ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート

「神話探偵団~スサノオ・大国主を捜そう!」を、「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート」に変更します。雛元昌弘

スサノオ・大国主建国論6 壱岐・対馬の海人族の国生み神話

2022-12-22 17:12:33 | スサノオ・大国主建国論

 前回の「別天神(ことあまつかみ)五柱」「神世七代」に続き、その最後の伊邪那岐(いやなぎ)・伊邪那美(いやなみ)(以下、イヤナギ・イヤナミと表記)のオノゴロ島への「天降り」、「14の島生み」について分析を進めたい。

 

⑴ 「淤能碁呂嶋(おのごろじま)」意宇川河口の揖屋

 天神(あまつかみ)たちは「この漂へる国を修理し固め成せ」と言って、イヤナギ・イヤナミを天の浮橋に立たせて「天の沼矛」を指し下して塩をこおろこおろにかきまぜ、矛の先よりしたたり落ちた塩が積もって「淤能碁呂嶋(おのごろじま)」ができたとし、倉野・古事記注は「天の浮橋」を「神が下界へ降りる時に天空に浮いてかかる橋」とし、「オノゴロ島」は「自然に凝って出来た島の意。所在不明」としている。

 この「オノゴロ島」については、淡路島北岸の淡路市「絵島説」(本居宣長)、淡路島南の南あわじ市「沼島説」、淡路島東の和歌山市「友ケ島(沖ノ島)説」、福岡市の「能古島説」(古田武彦)などがみられるが、私は「オノゴロ」という島名の意味、イヤナミの名前と墓所、イヤナミを祀る揖屋神社からみて、出雲の意宇川河口の東出雲町の「揖屋説」を提案してきた。

    

 まず「オノゴロ島」は「塩が積もって自ずから凝(こ)った島」とされていることからみて、河口の葦原の沖積地(現揖屋平野)の可能性が高い。古事記はイヤナミが葬られた黄泉の国の入口の黄泉比良坂を出雲国の「伊賦屋坂」とし、イヤナミを祀る揖屋神社があることや、イヤナミの霊(ひ)が葬られたのが意宇川上流の比婆山(霊場山)であることからみて、「オノゴロ島揖屋説」しかありえないと考える。

 淡路島の周辺の絵島説・沼島説・友ケ島説は後述の国生み神話が淡路島から始まっていることと大和中心史観に影響されたものであり、能古島説は「のこ島」と「オノゴロ島」の「能古=能碁」の類似と邪馬台国九州説から考えられたものであるが、出雲のイヤナミの揖屋とは程遠い場所であり、葦が生えるような汽水域のある島ではなく、明確な根拠はない。

 本居宣長の淡路島の「絵島説」であるが、絵島の岩屋には学生時代によく通ったが小さな岩礁であり、そこに天御柱(あめのみはしら)と八尋殿(やひろどの)など建てられるはずもなく、この点だけからみても本居宣長は皇国史観の空想家にすぎず、天照大御神を「あまてる」でなく「あまてらす」と読ませるなど信用していない。

        

 なお、倉野・古事記注は「天の浮橋」を「天空の橋」としているが、「イヤナギ・イヤナミを天の浮橋に立たせて」という記述は壱岐の海人族の王(天神(あまつかみ))たちが浮橋(浮き桟橋)からイヤナギたちを出航させて(=立たせて)対馬暖流を下らせたことを表現しているにすぎない。

 また「淤能碁呂嶋(おのごろじま)」は「自ずと凝って出来た島」とされているが、「オのゴロ島」で、「意宇川(おう郡のおう川)」の「ゴロ島」を指していた可能性もある。意宇川上流にはスサノオを祀る熊野大社、中流にはイヤナギ・イヤナミを祀る神魂(かもす)神社(醸す=産む)やスサノオと稲田姫を祀る八重垣神社があり、後にこの地には出雲国庁や出雲国分寺が置かれた東出雲の中心地の歴史的に重要な地域であり、海人族はその意宇川の河口の中州(ゴロ島)を「オのゴロ島」と称した可能性もある。

 

⑵ 天下りしたのは海人(あま)族のナギ

 古事記によるとイヤナギ・イヤナミは一緒に揖屋に天下り、そこには天御柱(あめのみはしら)と八尋殿(やひろどの)があり、イヤナミが「あれまあ、いい男」と先に言って天御柱を廻ってセックスしたところ、水蛭子(ひるこ)が生まれたので葦船に入れて流し、次に淡島を生んだとされている。

