ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート

「神話探偵団~スサノオ・大国主を捜そう!」を、「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート」に変更します。雛元昌弘

スサノオ・大国主ノート159 『太陽を南から登らせる』邪馬台国畿内説

2024-06-27 15:51:45 | 邪馬台国

 わが国の古代史研究は「天皇家建国論」が大勢を占めているように思いますが、私は記紀・風土記と魏書東夷伝倭人条分析を通して、スサノオ・大国主7代による百余国の「葦原中国・豊葦原水穂国」=「委奴国(ふぃなのくに)」の建国からこの国の古代史研究は始めるべきと分析を続けてきました。―『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』等参照

 そして未だに決着がついていない邪馬台国論争については、百余国の「委奴国(ふぃなのくに)」から乱により30国が分離し、この30国は「相攻伐歴年」の後に卑弥呼を共立して「邪馬壹国連合」の「倭人国」となり、70余国の「天鄙国(あまのひなのくに)」と並立状態となり、卑弥呼の後継者争いに敗れた男王派のニニギは薩摩半島南西端の笠沙・阿多に逃げ、その4代目の山人(やまと)族の若御毛沼(ワカミケヌ:8世紀に神武天皇の諱=忌み名)が傭兵隊として宇佐→筑紫→安芸→吉備と16年間仕え、大和(おおわ)に入り、10代かけて崇神天皇の時に権力を奪ったと私は分析しています。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)等参照

 今回は、邪馬台国論争の要となる魏書東夷伝倭人条の「行程論」について、すでにこれまでSeesaaブログ「ヒナフキンの邪馬台国ノート」などに書いてきたことを、「里程日程」、「陸行水行」、「方位」、「津」の解釈から決着を付けたいとまとめました。

 

 昔むかしに流行ったエディット・ピアフ、越路吹雪の歌で有名な『愛の賛歌』のブレンダ・リーの英語歌詞の冒頭の「If the sun should tumble from the skies. If the sea should suddenly run dry. If you love me, really love me, let it happen  I won't care.」(もし太陽が空から落ちても、もし海が突然干上がっても、もしあなたが私を愛して本当に愛してくれるなら、そうなってもかまわない)を思い出します。

 邪馬台国畿内説や近年の邪馬台国吉備説、丹後説、四国説などをみていると、この歌と重なってくるのです。

 「If the sun should rize from the south. If the moon should set in the north. If you love kinaisetu, really love kinaisetu, let it happen  I won't care.」(もし太陽が南から昇っても、もし太陽が北に沈んでも、もしあなたが畿内説を愛して本当に愛してくれるなら、そうなってもかまわない)

 

 邪馬壹国がどこにあるのかは、魏書東夷伝倭人条の行程記録と、後漢・魏皇帝から与えられた金印、金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡(きんぎんさくがんしゅ りゅうもん てっきょう)、ガラス壁などの遺物、さらには記紀の記載や対応する地名、神社伝承などから決まります。ありふれた三角縁神獣鏡や纏向遺跡での各地の土器の集積、木製仮面、大量の桃の種、大型建物からは決ましません。これらは1~3世紀の奈良盆地の開拓者、スサノオ・大国主一族の祭祀の痕跡の可能性が高いからです。―邪馬台国ノート「44 纏向の大型建物は『卑弥呼の宮殿』か『大国主一族の建物』か」「47 『神武東征』について―若御毛沼命の河内湖通過時期「48  纏向遺跡は大国主一族の祭祀拠点」参照 

 問題は、魏志倭人伝(魏書東夷伝倭人条)の行程記をどう読むかですが、不彌国から「南至投馬国水行二十日・・・」「南至邪馬壹国 女王之所都 水行十日陸行一月」の記載の、水行の起点を邪馬台国畿内説は不彌国からとし、放射状読み九州説は伊都国からとしています。

 私はその水行の起点は、九州本土に魏使が到達した末盧国の天然の良港(津)の呼子港からとし、正使は陸行し、副使は水行したと考えています。

 倭人条を読んでみましょう。「王遣使詣京都帯方郡諸韓国及郡使倭国 皆臨津捜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯」(王が使を遣はし、京都、帯方郡、諸韓国、及び郡使が倭国に詣るに、皆、津に臨みて捜露す。文書や賜遣の物を伝送し女王に詣らすに、差錯するを得ず)と書かれているのであり、津(天然の良港)から文書・賜遣物を伝送して女王に詣でているのです。

