア地方にかけてが原産地と考えられている小麦の1万年前頃の栽培説よりもはるかに古く、ミシャンゴ文明の粉食は前掲の図26で示したように西アフリカ原産のコメや雑穀の可能性が高く、未発見ですが全イネ科植物のマザーイネの原産地から考え、小麦もまた西アフリカ原産の可能性もあります。

 Y染色体D型人はヒョウタンだけでなく、イネ科穀類と石臼、銛を持ち、西アフリカからアフリカ東部湖水地方へ移住し、さらに赤道にそってインド洋岸を西に進んだ可能性について、調査・研究が求められます。

 なお、縄文土器のおこげの分析によれば、ドングリ・クリ主食説は成立せず主食はイモや豆であった可能性が高く、沸騰と吹きこぼれを示す縄文土器の縁飾りデザインとも符合します。縄文人は石臼(石皿)でドングリ粉を作っていたのではなく、イモもちや豆粉・コメ粉・ムギ粉・ソバ粉などを作っていた可能性が高いと私は考えます。さらなる調査・研究を期待しています。―縄文ノート「25 『人類の旅』と『縄文農耕』と『三大穀物単一起源説』」(140613・17→200903)、「26  縄文農耕についての補足」(200725→1215)、「29 『吹きこぼれ』と『お焦げ』からの縄文農耕論」(201123→1218)、「108 吹きこぼれとポンガ食祭からの縄文農耕説」(211116)、「109 日本列島そば好きラインー蕎麦と焼畑」(211121)、「縄文ノート113 道具からの縄文文化・文明論」(211208)参照

 

⑺ イモ米魚食革命

 前述の「ブラックミュージックの魂を求めてー環大西洋音楽文化論」(中村隆之、『世界』2023.10)では、アメリカ大陸に連行された奴隷たちが抵抗として手放さなかったアフリカ文化として「かぶり物、釣り、ドラミング」の3つを紹介し、「魚釣りの技術の伝来には諸説あります(アフリカ起源、先住民に学んだ、植民者に学んだ)」としていますが、この「魚釣り技術」は人類誕生に欠かせなかったDHA食に関わる西アフリカ・中央部アフリカ文化と考えます。―縄文ノート「81 おっぱいからの森林農耕論」(210622)、「縄文84 戦争文明か和平文明か」(210716)、「88 子ザルからのヒト進化説」(210728→08015)、「89 1 段階進化論から3段階進化論へ」(210808→220106)、「141 魚介食進化説:イモ・魚介、ときどき肉食」(220611)参照

 すでにみたように東アフリカ湖水地方のイシャンゴ文明では9万年前の骨製銛が見つかっており、漁労文化は西アフリカ・中央部アフリカ・東部アフリカ湖水地方で人類誕生とともに始まり、日本列島では沖縄県南城市のサキタリ洞窟(3万年前頃)からは2.3万年前頃の世界最古の巻貝製の釣り針2本が見つかり、さらに各地の縄文遺跡からは釣り針と銛、漁網用の土器錘が見つかっており、イモ米魚食文化を持ったY染色体D型・O型人の「海の道」移動を裏付けています。―縄文65 旧石器人のルーツ」(210403)、「67 海人(あま)か山人(やまと)か?」(210409)、「111 9万年前の骨製銛からの魚介食文明論」(211128)、「161 『海人族旧石器・縄文遺跡群』の世界遺産登録メモ」(230226)参照

 

⑻ 土器鍋食革命

 人類の食の大革命は、土器鍋食と石窯食・土器窯と考えます。

 西洋中心史観は「肉食ゴリラーマン(キン肉マン)史観」の「焼肉進歩史観」ですが、アフリカ・アジア中心史観の「ホモサピエンス(賢い人)」の「糖質DHA食進化説」「イモ・イネ・マメ・魚介食進化説」では、土器鍋と石窯・土器窯・石臼による「煮炊き食・竃食進化説」「粒食・粉食・もち食進化説」になります。

 日本列島最古の土器は青森県の大平山元(おおだいやまもと)遺跡から出土した16000~15500年前頃の表面に炭化物の付いた無文土器ですが、その用途について通説は魚・肉・ドングリを炊くためとし、私は主食のイモや麦・ソバ、粟・黍・稗、豆(小豆や緑豆)などの栽培作物やキノコ・魚介・肉の煮炊きに使ったと考えています。―縄文ノート「4 『弥生時代』はなかった」(200124)、「8 『石器―土器―鉄器』時代区分を世界へ」(200223)参照