 しかしながら、男は海に出て女は家を守る母系制の海人族の伝統は現在の漁家にまで伝わっており、それは男は戦にでる武家や専業主婦時代のサラリーマンにまで引き継がれている。このような母族社会においてイヤナミが男たちに交じって航海にでたとは考えにくく、ナギ(凪)だけが出雲の「揖屋」に交易にきたとしか考えられない。そこには天御柱(あめのみはしら)を神籬(ひもろぎ=霊洩ろ木:依り代)とし八尋殿を拝殿とする部族がいたのであり、その女王あるいは王女の「揖屋ナミ」にナギは妻問いし、「揖屋ナギ」と名乗るようになった可能性が高い。

 亀岡市にある丹波国一宮の出雲大神宮では大国主は「三穂津彦大神・三穂津姫」の夫婦名で祀られ、妻の「三穂津姫」の名前に合わせて「三穂津彦」と名乗っている。同じように海人族のナギは妻の「揖屋ナミ」に妻問いして入り婿となり「揖屋ナギ」を名乗るようになったのである。播磨国一宮の伊和神社に祀られている大国主が「伊和大神」と呼ばれているのも、この地の「伊和媛」(播磨国風土記に登場する石比売(いわひめ))に妻問いしたとみられる。

 古事記の「意富斗能地(おほとのぢ)・妹大斗之辨(いもおほとのべ)」や播磨国風土記の「伊和大神」の子の「阿賀比古(あがひこ)・阿賀比売(あがひめ)」「伊勢都(いせつ)比古・伊勢都比売」「石龍(いわたつ)比古・石龍比売」「玉足(たまたらし)日子・玉足比売」など多くのヒコ・ヒメ名の夫婦神は、妻問夫招婚により「○○姫の婿の○○彦」と名乗ったことを示している。

 なお、「天御柱」は平原遺跡や吉野ヶ里遺跡の「大柱」や、壱岐の古名の「天一柱(あめのひとつばしら)」、さらには出雲大社の「心御柱(しんのみはしら)」、仏塔の「心柱(しんばしら)」、住宅の「大黒柱」、諏訪や播磨の広峯神社の「御柱」と同じく、祖先霊の依り代(よりしろ)である「神籬(ひもろぎ)(霊洩木)」を示しており、そのルーツは縄文時代の木柱や巨木柱列に遡る。―はてなブログ・縄文ノート「33  『神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観』考」「78 『大黒柱』は『大国柱』の『神籬(霊洩木)』であった」「104 日本最古の祭祀施設―阿久立石・石列と中ツ原楼観拝殿」「106 阿久尻遺跡の方形柱列建築の復元へ」参照

 ここで注目したいのは八尋殿(やひろどの)で、「八尋(やひろ)」は両手を広げた長さの「尋」(1.8m)の8倍で14.4mになり、青森市の三内丸山遺跡の大型建物の短辺の長さが長さが15m、出雲大社の正面幅13.4mとほぼ合致しており、縄文時代からイヤナミ、大国主の時まで同一スケールの建築技術が続いていたことを示している。―はてなブログ「縄文ノート50 縄文6本・8本巨木柱建築から上古出雲大社へ」参照

     

 古事記はイヤナミが先に誘ってセックスしたところ骨のないヒルのような水蛭子(ひるこ)が生まれて海に流したというショッキングな流産話を載せているが、尊称「アマテル(天照)」の名前が「オオヒルメ(大日孁、大日女)」(筆者説:大霊留女)であることや「ヒミコ(卑弥呼=霊御子=霊巫女)」からみて、母系制社会の「ヒルメ・ヒルコ」の「女主導の婚姻・セックス」による「日留子(ひるこ)(霊留子)」誕生の話を「水蛭子(ひるこ)」誕生話に置き換えて否定し、父系制社会の「男主導の婚姻・セックス」に置き換えたものと考えられる。

 

⑶ 国生み神話

 「イヤナギ・イヤナミ」夫婦は水蛭子(ひるこ)と淡島を生んだのちに、今度は天御柱を分かれて廻りイヤナギが先に「あれまあ、いい乙女」と、次にイヤナミが「あれまあ、いい男」と言ってセックスし、図2・3、表1のような順に国土を生んだとしている。

