前回の「別天神(ことあまつかみ)五柱」「神世七代」に続き、その最後の伊邪那岐(いやなぎ)・伊邪那美(いやなみ)(以下、イヤナギ・イヤナミと表記)のオノゴロ島への「天降り」、「14の島生み」について分析を進めたい。
⑴ 「淤能碁呂嶋(おのごろじま)」は意宇川河口の揖屋
天神(あまつかみ)たちは「この漂へる国を修理し固め成せ」と言って、イヤナギ・イヤナミを天の浮橋に立たせて「天の沼矛」を指し下して塩をこおろこおろにかきまぜ、矛の先よりしたたり落ちた塩が積もって「淤能碁呂嶋(おのごろじま)」ができたとし、倉野・古事記注は「天の浮橋」を「神が下界へ降りる時に天空に浮いてかかる橋」とし、「オノゴロ島」は「自然に凝って出来た島の意。所在不明」としている。
この「オノゴロ島」については、淡路島北岸の淡路市「絵島説」(本居宣長)、淡路島南の南あわじ市「沼島説」、淡路島東の和歌山市「友ケ島(沖ノ島)説」、福岡市の「能古島説」(古田武彦)などがみられるが、私は「オノゴロ」という島名の意味、イヤナミの名前と墓所、イヤナミを祀る揖屋神社からみて、出雲の意宇川河口の東出雲町の「揖屋説」を提案してきた。
まず「オノゴロ島」は「塩が積もって自ずから凝(こ)った島」とされていることからみて、河口の葦原の沖積地(現揖屋平野)の可能性が高い。古事記はイヤナミが葬られた黄泉の国の入口の黄泉比良坂を出雲国の「伊賦屋坂」とし、イヤナミを祀る揖屋神社があることや、イヤナミの霊(ひ)が葬られたのが意宇川上流の比婆山(霊場山)であることからみて、「オノゴロ島揖屋説」しかありえないと考える。
淡路島の周辺の絵島説・沼島説・友ケ島説は後述の国生み神話が淡路島から始まっていることと大和中心史観に影響されたものであり、能古島説は「のこ島」と「オノゴロ島」の「能古=能碁」の類似と邪馬台国九州説から考えられたものであるが、出雲のイヤナミの揖屋とは程遠い場所であり、葦が生えるような汽水域のある島ではなく、明確な根拠はない。
本居宣長の淡路島の「絵島説」であるが、絵島の岩屋には学生時代によく通ったが小さな岩礁であり、そこに天御柱(あめのみはしら)と八尋殿(やひろどの)など建てられるはずもなく、この点だけからみても本居宣長は皇国史観の空想家にすぎず、天照大御神を「あまてる」でなく「あまてらす」と読ませるなど信用していない。
なお、倉野・古事記注は「天の浮橋」を「天空の橋」としているが、「イヤナギ・イヤナミを天の浮橋に立たせて」という記述は壱岐の海人族の王(天神(あまつかみ))たちが浮橋(浮き桟橋)からイヤナギたちを出航させて(=立たせて)対馬暖流を下らせたことを表現しているにすぎない。
また「淤能碁呂嶋(おのごろじま)」は「自ずと凝って出来た島」とされているが、「オのゴロ島」で、「意宇川(おう郡のおう川)」の「ゴロ島」を指していた可能性もある。意宇川上流にはスサノオを祀る熊野大社、中流にはイヤナギ・イヤナミを祀る神魂(かもす)神社(醸す=産む)やスサノオと稲田姫を祀る八重垣神社があり、後にこの地には出雲国庁や出雲国分寺が置かれた東出雲の中心地の歴史的に重要な地域であり、海人族はその意宇川の河口の中州(ゴロ島)を「オのゴロ島」と称した可能性もある。
⑵ 天下りしたのは海人(あま)族のナギ
古事記によるとイヤナギ・イヤナミは一緒に揖屋に天下り、そこには天御柱(あめのみはしら)と八尋殿(やひろどの)があり、イヤナミが「あれまあ、いい男」と先に言って天御柱を廻ってセックスしたところ、水蛭子(ひるこ)が生まれたので葦船に入れて流し、次に淡島を生んだとされている。
しかしながら、男は海に出て女は家を守る母系制の海人族の伝統は現在の漁家にまで伝わっており、それは男は戦にでる武家や専業主婦時代のサラリーマンにまで引き継がれている。このような母族社会においてイヤナミが男たちに交じって航海にでたとは考えにくく、ナギ(凪)だけが出雲の「揖屋」に交易にきたとしか考えられない。そこには天御柱(あめのみはしら)を神籬(ひもろぎ=霊洩ろ木:依り代)とし八尋殿を拝殿とする部族がいたのであり、その女王あるいは王女の「揖屋ナミ」にナギは妻問いし、「揖屋ナギ」と名乗るようになった可能性が高い。