 パンの場合、今もアラブの遊牧民がやっているように小麦粉を水で練って熾火(おきび)の上や灰の中で焼くのは古代メソポタミアで8000〜6000年程前(14400年前頃説も)から行われ、エジプトでは5000年前頃に石窯焼きパンが、スイスでも5700~5600年前頃にうまれたとされています。しかしながら、前述のように東アフリカ湖水地方の20000~8000年前頃のイシャンゴ文明には石臼・粉砕用石器があり、西アフリカの4000~3000年前のブルキナファソ古代製鉄遺跡群の溶鉱炉は女性が煮炊き料理を行う窯から発達したのは確実であり、パン食と石窯のルーツはアフリカ起源の可能性があると考えられ、調査・研究が求められます。

 このような石窯利用と較べても、わが国の16000~15500年前頃の土器鍋の歴史は古く、また竪穴式住居のかまど(後述の4⑻参照)をみると、焼けた石の上でイモやパンを焼くことは可能であり、縄文人は煮炊き食とともに石焼食を行っていた可能性が高いと考えます。土器鍋食については、ドラヴィダ族の土鍋を使う「ポンガ食祭」が伝わってきた可能性があり、インドでの調査・研究が望まれます。

 縄文食というと「石臼ドングリ粉食」とされていますが、おこげ分析から否定されており、見直す必要があると考えます。―縄文ノート「29 『吹きこぼれ』と『お焦げ』からの縄文農耕論」(201123→1218)、「「108 吹きこぼれとポンガ食祭からの縄文農耕説」(211116)参照

 

⑼ アフリカからの食の歴史研究へ

 これまでの西洋中心史観や中華中心史観のもとでは、日本列島人や倭音倭語の起源だけでなく、稲作・コメ食やイモ作・イモ食、ソバ作・ソバ食、豆作・豆食、モチモチ・ネバネバ食、粉食などの農業・食生活の起源はアジア中心に論じられてきており、アフリカをルーツとする研究はほとんど手が付けられていない印象を受けます。

 若い各分野の研究者による本格的な取り組みを求めたいところです。

 


縄文ノート178 「西アフリカ文明」の地からやってきたY染色体D型日本列島人 1/4

2023-09-16 11:37:13 | 縄文文明

 世界の女神関係の本を読み漁っていたのですが、「縄文ノート177 約5000年前のスペイン女王が示すアフリカ・西欧西岸人類拡散説」を書き、縄文ヒョウタンの原産地のニジェール川流域に4000~3000年前の世界文化遺産の「ブルキナファソ古代製鉄遺跡群」と「米魚食」の「西アフリカ文明」があり、Y染色体D型の縄文人のルーツであるという説を先にまとめたくなりました。

ある大学教授はFB(フェイスブック)で日本人は中国系というような主張をされており、ウィキペディアでもそのような図表などがあり、水田稲作を伝えた「弥生人=長江流域中国人=Y染色体O型人」による縄文人征服説がみられますが、日本人起源論の検討ではアフリカでの人類誕生から日本列島にやってくるまでの全行程のDNA・言語・文化・宗教の解明が不可欠と考えます。これまでの私の説について、再度、修正を加えながらまとめておきたいと思います。

なおこれまでのブログでは個々の分析で間違ったところもありますが、修正しないでここで正したいと考えます。

<目次>

1 Y染色体亜型(ハプロタイプ)からみた日本人

 ⑴ Y染色体亜型の分布

 ⑵ 7つの日本列島人形成説

 ⑶ 縄文人はY染色体D型か?

 ⑷ O型人は東南アジア人か、長江流域中国人か?

 ⑸ C型人は北方系か、南方系か?