 行きに「(1)淡道之穂之狭別島、(2)伊予之二名島、(3) 隠伎之三子島、(4)筑紫島、(5)伊岐島、(6)津島、⑺)佐渡島、(8)大倭豊秋津島」を、還りに「①吉備児島、②小豆島、③大島、④女島、⑤知訶島、⑥両児島」を生んたというのである。

 神話的表現となっているが、「乗船南北市糴(してき)」(市糴(してき)=市+入+米+羽+隹(とり))の鳥船(帆船)による米鉄交易を行っていた壱岐・対馬の海人族が鉄先鋤を持って米の生産・交易圏を広げていった歴史を示しており、その範囲は対馬暖流と瀬戸内海であったと考えられる。すべての国が「島」と呼ばれていることであり、これは海人族が交易を通して拠点を広げたことを示している。

 問題は、「伊予之二名島」は「伊豫国、讚岐国、粟国、土左国」から、「筑紫島」は「筑紫国、豊国、肥国、熊曾国」から構成されているとしているが、他の島からみてもこの時代には陸地の面的な支配には及んでおらず、太安万侶は「表裏表現」(天皇家支配の権威を高めながら真実の歴史を示す)として、「島」の中に「国」を置くという表現を意図的に行ったと考える。

 「大倭豊秋津島」も倉野憲司注は「大和を中心とした畿内地域の名」としているが、「大倭」を除くと「豊秋津島」であり、古田武彦説の国東半島の大分空港のあるあたりの「安岐町」の安岐川河口の中州を指しているか、あるいは「豊」の勢力が進出した「安芸」の「津島(厳島など)」の可能性が高い。

 「伊予之二名島」は宇和島市に「二名(ふたな)」地名があることからみて「二名島」(比定地不明)が瀬戸内海にあった可能性があり、「筑紫島」も「筑紫の島」(陸地続きになる前の糸島など)の可能性が高いと考える。

 また「知訶島、両児島」は倉野注では長崎県の「五島列島、男女群島」に比定しているが、別名の「(あめ)之忍男(のおしお)(あめ)両屋(ふたや)」に「天」が付いていることからみて、博多湾沖の志賀島(近島伝承)、山口県の双子島の可能性が高いと考える。「女島」については、倉野注では大分県国東半島の北にある「姫島」の可能性が高いが別名の「(あめ)一根(ひとつね)」からみると山口県の「女島」の可能性も考えられるが、瀬戸内海への進出拠点として「姫島」と比定した。

 筆者説の図3をみていただくと、壱岐・対馬の海人族が玄界灘・響灘から対馬暖流に乗って沖ノ島・佐渡島へ、瀬戸内海を厳島、大島、児島、小豆島、淡路島へと米鉄交易圏・稲作圏を広げていたことが浮かびあがる。

 図4のように玄界灘を中心にした古名「天(あめ=あま)」の付いた島々が壱岐・対馬から海人族が第1段階として交易拠点を広げた島々であり、さらに第2段階として筑紫島や佐渡島、伊予の二名島から淡路島へと拠点を広げ、第3段階として筑紫の沿岸・内陸部や出雲などに稲作拠点を広げたのである。

   

 古事記は行きに東から西へと「淡路島→隠岐島→筑紫島→壱岐→対馬→佐渡島→豊秋津島」と国づくりを進め、還りに「吉備児島→小豆島→大島→女島→知訶島→両児島」と国づくりを進めたとしているが、還りもまた東から西へと西進しており、明らかに矛盾している。

 太安万侶のこのような矛盾した表記こそまさに古事記を貫く「表裏表記」であり、天皇家中心史を書きながら、同時に「行きは東進、還りは西進」という真実の歴史を手掛かりとして残したのである。「ありがとう」と言わざるをえない。

 ニニギについて大山津見の呪いで「天皇命(すめらみこと)等の御命長くまさざるなり」と書きながら、その孫のホホデミについて580歳(スサノオ・大国主16代の歴史を秘かに伝えるための調整)と書いているのと同じ巧妙な真実を伝える手法である。

 太安万侶を馬鹿にした薄っぺらな近代合理主義の反皇国史観から離れ、中国の司馬遷に匹敵する「史聖・太安万侶」として見直すべきと考える。ただ司馬遷は直球であるが、太安万侶は変化球であり、推理力を働かせ、複眼的に読まないと真実の歴史は見えてこないのであるが。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(前同42号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(前同43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

 ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

 ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

 帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

 邪馬台国探偵団    http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

 霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/


「縄文ノート155 素晴ら怪しい縄文論:COOL JAPAN~発掘!かっこいいニッポン〜『縄文〜Jomon~』」の紹介

2022-12-10 20:11:00 | 縄文文明

 はてなブログに「縄文ノート155 素晴ら怪しい縄文論:COOL JAPAN~発掘!かっこいいニッポン〜『縄文〜Jomon~』」をアップしました。https://hinafkin.hatenablog.com/

 スサノオ・大国主建国論に集中しており、やっと「COOL JAPAN~発掘!かっこいいニッポン~」の9月24日「縄文 〜Jomon」の録画を見ることができました。

 各国の人たちが縄文をどうとらえているかに興味があったのですが、学校でイタリアではローマから、アメリカでは航海時代からなど、旧石器・新石器(日本だと縄文時代)の歴史については教えられていませんでした。

世界の中で日本がもっともこの時代の研究と国民の理解は進んでおり、世界史解明に貢献すべきことが改めて確認できました。

 番組が北海道・北東北縄文遺跡群の世界遺産登録を紹介し、縄文文化・文明と現代との関りを平和な1万年数千年の歴史からの戦争のない社会、自然との関りにおいてSDGs(エス・ディー・ジーズ:持続可能な開発目標)な縄文社会、機械化・ロボット化・人工知能化・戦争社会の次の文明モデルとし、縄文アートを評価したことは高く評価できます。

しかしながら、私がこれまで書いてきた「採集・漁労社会論」「縄文農耕論」「母系制社会(母族社会)論」「霊信仰・神山天神信仰論」「定住普遍社会論」「糖質魚食・共同・和平進化論」「障がい者縄文アート論」「縄文文明アフリカ起源論」「縄文とスサノオ・大国主建国連続論」「縄文文化・文明中心史観」などからは不十分と言わざるをえない点があり、問題提起しました。

 本ブログの「スサノオ・大国主論」としては、縄文社会・文化・文明とスサノオ・大国主建国が連続しているという「プレスサノオ・大国主建国論」の参考にしていただければと思います。雛元昌弘

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2017冬「スサノオ・大国主建国論1 記紀に書かれた建国者」(『季刊山陰』38号)

 2018夏「スサノオ・大国主建国論2 「八百万の神々」の時代」(『季刊山陰』39号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018夏「スサノオ・大国主建国論3 航海王・スサノオ」(『季刊山陰』40号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(『季刊 日本主義』43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

  ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/


「スサノオ・大国主建国論5 天神五柱・神世七代の高天原」の修正

2022-12-04 18:25:56 | スサノオ・大国主建国論

 「スサノオ・大国主建国論5 天神五柱・神世七代の高天原」の次の表2を修正し、図1を追加しました。

 情報が多すぎてわかりにくい図ですが、高天原卑弥呼王都説、邪馬壹国(邪馬台国)甘木高台説の要となる図ですので追加しました。 雛元昌弘


スサノオ・大国主建国論5 天神五柱・神世七代の高天原

2022-12-02 10:40:17 | スサノオ・大国主建国論

 古事記は「高天原(たかまがはら)」での「別天神(ことあまつかみ)五柱」「神世七代」から始まり、その最後の伊邪那岐(いやなぎ)・伊邪那美(いやなみ)(以下、イヤナギ・イヤナミと表記)の「天降り」「14の島生み」「35の神生み」に続く。

 「高天原(たかまがはら)」については、天上の国とする本居宣長らの皇国史観(天皇神の国史観)、「高天原」を8世紀の創作神話とする反皇国史観、高天原を地上の場所とする3つの歴史観に分かれ、高天原の「天津神(あまつかみ)=天皇家」、地上の葦原中国の「国津神(くにつかみ)=スサノオ・大国主一族」と区分する皇国史観亜流(天皇の国史観)の歴史家が未だにみられるが、古事記のまっとうな解釈から反論したい。

 高天原地上説では古くは奈良県御所市高天説(金剛山=高天原山)、茨城県説(常陸国多賀郡:新井白石)、宮崎県高原町説(高千穂峰の麓)、宮崎県高千穂町説(高千穂神社等)などの他、朝鮮半島説、壱岐説(古田武彦氏)、甘木説(高天原=邪馬台国王都説:安本美典氏)などがみられるが、私は古事記・日本書紀の王名・地名分析から2つの高天原(壱岐説・甘木説)があったと考えている。