亀岡市にある丹波国一宮の出雲大神宮では大国主は「三穂津彦大神・三穂津姫」の夫婦名で祀られ、妻の「三穂津姫」の名前に合わせて「三穂津彦」と名乗っている。同じように海人族のナギは妻の「揖屋ナミ」に妻問いして入り婿となり「揖屋ナギ」を名乗るようになったのである。播磨国一宮の伊和神社に祀られている大国主が「伊和大神」と呼ばれているのも、この地の「伊和媛」(播磨国風土記に登場する石比売(いわひめ))に妻問いしたとみられる。
古事記の「意富斗能地(おほとのぢ)・妹大斗之辨(いもおほとのべ)」や播磨国風土記の「伊和大神」の子の「阿賀比古(あがひこ)・阿賀比売(あがひめ)」「伊勢都(いせつ)比古・伊勢都比売」「石龍(いわたつ)比古・石龍比売」「玉足(たまたらし)日子・玉足比売」など多くのヒコ・ヒメ名の夫婦神は、妻問夫招婚により「○○姫の婿の○○彦」と名乗ったことを示している。
なお、「天御柱」は平原遺跡や吉野ヶ里遺跡の「大柱」や、壱岐の古名の「天一柱(あめのひとつばしら)」、さらには出雲大社の「心御柱(しんのみはしら)」、仏塔の「心柱(しんばしら)」、住宅の「大黒柱」、諏訪や播磨の広峯神社の「御柱」と同じく、祖先霊の依り代(よりしろ)である「神籬(ひもろぎ)(霊洩木)」を示しており、そのルーツは縄文時代の木柱や巨木柱列に遡る。―はてなブログ・縄文ノート「33 『神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観』考」「78 『大黒柱』は『大国柱』の『神籬(霊洩木)』であった」「104 日本最古の祭祀施設―阿久立石・石列と中ツ原楼観拝殿」「106 阿久尻遺跡の方形柱列建築の復元へ」参照
ここで注目したいのは八尋殿(やひろどの)で、「八尋(やひろ)」は両手を広げた長さの「尋」(1.8m)の8倍で14.4mになり、青森市の三内丸山遺跡の大型建物の短辺の長さが長さが15m、出雲大社の正面幅13.4mとほぼ合致しており、縄文時代からイヤナミ、大国主の時まで同一スケールの建築技術が続いていたことを示している。―はてなブログ「縄文ノート50 縄文6本・8本巨木柱建築から上古出雲大社へ」参照
古事記はイヤナミが先に誘ってセックスしたところ骨のないヒルのような水蛭子(ひるこ)が生まれて海に流したというショッキングな流産話を載せているが、尊称「アマテル(天照)」の名前が「オオヒルメ(大日孁、大日女)」(筆者説:大霊留女)であることや「ヒミコ(卑弥呼=霊御子=霊巫女)」からみて、母系制社会の「ヒルメ・ヒルコ」の「女主導の婚姻・セックス」による「日留子(ひるこ)(霊留子)」誕生の話を「水蛭子(ひるこ)」誕生話に置き換えて否定し、父系制社会の「男主導の婚姻・セックス」に置き換えたものと考えられる。
⑶ 国生み神話
「イヤナギ・イヤナミ」夫婦は水蛭子(ひるこ)と淡島を生んだのちに、今度は天御柱を分かれて廻りイヤナギが先に「あれまあ、いい乙女」と、次にイヤナミが「あれまあ、いい男」と言ってセックスし、図2・3、表1のような順に国土を生んだとしている。
行きに「(1)淡道之穂之狭別島、(2)伊予之二名島、(3) 隠伎之三子島、(4)筑紫島、(5)伊岐島、(6)津島、⑺)佐渡島、(8)大倭豊秋津島」を、還りに「①吉備児島、②小豆島、③大島、④女島、⑤知訶島、⑥両児島」を生んたというのである。
神話的表現となっているが、「乗船南北市糴(してき)」(市糴(してき)=市+入+米+羽+隹(とり))の鳥船(帆船)による米鉄交易を行っていた壱岐・対馬の海人族が鉄先鋤を持って米の生産・交易圏を広げていった歴史を示しており、その範囲は対馬暖流と瀬戸内海であったと考えられる。すべての国が「島」と呼ばれていることであり、これは海人族が交易を通して拠点を広げたことを示している。
問題は、「伊予之二名島」は「伊豫国、讚岐国、粟国、土左国」から、「筑紫島」は「筑紫国、豊国、肥国、熊曾国」から構成されているとしているが、他の島からみてもこの時代には陸地の面的な支配には及んでおらず、太安万侶は「表裏表現」(天皇家支配の権威を高めながら真実の歴史を示す)として、「島」の中に「国」を置くという表現を意図的に行ったと考える。
「大倭豊秋津島」も倉野憲司注は「大和を中心とした畿内地域の名」としているが、「大倭」を除くと「豊秋津島」であり、古田武彦説の国東半島の大分空港のあるあたりの「安岐町」の安岐川河口の中州を指しているか、あるいは「豊」の勢力が進出した「安芸」の「津島(厳島など)」の可能性が高い。