2 言語からみた日本人のルーツ

 ⑴ 「主語-目的語-動詞」(SOV)言語である

 ⑵ 縄文語は倭音倭語

 ⑶ 農耕・食物語のルーツ

 ⑷ 宗教語のルーツ

 ⑸ 性器語のルーツ

 ⑹ 倭音倭語のルーツはドラヴィダ(タミル)語

3 食物・食文化からみた日本人のルーツ

 ⑴ イモ食のルーツ

 ⑵ 稲作のルーツ

 ⑶ 雑穀・根菜・イネのルーツ

 ⑷ 「モチモチ・ネバネバ食」のルーツ

 ⑸ 「ソバ・豆」のルーツ

 ⑹ 粉食のルーツ

 ⑺ イモ米魚食革命

 ⑻ 土器鍋食革命

 ⑼ アフリカからの食の歴史研究へ

4 宗教からみた日本人のルーツ

 ⑴ 縄文人の霊(ひ:死霊・祖先霊)信仰

 ⑵ ドラヴィダ族、雲南省イ族、タイ農村部、チベット、ビルマ、卑南・匈奴・鮮卑の「ピー」信仰

 ⑶ 「ポンガ」の赤米・カラス行事

 ⑷ 「神山天神信仰」

 ⑸ 「神籬(ひもろぎ:霊洩木)」信仰

 ⑹ 「龍神」信仰

 ⑺ 妊娠土偶・女神信仰

 ⑻ 男性器信仰

 ⑼ 仮面と太鼓

 ⑽ 霊(ひ)信仰から自然信仰・神使信仰・精霊信仰へ

5 西アフリカで「命(DNA)の祭典」「人類誕生の祭典(マザーランド・フェスティバル、バースランド・フェスティバル)」を

 ⑴ 海人(あま)族と山人(やまと)族~日本列島への移動ルート

 ⑵ 「Y染色体亜型アフリカ単一起源説」か「メソポタミア中継分岐説」か?

 ⑶ 西アフリカで「命(DNA)の祭典」「人類誕生の祭典」を! 

 

1 Y染色体亜型(ハプロタイプ)からみた日本人

⑴ Y染色体亜型の分布

 日本人のY染色体亜型(ハプロタイプ)は、ウィキペディアによれば、Ⅾ型が34.7%(アイヌは87.5%)、O1a型が0%、O1b型が31.7%(アイヌ0%)、O2型が20.1%(アイヌ0%)、C型が8.5%(アイヌ12.5%)となっています。―縄文ノート「43 DNA分析からの日本列島人起源論」(210403)、「46 太田・覚張氏らの縄文人『ルーツは南・ルートは北』説!?」(201018→210124)」参照

 そもそもサンプル数が少ないという根本的な問題がありますが、Ⅾ型はチベット人41.3%、アンダマン人(ミャンマー沖のインド領の島)73.0%が多く、O1b型はベトナム人32.9%、韓国人32.4%、マレーシア32.0%などが、O2型は漢族(中国)55.4%、韓国人44.3%、ベトナム人40.0%、チベット人39.1%、タイ人35.3%、マレーシア30.0%が、C型は蒙古族53.0%、韓国人12.6%、チベット人8.7%が多くなっています。

 この日本人に多いD型、O1b型、O2型、C型の4グループについて、ウィキペディアには前にはなかった次の図2・3が追加されており、Y染色体D型とともにO型人が一緒に東インド・ミャンマーあたりから日本列島にやってきた縄文人であるという私の仮説がより確かになってきたと考えます。

 Ⅾ型はインド東部・チベット・ミャンマー・アンダマン諸島・雲南と日本に濃く分布し、O1b型はインド東部・東南アジアに濃く、O2型はインド東部・東南アジア・中国に、C型はシベリア・モンゴル、オーストラリア西部に濃く分布しています。

 この図1~5からは、日本人の起源について次のようなことが明らかです。

① Y染色体D型人は、アフリカでC型人からD型人とE型人とに分かれ、さらに東インド・ミャンマーあたりでチベット人と分かれて日本列島にやってきており、韓国人・漢族(中国)にはほとんど見られないことから彼らと交わる機会のある陸路ではなく「海の道」をやってきた可能性が高い。

② Y染色体C型人は、アフリカから赤道に沿って「海の道」を東南アジアに進み、北上して中国・モンゴル・シベリア、日本列島に、南へオーストリアに広がったとみられる。

 C型人はマンモスなど大型動物を追って「マンモスの道」を東に進んでから中国・東南アジアに南下したという説がみられるが、中国のC型人はずっと後の乗馬が確立した紀元前4500年ころから「草原の道」を通っての遊牧民が加わった可能性がある。詳しくは後述したい。

③ Y染色体O型人もまた、アフリカから中東をへて「海の道」を東に進んで東南アジアから中国・シベリアに広がり、日本列島にやってきたと考えられる。

 

⑵ 7つの日本列島人形成説

 これらのデータはそもそもサンプル数が少なく、さらにどの時代の移動かははっきりせず、現代人のDNAだけから縄文・古代日本人の起源を判断するのは危険きわまりないのですが、日本人がD型、O型2種類、C型の4タイプのDNAで構成されていることは確かです。

 しかしながら、いつ、どこから、どのような順番・ルートでアフリカから日本列島にやってきたのかでは説が分かれます。

 第1の論点は、D型が縄文人、O型が水田稲作の技術を持ってわが国にやってきた弥生人(長江流域中国人・韓国人)という「2重構造説」です。

 しかしながらO1・O2型は中国人・朝鮮人(弥生人)とは限定できず、東インド・東南アジア系でD型人と交わって日本列島に「海の道」をやってきた可能性があり、言語・稲作・生活文化・宗教などから総合的に判断する必要があります。