 「里程」でなく「日程」で示した「南至投馬国水行二十日」「南至邪馬壹国 女王之所都 水行十日陸行一月」の起点は、倭国本土の東松浦半島北端の「津」、末盧国の呼子港しかありえません。

 倭国の津から「伝送」したというのは魏の船荷を倭人の船に乗せ換えたのであり、瀬戸内海や日本海を「水行」したのであれば魏の大型船で安全・快適に航行でき、小さな和船で「伝送」する必要はありません。平底の和船に移し替えたのは、水深が浅く、干満差が大きい有明海から筑後川を遡る必要があったからです。

 そして「詣でる」とある以上、その伝送は倭人任せではなく副使が乗り、「太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭國 拝假倭王」(太守・弓遵は建中校尉の梯儁等を派遣し、詔書・印綬を捧げて倭国へ行き、倭王に仮拝した)との記載からみても、「拝假(仮)倭王」(倭王の代理に拝した)のです。

 「其地無牛馬」の記載からも、津からの「伝送」は水行しか考えられません。また、「自為王以來少有見者」(王となりて以来、見る者少し)、「唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處」(ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝へ、居所に出入りする)ということからみて、副使は卑弥呼に拝したのではなく辞を伝える「男子一人」に拝したので「拝假(仮)倭王」と書いたのです。

 重要な点は、九州北岸で魏の竜骨船(V字底船)が風と波を避けて長期間停船でき水深が深く、直接接岸できる天然の良港は末盧国の呼子港しかなく、「南至投馬国水行二十日」「南至邪馬壹国 水行十日陸行一月(水行十日=陸行一月)」の起点は呼子港以外にありえません。

 「邪馬壹国博多湾岸説」の古田武彦さんやそれを受け継いだ推理小説家・高木彬光氏の「邪馬台国宇佐説」は、「南至投馬国水行二十日」「南至邪馬壹国 水行十日陸行一月」の起点を帯方郡としましたが、「王遣使詣京都帯方郡諸韓国及郡使倭国 皆臨津捜露」の記載からみて、「水行」は倭国の「津」(呼子港)からしかありえません。また「自郡至女王國 萬二千餘里」と書き、帯方郡から末盧国までの「水行」を「里程」で書いている以上、わざわざ「水行二十日」「水行十日陸行一月」の「日程」表記で示す必要はありえません。末盧国の「津」から正使の「陸行里程」表記に対し、副使の伝送を「水行日程」で書き分けたのです。

 さらに図3のように、「周旋可五千餘里」は正使陸行・副使水行(陸行里程・水行日程)で実際に「參問倭地」して「周旋」したことを示しているのです。

 個人的には古田さんにいろいろと教えられ、高砂市の「石の宝殿」(万葉集記載)やその北の加古川市の「天下原古墳」(播磨国風土記に記載)を案内したこともありましたが、この水行起点帯方郡説は文献分析にこだわった古田さんらしからぬ間違いと考えます。

 ここで畿内説に戻りたいと思いますが、なんとなんと「南至投馬国」「南至邪馬壹国」の「南」を「東」の書き間違いとしているのです。

 畿内説を魏使になってタイムワープしてリアルに体験してみましょう。

 魏使の一行は不彌国で朝起き、東に向けて出航した時、太陽は正面から昇ったはずです。それを「南」としたというなら、太陽は「南」から昇ったことになります。投馬国までの「水行二十日」、邪馬壹国までの「水行十日陸行一月」の間、60日間、毎日、太陽が南から昇ったと魏使が体験していたというのが畿内トンデモ説なのです。

 これは瀬戸内航路説ですが、対馬暖流航路説(山陰航路説)はもっと奇妙です。丹後までは太陽は南から昇り、最後の丹後から大和までの「陸行一月」は太陽は東から昇ったことになります。

 いずれにしても、不彌国までは太陽は東から昇っていたのに、不彌国から先は南から昇り、さらに丹後からは東から昇るなど、「魏使方向音痴説」は冗談にもならない大嘘です。「科学」「専門家」など持ち出すまでもない、万人の「常識」問題です。

 邪馬台国畿内説、さらには吉備説、四国説(阿波説、讃岐説、高知説)、出雲説、丹後説の皆さんは、魏使は太陽が昇り、沈む方角もわからない方向音痴であるという明確な証明をしないかぎり、「倭人伝方位誤記説」を撤回すべきです。