「伊予之二名島」は宇和島市に「二名(ふたな)」地名があることからみて「二名島」(比定地不明)が瀬戸内海にあった可能性があり、「筑紫島」も「筑紫の島」(陸地続きになる前の糸島など)の可能性が高いと考える。
また「知訶島、両児島」は倉野注では長崎県の「五島列島、男女群島」に比定しているが、別名の「天(あめ)之忍男(のおしお)、天(あめ)両屋(ふたや)」に「天」が付いていることからみて、博多湾沖の志賀島(近島伝承)、山口県の双子島の可能性が高いと考える。「女島」については、倉野注では大分県国東半島の北にある「姫島」の可能性が高いが別名の「天(あめ)一根(ひとつね)」からみると山口県の「女島」の可能性も考えられるが、瀬戸内海への進出拠点として「姫島」と比定した。
筆者説の図3をみていただくと、壱岐・対馬の海人族が玄界灘・響灘から対馬暖流に乗って沖ノ島・佐渡島へ、瀬戸内海を厳島、大島、児島、小豆島、淡路島へと米鉄交易圏・稲作圏を広げていたことが浮かびあがる。
図4のように玄界灘を中心にした古名「天(あめ=あま)」の付いた島々が壱岐・対馬から海人族が第1段階として交易拠点を広げた島々であり、さらに第2段階として筑紫島や佐渡島、伊予の二名島から淡路島へと拠点を広げ、第3段階として筑紫の沿岸・内陸部や出雲などに稲作拠点を広げたのである。
古事記は行きに東から西へと「淡路島→隠岐島→筑紫島→壱岐→対馬→佐渡島→豊秋津島」と国づくりを進め、還りに「吉備児島→小豆島→大島→女島→知訶島→両児島」と国づくりを進めたとしているが、還りもまた東から西へと西進しており、明らかに矛盾している。
太安万侶のこのような矛盾した表記こそまさに古事記を貫く「表裏表記」であり、天皇家中心史を書きながら、同時に「行きは東進、還りは西進」という真実の歴史を手掛かりとして残したのである。「ありがとう」と言わざるをえない。
ニニギについて大山津見の呪いで「天皇命(すめらみこと)等の御命長くまさざるなり」と書きながら、その孫のホホデミについて580歳(スサノオ・大国主16代の歴史を秘かに伝えるための調整)と書いているのと同じ巧妙な真実を伝える手法である。
太安万侶を馬鹿にした薄っぺらな近代合理主義の反皇国史観から離れ、中国の司馬遷に匹敵する「史聖・太安万侶」として見直すべきと考える。ただ司馬遷は直球であるが、太安万侶は変化球であり、推理力を働かせ、複眼的に読まないと真実の歴史は見えてこないのであるが。
□参考□
<本>
・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)
・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)
<雑誌掲載文>
2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)
2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)
2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)
2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)
2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(前同42号)
2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(前同43号)
2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)
2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)
<ブログ>
ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina
ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/
帆人の古代史メモ http://blog.livedoor.jp/hohito/
邪馬台国探偵団 http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/
霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/