 第2の論点は、D型が現代のアイヌに多いことや東日本に縄文遺跡が多く、竪穴式住居などから縄文人を北方系とする説です。

 問題は、縄文遺跡が東日本に偏在して発見される一方、西日本に少ないのは、西日本では縄文遺跡が丘陵市街地の下に埋もれてしまい発見数が少ない可能性が高いことと、アイヌが旧石器・縄文時代以後にも日本列島にやってきた可能性が高いことです。

 以下、検討を進めたいと思います。

 

⑶ 縄文人はY染色体D型か?

 D型日本人34.7%(崎谷26~40%)を縄文人とするのは多くの学者に共通していますが、篠田謙一・崎谷満・斎藤成也・神澤英明氏は北方系、太田博樹・覚張(かくはり)隆史氏は「ルーツは南、ルートは北」説です。

 まず、Ⅾ型は蒙古族1.5%、韓国人1.6%、漢族0.6%にほとんど見られず、図6からみても中国・朝鮮半島経由は考えにくく、他の部族と交わることなく「海の道」をやってきた可能性が高いと考えます。なお、ウィキペディアでは元は左図でしたが現在は右図に換わり、モンゴル・中国・韓国などは2~10%の色分けとなっており、現段階の少ないDNAデータから科学的な判断を行うには限界があることを示しています。

 また「東夷」と呼ばれ、わが国と同じ「主語-目的語-動詞」(SOV)言語で、ピー(祖先霊)信仰、倭(い)族名、烏信仰(烏帽子、烏神事)、「銕(金+夷、和音:くろがね、呉音:テチ、漢音:テツ)」字に関係しそうなイ族(夷族・倭族、烏蛮)が古くは長江流域に住み、倭人のルーツではないかとの仮説を私は考えていましたが、Y染色体D型はイ族(サンプル数125人)には0.8%しかなく漢族(同166人)の0.8%と同じであり、台湾原住民(246人)が0.0%であることからみても、東夷のイ族が台湾をへて日本列島にやってきた可能性はないと今のところ考えています。イ族にはK型が28.0%ありウイグル族と近く日本人0.0%とは異なっており、東インド・ミャンマー山岳地帯の同じ照葉樹林帯文化圏の別のDNA族とみられます。

 アイヌはD型が87.5%と日本人34.7%より多い一方、南方系のO型を含まず、蒙古族に53.0%と多いC型を12.5%ふくむため、蒙古族などと接触してシベリアを移動してきた北方系の可能性が高く、日本人もC型が8.3%含まれるため、篠田・崎谷氏らの縄文人北方説がでてきたと考えられます。

 私もD型人の一部はチベットからシベリアを通り日本列島にやってきたと考えますが、Ⅾ型人の多数は表1・図6から東インド・チベット・ミャンマー・アンダマン諸島から「海の道」を移動したと考えています。後にさらに総合的に検討します。

 細石刃文化(19000~12,000年前)からの北方説が見られますが、全国で500個所を超える細石刃遺跡は北海道と九州に多く、北東日本型と南西日本型の二つの分布圏に分かれており、北方説の決め手にはなりません。

 また黒曜石文化は図7のように活火山のあるアフリカからインドネシア・フィリピン経由で伝わった可能性が高い南方系であり、その日本海の両岸における分布は南方系の海人族交易によるものです。

 石器文化と海洋交易からは南方系とすべきなのです。―縄文ノート「27 縄文の『塩の道』『黒曜石産業』考」(201216)、「44 神名火山(神那霊山)信仰と黒曜石」(201014→→210120)、「61 世界の神山信仰」(210312)、「144  琉球の黒曜石・ヒスイ・ソバ・ちむどんどん」(20627)

 このD型が人類拡散史にとって極めて大きな意味を持つのは、C型から分かれたD型・E型のうち、E型が西アフリカ熱帯雨林地域に残っており、さらにニジェール川河口部のナイジェリアでD型人が3人見つかっていることです。この事実は、C型からのⅮ・E型の分岐点がこの西アフリカ熱帯雨林地域であることを示しており、この地域をルーツとしたC型DNA保持者がいずれ発見されるとともに、Ⅾ型人もさらに見つかるに違いないと私は考えています。