 なお、古事記の読み下し文は倉野憲司校注『古事記』(岩波文庫:以下倉野・古事記と略)をもとに、一部、現代化して示した。

 

⑴ 2つの高天原

 古事記は「天地初発時」から始まり、太安万侶は序文で「根元すでに凝(こ)りて、気象未だ効(あらわ)れず。名も無く為(わざ)も無し。誰かその形を知らむ」と解説し、天地はもともとあったとしている。人類誕生からの事実に即しており、神が天地や人を作ったという旧約聖書のような空想の神話ではない。

 そして、「高天原」に天之御中主(あめのみなかぬし)、高御産巣日(たかみむすひ)(日本書紀:高皇産霊(たかみむすひ))、神御産巣日(かみむすひ)(同:神皇産霊(かみむすひ))(以下、タカミムスヒ・カミムスヒと表記)、宇摩志阿斬訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)、天之常立(あめのとこたち)の別天神(ことあまつかみ)五柱が現れたとしている。

 『新唐書』が「天御中主(あめのみなかぬし)、至彦瀲(ひこなぎさ)、凡(およそ)三十二世・・・居筑紫城」と遣唐使が述べたと書いていることからみても、この高天原が地上の筑紫にあったことは古代人には常識であった。そして、この5神(死者には神をつける)は出雲大社正面に「御客座五神」として祀られていることからみて、スサノオ・大国主一族の始祖神であり、5神が活躍した場所は出雲ではないこと明らかである。「別天神(ことあまつかみ)五柱」と古事記が記しているのは、出雲大社客座に祀られた5柱が他の地域から別れて分祀されたことを示しており、太安万侶はちゃんと真実を伝えているのである。

 古事記は大国主が八十神に殺されたとき、大国主の母は天に参上してカミムスビに助けを求めたところ、赤貝比売と蛤貝比売を派遣して「母の乳汁」を塗って蘇生させたとし、子の少彦名を送って大国主の国づくりを助けたとしていることもまた、対馬暖流をさかのぼって海人(あま)(天)族の拠点の壱岐(天一柱)のカミムスヒ(代々襲名)に治療法を求め、農業や酒造り・医薬の技術者である少彦名の派遣を求めたという伝承を示している。

 この別天神(ことあまつかみ)五柱がいた国は、「天御中主(あめのみなかぬし)」の名前由来の壱岐の「那賀・中野郷」地名や、津馬(対馬)の古名の天狭手依比売(あめのさでよりひめ)、壱岐島の古名の天比登都柱(あめのひとつはしら)などから見て、海人(あま)(天)族の拠点である壱岐以外にありえないが、詳しくは国生みのところで詳述したい。

 なお、八百万神信仰の古代人は人は死ぬと肉体から霊(ひ)が分離して天に昇り、神になると考えており、亡くなった歴史上の人物を語る時には「神」を付けている。倭人にとっての神はユダヤ・キリスト・イスラム教の天地人創造した空想のゴッドとは異なり、霊(ひ)=スピリットの意味である。

 中国人にとっては「神=示(高杯にものを乗せる)+申(稲妻の象形文字)」「霊=雨+巫」「魂=云(雲・湯気)+鬼」「鬼=甶(頭蓋骨)+人+ム(跪く姿)」であり、いずれも天に昇った祖先霊が雷・雨・雲となることを指している。

 第2の「高天原」はイヤナギが筑紫日向橘小門阿波岐原(ちくしのひなのたちばなのおどのあわきばる)の安河で禊ぎを行い、天照大御神(以下アマテルと表記)らを生んだ地上の「天原(あまばる)」の高台である。記紀に書かれたこの高天原に関係する地名は筑後川上流の旧甘木市(天城由来の地名)にワンセット残っており、「5W1H」を満たした地上に実在した高天原の伝承である。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照 

 ただ、安本美典氏は「邪馬台国」を「やまだ国」と読み、平地の馬田を卑弥呼=アマテルの王都としているが、甘木(天城)の平野部の馬田なら「天原(あまばる)」になるはずである。「高天原(たかあまばる→あたかまがはら)」は「筑紫日向(ちくしのひな)」の地名を現代に残す甘木(天城)の「蜷城(ひなしろ)」の背後の高台を指していると見なければならない。

