ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート

「神話探偵団~スサノオ・大国主を捜そう!」を、「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート」に変更します。雛元昌弘

「アマテル論4 アマテル3は壹与(いよ)」の紹介

2020-02-27 14:31:33 | アマテラス
 Livedoorブログに「アマテル論4 アマテル3は壹与(いよ)」をアップしました。http://blog.livedoor.jp/hohito/
前回の「アマテル論3 アマテル2は卑弥呼」では、スサノオと支配を争ったとされる高天原アマテル2は、委奴国王スサノオの義妹アマテル1ではなく、17代後の卑弥呼であり、その弟王との後継者争いをもとに創作された神話であることを明らかにしてきました。
 今回は、再生したとされるアマテル3は、卑弥呼から「霊(ひ)継」された後継女王・壹与(いよ)であることを古事記と魏書東夷伝倭人条の分析から明らかにしています。詳しくは『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)をご参照ください。
 次回は大国主に国譲りをさせたアマテル4が、大国主の筑紫妻の鳥耳であることを明らかにします。スサノオ・大国主建国と邪馬台国の関係を明らかにし、大国主の国譲りが大国主の筑紫と出雲と越の御子の後継者争いであったという真相を解明します。
雛元昌弘

海人族のスサノオ・大国主一族は百余国とウィン・ウィン


宗教論1 新型コロナウィルスから箸墓古墳と崇仏廃仏、奈良大仏を考える 

2020-02-25 19:31:04 | 宗教論
 2月24日の新型コロナウィルスの国内感染者は156名(死者1名)、ダイヤモンド・プリンセス号は691名(死者3名)となりました。致死率は約0.47%で高齢者が中心で、SARSの致死率約9%と較べると高い数値ではありませんが、コロナウイルスは突然変異しやすいとのことであり、いずれ、さらに恐ろしいパンデミック(感染症の一国的・世界流行)が発生しないとも限りません。
 この機会に、古代の疫病の歴史をさかのぼってみたいと思います。

1.10代崇神期の疫病
 日本ではっきりとしたパンデミック第1号は、4世紀後半の崇神天皇期の「伇病多起、人民死為盡(役病が多く起こり、人民が死に尽きんとする)」(古事記)、「民有死亡者、且大半矣(民の死者あり、まさに大半であろう)」「百姓流離、或有背叛、其勢難以德治之(百姓流離し、あるいは背叛し、その勢い徳をもって治め難し)」(日本書紀)です。
 徳がないとされた崇神天皇(御間城入彦印恵)は宮中に祀っていたスサノオ(日本大國魂神=大物主大神=大美和大神)とアマテルの神霊を宮中から出し、スサノオの子孫のオオタタネコ(大田田根子)を探し出して美和(三輪)に祀らせたところ、疫病は収まったとされています。美和王朝の大物主(スサノオの子の大年。代々襲名)の権力を奪い、スサノオとアマテルの祭祀権を奪ったことにより恐ろしい疫病を招いたのが崇神天皇であったのです。「霊(ひ)継ぎ」が断たれたことにより、スサノオ・アマテルの霊(ひ)は崇神天皇に祟ったのです。
 梅原猛氏や井沢元彦氏は聖徳太子や孝徳天皇、称徳天皇、文徳天皇、崇徳天皇、安徳天皇、順徳天皇、崇道天皇(早良親王)のように「徳」の字の付けられた太子や天皇は怨霊であるとしていますが、私は「崇」字のついた10代崇神天皇、32代崇峻天皇、第75代崇徳天皇もまた怨霊に祟られた天皇か、怨霊となった天皇と考えます。
 32代崇峻天皇は蘇我馬子に殺され、讃岐に流される途中に絶食して憤死した早良親王は怨霊となって恐れられて崇道天皇と追称されて御霊神社などに祀られ、第75代崇徳天皇(崇徳上皇)もまた保元の乱で破れて讃岐で死に(暗殺説も)怨霊になったとされています。
 崇神期の恐ろしい疫病をスサノオを祀ることにより退散させた英雄のオオタタネコ(大物主)と妻のモモソヒメ(百襲姫:第7代孝霊天皇皇女)の夫婦墓が箸墓であることは、箸墓278mが9代開化天皇陵100m、10代崇神天皇陵242m、11代垂仁天皇陵227mよりも大きいことなどから裏付けられます。―「邪馬台ノート2 纏向の大型建物は『卑弥呼の宮殿』か『大国主一族の建物』か」参照

箸墓からみた美和山(三輪山)と穴師山


 「備後国風土記逸文」には一夜の宿を提供した貧しい蘇民将来にスサノオは「茅の輪」を与え、身につけていた一家は疫病から免れたという逸話があり、今も各地の神社では「茅の輪くぐり」が行われていますが、オオタタネコはスサノオの「茅の輪」を受け継ぎ、疫病退散のお守りとして「麻の三勾」(三輪山の蛇神のスサノオが鍵穴から去った時に残したとされる)を人々に配り、疫病を退散させたのかも知れません。

2.30代敏達期の疫病
 29代欽明天皇から蘇我氏と物部氏の崇仏廃仏論争が起こりますが、敏達天皇14年(585年)に「國行疫疾、民死者衆(国に疫疾がおこり、民に死者おおし)」「發瘡死者充盈於國(瘡が発して死者が国に充ちみちた)」(日本書紀)とされる疫病が流行します。パンデミック第2号といえます。
 この疫病の原因として、蘇我馬子が仏殿を建て仏法をおこそうとしたからと主張した物部守屋と、仏殿を壊し仏像を焼いたり海に捨てたからとする蘇我馬子の争いとなります。
 その後、32代崇峻天皇の時、蘇我馬子と炊屋姫(かしきやひめ:後の33代推古天皇)、聖徳太子は物部守屋を滅ぼします。
 この時も、疫病は崇仏廃仏の宗教対立・政治権力の争いになっています。

3.第45代聖武天皇期の疫病
 第45代聖武天皇期の天平9年(737年)の天然痘は、当時の日本の総人口の25~35%にあたる100万~150万人が死亡したとする説もあるパンデミック第3号です。
 「長屋王の変」により長屋王を自害させ、皇族でない藤原光明子を皇后として権力を奪った藤原不比等の息子の藤原4兄弟も全員が病死しています。
 この天然痘の流行は長屋王を自害させたことによると考えた聖武天皇は、平城京から恭仁京、難波京、紫香楽京へと遷都を行った後、平城京へ帰り、東大寺と盧舎那仏(奈良大仏)、国分寺を建立させています。