 さらに重要な点は、このニジェール川・コンゴ川流域の熱帯雨林が人類と分岐したチンパンジー・ボノボの生息地域であり、熱帯雨林で果実などを食べていたチンパンジー・ボノボが、地上に降りてイモ類や豆・穀類、海・川・沼の半身浴で魚介類などを採集して脳の働きに欠かせない糖質・DHA食を実現し、メスの共同子育てとの母子のおしゃべり・歌・会話によって頭脳を発達させ、半身浴採集で二足歩行と手の機能を向上させた可能性が高いことです。―縄文ノート「81 おっぱいからの森林農耕論」(210622)、「85 『二足歩行』を始めたのはオスかメス・子ザルか」(210713)、「87 人類進化図の5つの間違い」(210724)、「88 子ザルからのヒト進化説」(210728)、「89 1段階進化論から3段階進化論へ」(210808)参照

 考古学者は人骨化石から人類の起源地をアフリカ東部地域と推定していますが、熱帯雨林の酸性土壌では人骨や木器・骨角器などは残らないという物理法則を無視した説であり、現在もチンパンジー・ボノボが棲み、果実やイモ類、魚介類などが豊富で、Y染色体E1b1型人が住む熱帯雨林こそ、人類誕生の地と私は考えます。―縄文ノート「62 日本列島人のルーツは『アフリカ高地湖水地方』」(210316)、「70 縄文人のアフリカの2つのふるさと」(210422)参照

 川カニを食べるマスクチンパンジーが発見されたギニア山地を源とし、サハラ砂漠の南を東に進み、ナイジェリアチンパンジーの棲むナイジェリアでギニア湾に注ぐニジェール川流域は、若狭の鳥浜貝塚や青森の三内丸山遺跡から発掘された縄文ヒョウタンの原産地であり、さらにニジェール川は魚類が豊富で、雨季に水没するニジェール川内陸三角州の氾濫原(面積は九州とほぼ同じ)は水稲の原産地の1つであり、2000年前には既にこの地で稲作が行われ、日本人と共通する「米魚食文化」があったのです。

 なお、9万年前の骨製の銛がコンゴ民主共和国(ザイールは1971~97年の国名)のセムリキ川(エドワード湖から北に流れアルバート湖に注ぐ)で見つかっており、このエドワード湖とアルバート湖のほとりの高地湖水地方に20000~8000年前頃のイシャンゴ文明があり、穀類を粉にする石臼・粉砕用石器とともに多くの骨製の銛と魚骨を伴い、糖質・魚介食であったことは木村愛二氏が『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』で紹介しており、ニジェール川流域でもいずれ石臼・粉砕用石器や骨製銛が見つかる可能性があると考えています。―「縄文ノート111 9万年前の骨製銛からの魚介食文明論」(211128)参照

 私の次女は青年海外協力隊員としてニジェールに赴任していたことがあり、素晴らしいヒョウタン・ランタンを土産にもらい、米を食べているという話を聞いてびっくりしたことがあったのですが、私たち黄色人はそのルーツを考えるにあたっては「母なるアフリカ」原点から出発すべきなのです。

 このニジェール川氾濫原の南のブルキナファソには4000~3000年前の世界文化遺産の「ブルキナファソ古代製鉄遺跡群」があり、ヌビア(スーダンのクシュ文明)からブルキナファソまで、4000年前頃から「アフリカ横断アイアンロード(鉄の道)」があった可能性があり、ヒッタイトでの製鉄より早く、エジプト文明を西アフリカ製鉄が支えた可能性があると私は考えています。―縄文ノート「122 『製鉄アフリカ起源説』と『海の鉄の道』」(220210)、「136 『銕(てつ)』字からみた『夷=倭』の製鉄起源」(220427)参照

 図8で明らかなように、西アフリカのY染色体E1b1型から北アフリカからエチオピアにかけてのY染色体E1b1bが派生した可能性があり、エジプト文明もまたこの西アフリカをルーツとする可能性が高いと考えられるのです。

 ニジェール川河口のナイジェリア中央部のノクからは大量のテラコッタの人物像と鉄の鉱滓(カナクソ)、通風管の破片、鉄の鉱滓、溶鉱炉の痕跡が発見されており、4つの炭化木片は紀元前約3500年、2000年、900年、紀元後200年を示し、ウィキペディアはこの「ノク文明」を「紀元前10世紀から紀元後6世紀頃」としています。

 さらにこの西アフリカ地域のセネガンビア(セネガル)には8~12世紀の1045カ所の環状列石があり、私は「大西洋東岸人類拡散説」(西アフリカ海岸北上→スペイン→イギリス・アイルランド)を考え、スペイン・イギリス・アイルランドのストーンサークルに先立ち、セネガンビア(セネガル)にはさらに古い環状列石があった可能性があると考えています。―「縄文ノート177 約5000年前のスペイン女王が示すアフリカ・西欧西岸人類拡散説」(230805)参照