 スサノオが高天原に参上したときに「山川悉動、国土皆震」としているのは、軍勢が足音を立てて坂を登った様子をリアルに表現しており、スサノオ・大国主建国論4で述べたようにこの伝承は邪馬台国・卑弥呼姉弟の後継者争いの伝承を16代遡らせてスサノオと義妹アマテルの神話に置き換えたものである。

 以上、古事記をまともに読めば、天上の「高天原神話」は皇国史観(天皇神国史観)の空想であり、地上の高天原は壱岐と甘木に実在したのである。

 

⑵ 「参神造化之首」「二霊群品之祖」とは

 古事記序文で太安万侶は「乾坤初めて分かれて、参神造化の首となり、陰陽ここに開けて二霊群品の祖となりき」と書いている。

 倉野注は「参神」を天之御中主(あめのみなかぬし)、高御産巣日(たかみむすひ)、神御産巣日(かみむすひ)とし、「二霊」をイヤナギ・イヤナミとしているが、タカミムスヒ・カミムスヒを日本書紀が高皇産霊(たかみむすひ)・神皇産霊(かみむすひ)と書いていることからみて、「二霊」は霊(ひ)を産む「産霊(むすひ)夫婦」以外にありえない。

 太安万侶は本文では別天神(ことあまつかみ)五柱を「独神(ひとりがみ)」としながら、序文では「二霊群品の祖」としてタカミムスヒ・カミムスヒを人々を生んだ神として真実を伝えている。太安万侶の巧妙な表裏二重表現である。

 始祖神のアメノミナカヌシについて、倉野・古事記の注は「高天の原の中心の主宰神」としているが、博徒・香具師の「手前生国と発しまするは○○にござんす」と述べる初対面の仁義や戦国武将の「やあやあ我こそは△△の住人、〇〇なり」の名乗りと同じで、古代人にも「地名+名前」の命名が多いことから解釈すべきである。

 アメノミナカヌシは前述のように海人(あま)族の壱岐の「那賀・中野郷」の王であり、この中野郷には壱岐国分寺があり、未発見であるが国府が置かれていた可能性も高く、近くには鬼の岩屋古墳があり、壱岐の中心地であった。

    

⑶ 宇摩志阿斬訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)と天之常立(あめのとこたち)

 ムスヒ夫婦の次の宇摩志阿斬訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)と天之常立(あめのとこたち)については、倉野・古事記の注は「葦の芽を神格化して成長力を現わしたもの」「天の根元神」として空想上の神と解釈している。

 しかしながら「うましあしかびひこぢ」は「美味い葦の若芽の霊子児(ひこじ)」であり、葦原が広がる国を名前にしており、壱岐の「芦辺」地名の地域の王と考えられる。

 「あめのとこたち」は壱岐の別名が「天比登柱(あめにひとつばしら)」であることからみて、縄文時代からの立石(石棒)にちなんだ地名由来の王名の可能性が高く、壱岐の「立石」の王と考えられる。

 諏訪の阿久遺跡の環状列石の中央に置かれた神名火山(神那霊山)の蓼科山に向かう「立石・列石」のような縄文遺跡は壱岐ではまだ見つかっていないが、壱岐には郷ノ浦町の名切遺跡など縄文遺跡が23か所も確認されており、「立石」の地名からみていずれ同様の遺跡が見つかる可能性は高いのではなかろうか。

      

 なお、天下原遺跡からは「セジョウ神」と呼ばれている石の祠の下から中広型銅矛3本が発掘されているが、天ケ原(海人原か)地名の起源がどこまで遡るのかは確認できていない。何らかの伝承が残ってはいないのであろうか?

          

⑷ 神世七代

 別天神(ことあまつかみ)柱に続く神世七代は、国之常立(くにのとこたち)神と豊雲野(とよくもの)神は独神であるが、角杙(つのぐひ)神・妹活杙(いもいきぐひ)神、宇比地邇(うひぢに)神・妹須比智邇(いもすひぢに)神、意富斗能地(おほとのぢ)神・妹大斗之辨(いもおほとのべ)神、於母陀流(おもだる)神・妹阿夜訶志古泥(いもあやかしこね)神、伊邪那岐(いやなぎ)神・妹伊邪那美(いもいやなみ)神は夫婦神となり、母系制社会の祭祀を司る女王と漁撈・交易に従事する男王の共同統治の時代に入り、部族から選出されたリーダーとしての王から、世襲王への転換が起きていた可能性がある。