 そして畿内説では、記紀に書かれた美和→大和(おおわ=大倭)の紀元1~4世紀の稲作の普及と建国は大物主(スサノオ=大物主大神の御子の大年)・大国主一族であるいう歴史研究へと転換を図るべきです。雛元昌弘

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

 ・『奥の奥読み奥の細道』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2017冬「スサノオ・大国主建国論1 記紀に書かれた建国者」(『季刊山陰』38号)

 2018夏「スサノオ・大国主建国論2 「八百万の神々」の時代」(『季刊山陰』39号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018夏「スサノオ・大国主建国論3 航海王・スサノオ」(『季刊山陰』40号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(『季刊 日本主義』43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

 ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

 帆人の古代史メモ(~115まで)      http://blog.livedoor.jp/hohito/

 帆人の古代史メモ2(116~)      https://hohito2024.blog.jp/

 ヒナフキンの邪馬台国ノート       http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

 霊(ひ)の国の古事記論                 http://hinakoku.blog100.fc2.com/


「縄文ノート197 『縄文アート論』メモ」の紹介

2024-06-23 12:33:51 | 日本文明

 はてなブログに「縄文ノート197 『縄文アート論』メモ」をアップしましたので紹介します。https://hinafkin.hatenablog.com/

 岡本太郎氏紹介の「火焔型土器」の強烈なインパクト、大阪万博の「太陽の塔」(生命の樹)と「黒い太陽」、「縄文に帰れ」「沖縄に本土が復帰するのだ」のメッセージ、猪風来氏の縄文野焼きイベント(2回目は金城実氏も参加)、仕事でよく通った群馬県片品村の金精様と砂糖ツメッコ、群馬県榛東村の耳飾り館、長野県・山梨県の妊娠土偶と女神像など、縄文文化との出合いを振り返りながら、「縄文アート」がどう現代に引き継がれているか、考え続けています。

 本ブログの「スサノオ・大国主建国論」としても、縄文海人族の沖縄から北海道までの対馬暖流にのった交易・交流での出雲の位置、縄文の神名火山(神那霊山)信仰と出雲の関係、縄文巨木建築と出雲大社本殿の関係、縄文のヒスイ文化と勾玉の関係、ソバ食のルーツ、火焔型縄文土器の縁飾り突起(私はトカゲ龍神説)とヤマタノオロチの関係など、出雲の宗教・文化とスサノオ・大国主建国との関係の解明をこれまで追究してきましたが、出雲の地元おいて縄文社会からのスサノオ・大国主建国の探究が進み、さらには人類史の中に位置づけ、八百万神信仰の世界遺産登録を目指すことを期待したいと考えます。 雛元昌弘

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

 ・『奥の奥読み奥の細道』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2017冬「スサノオ・大国主建国論1 記紀に書かれた建国者」(『季刊山陰』38号)

 2018夏「スサノオ・大国主建国論2 「八百万の神々」の時代」(『季刊山陰』39号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018夏「スサノオ・大国主建国論3 航海王・スサノオ」(『季刊山陰』40号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(『季刊 日本主義』43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

 ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

 帆人の古代史メモ          http://blog.livedoor.jp/hohito/

 ヒナフキンの邪馬台国ノート     http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

 霊(ひ)の国の古事記論       http://hinakoku.blog100.fc2.com/

 


158 縄文・古代郷土史のすすめ

2024-06-20 14:44:49 | スサノオ・大国主建国論

 gooブログ「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート」で連載を始めた「スサノオ・大国主建国論」は7で中断したままですが、「2 私の古代史遍歴」(221013)で全国各地の郷土史の問題点について次のように書きました。

 全国各地の仕事では市町村史を必ず見てきたが、不思議だったのはどこにでも必ずある縄文・弥生遺跡の次は朝廷支配が及んできた記述となり、各地にあるスサノオ・大国主一族の神社が示す歴史についてほとんど触れていないことであった。祖先霊を祀る宗教施設であるスサノオ・大国主系の神社があり、しかもスサノオ・大国主に関わる伝説がある以上、スサノオ・大国主王朝の影響が及んだに違いないのであるが、大和中心・天皇中心史観の郷土史家たちは無視しているのである。

元:スサノオ・大国主建国論2 私の古代史遍歴 - ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート (goo.ne.jp)

 