 日本における製鉄は通説では6世紀で、私は出雲国風土記が大国主を「五百鉏々猶(なお)所取り取らして天下所造らしし大穴持」とし、日本書紀が大国主を「建国王・天下経営王・農業技術王・百姓王」とみなしていることからみても製鉄の起源は1・2世紀のスサノオ・大国主一族に遡ると考えていますが(遺跡は未発見)、この西アフリカ地域にはそれをはるかに遡る4000~3000年前に製鉄を行う「西アフリカ文明」があったのです。―縄文ノート「121 古代製鉄から『水利水田稲作』の解明へ」(220205)、「125 播磨・吉備・阿蘇からの製鉄・稲作・古墳の起源論」(220226)、「136 『銕(てつ)』字からみた『夷=倭』の製鉄起源」(220427)参照

 5000年前頃からのエジプト文明に先立ち、人類発祥の地であるこの西アフリカの地には最古級の製鉄遺跡があり、「西アフリカ文明」として世界史にはっきりと位置づける必要があると考えます。

 崎谷満氏は『DNAでたどる日本人10万年の旅』でY染色体D型の縄文人がアフリカを出たのは38300年前頃としていますが、彼らはヒョウタンだけでなく「雑穀(中尾佐助氏)」と「米魚食文化」(アフリカ米とインド米はDNAは異なる)をこの地から引き継いで南・東南アジアを経て日本列島にやってきた可能性が高いと私は考えています。

 

⑷ O型人は東南アジア人か、長江流域中国人か?

 日本のO1b型人31.7%は、表1・図17からみて、東インド・東南アジア(ベトナム・マレーシアなど)から「海の道」をD型日本人と一緒に移動してきた可能性が高く、韓国人にも32.4%みられることからみて、同時期に南方から日本列島と朝鮮半島にたどり着いたと考えられます。

 韓国人にはD型が少ないのですが、韓国南部でのDNAデータがさらに増えれば、O1b型と同時にやってきた可能性もあります。三国史記新羅本紀は紀元59年に4代新羅王の倭人の脱解(たれ)が倭国と国交を結んだと書き、日本書紀一書にはスサノオが子のイタケル(五十猛=委武)を連れて新羅に渡ったという記載があることからみても、この頃から倭人と新羅とは活発に交流・米鉄交易を行っていたのです。―縄文ノート「53 赤目砂鉄と高師小僧とスサ」(201106→210208)、「83 縄文研究の7つの壁―外発的発展か内発的発展か」(210703)参照

 O2型日本人20.1%は、表1の漢族(中国)55.4%、韓国人44.3%、イ族(夷族・倭族、烏蛮:四川・雲南、チベット・ビルマ語系)28.8%、ベトナム人40.0%、チベット人39.1%、タイ人35.3%、マレーシア30.0%であり、図18をみると東インド・ミャンマー北部が色濃く、O1b型・O2型のどちらもがこの地がルーツで、Ⅾ型と一緒に海の道を通ってやってきた可能性があり、その後の漂着あるいは移住でその割合が高くなったと考えます。

 これまで、水稲栽培の伝播からこのO型日本人を弥生人(長江流域中国人・韓国人)とみなす説が大勢を占めてきましたが、後に稲作関係の言語と稲のDNAから検討したいと思います。

 中国からは竹筏の漁民が今もしばしば漂着しており、孔子が「道が行なわれなければ、筏(いかだ)に乗って海に浮かぼう」と述べたように春秋戦国時代から戦乱を逃れ、あるいは新天地を求めて、O型中国・朝鮮人が少しずつわが国にやってきた可能性を考える必要があります。―縄文ノート「66 竹筏と『ノアの方舟』」( )「152 朝鮮ルート、黒潮ルートか、シベリアルート、長江ルートか?」(220918)参照

 東南アジアや中国のように言語・文化の異なる多くの少数民族がいないわが国では、Y染色体D型人とO型人は東南アジアで交わって一緒にやってくるとともに、縄文人の後にやってきたO型人はまとまった部族集団ではなく、少数の男が何度もやってきて、妻問婚により言語・文化は縄文人に同化したと考えます。

 

⑸ C型人は北方系か、南方系か?