4.疫病からの政変と宗教・思想改革
 崇神期パンデミック(疫病大流行)はスサノオ(大物主大神・大美和大神)・大年(大物主)の美和王朝の権力を御間城印恵(いにえ)が奪ったことにより生じ、敏達期パンデミックは崇仏派と廃仏派(八百万神派)の争いを激化させて崇仏派の勝利へとつながり、聖武天皇期パンデミックは天皇家による仏教国教化を実現させます。
 疫病による人民の死は、宗教・政治対立を高め、スサノオ・大国主一族の八百万神信仰と建国から、天皇家による仏教国家への転換を生み出しています。明治維新は、なんとこのような崇仏天皇家の歴史を大逆転させ、廃仏毀釈に走ったのです。崇神天皇が認めた八百万神信仰に戻るのでもなく、本居宣長の「アマテラス太陽神教」というオカルト信仰宗教にはまってしまったのです。
 江戸時代末期の1858年におきたコレラの大流行では、死者数は江戸だけでも2.8万人あまり、日本全土では10~26万人とされていますから、1853年のペリーの黒船さわぎと相まって、人々の開港反対の攘夷意識に影響を与えた可能性は大きいと考えますが、命を大事にする霊(ひ)継の八百万神信仰でもなく崇仏でもなく、「アマテラス太陽神教」へと走ってしまったのです。
 このような歴史と較べると、今回の新型コロナウイルスは宗教的・思想的・政治的な変革をもたらす可能性は小さいかもしれませんが、私は「人類・生類全体のウィルスとの戦い」として、宗教の共通価値を確認する思想的な機会としてとらえたいと考えます。その一番重要な共通価値は生(DNAの継承)であり、変化を続けるコロナウイルスを無力化する免疫力の解明が課題となります。
 八百万神信仰は「霊(ひ=DAN)継ぎ」信仰であり、そこには神使である動物も生類として含まれます。中国における自然動物食の在り方を含めて考える機会とすべきチャンスかも知れません。


倭語論16 「日本語」「倭語」「土器人(縄文人)語」

2020-02-24 19:06:01 | 倭語論
 日本語はどこまで遡って論じることができるのでしょうか? 
 門外漢であり文献を確かめてはいませんが、国語学者にとっては、記紀や風土記、万葉集などの文書分析になるでしょうから、慎重な人だとそれらが書かれた同時代の紀元8世紀からとするでしょう。これらの漢字によって書かれて残され、和音・呉音・漢音で発音した言語を「日本語」とするに違いありません。さらに厳密な人は、わが国独特の「片仮名・平仮名交じり和文」からを日本語というかも知れません。
 しかしながら、文字使用を起点に論じるとなると、紀元1世紀のスサノオ・大国主の「委奴(いな)国」は後漢の冊封体制に入り、国書を上表する際に使用する金印を受け取り、朝貢交易を行っていますから、紀元1世紀には漢字・漢語を外交で使用していたことが明らかです。さらに紀元前1世紀頃の福岡県の三雲南小路遺跡(糸島市)や須玖岡本遺跡(春日市)、東小田峯遺跡(筑前町)から発見されたガラス璧破片は前漢皇帝から爵位を受けていた王がいたことを示しており、漢字使用は紀元前1世紀ごろに遡ります。
 魏書東夷伝倭人条は「旧百余国、漢時に朝見する者あり、今使訳通ずる所、三十国」としており、紀元3世紀には漢語が理解できる使訳=通訳がいた国が30国あったことを示しており、国内の国々の間で公文書(竹簡や木簡)がやりとりされていたことが明らかです。
 一方、記紀のスサノオ・大国主神話には「歌」や「夷曲(ひなうた)」「夷振(ひなぶり=歌舞)」が登場しますから、外交文書や国内の公用書だけでなく、歌や曲なども文字で記録されていた可能性があります。この場合には、倭語の順に和音を漢字表記する「万葉仮名用法」が生み出されたと思われます。
 太安万侶が古事記序文において、「諸家之所賷帝紀及本辭(諸家のもたらしたところの帝紀と本辞)」を稗田阿礼に「誦習(よみならわ)」せ、引用した『旧辞』と『先記』は「因訓述(訓によって述べた)」と「全以音連(すべて音を連ねた)」、「交用音訓(音訓を交えて用いた)」の用法があったとしていることを見ても、漢語漢文ではなく、倭語漢語・倭音呉音漢音をミックスした「倭語(漢字倭文)」が1~2世紀のスサノオ・大国主の建国の頃には成立していた可能性が高いと考えます。

古事記の作成過程


 記紀や魏書東夷伝倭人条の分析においては、このような「倭語(漢語倭文)として分析」する必要があり、「呉音漢音を除いた倭音による分析」が必要であると考えます。そして、その際には、すでに「漢字分解」で述べてきたように、漢字を習い始めた倭人たちが紀元前後1世紀頃の呉語・漢語を習い、漢字の本来の意味をその構成から理解して使っていた「倭流漢字用法」であったとして分析する必要があると考えます。
 「弥生人征服説」「天皇家建国説」の「新皇国史観」の歴史家たちは、「記紀などは呉音・漢音読みで理解すべき」「漢字使用は遣隋使・遣唐使を派遣した天皇家から」と思い込んでいますが、「土器人(縄文人)の内発的自立発展史観」「スサノオ・大国主建国史観」に立つ私は「記紀などは倭音で理解すべき」と考えます。

倭音・呉音・漢音からなる単語


 「日」を「ひ」、「霊」を「ひ」、「天」を「あま、あめ」などと「倭音」で読むところから、記紀等の分析は再構築する必要があります。「日本」は「ニチホン、ニホン、ニッポン」ではなく「ひのもと」「ひなもと」と読むところから、古代史分析はやりなおす必要があると考えます。
 さらに、この「倭語」について私は「土器(縄文時代)時代」1万年の「土器人(縄文人)語」にルーツがあると考えています。

「日本語」の形成過程


 日本人は南方や北方、中国大陸、朝鮮半島から多様なDNAを持った人々が漂着・移住・避難してきたことはDNAの分析などから明らかですが、フィリピンや台湾のような多言語・多文化コミュニティにはなっていません。アイヌを除いて、方言・文化の差はあっても、沖縄から北海道まで同じ言語・文化のコミュニティであると言っていいと思います。

