姫路の白国神社
「高砂や、この浦舟に帆を上げて、この浦舟に帆を上げて」
カントクの合図で、高砂の松に別れを告げ、長老の車に乗り込み、姫路の白国のヒメの実家に向かうことになった。高砂神社から北に向かい、高御位山を見ながら国道2号線の姫路バイパスに乗った。
「今、渡った小さな川が天川です。その左手の小高い山が日笠山です。菅原道真が大宰府へ左遷される時、日笠山に登り、山上の小松をとり『我に罪無くば栄えよ』と祈って麓に植え、そこに子孫によって曽根天満宮が建てられた、と言い伝えられています。」
高木は調べておいたことを披露した。
「菅原氏というと、元は土師氏だから、当麻蹴速との角力(相撲)で勝った野見宿禰の子孫だな。野見宿禰は桜井市の穴師坐兵主(あなしにいますひょうず)神社の境内の相撲神社に祀られていたな」
カントクは各地で映画を撮ってきただけに詳しい。
「兵主というと、姫路の播磨国総社も射楯兵主神社ですが、滋賀県野洲市には兵主大社があり、壱岐をはじめ兵主神社は全国に約50社あります。野見宿禰は天穂日命の子孫で、播磨国風土記にはたつの市で死んだと記されていますから、その一族は播磨とは関わりが深いと思います」
ヒナちゃんは神社には詳しい。
「ところで、白国神社のことを教えてよ」
マルちゃんから指令が飛んできた。
「播磨国風土記には『昔、新羅の国の人が来朝した時、この村に宿った。だから新良訓となづけた』と書かれています。一方、白国神社の祭神は、景行天皇の子の稲背入彦命と孫の阿曽武命と、ニニギ命の薩摩半島の妻の木花咲耶姫命ですから、天皇家一族の神社になります。稲背入彦命は播磨別(はりまわけ)の祖とされています」
高木は調べておいたことを紹介した。
「新羅は新良=白(しら)なのに、なぜ『しらぎ』というのかしら?」
マルちゃんがいつものように突っ込んできた。
「私の家では、『しら』から来たと伝わっていて、『しらぎ』から来たとは言わないなあ」
ヒメの祖先は、新羅から来たという古い言い伝えが今に続いているらしい。
「後の甲斐源氏の武田氏や常陸源氏の佐竹氏、南部氏などの祖先の源義光は『新羅三郎(しんらさぶろう)』と称している。韓国読みの『しら、しんら』だったと思うよ」
カントクの話はヒメと同じで時代を越えて飛び回る。
「私は、『しらぎ』の読み方は、紀元4世紀頃に遡ると思います。環壕と城柵に囲まれた『城(き)』を国と称していた時代に、磯城、間城、葛城、鍵(加城)、壱岐(一城)、甘木(天城)などの国名が生まれ、それを『新羅(しら)』にも当てはめて、『しらぎ』と呼ぶようになったと思います」
ヒナちゃんの推理はよどみがない。
「『しら』をなぜ『しらぎ』というのか、前から疑問に思っていたんだけど、ようやく納得できたよ。ありがとう」
ヒメには小説への新たな題材ができたようだ。
「しかし、『しら』の人たちがいた地に、『しら』の祖先神ではなく、なぜ天皇家の神が祀られている白国神社があるのかしら?」
質問ヒメに代わって、マルちゃんがこだわる。
「神社を考える時、一番大事なのは、祀られている神のうち、一番古い神は誰か、ということです。その次ぎに大事なのは、神社の元になるのは、その背後の山に祀られている神は誰か、と考えます」
どうやらヒナちゃんは、答えを考えているようだ。
「稲背入彦命の子の阿曽武命の妃が出産の時に大変苦しんだので、阿曽武命が倉谷山に白幣を立てて安産を祈願したところ、木花咲耶媛が現れて『永くこの地に留まって婦人を守って安産させましよう』と告げ、無事に男子を出産した、と神社では伝えています」
高木はスマートフォンを見ながら説明を付け加えた。
「白国神社の主祭神は木花咲耶媛で安産の神様、稲背入彦命と阿曽武命は相殿に祀られているよ」
白国神社の神主一族のヒメが言うのだから確かだ。
「木花咲耶媛は、記紀ではニニギの妻の神神吾田津姫となっていますが、播磨国風土記では、大国主の妻として宍粟郡の雲箇(うるか)里に登場します。現に、大国主を祀る伊和神社のすぐ北に閏賀(うるか)の地名が残っています。播磨国風土記では、山上に祖先霊が在ますという表現が随所に見られることからみて、もともと、倉谷山の山上に祀られていたのは大国主の妻の木花咲耶媛の可能性が高いと思います」