 C型日本人8.5%、C型アイヌ12.5%は、C型が蒙古族53.0%、韓国人12.6%、チベット人8.7%、マレーシア6.0%、漢族6.0%などに見られることからみて、北方系と考えられてきました。

 問題は図4からこのC型人をマンモスなどの大型動物を追ってシベリアへ進んだ部族とし、C型人からF型、K型を経て分岐したO型人を北方系狩猟民が南下してきたとみなす西欧肉食史観・ウォークマン史観・中華中心史観の根強い思い込みがあることです。

 アフリカの熱帯雨林で果実などを食べていたチンパンジー・ボノボが、地上に降りて棒でイモ類や海や川・沼の半身浴で魚介類などを採集し、糖質・DHA食とおしゃべり・会話によって頭脳を発達させたA型・B型・C型・D型人などは、果物・イモ類・魚介類が豊富で塩分を確保できる熱帯地域海岸にそってまずC型・D型人がアフリカを出て水平拡散し、それぞれ河川を遡って内陸部を北に進むとともに、一部はユーラシア大陸の東海岸に沿って北上したと考えられます。 

 その後、インド・東南アジアでC型人から分岐したO型人が農耕を開始して北上すると、漁撈・狩猟好きのC型人はシベリアや日本列島、オーストラリアに新天地を求めて拡散した可能性が高く、あるいは伝染病の感染を避けて辺境に向かった可能性も考えられます。

 シベリアの狩猟民のC型人からO型人が分かれて中国人となり、さらには東南アジア・オーストラリアに拡散したという中華史観の南下拡散説には合理的理由はありません。

 

2 言語からみた日本人のルーツ

 Y染色体DNAからみて日本人はD型・O型・C型の本土・琉球人とⅮ型・C型のアイヌの2民族であり、東南アジア諸国や中国・台湾などのように言語・文化を異にする少数民族の多い多民族国家にならなかったという特徴があります。

 そこでまず言語からそのルーツをさぐっていきたいと思います。―縄文ノート「41 日本語起源論と日本列島人起源説」(200918→210112)、「42 日本語起源論抜粋」(210113)、「153 倭語(縄文語)論の整理と課題」(220928)参照

 

⑴ 「主語-目的語-動詞」(SOV)言語である

 日本語と朝鮮語は「主語-目的語-動詞」(SOV)言語であり、「主語―動詞-目的語」(SVO)言語の中国や東南アジア諸国とは異なります。

 この言語構造からみてそのルーツはインド・チベット・ミャンマーから、さらに中央アジア・西アフリカにさかのぼると考えられます。―「季刊日本主義42号 言語構造から見た日本民族の起源」(2018夏)、スサノオ・大国主ノート「倭語論3 『主語-目的語-動詞』言語族のルーツ」(200125)、縄文ノート「97 『3母音』か『5母音』か?―縄文語考」 (181210→210922)、「115 鳥語からの倭語論」(211213)参照

 

⑵ 縄文語は倭音倭語

 語彙でみると、ほとんどの日本語は「倭音倭語・呉音漢語・漢音漢語」の3層構造であり、アメリカ軍の占領下にあった影響で、戦後は数詞や身体語、生活語などの一部には「英語」が加わった4層構造となっています。

 ここから「倭音倭語の縄文人を呉音漢語の弥生人が征服した」などという説がでてきそうですが、呉音漢語・漢音漢語は漢字2文字の熟語に使われることが多く、例えば「日本」を「呉音:ニチ・ニッ」+漢音・呉音:ホン」から「ニホン・ニッポン」と連呼しているのは中国語読みなのです。「嫌中派」の皆さんは倭音倭語の「ひのもと・ひなもと」に言い換えて応援してはどうでしょうか? ちなみに、大国主に国譲りさせた穂日の子の「武日照命(たけひなてるのみこと)」は「武夷鳥命・天夷鳥命」とも書かれ、「日=夷」で「ひな」と読んでいました。

 このような漢音・呉音読みは漢字が入る前ではなく、スサノオ・大国主一族の外交・交易や遣隋使・遣唐使などの僧侶・役人によって漢字がわが国にもたらされ、江戸時代に寺子屋や読み物などが普及してから以降と考えられています。

 倭音倭語こそが1万数千年にわたりY染色体Ⅾ型・0型の縄文人が使ってきた言語なのです。

 

⑶ 農耕・食物語のルーツ

 言語は交流・交易、移動、侵略により変化しますが、他民族との接触が少ない地域ではほとんど変化せず、その典型例が1万年数千年の歴史をもつ倭音倭語で、紀元前後からの漢字導入とともに呉音漢語・漢音漢語を借用して3層構造となったのです。