同じ島国でありながら異なる「言語・文化コミュニティ」の国の成立


 ほとんどの単語に倭音・呉音・漢音の発音があるにも関わらず、中国語の「主語―動詞―目的語」の言語構造を受け入れず、「主語―目的語―動詞」の言語構造を維持しています。朝鮮語とは同じ「主目動言語」ですが、倭音・呉音・漢音・朝鮮音という単語は見当たらず、数詞や人体語などの基本語が一致していません。弥生人(中国人・朝鮮人)征服説は、倭語―日本語からは成立する余地はありません。
 1万年の間、南からの黒潮と北西からの季節風によって、仮に主に男性の10人が母系制社会の海人族の日本列島に漂着・移住・避難してきたら、10万人のDNAが土器人(縄文人)には混じっていることになり、言語構造や基礎単語を変えることなく、多DNA・同言語民族になったと思います。数万人が民族移動を起こし、原住民である土器人(縄文人)を征服して稲作国家を建設した、などありえないのです。
 それに加えて、海人族は琉球から北海道までアクセサリーになる貝を運び、ヒスイや黒曜石なども環日本海沿岸で交易を行っていました。母系制の妻問夫招婚社会では、言語・文化の交流が進み、豊かな1万年の土器鍋食の産業・生活・文化社会を作り上げたのです。
 なお、骨や歯の形質、血液型、DNAなどの分析、縄文遺跡の分布、人口推計などから、西日本に多数の弥生人が渡来して縄文人は東日本に追いやられたという説がみられますが、これは7300年の喜界カルデラ噴火による西日本の縄文社会の壊滅や、特に現代人のDNA比較の場合には、4世紀後半の崇神天皇の時に「民有死亡者、且大半矣(民の死者あり、すぐに大半に)」とされる疫病の影響を考える必要があります。
 言語や宗教、海人族の交易活動、母系制社会、土器・青銅器文化、鉄器稲作の拡大など、あらゆる点からみて「弥生人(中国人・朝鮮人)征服史観」から卒業すべき時期です。

喜界カルデラ噴火の影響


「『石器―土器―鉄器』時代区分を世界へ」の紹介

2020-02-23 16:07:08 | スサノオ・大国主建国論
 はてなブログ「ヒナフキンの縄文ノート」に「『石器―土器―鉄器』時代区分を世界へ」をアップしました。https://hinafkin.hatenablog.com/
 本論は2015年7月23日に書き、関係者に送ったレジュメ「『石器―土器―金属器』の時代区分を世界へ―『セッキン史観』『ドキドキバカ史観』からの脱却へ」を、その後のスサノオ・大国主建国論、縄文社会の研究、『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)の執筆などを踏まえ、小手直ししたものです。
 「石器―縄文―弥生―古墳」という「イシドキドキバカ」時代区分の「石土文明史観」でいいのかどうか、ご検討いただければと思います。
私はスサノオ・大国主の百余国の建国は、新羅との米鉄交易により、鉄先鋤などの鉄器稲作、水利水田稲作によるものと考えており、「石器―土器―金属器」の時代区分こそ、この国の独特の古代史の姿を明らかにできると考えます。雛元昌弘

「石器―土器―鉄器」時代区分へ



「アマテル論3 アマテル2は卑弥呼」の紹介

2020-02-22 19:43:12 | 神話
 Livedoorブログに「アマテル論3 アマテル2は卑弥呼」をアップしました。http://blog.livedoor.jp/hohito/
「1「『4人アマテル合体』のアマテル神話」「2 アマテル1はスサノオの義妹」に続いて、高天原でスサノオと支配権を争った「アマテル2」は17世代後の卑弥呼であることを、記紀に書かれたスサノオの活動や中韓の史書、嵯峨天皇の「スサノオは皇国の本主」と称えたことなどから明らかにしています。
 記紀神話の歴史改ざんの一番大きなポイントは、このスサノオ義妹の「アマテル1」と卑弥呼の「アマテル2」の歴史を合体させ、天皇家の祖先としてアマテル中心の神話を創作したところにあります。
 記紀神話はギリシア神話や朝鮮・アジアの神話をもとにした根も葉もない8世紀の創作ではなく、真実の歴史の改ざんであり、その痕跡は記紀にはっきりと残されています。苦心して真実の歴史解明への手掛かりを残した太安万侶ら記紀作者の暗号を読み解き、スサノオ・大国主建国史を明らかにする作業が求められます。雛元昌弘

「琉球論7 『日(ひ:太陽)信仰』か『霊(ひ:祖先霊)信仰』か」の紹介

2020-02-20 22:04:35 | 日本民族起源論
 本日、Livedoorブログ「帆人の古代史メモ」に「琉球論7 『日(ひ:太陽)信仰』か『霊(ひ:祖先霊)信仰』か」をアップしました。http://blog.livedoor.jp/hohito/
 「スサノオ・大国主建国論」から「海洋交易民論」「母系制社会論」「霊(ひ)信仰論」「土器(縄文)時代論」などに進み、その「海人族」のルーツが琉球にあるのではないかと考えるようになり、この小論をまとめました。
 海人(あま)族のスサノオ・大国主一族のルーツが南方系であることを宗教論から解明しています。 雛元昌弘

「太安万侶のミステリー1 太安万侶はミステリーライター」の紹介

2020-02-19 17:35:32 | 建国論
 Amebaブログに「太安万侶のミステリー1 太安万侶はミステリーライター」をアップしました。終活として、これまで書いてきたものをブログにアップしていたのですが、息抜き、気分転換のために新しい書下ろしを始めました。https://ameblo.jp/hinafkin55
 スサノオ・大国主建国論とは密接に関わりますが、別の切り口の気楽な読み物にしたいと思います。雛元昌弘

倭語論15  古日本語は「3母音」か「5母音」か?

2020-02-18 05:55:45 | 倭語論
 2017年4月にさいたま市中央区のカフェギャラリー南風(オーナーは沖縄出身の山田ちづ子さん)で比嘉正詔さん(沖縄平和祈念堂の前所長)の講演会があり、前置きで「沖縄弁は母音が『あいう』の3つで『え』は『い』に『お』は『う』になる」「日本の古語が沖縄弁に残っている」という話しを聞き、11月には「ウンジュよ」(あなたよ)の朗読会で原作者の元高校国語教師・宮里政充さんからいろいろと教わり、母音法則から日本民族起源を考えはじめました。
 系統的に言語学や国語学の勉強をしたことがない私の仮説ですが、この小論は翌2018年12月に書いたレジュメ「『3母音』か『5母音』か?―古日本語考」をほぼそもまま再掲します。なお、5母音論については、『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)でさらに展開しており、本稿の修正を含めていずれ紹介いいたします。
 なお、本稿はLivedoorブログ「帆人の古代史メモ」においても「琉球論6」として掲載しています。

1 「3母音」と「5母音」のどちらが先か
 琉球弁が「3母音」、本土弁が「5母音」であるのに対し、通説では「5母音であった古日本語が、琉球で3母音方言に変わった」としているようです。
 私は言語学の専門家ではなく基礎知識もありませんが、伊波普猷著「琉球語の母音組織と口蓋化の法則」(外間守善『沖縄文化論叢5』言語編)、石崎博志著『しまくとぅばの課外授業』、亀井孝論文集2『日本語系討論のみち』にざっと目を通した限りでは、「琉球弁3母音化説」には、納得できる説明は見られませんでした。「琉球弁は古日本語の5母音より3母音化した」のか、「3母音の古日本語より、本土弁が5母音化した」のか、本格的な議論が必要と思います。
 私は古日本語(旧石器人語・縄文人語)は5母音「あいういぇうぉ」であり、1700年前頃(安本美典説)の邪馬台国・卑弥呼の時代後に、古事記に書かれたように、龍宮(琉球)をルーツとする薩摩半島の隼人(ハヤト=ハイト=ハエト=南風人:海幸彦)が、龍宮から妻を迎えた山幸彦(ヤマト=山人の笠沙天皇家2代目)と対立し、その支配下に置かれたことにより、琉球と本土の交流は途絶え、琉球では「あいういう」の3母音化し、本土では5母音の「あいうえお」に変わったと考えています。
 なお、笠沙天皇家2・3代目の妻が龍宮(琉球)の姉妹であるということは、笠沙天皇家4代目で大和天皇の初代大王のワカミケヌ(後に神武天皇と命名)の祖母・母が龍宮人であるということであり、「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ-記紀の記述から『龍宮』=『琉球説』を掘り下げる」(季刊日本主義43号)に詳しく論証しています。