 第1の問題点は、「未開の縄文、進んだ弥生」という、縄文時代から弥生時代(土器名による時代区分はすでに破綻)へ大転換がおきたとする縄文・弥生断絶史観です。

 1万数千年の母子主導の「採集栽培・漁労縄文社会」を男主導の「狩猟採集社会」としてとらえるとともに、「縄文農耕(芋豆穀実栽培)」から「水利水田稲作」への自立的・内発的な発展を無視していることです。

 瀬戸内海の淡路島やしまなみ海道、山陰の市町村などにまちづくり計画の仕事で通っている時、夕方になると釣竿とバケツ持って女性や高齢男性などが岸壁で釣りをして夕食の魚を釣っている光景をよく見かけ、各地の市町村での座談会では中高年の人たちが「子どもの頃の遊びは、ほとんど食料調達だった」と懐かしそうに話すのをよく聞きました。

 私も小学生低学年の頃は播磨の田舎にいくと又従兄弟と毎朝網をもって小川にでかけ、親戚一同は春には必ず潮干狩りに出かけ、又従兄弟たちと海に泳ぎに行くと貝を足で採り、時には伝馬船を借りて釣りに行き、揖保川ではヤスでアユやウナギを突き、投げ網を教えてもらい、山芋を掘ることもありました。岡山市の自宅では、春には町内会できのこ狩りに行き、近所の青年が空気銃で小鳥を撃つのに連れていってもらったこともありました。

 縄文時代から日本列島は豊かな海と山の幸に恵まれており、採集漁撈は子ども戦力であったのです。

 西洋中心史観は男性中心の「狩猟・肉食・戦争進歩史観」であり、日本の多くの歴史家・考古学者も自然条件を無視してその受け売りに終始し、熱帯雨林での「糖質・DHA食」に支えられた人類の頭脳の発達を無視し、母子中心の「採集栽培・漁労進歩史」を認めていません。

 「戦争進歩史観」ですから武器にもなる「石先槍」には興味はあっても、骨製の「銛」や「釣り針」には関心が薄いのです。―縄文ノート「89 1段階進化説から3段階進化説へ」「111 9万年前の骨製銛からの魚介食文明論」「70 縄文人のアフリカの2つのふるさと」「186 『海人族縄文文明』の世界遺産登録へ」「178 『西アフリカ文明』の地からやってきたY染色体D型日本列島人」参照

 人類は何次にもわたってアフリカからアジア・ヨーロッパへ出ていますが、最も大規模な「出アフリカ」は約7万年前とされており、彼らは熱帯雨林で「銛」で魚やワニ、トカゲ、カエルなどを獲っていた文化を持ってアフリカを出て、多くは同じように食料の豊富な熱帯・亜熱帯に拡散したのです。

 日本文化は1万数千年の縄文社会を基底としているのであり、西欧中心の「狩猟・肉食・戦争進歩史観」から離れ、縄文社会をベースにした郷土史を再構築して欲しいものです。

  第2の問題点は、各郷土史が「縄文時代→弥生時代→古代天皇制」の記述になっており、記紀(古事記・日本書紀)や出雲国・播磨国風土記などに書かれたスサノオ・大国主7代の「葦原中国(あしはらのなかつくに)」「豊葦原水穂国(とよあしはらのみずほのくに)」の建国史を無視し、各地にある神社伝承や祭り、民間伝承、地名などをスサノオ・大国主建国と結びつけて検討していないことです。

 私は「石器時代→縄文時代→弥生時代→古墳時代」という分類基準に統一性のないガラパゴス的な時代区分を「イシ・ドキ・ドキ・バカ時代区分」として揶揄し、食生活と採集農耕漁労文化の道具を分類基準として「木骨石器→土器(土器鍋)→鉄器(鉄先鋤)」の時代区分を提案し、「縄文栽培・農耕」(芋豆穀実の焼畑農耕)から沖積平野での「鉄器水利水田稲作」への大転換こそ古代国家形成に関わる時代区分とすべきと考えてきました。

 そして、この後者こそ後漢書、魏書東夷伝倭人条などに登場する紀元1・2世紀の男王の7~80年の「百余国」の「委奴国(ふぃなのくに)」であり、スサノオ・大国主7代の「葦原中国」「豊葦原水穂国」であることを明らかにしてきました。―『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』等参照

 かつて古田武彦氏は「多元的古代」説を掲げましたが、縄文1万数千年の歴史を受け継いだ「委奴国」を構成する「多元的」な旧百余国の研究は進んでおらず、代わりに郷土愛から邪馬台国を九州各地、郷土・大和(おおわ)、吉備、出雲、阿波、丹後などに引っ張ってくる邪馬台国説が乱立しているありさまです。