 ではこの倭音倭語のルーツはどこなのでしょうか? その検討においては、日本語は中国語、対照語は侵略民族語など他言語から影響を受けにくい単語を比較する必要があります。侵略者の基本単語(数詞や身体語など)を統計的に比較する西洋中心史観(白人中心史観)の手法をサル真似すべきではありません。インドヨーロッパ語族などの分析は、ナチスのアーリア人説と同じであり、東欧・中央アジア・インドなどの植民地支配を正当化したい西欧人の願望にもとづく分析であり、被征服者の言語からの分析に変える必要があると考えます。

 私が小学生の頃には日本語は「ウラルアルタイ語」と習い、その後、南方語説(オーストロネシア語説)、朝鮮語説、ドラヴィダ(タミル)語説があることを知りましたが、いまだに倭音倭語のルーツについて決着がついていないのは方法論の整理ができていないからと考えます。

 私は支配民族の影響や文化的影響を受けやすい各国の言語ではなく、それらの影響を受けにくい各国の農耕語や原宗教語、性器語(隠語)などの比較から日本語のルーツを捜すべきと考え、大野晋氏の「ドラヴィダ(タミル)語説」に注目しました。―縄文ノート「25 『人類の旅』と『縄文農耕』と『三大穀物単一起源説』(140613→201213)、「26 縄文農耕についての補足」(200725→1215)「153 倭語(縄文語)論の整理と課題」(220928)

 まず生活文化の基本となる農業・食物語をみると表3・表4のとおりです。 

 焼畑農耕や水田農耕が中国の長江(揚子江)流域の中国人から伝わったのなら、これらの農耕語や食物・食事関係語は呉音漢語であるはずですが一語も見当たらず、倭音倭語がドラヴィダ(タミル)語と似ていることからみて、倭音倭語のルーツはドラヴィダ(タミル)語の可能性が高いと言えます。

 さらに、表5の食物や料理に関わる単語にもドラヴィダ(タミル)語との類似がみられ、倭音倭語ドラヴィダ(タミル)語ルーツ説を裏付けています。

 

⑷ 宗教語のルーツ

 大野晋氏の『日本語とタミル語』『日本人の神』によれば、タミル語の「ko」は「神・雷・山・支配」を、「kon」は「神・王」を、「koman」は「神・王・統治者」を表し、タミル語の「o」は日本語の「a」に対応するので、「かん(神主、神原、神崎などに使われる)」を示しています。―「縄文ノート37 『神』についての考察」参照

 その他、マツル、ハラフ、イミ、ハカ、ヒなどの宗教語に類似性が見られますが、倭音倭語の「霊(ひ)」に対応する「pee(ぴー)」(自然力・活力・威力・神々しさ)については、宗教論のところで検討したいと思います。

⑸ 性器語のルーツ

 小学生の時に父が押し入れに隠していた安田徳太郎氏の『人間の歴史』を密かに盗み見したこと思い出しますが、性器語について表7のように東南アジアの国々との対応が見られます。―縄文ノート「41 日本語起源論と日本列島人起源説」(200918→210112)参照

 ドラヴィダ語の性器語について大野晋氏は取り上げていませんが、Y染色体D型・O型族は東南アジアの沖の海中に没したスンダランド(72000~16000年前頃の氷期には陸地であったが、紀元前14000~6000年前頃にかけて海底に没した)を経由して「主語-動詞-目的語」言語族の単語や文化を吸収し、日本列島にやってきたと考えられます。

 なお、ブータン語の男性器「ボー」は、日本語古語では「ポー」であり、女性器名の琉球方言の「ホー,ボー、ホーミ」や九州方言等の「ボボ」、古事記等の「ホト」、さらには「チンポ」となった可能性があります。―縄文ノート「41 日本語起源論と日本列島人起源」(200918→210112)、「94 『全国マン・チン分布考』からの日本文明論」(181204→210907)参照

 

⑹ 倭音倭語のルーツはドラヴィダ(タミル)語

 以上、言語構造と希少性・恒常性のある農業語・宗教語・性器語から、倭音倭語のルーツがドラヴィダ(タミル)語であり、東南アジア語や呉音漢語・漢音漢語を借用して現在の日本語となったことを明らかにしてきました。西欧中心史観の基本単語(数詞や身体語など)の統計的分析を機械的に当てはめての大野説批判は、アーリア人の侵入により支配下におかれたドラヴィダ族の言語に当てはめるのは誤っています。

 大野晋氏の説こそ正しかったのであり、他の言語ルーツ説の研究者は、農業語・宗教語・性器語についてより類似性の高い言語を提示すべきであり、それができないなら大野説を承認すべきでしょう。

 なお前述のように、ドラヴィダ人はY染色体H型が多く、Ⅾ型・O型の縄文人とは言語・文化を同じくする別部族であったと考えられます。