琉球弁「3母音化説」(通説)と本土弁「5母音化説」(筆者説)


2 チェンバレンの「琉球語=古代日本語説」
 日本研究家のバジル・ホール・チェンバレン(東京帝大名誉教授。1850~1935年)は、「現今の日本語が古代の日本語を代表せるよりも、却って琉球語が日本の古語を代表せること往々 是れあり」(チェンバーレン『琉球語典及字書』:『伊波普猷全集』第11卷より)としています。
 単語からこのような結論が得られるとすると、「母音」についても、琉球語の「3母音」が日本の古語を代表しているという説が考えられます。

3 「方言周圏論」(柳田國男)と「方言北上・東進説」(筆者)からの検討
 柳田國男の「方言周圏論」(図参照)は、京都を中心にして言語は地方に拡散し、地方に古い方言が残るというのですから、古日本語の「3母音」は、遠く離れた辺境の琉球に「3母音」が残り、都では「5母音」になったということになります。

柳田國男のカタツムリ方言の「方言集圏論」


 『しまくとぅばの課外授業』で石崎博志氏はこの「方言周圏論」を援用しながら、沖縄ではもともと5母音であったのが3母音に変化したとしているのですから、逆になっています。「方言周圏論」を採用するなら、古日本語の3母音が沖縄に残ったとすべきでしょう。
 一方、「カタツムリ」名と「女性器」名から、私は柳田の「方言周圏論」を批判し、「方言北上・東進説」を証明しています。詳しくは「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(2018年12月:『季刊日本主義』44号参照)に書き、さらにLivedoorブログ『帆人の古代史メモ』の「琉球論4 「かたつむり名」琉球起源説」「琉球論5 『全国マン・チン分布孝』批判の方言北進・東進論」で紹介しました。
 この「方言南方起源説」「方言北上・東進説」により、私はもともと「3母音」であった古日本語が琉球に残り、本土では「5母音」に変化した、と最初は考えていました。
 しかしながら、現代の琉球弁は「あいういう」の3母音5音節であることから考えると、古日本語の「あいういぇうぉ」5母音が、琉球では「あいういう」の3母音5音節になり、本土では「あいうえお」5母音になった、と考えます。

4 安本美典氏の「古日本語北方説」の検討
 安本美典氏は、日本基語・朝鮮基語・アイヌ基語からなる「古極東アジア語」から、ビルマ系言語の影響を受けて「古日本語」が成立したという「古日本語北方起源説」ですが、別に「インドネシア系言語」が南九州から本土太平洋岸にかけて分布したとしています。
 一方、アマミキヨ始祖伝説については1700年前ころに邪馬台国のアマテラス(卑弥呼)から沖縄に伝わったという説を唱えています。
 彼の説では琉球は「インドネシア系言語」でも「古日本語系言語」でもないことになりますが、1700年前ころに琉球弁と本土弁が分離したとしていますから、その言語は「主語―目的語―動詞」構造の古日本語で、「主語―動詞―目的語」構造のインドネシア系言語やベトナム系言語ではないとしていることになります。
 安本氏の図に私は太い点線で追加しましたが、古日本語は「主語―動詞―目的語」構造のビルマ系の海人(あま)族が琉球(龍宮)を起点として北上したと私は考えています。

安本氏の「古日本語北方起源説」と私の「古日本語南方起源説」


 安本説だと1700年前ころに琉球を邪馬台国・アマテラスが支配し、アマテル始祖伝説が伝えられ、アマミキヨ伝説となったことになりますが、同時代に琉球弁と本土弁が分離したとする説と矛盾しています。それよりなにより、アマミキヨ伝説は海の彼方のニライカナイよりアマミキヨがやってきたというのであり、安本氏の筑紫の甘木朝倉にいたという卑弥呼=アマテラス説とは異なります。琉球の伝説はニライカナイが邪馬台国あるいは「ヤマト(山人)」とはしていません。
 海人(あま)族のアマミキヨ伝説からのアマテラス名、奄美 → 天草 →甘木→海士・海部(隠岐)→天川・天下原(あまがはら)(播磨)→天城(伊豆)などの地名の移動、丸木船を作る南方系の丸ノミ石器の分布、曽畑式土器の分布、性器名の変遷・分布などを総合的に検討すれば、「古日本語南方起源説」「古日本語北上・東進説」にならざるをえません。

「あま(天・奄・甘・海士・海部)」地名の分布


5 宮良信詳氏の「姉妹語説」
 私は通説の「琉球弁は5母音から3母音に方言化した」という説に対し、「古日本語の3母音が琉球では残り、本土では5母音化した」と最初は考えていましたが、次には、古日本語は「あいういぇうぉ=あいうゐを」5母音であり、琉球は「あいういう」3母音になり、本土は「あいうえお」5母音に変化した、と考えるようになりました。
 言語学の母音研究でそのような説があるのかどうかについては、まだ確かめられていませんが、パトリック・ハインリッヒと松尾慎の編著『東アジアにおける言語復興 中国・台湾・沖縄を焦点に』の宮良信詳氏の「沖縄語講師の養成について」に、言語系統図として次の図があることに気付きました。語彙論であり母音論ではありませんが、同じ結論と思います。

宮良信詳氏の言語系統図


倭語論14 「アマテラス」か「アマテル」か

2020-02-17 16:37:03 | 倭語論
 大学1年生の時、夏休みに工務店でアルバイトした時のことですが、職人の間で「玉から生まれたアマテラス」や「万世一系」なんか嘘だろうなど、天皇崇拝を皮肉る話がよく飛びかっていました。中には「天照大御神」のことを「テンテル」としか言わない若い腕のいい大工がいました。
 古代史をブログで書き、『スサノオ・大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)を出したときも、「天照」を「アマテラス」と書いたり「アマテル」と書いたりしてきましたが、昨年末の『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(第2版)からは引用など以外では「アマテル」を使うようになりました。
 最近、「モモソヒメ=卑弥呼=アマテラス」という「新皇国史観」があたかも歴史であるかのような邪馬台国畿内説の主張が目に付きだし、「アマテラス」か「アマテル」か、はっきりさせる必要があると考えるようになりました。
Livedoorブログ「帆人の古代史メモ」での「アマテル論」に関連して、「倭語論」として整理しました。