 「スサノオ・大国主建国史無視・抹殺の郷土史」から、記紀・風土記などの記述と全国各地の豊富な遺跡・遺物、古社の祭神と伝承、民間伝承、地名・人名などを総合的に照合した「縄文・古代郷土史」を確立し、「鉄器王」(鉄先鋤王)スサノオ・大国主一族による「葦原中国・豊葦原水穂国」「委奴国」の全体像を解明したいものです。

 スサノオがヤマタノオロチ王を切った剣は「韓鋤剣(からすきのつるぎ)」で韓の鉄先鋤の刃先を鍛え直した剣であり、大国主が「五百(いほ)つ鉏々(すきすき)猶所取り取らして天下所(あめのした)造らしし大穴持」(出雲国風土記)と呼ばれ、御子に阿遅鉏高日子根(あぢすきたかひこね)がいることからみて、スサノオ・大国主7代は新羅から鉄先鋤を輸入し、寒冷化で収穫量が減った新羅に米を運ぶ「米鉄交易」により、「葦原」の開拓と「水路・水田整備」を進めたのです。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)「邪馬台国ノート49 『卑弥呼王都=高天原』は甘木(天城)高台―地名・人名分析からの邪馬台国論」(2300402)参照

 また、私の妻の実家の裏手にある「高御位山(たかみくらやま)」(播磨富士)の山頂には巨大な磐座(天御柱)があり、その下には石の宝殿の削り石を投げ捨てた「タイジャリ(鯛砂利)」があり、「鯛の形の頭が上を向いていたらここが日本の中心になるはずであった」という伝承(義母談)があり、近くには「大国里」(播磨国風土記)や「天下原(あまがはら:前同)」「天川」などの地名があります。

 高御位山の前の小山には500tの巨石の「石の宝殿」(筆者説は石の方殿)」があり、万葉集には生石村主真人(おいしのすぐりのまひと)の「大汝 小彦名乃 将座 志都乃石室者 幾代将經」(大汝(おおなむち)少彦名のいましけむ志都(しづ)の岩屋は幾世経ぬらむ)の歌があります。なおこの「石の宝殿」の大国主・少彦名を祭神とする「生石(おいしこ)神社」は生石村主真人一族の神社であったとみて間違いありません。―『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』参照

 そして、古事記には、少彦名の死後「いかにしてこの国を造ろう」と思い悩んでいた大国主命のところに、「御諸山(三輪山)に坐す神」の大物主大神(スサノオ)が海を光して来て、「よく我が前を治めれば、共に国作りを行おう」「自分を倭の青垣の東の山の上に奉れ」と言い大国主命の協力者となったとしています。さざ波によって海がキラキラと光り、その中から大物主大神の神意を伝える大物主が船で東から現れたという光景は、まさにこの地の瀬戸内海南岸の光景に外なりません(出雲北岸、四国北岸などでは海は光りません)。

 この石の宝殿のある「竜山石」は仁徳天皇をはじめとした畿内の大王や豪族などの石棺に使われ、紫宸殿に四角い台座の上に八角形の屋形を被せた「高御座(たかみくら)」で皇位継承の儀式をおこなうのは、この播磨の高御位山での大国主・大物主連合の建国儀式を継承したと考えます。

 私は縄文遺跡と記紀神話・神社伝承の繋がりについては諏訪の神名火山(神那霊山)信仰や石棒・金精信仰などある程度分析はできましたが、播磨の地で縄文遺跡と播磨国風土記・記紀や神社伝承などのスサノオ・大国主一族の建国との関係をまだ探究できていません。地元でしか解明できない「記紀、風土記、地名・人名、神社・民間伝承、遺跡・遺物」の5点セットの縄文・古代史の宝庫は全国各地にまだ眠ったままであり、全国各地の郷土史家の研究に期待したところです。

第3の問題点は、「弥生人(中国人・朝鮮人)征服史観」や「弥生人大量渡来史観」とともに、「天皇家弥生人説」や「スサノオ・大国主一族弥生人(朝鮮人)説」が見られることです。