 表1に整理したように、王名も「国之常立(くにのとこたち)(立石地名からか)」や「宇比地邇(うひぢに)・須比智邇(すひぢに)(霊地地名からか)」などの地名由来名から、「豊雲野(とよくもの)=豊の久米(くも=くめ)」のような地名部族名や「角杙(つのぐひ)・活杙(いきぐひ)」の「城柵の杙づくりの技術者名」、「意富斗能地(おほとのぢ)・大斗之辨(おほとのべ)」の「大殿」という尊称名、「於母陀流(おもだる)・阿夜訶志古泥(あやかしこね)」のような「面足(整った顔)・あや賢児根(ああ賢い児)」という形容個人名に変わってきている。

 なお最後の伊邪那岐(いやなぎ)・伊邪那美(いやなみ)であるが、日本書紀は伊弉諾・伊弉諾と表記し、通説は「イザナギ・イザナがミ」と読ませているが、邪馬台国を「ざまたいこく」ではなく「やまたいこく」と読みたい人は「イヤナギ・イヤナミ」とよむべきであろう。延喜式神名帳に登場する「伊耶那岐神社」など各地に「伊耶那岐神社」「伊耶那美神社」や「揖夜神社」があることからみても「イヤナギ・イヤナミ」と呼ばれていたのである。

 古事記はイヤナミを埋葬した黄泉国からイヤナギが地上に出てきた場所を黄泉比良坂(よもつひらさか)とし、その場所を出雲国の伊賦夜坂(いふやざか)と書き、東出雲町揖屋町にはイヤナミを祀る揖夜神社(古くは伊布夜社)があることからみても、イヤナミは「揖屋のナミ」という名前であったのである。ここでも太安万侶は表裏二重表現(ダブルミーニング)により、真実の歴史を巧妙に伝え残しているのである。

 このイヤナギの時代から、壱岐から離れた海人族の活動が始まった可能性が高く、次回に「6 海人族の『国生み神話』」として分析したい。

 

⑸ 「天津神・国津神」が示す母系制社会

 古事記はなぜか天之常立(あめのとこたち)神を「別天神(ことあまつかみ)五神」とし、「国之常立(くにのとこたち)神」からを「神世七代」と書き分けている。連続して「天之常立神・国之常立神」と書けば夫婦神であったに違いないのであるが、奇妙である。

 皇国史観とその亜流の歴史家たちは、高天原のアマテル系を「天津神」として天皇家の祖先とし、アマテルに国譲りしたスサノオ・大国主の「豊葦原中国」系を「国津神」として分類しているが、そもそも古事記・日本書紀には天津神の表記はみられない。国津神にしても、日本書紀でずっと後の日本武尊のところに「蝦夷」として書かれているだけである。

 スサノオ・大国主一族の始祖神が「天御中主(あめのみなかぬし)」で、スサノオ6代目は「天之冬衣(あめのふゆぎぬ)」でその子が大国主であり、さらに筑紫大国主9代目は「天日腹大科度美(あめのひばらおおしなどみ)」であることからみても、スサノオ・大国主一族は天神族なのである。

 この皇国史観・亜流の批判はさておき、「天津神・国津神」(「の」=「つ」)、「天神(あまつかみ)・国神(くにつかみ)」の表記は、この「天之常立神・国之常立神」が最初で唯一なのである。

 ここからは、太安万侶が残した暗号についての私の推理である。

 大海人皇子(おおあまのみこ)が「天武天皇(てんむ=あまたける)」と呼ばれたように、「天=海人」であることからみて、天之常立神は漁撈・交易に従事する海人族である。一方、国之常立神は定住して農耕に従事する一族であり、母系制社会の女神であったと私は推理している。

 漁村集落では危険な海にでる男に対し、女性が家計や子育てを担い、市で魚を売り、加工販売していた。古代においても同様で、大国主が「島の埼埼、磯の埼ごと」に「若草の妻」を持180人の御子をもうけることができたのは、妻問夫招婚の母系制社会であったことを示している。卑弥呼(霊御子)をはじめ、各地に女王がいたことが記紀に書かれていることからみても、「天之常立神・国之常立神」は夫婦神であり、国之常立神のもとに海人族の天之常立神が妻問いしていたと考えられる。