始祖神は誰か
 戦前の皇国史観は、天皇家が始祖・天照大御神の孫で高天原から天降ったニニギを先祖とし、大日本帝国憲法の天皇による「万世一系かつ神聖不可侵の統治」に根拠を与えました。(注:以下、大御神、神、命・尊(みこと)などの尊称を省略します)
 しかしながら、記紀にはそんなことはどこにも書かれていません。古事記では始祖神を「参神二霊」の天之御中主(あめのみなかぬし)、高御産巣日(たかみむすひ)と神御産巣日(かみむすひ)とし、さらに「産巣日(むすひ)」2神を「二霊群品の祖となりき」としています。日本書記がこの「二霊」に高皇産霊(たかみむすひ)、神高皇産霊(かみむすび)の漢字を宛てていることをみると、日=霊(ひ)であり、「人(霊人)」「彦(霊子)」「姫(霊女)」など「群品」を産んだ始祖夫婦神はこの2神になるはずです。
この「参神」は他の2神とともに出雲大社正面に「別天神」(天から別れてきた神)として祀られているのですが、皇国史観はこれを無視し、古事記だと天御中主から数えて12代目にあたる天照を始祖神であるかのようにすり替えているのです。
 一方、日本書紀本文は始祖神を「国常立(くにのとこたち)」「国狭鎚(くにのさつち)」「豐斟渟(とよくむぬ)」などとしていますが(注:一書第1~第6で微妙に異なる)、やはり天照を始祖神にはしていません。
 天皇家が天照を含めて、これらの神々を始祖神として宮中に祀っておらず、明治まで天皇が天照を祀る伊勢神宮に参拝していないことは、そもそも天皇家をこの国のシンボルとすることに疑問を投げかけています。
 皇国史観も戦後の反皇国史観もこの「不都合な事実」から目を逸らしています。

天照をどう読むか
 今、「新皇国史観(大和中心史観)」は、纏向のモモソヒメ=卑弥呼=アマテラスという新しい「平成神話」を歴史にしようとやっきになっていますが、そもそも「天照」を「アマテラス」とすることについて何の検討も説明もしないままに戦前の皇国史観を継承しています。
 古事記の天照大御神、日本書紀の天照大神の「天照」について、通説は本居宣長の「世界を照らす太陽神・アマテラス」説を採用して「アマテラス」と読ませていますが、歴史学として合理的説明がつくでしょうか? 私は次のように考えます。
 第1に、「アマテラス」読みは、天照=太陽神とすることからきていますが、記紀に太陽信仰はどこにも書かれておらず、出雲大社も天皇家も太陽信仰を継承していません。また、エジプトやマヤ・アスティカ文明に見られるような太陽神を示すシンボルは、土器・銅鐸などどこにも残っていません。
 第2に、「大海人皇子」が「天武天皇」と称されたように、「海人=天」であり、「天照」は「海人照」とみるべきであり、「天から世界を照らす太陽」と解釈すべき余地はありません。スサノオの子の「五十猛(いたける)」や、穂日(ほひ)の子の「武日照(たけひなてる=武夷鳥=日名鳥)」「熊蘇武(くまそたける)」「日本武(やまとたける)」「出雲建(いずもたける)」などの名前を踏襲した「天武(あまてる)天皇」名からみても、「委(壱=一)」「日=日向(ひな)」、「熊蘇」、日本」「出雲」などの国の勇者の名前なのです。
 第3に、記紀に天照の子として登場する「天照国照彦(あまてるくにてるひこ)天火明(あめのほあかり)」を祀る各地の天照神社はたつの市の1社を除き全て「あまてる神社」と称し、天火明を主祭神とする丹後の籠神社(このじんじゃ:元伊勢と呼ばれています)で「アマテル」と呼ばれていることからみても「天照」は「アマテル」と読むべきと考えます。なお、天照国照彦天火明は播磨国風土記では大国主の子と書かれているのに対し、記紀ではアマテルの玉から生まれたと書かれていることからみて、播磨国風土記の信ぴょう性が高いと考えます。

対馬市美津島町小船越の阿麻氐留(あまてる)神社
―祭神は高御魂(たかみむすひ)とされるが、元々は「天火明」が祭神であったとする説を支持―




たつの市龍野町日山の天神山の粒坐天照(いいぼにますあまてらす)神社
―祭神は天照国照彦火明(あまてるくにてるひこほあかり)―



 第4に、アマテルが天岩屋に隠れた時、アマテルが天岩屋から出てきたとき天地は「照明自得」と書いてあることから天照を太陽とみなす解釈がありますが、その期間は金山から鉄を取って鏡をつくるなどの長い期間として古事記には描かれており、1日単位の太陽の運行と較べようもありません。朝鮮神話に見られるような王を太陽神とする直接的な記述ではなく、単なる比喩的表現と見るべきです。また、この現象を日食として太陽信仰とみなす説がありますが、わずか数分の日食と記紀の記述はおよそ合いません。
 第5に、倭人の「好物」(魏書東夷伝倭人条)として卑弥呼に与えられた銅鏡を太陽を照らす宗教儀式の祭具とみなし、天照を太陽神とする解釈が見られますが、古事記によれば鏡は「わが御魂」としてアマテルがニニギに与えたものであり、祖先霊がやどる神器であり、太陽のシンボルではありません。アマテルの岩屋神話でも、神籬(ひもろぎ;私説は霊(ひ)漏ろ木)には一番上に勾玉の首飾り、次に鏡、その下に白布を垂らしたのであり、頭に珠、胸に鏡、白布を腰に位置としていることからみても、鏡を頭上に輝く太陽と解釈することはできません。
 以上、「天照」を「アマテラス」とする本居宣長説を採用する合理的な根拠はどこにもありません。

「アマテル」読みの古代史へ
 あの「大東亜戦争」の反省と裕仁天皇の「人間宣言」に照らせば、本居宣長の「世界を照らす太陽神アマテラス」の解釈は否定されるべきです。いまだに歴史学者やマスコミが本居宣長解釈の「アマテラス」読みにしがみついているのは驚くべき時代錯誤というほかありません
 天皇制支持者あるいは反天皇制論者にせよ、「天照」を「アマテラス」と言い続けることは止めるべき時期ではないでしょうか?
 