ヒナちゃんの推理が冴えているのは、高木も認めざるをえなかった。
「古事記によれば、スサノオは大山津見(大山祇)神の娘の神大市比売を娶って大年神をもうけ、大山津見神かその2代目の娘、木花知流比売(このはなちるひめ )はスサノオの子の八島士奴美(やしまじぬみ)神の妻となっている。「木花散る」と「木花咲く」の対の名前からみて、木花咲耶媛は数代後の大山津見神の娘で、大国主の妻となったとみるべきだな」
カントクのいう通りであろう。
「記紀が共に、『神阿多都比売、またの名を木花佐久夜毘売』と伝えていることからみても、薩摩半島笠沙の吾田の娘を、後に、大国主の妻の名前を取って権威づけた、と考えられます」
ヒナちゃんの推理は一貫している。
「そういえば、白国地区には大年神社があって、応神天皇の頃から祀っていて、鎌倉時代に神社を建てたと伝わっているわよ」
昔の高木なら、後世の作り話と一笑したところであるが、新羅からきた一族の子孫が言い伝えているとなると、真実の伝承に思えてきた。
※文章や図、筆者撮影の写真の転載はご自由に(出典記載希望)。
※日向勤著『スサノオ・大国主の日国―霊の国の古代史』(梓書院)参照
※参考ブログ:邪馬台国探偵団(http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/)
霊の国:スサノオ・大国主命の研究
(http://blogs.yahoo.co.jp/hinafkinn/)
霊(ひ)の国の古事記論(http://hinakoku.blog100.fc2.com/)
帆人の古代史メモ(http://blog.livedoor.jp/hohito/)
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「高砂や、この浦舟に帆を上げて、この浦舟に帆を上げて」
カントクの合図で、高砂の松に別れを告げ、長老の車に乗り込み、姫路の白国のヒメの実家に向かうことになった。高砂神社から北に向かい、高御位山を見ながら国道2号線の姫路バイパスに乗った。
「今、渡った小さな川が天川です。その左手の小高い山が日笠山です。菅原道真が大宰府へ左遷される時、日笠山に登り、山上の小松をとり『我に罪無くば栄えよ』と祈って麓に植え、そこに子孫によって曽根天満宮が建てられた、と言い伝えられています。」
高木は調べておいたことを披露した。
「菅原氏というと、元は土師氏だから、当麻蹴速との角力(相撲)で勝った野見宿禰の子孫だな。野見宿禰は桜井市の穴師坐兵主(あなしにいますひょうず)神社の境内の相撲神社に祀られていたな」
カントクは各地で映画を撮ってきただけに詳しい。
「兵主というと、姫路の播磨国総社も射楯兵主神社ですが、滋賀県野洲市には兵主大社があり、壱岐をはじめ兵主神社は全国に約50社あります。野見宿禰は天穂日命の子孫で、播磨国風土記にはたつの市で死んだと記されていますから、その一族は播磨とは関わりが深いと思います」
ヒナちゃんは神社には詳しい。
「ところで、白国神社のことを教えてよ」
マルちゃんから指令が飛んできた。
「播磨国風土記には『昔、新羅の国の人が来朝した時、この村に宿った。だから新良訓となづけた』と書かれています。一方、白国神社の祭神は、景行天皇の子の稲背入彦命と孫の阿曽武命と、ニニギ命の薩摩半島の妻の木花咲耶姫命ですから、天皇家一族の神社になります。稲背入彦命は播磨別(はりまわけ)の祖とされています」
高木は調べておいたことを紹介した。
「新羅は新良=白(しら)なのに、なぜ『しらぎ』というのかしら?」
マルちゃんがいつものように突っ込んできた。
「私の家では、『しら』から来たと伝わっていて、『しらぎ』から来たとは言わないなあ」
ヒメの祖先は、新羅から来たという古い言い伝えが今に続いているらしい。