 太安万侶が「天之常立神・国之常立神」を連続して書いて夫婦神としなかったのは、その名前から母系制社会であることを隠したのではないか、と私は推理している。

 魏書東夷伝倭人条には対馬国について「良田なく、海物を食べて自活し、乗船して南北市糴(してき)す」とし、「壱岐国(一大国(いのおおくに): 天比登柱(あめにひとつばしら))については「やや田地あるも、田を耕すなお食べるに不足し、また南北市糴(してき)す」と書かれており、「糴=入+米+羽+隹(鳥)」字は「鳥船(帆が鳥の羽の形状)に乗って米を市に入れる」交易を示しており、壱岐の海人族の男たちは朝鮮半島と米鉄交易を行い、女たちは海物を獲り、少ない田を耕して一族を守っていたと考えられる。漁撈・交易は父系制、家族制度は母系制の母族社会であったのである。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

 図2にみられるように12代景行天皇が滅ぼすまで九州には多くの女王がいたのである。そして図3のように現在も女王たちは祭神として多くの神社に祀られており、母族社会の伝統は引き継がれているのである。この図には載せていないが、スサノオの御子の宇迦之御魂(うかのみたま)を祀る稲荷神社は各地にみられる。

     

 

 壱岐から縄文土偶や貝輪、さらには1~3世紀の「好物(魏書東夷伝倭人条)」の鏡や絹織物・真珠・鉛丹を副葬品とし、「天比登柱(あめにひとつばしら)」に対応した立柱をともなう女王墓が発見されることを期待したい。

 

⑹ 壱岐・対馬の海人族のルーツ

 この壱岐・対馬の海人族のルーツについては、稲作の起源を長江流域や朝鮮半島に求める弥生人(中国人・朝鮮人)とする説がみられるが、私は海の道を通った南方起源であることを総合的に明らかにしてきた。―はてなブログ「ヒナフキンの縄文ノート」、Gooブログ「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート」参照

 アフリカ西海岸ニジェール川原産のヒョウタンや中東原産のウリの縄文遺跡での発見、アフリカ西海岸のY染色体E型人(コンゴイド)と別れたY染色体D型の縄文人、イモやジャポニカ米・ソバ・モチ食の起源、宗教語・農耕語のドラヴィダ語起源、アフリカからの神山天神信仰伝播、南インド・東南アジアのピー信仰伝播、琉球(龍宮)の「あいういぇうぉ」5母音や性器語「ピー・ヒー→ヒナ」の伝播、ドラヴィダ族のカラス信仰とポンガの祭りの伝播、東南アジアの龍神(トカゲ龍)信仰の伝播、貝輪・ヒスイ・黒曜石の交易などから、縄文人は海の道をとおり、琉球から対馬暖流にのって壱岐・対馬を拠点とし、さらに各地へ交易・交流を進めたのである。

 壱岐・対馬を拠点とした海人(あま)族は、琉球開びゃくの祖が「アマミキヨ」であり、琉球列島に「天城町」や「奄美大島」が、九州には「天草」「甘木」「天瀬」「天久保」「天ケ原」があり、さらに隠岐には「海士(あま)(古くは海部)」などの地名があることからみて、「対馬暖流海道」を行き来していたことを示している。―図4参照

    

 この海の道の交易・交流が旧石器時代から縄文時代に遡ることは、図5~7に示すように、イモガイやヒスイ・黒曜石、丸木舟づくりに使う丸ノミ石斧、曽畑式土器などによって裏付けられている。

        

 魏書東夷伝倭人条によれば、邪馬壹国と狗奴国との争いで卑弥呼・壱与を助けるために、247年に帯方郡から張政らが派遣され、260年まで13年間も滞在し、その報告をもとに魏書東夷伝倭人条が書かれていることが明らかであるが、そこには弥生人(中国人・朝鮮人)による縄文人征服や言語・文化・墓制などの類似性は一切書かれていない。邪馬台国を論じる以上、この事実を無視してはならない。

 海人族(天族)は、天上から降りてきたのでも、中国・朝鮮半島からきたのでもないことは、古事記や魏書東夷伝倭人条の記載からだけでも明白であり、それは縄文時代からの物証や遺伝子・言語・宗教などにより裏付けられている。

 高天原を天上の国としたり、朝鮮半島や金剛山・高千穂峰とする説などの空想から覚め、海人族(天族)の地上の国づくりから考えなければならない。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(前同42号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(前同43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

 ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

 ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

 帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

 邪馬台国探偵団    http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

 霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/