「動物変身・擬人化と神使、肉食と狩猟」の紹介

2020-02-16 12:32:40 | 縄文
 はてなブログに「動物変身・擬人化と神使、肉食と狩猟」をアップしました。2014年8月にまとめて「縄文社会研究会」(上田篤元大阪大学教授主催)のメンバーに送付したレジュメを小修整して再掲したものです。https://hinafkin.hatenablog.com/
 「縄文社会研究会(縄文日本の会)」において、「日本のアニメが世界各国で受け入れられているのは、鳥獣戯画などの動物擬人化や動物と人間との間に境をもうけない文化的な伝統、縄文文化からの伝統ではないか」という意見が出されたので、私の考えをまとめたものです。
 「縄文思想について、世界に一番アピールしているのは宮崎駿監督の作品」との考えですが、みなさんはいかがでしょうか? 
縄文時代から続くスサノオ・大国主の「霊(ひ)信仰」を解明しています。雛元昌弘

出雲大社の神使の海蛇(龍神様)



「古代国家形成からみた縄文時代―船・武器・稲作・宗教論」の紹介

2020-02-15 12:03:53 | 縄文
 はてなブログに「古代国家形成からみた縄文時代―船・武器・稲作・宗教論」をアップしました。https://hinafkin.hatenablog.com/
このレジュメは、私が取り組んできたスサノオ・大国主建国論から縄文時代をみるという主旨で、1914年4月に縄文社会研究会で報告した配布資料ですが、そのまま転載しました。今となってみれば「縄文・弥生時代論」「鉄先鋤革命」など修正したい箇所がありますが、6年前の私の考えの記録としてそのまま公表したいと思います(一部単純ミスと名詞止の言葉足らずなどの部分のみ小修正)。
 口頭で説明するための箇条書の資料で、長くて読みにくく分かりにくいと思いますが、仮説構築のヒントとして利用していただければと考えます。 
 縄文時代からスサノオ・大国主建国への連続性について解明しようとした最初の頃のレジュメです。雛元昌弘

「銅剣」にされてしまった石器時代の「石槍」に続く「銅槍」



「アマテル論2 アマテル1はスサノオの義妹」の紹介

2020-02-14 20:35:11 | 建国論
 Livedoorブログに「アマテル論2 アマテル1はスサノオの義妹」をアップしました。http://blog.livedoor.jp/hohito/
 昨日の「アマテル論1「『4人アマテル合体』のアマテル神話」では、「日向(ひな)王女アマテル」「高天原アマテル」「復活アマテル」「国譲らせアマテル」(以下、アマテル1・2・3・4)のアマテル1~4が合体されて一人のアマテル(合体アマテル)が創作されたのではないか、という仮説を提起しました。
 今日はその2として、アマテル1はスサノオの義妹であることを、古事記の記載から明らかにしました。
 スサノオ・大国主建国の真実の歴史を隠し、「アマテラス=モモソヒメ=卑弥呼」を天皇家の祖先にしようとする「新皇国史観」の古代史ねつ造事件に対し、引き続きアマテル1~4の実像を明らかにしていきます。雛元昌弘

スサノオ壁画(八重垣神社:893年巨勢金画)


「アマテル論1 『4人アマテル合体』のアマテル神話」の紹介

2020-02-13 19:35:09 | 建国論
 本日、Livedoorブログ「帆人の古代史メモ」に「アマテル論1 『4人アマテル合体』のアマテル神話」をアップしました。http://blog.livedoor.jp/hohito/
 2014年8月に書いたレジュメ「4人のアマテル(天照)と卑弥呼」と2019年末にまとめた『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本:第2版)をもとに、書き直しました。
 「アマテラス=卑弥呼=モモソヒメ」という「新皇国史観」に危機感を覚え、これまで書いてきた「アマテル論」について連載していきます。雛元昌弘


「アマテル1~4」を合体した「天照大御神」


「『アマテラス=卑弥呼=モモソヒメ』の『新皇国史観』を危惧する」の紹介

2020-02-12 17:57:27 | 邪馬台国
 本日、Livedoorブログ「帆人の古代史メモ」に「『アマテラス=卑弥呼=モモソヒメ』の『新皇国史観』を危惧する」をアップしました。http://blog.livedoor.jp/hohito/
 裕仁天皇の人間宣言により、天皇を唯一絶対の太陽神とする戦前の「皇国史観」は息の根を止められましたが、「アマテラス=卑弥呼=モモソヒメ」として天皇家の歴史を新たに創作しようとする「新皇国史観」とでもいう動きに危機感を感じています。
 この新たな天皇利用の動きに対し、記紀に書かれたスサノオ・大国主建国史とともに、薩摩半島南西端の笠沙(かささ)の阿多を本拠地とした猟師・山人(やまと)の人間天皇家の真の歴史を明らかにしたいと考えています。 雛元昌弘

卑弥呼の宮殿施設?(邪馬台国大研究/歴史倶楽部/223回例会・平野区考古学展より)inoues.net/club10/hiranoku201702.html




倭語論13 「主語―目的語―動詞」言語の起源と拡散

2020-02-11 21:21:15 | 日本民族起源論
 日本民族はアジア諸国からの多様なDNAを受け継ぎ、漢字を使いながら「倭音、呉音、漢音」読みを併用し、「主語―目的語―動詞(SOV)」言語構造を維持しており、中国語の「主語―動詞―目的語(SVO」言語構造を採用していません。朝鮮語は同じ「主―目―動」言語構造ですが、呉音・漢音のように朝鮮音の併用例は日本語には見られず、基礎言語も一致しておらず、日本語形成には影響を与えていません。
 「弥生人(中国人・朝鮮人)による縄文人征服説」が通説として根強いのですが、イギリスのように言語転換が起きておらず、また、台湾・フィリピン・インドネシアなどのように言語の異なる多数の少数民族が入り混じってはいません。1万年の土器文化(通説は縄文文化)からみても、わが国は独自の言語・文化を維持しながら様々な民族の人たちを受けいれ、積極的に中国文化を吸収し、自律的・内発的発展を遂げたと私は考えています。
 言語学では諸説入り乱れ、門外漢の私にはどれを採用すべきかの判断基準を持ちあわせてはいませんが、それらのデータを紹介しながら、2018年7月に作成したレジュメをもとに、修正しました。雛元昌弘

1.「主語―目的語―動詞(SOV)」言語地域と「主語―動詞―目的語(SVO)」言語地域
現在の「主目動」言語地域と「主動目」言語地域については下図のような分布図がウィキペディアで紹介されています。
 
世界の言語分布図



 この図でみると、日本語の「主語―目的語―動詞(以下主目動と略)」言語のルーツは「アフリカの角(エチオピア・ソマリア)」を起点として、インド・ミャンマーを経たルート、草原地帯ルート、シベリアルートの3つが想定されます。
 安本美典氏の言語研究(『新説! 日本人と日本語の起源』『研究史 日本語の起源』『日本民族の誕生』など)によれば、「主目動」言語は、海岸沿いのインド南部のドラヴィダ語→ミャンマー語→日本語などの「海の道」に点在し、さらにシベリアのブリヤート語→ギリヤーク語→アイヌ語(樺太・千島列島・カムチャツカ半島・北海道)などの「マンモスの道」、ウイグル語→モンゴル語→満州語→朝鮮語を繋ぐ「草原の道」が浮かんできます。安本美典氏は北方ルート説ですが、私は南方ルートの「海の道」が主と考えています。