「後の甲斐源氏の武田氏や常陸源氏の佐竹氏、南部氏などの祖先の源義光は『新羅三郎(しんらさぶろう)』と称している。韓国読みの『しら、しんら』だったと思うよ」
カントクの話はヒメと同じで時代を越えて飛び回る。
「私は、『しらぎ』の読み方は、紀元4世紀頃に遡ると思います。環壕と城柵に囲まれた『城(き)』を国と称していた時代に、磯城、間城、葛城、鍵(加城)、壱岐(一城)、甘木(天城)などの国名が生まれ、それを『新羅(しら)』にも当てはめて、『しらぎ』と呼ぶようになったと思います」
ヒナちゃんの推理はよどみがない。
「『しら』をなぜ『しらぎ』というのか、前から疑問に思っていたんだけど、ようやく納得できたよ。ありがとう」
ヒメには小説への新たな題材ができたようだ。
「しかし、『しら』の人たちがいた地に、『しら』の祖先神ではなく、なぜ天皇家の神が祀られている白国神社があるのかしら?」
質問ヒメに代わって、マルちゃんがこだわる。
「神社を考える時、一番大事なのは、祀られている神のうち、一番古い神は誰か、ということです。その次ぎに大事なのは、神社の元になるのは、その背後の山に祀られている神は誰か、と考えます」
どうやらヒナちゃんは、答えを考えているようだ。
「稲背入彦命の子の阿曽武命の妃が出産の時に大変苦しんだので、阿曽武命が倉谷山に白幣を立てて安産を祈願したところ、木花咲耶媛が現れて『永くこの地に留まって婦人を守って安産させましよう』と告げ、無事に男子を出産した、と神社では伝えています」
高木はスマートフォンを見ながら説明を付け加えた。
「白国神社の主祭神は木花咲耶媛で安産の神様、稲背入彦命と阿曽武命は相殿に祀られているよ」
白国神社の神主一族のヒメが言うのだから確かだ。
「木花咲耶媛は、記紀ではニニギの妻の神神吾田津姫となっていますが、播磨国風土記では、大国主の妻として宍粟郡の雲箇(うるか)里に登場します。現に、大国主を祀る伊和神社のすぐ北に閏賀(うるか)の地名が残っています。播磨国風土記では、山上に祖先霊が在ますという表現が随所に見られることからみて、もともと、倉谷山の山上に祀られていたのは大国主の妻の木花咲耶媛の可能性が高いと思います」
ヒナちゃんの推理が冴えているのは、高木も認めざるをえなかった。
「古事記によれば、スサノオは大山津見(大山祇)神の娘の神大市比売を娶って大年神をもうけ、大山津見神かその2代目の娘、木花知流比売(このはなちるひめ )はスサノオの子の八島士奴美(やしまじぬみ)神の妻となっている。「木花散る」と「木花咲く」の対の名前からみて、木花咲耶媛は数代後の大山津見神の娘で、大国主の妻となったとみるべきだな」
カントクのいう通りであろう。
「記紀が共に、『神阿多都比売、またの名を木花佐久夜毘売』と伝えていることからみても、薩摩半島笠沙の吾田の娘を、後に、大国主の妻の名前を取って権威づけた、と考えられます」
ヒナちゃんの推理は一貫している。
「そういえば、白国地区には大年神社があって、応神天皇の頃から祀っていて、鎌倉時代に神社を建てたと伝わっているわよ」
昔の高木なら、後世の作り話と一笑したところであるが、新羅からきた一族の子孫が言い伝えているとなると、真実の伝承に思えてきた。
※文章や図、筆者撮影の写真の転載はご自由に(出典記載希望)。
※日向勤著『スサノオ・大国主の日国―霊の国の古代史』(梓書院)参照
※参考ブログ:邪馬台国探偵団(http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/)
霊の国:スサノオ・大国主命の研究
(http://blogs.yahoo.co.jp/hinafkinn/)
霊(ひ)の国の古事記論(http://hinakoku.blog100.fc2.com/)
帆人の古代史メモ(http://blog.livedoor.jp/hohito/)
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