日本語はどの言語に近いか(安本美典『新説! 日本人と日本語の起源』より)



「主語ー目的語ー動詞」語順の言語分布図



 日本語が多くの漢語を受け入れて今も日常的に漢字を「倭音・呉音・漢音」で併用しながら「主目動」語順を維持し、中国語の「主動目」語順に変えていないことを考えれば、単語よりも語順は可変性が低く、他の語族の支配・強制がなければ語順転換は起こりにくいと考えられます。

2.「主目動(SOV)」言語と「主動目(SVO)」言語の起源
 人口比でみると下図のように、「主目動(SOV)」言語が48%で多数で、「主動目(SVO」言語は32%のようです(中尾俊夫,寺島廸子『図説英語史入門』(大修館書店,1988年)。ウィキペディアでは、SOV型(主目動型)が一番多く565言語、次いでSVO型(主動目型)が488言語とされています。

世界の言語順(中尾俊夫,寺島廸子『図説英語史入門』:大修館書店、1988年)




 中国13.9億人、インド13.2億人、アメリカ3.3億人、インドネシア2.6億人、ブラジル2.1億人、パキスタン2.0億人、ナイジェリア1.9億人、バングラデシュ1.6億人、ロシア1.4億人、日本1.3億人の人口大国のうちでは、「主動目(SVO」言語の国が中国・アメリカ・インドネシアなど多数で、「主目動(SOV)」言語はインド・パキスタン・日本です。
 では「主目動(SOV)」、「主動目(SVO」のどちらが先に生またのか、あるいは、別々に発生したのでしょうか? 
 「主目動(SOV)」語から「主動目(SVO)」に変わっている言語が多いとされていることからみると、下図のように「主目動(SOV)」言語がまず生まれ、他の「主動目(SVO)」を始めとする言語が派生した可能性が考えられます。

世界の言語順の変化(中尾俊夫,寺島廸子『図説英語史入門』)



 
 しかしながらモンゴル帝国に東ヨーロッパや中国支配にも関わらずそれらの国々の言語構造が変わることがなく、イギリスに公用語が4つ(ゲルマン人の英語(イングランド語)と原住民ケルト人の「動主目(VSO)」言語のスコットランド語、ウェールズ語、アイルランド語))あることかみても、語順は基本的には変わりにくいとみられます。そうすると「主動目(SVO)」と「主目動(SOV)」などの言語はもともとアフリカで独自に発生し、それぞれ何次にもわたって世界に拡散した可能性が高くなります。

「主動目(SVO)」「主目動(SOV)」言語等アフリカ起源説(雛元仮説)




 人類が東アフリカに現れたのは約20万年前、アフリカ大陸から出たのは5万~6万年前とされていますが(近年、誕生は30万年以上前頃、出アフリカは12万年前頃の説あり)、「主動目(SVO)」族と「主目動(SOV)」族などはそれぞれ別々に何次にもわたってアフリカを出て各地に定住したのではないかと私は考えています。
 なお日本語は「ウラルアルタイ語」に属し、英・独・仏・伊語やスペイン語、ロシア語、、ペルシア語、ヒンディー語などは「インド・ヨーロッパ語」と習ってきましたが、語順でみると「主目動(SOV)」言語のヒンディー語やペルシャ語は別系統で、と見るべきと考えます。

3.「主目動詞」語族の出発地と分岐点
 「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『日本主義』40号)、「言語構造から見た日本民族の起源」(『日本主義』42号)で掲載した図のように、私は「主目動」言語構造の部族は今のエチオピアあたりから出アフリカを果たし、中央アジアを分岐点として、「マンモスの道」「草原の道」「海の道」を通って日本列島にたどり着いたと漠然と考えていました。
 「出アフリカ」が今のエジプトからシナイ半島を通ったのか、あるいは今のエチオピアから紅海を越えてアラビア半島のイエメンに渡ったのか、1ルートなのか、2ルートなのかは、まだ検討できていません。
 また、「マンモスの道」「草原の道」「海の道」の分岐点は最初はメソポタミア文明の発祥地インダス川あたりを考えて、次には、寒冷期の熱帯作物のヒョウタンの「海の道」と、ドラヴィダ語(古代インド語)、ミャンマー語に注目してパキスタン・インドあたりを分岐点に考えましたが、まだ確かめられていません。
 寒冷期には「草原の道」は乾燥化して大型動物は移動できず、エジプトでの牧畜の開始が紀元前5000年前頃、ウクライナ地方での馬の家畜化は紀元前3000年前頃、中央アジアでの騎馬遊牧民の活発な活動は紀元前1000年頃とされていますから(常木晃編『食糧生産社会の考古学』など)、「主目動」語族が「草原の道」ルートを東進したのは土器時代(縄文時代:約15,000年前から約3,000年前)よりもずっと後になります。
 従って、「主目動」語族が旧石器・土器時代に何次かにわたって日本列島にやってきたのは「海の道」と「マンモスの道」であり、それは縄文時代の若狭の鳥浜遺跡のヒョウタン・ウリなどの熱帯・亜熱帯植物と北方系のアサ・カブ・ナタネなどからも裏付けられます。そして紀元前2世紀頃に「主目動(SOV)」語族の騎馬民族が朝鮮半島北部に入り、アフリカを出た同じ「主目動(SOV)」語族が劇的に出会うことになります。

4.アフリカの「主目動」と「主動目」語族の分布
 ウィキペディアによれば、アフリカの歴史は次のように書かれています。「約10万年前に出現した現代型のホモ・サピエンスは体格だけでなく、質的にも現代人と相違ない文化を獲得していったとされる」「ケニアでは約5万年前の地層からダチョウの卵殻を加工した装飾品が出土しており、現代型ホモ・サピエンスの特徴は後期旧石器時代に位置付けられる」「約1万年前になると大陸内の民族分布も次第に明確になり、東部、南部にコイサン語族、中央部にピグミー系民族、西部に黒人系民族が根を下ろし始める」(※コイは牧畜民、サンは狩猟採集民。コイサン語は現生人類の最も古い言語とされる)
 その言語は「アフリカで話される言語の殆どはアフロ・アジア語族、ナイル・サハラ語族、ニジェール・コンゴ語族のいずれかの語族に属しており、そのほか数百の言語がウバンギ諸語のような小さな語族や、まとめてコイサン諸語と呼ばれる色々な語族、またはアフリカ以外の地域に起源があるインド・ヨーロッパ語族やオーストロネシア語族に分類される。」とされています。

アフリカの言語地図(ウィキペディアより)




 さらに、アフロ・アジア語はアフリカ東北部ではセム語(橙色)とクシ語(水色)に分かれ、クシ諸語は主にアフリカの角、タンザニア、ケニア、スーダン、エジプトで話され、最も大きな言語はオロモ語(約3,500万人)、次いでソマリ語(約1,800万人)、シダモ語(エチオピアに約200万人)とされています。オロモ語はエチオピアとケニアにいる2500万人のオロモ人やその近隣のウェルジ人などの第一言語であり、エチオピアの公用語のアムハラ語(主目動言語)はクシ語の影響を受けているとされています。

クシ語派の分布(ウィキペディアより)




 3万年前の語族・言語分布と、現在の語族・言語分布と言語の系統分岐図は不明ですが、「主目動(SOV)」語族のルーツはアフリカ北部のエチオピアからソマリア、ケニアあたりの可能性が高いと考えられます。
 ちなみに、アフリカ大陸15か国で仕事した「yozat14氏」のブログ「社会起業家を目指して」によれば、おじぎをする国民はエチオピア人だけとのことです。

5.「主目動詞」語族の日本列島への道
 中国湖南省の鍾乳洞からは約10万年前の歯化石が発見されたことが報道されましたが(2015年10月14日『Nature』)、彼らが今の中国人の直接の祖先である「主動目(SVO)」語族なのか、それとも、先住していた「主目動(SOV)」語族なのかは不明です。
 前者だとするとアフリカ中央部から「主動目(SVO)」語族がシナイ半島を通り、西と東に分岐し、ヨーロッパと中国から東南アジアにかけて分布し、「アフリカの角」から「主目動(SOV)」語族が「海辺の道」「海の道」を通りイラン・インド・ミャンマー・ニューギニアにかけて分布し、途中から南の「海の道」と北の「マンモスの道」に分かれ、日本列島に3~4年前に沖縄と北海道に到達したことになります。
 後者だとすると、「主目動(SOV)」語族が「アフリカの角」から「海辺の道」「海の道」を通り、イラン・インド・東南アジア・東アジア全域に分布し、後に「主動目(SVO)」語族がシナイ半島からマンモスの道を通って東進し、中国・東南アジアに先住する「主目動(SOV)」語族を追い出して分布した、ということになります。
 あるいは、何次かに分けて、「主目動」語族「主―動―目」語族とがそれぞれ段階的に出アフリカを果たし、各地に分散した可能性もあります。
 日本語が「主目動」言語でありながら、「主動目」の東南アジアの多くの単語を吸収していることから考えると、インド・ミャンマー方面から東南アジアに入り、「主動目」語族と共住しながら、黒潮に乗って北に進み、日本列島にたどり着いた可能性が高いと考えます。
 今後、アフリカ・アジアの言語学、遺伝子学、旧石器遺跡、植生分布などから、さらに総合的な検証が求められます。

6.「主目動詞」語族は北方系か南方系か?
 安本美典氏は邪馬台国論や日本語起源論について多くの著書を書かれ、私も古代王即位年の統計的分析や邪馬台国甘木・朝倉説など多くの影響を受けています。ただ、氏の古代王即位年推計をアマテルからさらに私は古事記の始祖神に遡らせており、邪馬台国甘木・朝倉の馬田説に対し私は甘木高台説であること、卑弥呼太陽神崇拝説に対し私は卑弥呼霊御子(ひみこ)説であること、古事記神話からのアマテル・神武東征抽出に対し私は古事記神話全体の分析であること、邪馬台国東進説に対し私はワカミケヌ(諡号=死号は神武天皇)傭兵隊移動説、筑紫地名のワンセット大和移転を邪馬台国東進とみるのに対し私はスサノオ・大年(大物主大神・大物主)の美和国建設説であるなど、氏とは異なります。
 日本語起源説について、大野進氏のドラビダ語説を批判し、下図のように安本氏は「古極東アジア語」の中に「古日本語系」を置き、「古日本語系」はビルマ系言語の影響を受けており、日本語の形成は北方系の日本海側の「古日本語」と太平洋側の「インドネシア系言語」の2系統で考えています。

日本語の形成プロセス




 しかしながら、「ビルマ系言語の影響を受けた古日本語」が北方系というのも意味不明ですし、太平洋側と大陸側とで日本語方言に違いがあるとの分析は見たことがありません。もし北方系、ビルマ系、インドネシア系(主動目言語)の民族の移動があったのなら、縄文文化は台湾やフィリピンのように多言語・多文化・多民族の構成になったのではないでしょうか?
 また、黒潮に乗って南からの民族移動があったのなら、対馬暖流がビルマ系、黒潮本流がインドネシア系という証明ができるのでしょうか? 縄文人は対馬暖流に乗り、琉球から北海道、シベリア沿岸まで「貝の道」「黒曜石の道」「ヒスイの道」を交易していた海人族であり、丸木舟製作に使用する丸ノミ石器は琉球から九州西岸にも太平洋側にも分布しています。縄文人の言語もまた南から北へと対馬暖流・黒潮本流に広がったとみるのが自然です。
 さらに、ツングース系の扶余族の古朝鮮の成立は檀君神話(後世の創作説が濃厚)でみても紀元前2333年、実際には紀元前4世紀頃(2世紀頃説も)に中国東方地方(満州)から朝鮮半島北部にまたがる連盟王国とされ、縄文1万年の古日本語と同時代の言語分布で論じるのはそもそも無理があります。 
 琉球の始祖のアマミキヨ伝承と記紀神話のアマテル(天照:本居宣長説はアマテラス)名の類似性、あま地名の分布(奄美、天草、甘木、海人、天城など)、琉球方言と本土方言との繋がり(例えば、琉球と出雲の「あいういう」3母音)などからみても、「主目動」言語の古日本語(縄文語)は安本氏もビルマ系(ミャンマー系)の影響を示しているように、南方系と見るべきと考えます。
 
7.「竹筏の道」「丸ノミ石器の道」「ヒョウタンの道」「タロイモの道」「ヒエ・アワの道」「貝の道」「黒曜石の道」「稲の道」「土器鍋の道」「DNAの道」「言語の道」の総合的判断へ
 日本民族起源論については、DNAなど人類学に根拠を求める論も多いのですがそもそもサンプル数・地域が限られており、DNA民族として、共通の土器時代の言語・文化に求めるべきと考えます。
 ただし、日本文化起源論(柳田國男ら)として論じる場合には、単に文化というより、生産・生活・交流・交易に基礎に置いた日本文明論として論じるべきであると私は考えます。
 その際、これまでの論で不十分と感じるのは、1万年の土器時代(通説:縄文時代)の芋・豆・雑穀農耕を軽視・無視した「弥生時代論」、海人(あま)族の漁業と舟による広域的な交流・交易を軽視した「狩猟採取中心の縄文論」の「ジベタリアン文明観」、アフリカ起源言語の「単一言語拡散分化説」、単語分析に偏った「文章構造論軽視」の言語学などです。