 古事記は薩摩半島南西端の笠沙・阿多のニニギからの阿多天皇家の2代目を「海幸彦(漁師:隼人=はやと)」「山幸彦(猟師:山人=やまと)」兄弟とし、山幸彦・ホオリの妻は龍宮(琉球)の豊玉毘売(とよたまひめ)とし、その子の鵜葺草葺不合(うがやふきあえず)は豊玉毘売の妹の玉依毘売(たまよりひめ)を妻としたと伝えています。そして、その子の山人(やまと)族の若御毛沼(ワカミケヌ)が大和(おおわ)に入り初代「神武天皇」(8世紀の諱=忌み名)になったとしていることから明らかなように、縄文人の一族とみなしており稲作民の王とはしていません。―「スサノオ・大国主ノート152 『やまと』は『山人』である」(240516)参照 

 また記紀によれば、高天原は「筑紫日向(ひな)橘小門阿波岐原」(地名からみて福岡県旧甘木市蜷城(ひなしろ))にあるとしており、高天原を朝鮮半島とする「天皇家弥生人(朝鮮人)説」が成立する余地などありません。天皇家は薩摩半島南西端の縄文山人(やまと)族なのです。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

 さらに「スサノオ・大国主一族弥生人(朝鮮人)説」も見られますが、記紀によればスサノオ・大国主一族のルーツは壱岐・対馬を拠点とした縄文海人族であり、魏書東夷伝倭人条や『三国史記』新羅本紀、記紀のどの史書からみても壱岐・対馬の海人族朝鮮人説など成立しません。最近、出雲人のDNA分析の結果は、出雲の人たちが縄文系であることが明らかとなっています。

 「万世一系」の天皇中心史観の歴史家たちは、天皇家を稲作文化・文明を担った弥生人の建国王とし、新羅と米鉄交易を行い「鉄器水利水田稲作」を全国に広めた縄文海人(あま)族のスサノオ・大国主一族の「葦原(沖積平野)」の「水穂国」づくを無視していますが、縄文1万数千年の文化・文明こそこの国の基底文化・文明であることを隠し、「弥生社会」像を全面に押し立てて「弥生天皇」像を創作しているのです。

 全国的に縄文遺跡の発掘が進み、民俗学の蓄積のあるわが国には、「記紀、風土記、地名・人名、神社・民間伝承、遺跡・遺物」の縄文・古代史の宝庫が全国各地にあるにもかかわらず、バラバラにされて眠ったままなのです。

 「天皇中心史観(新皇国史観)」病にかかっていない若い世代の皆さんにより、1万数千年の縄文時代と紀元1~4世紀のスサノオ・大国主一族の建国史を「食・農耕・倭音倭語・祭り・宗教」などの文化・文明史として繋ぐ新たな縄文・古代郷土史が各地で生まれることを期待したいと思います。

 そしてさらに視野を世界に広げて、この縄文文化・文明こそ侵略神一神教以前にかつて全世界にあった母系制社会の文化・文明であり、縄文・古代郷土史から世界遺産登録に向けた取り組みを各地で開始して欲しいものです。―縄文ノート「11 『日本中央部土器文化』の世界遺産登録をめざして」「49 『日本中央縄文文明』の世界遺産登録をめざして」「59 日本中央縄文文明世界遺産登録への条件づくり」「77 北海道・北東北の縄文世界遺産登録の次へ」「82 縄文文明論の整理から世界遺産登録へ」「160 『日本中央部縄文遺跡群』の世界遺産登録にむけて」「161 『海人族旧石器・縄文遺跡群』の世界遺産登録メモ」「166 日本中央部縄文文明世界遺産登録への研究課題」「186 『海人族縄文文明』の世界遺産登録へ」等参照

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

 ・『奥の奥読み奥の細道』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2017冬「スサノオ・大国主建国論1 記紀に書かれた建国者」(『季刊山陰』38号)

 2018夏「スサノオ・大国主建国論2 「八百万の神々」の時代」(『季刊山陰』39号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018夏「スサノオ・大国主建国論3 航海王・スサノオ」(『季刊山陰』40号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(『季刊 日本主義』43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

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157 温羅(うら)は「吉備王・占(うら)」

2024-06-12 15:09:29 | スサノオ・大国主建国論

 「縄文ノート125 播磨・吉備・阿蘇からの製鉄・稲作・古墳の起源論」(220226)において、私は次のように書きました。

 祖母の住んでいた「浦部」集落は揖保川町史によれば「占部」の可能性が指摘されており、五十狭芹彦(大物主の妻で箸墓に葬られた百襲(ももそ)姫の弟。後の吉備津彦)に殺されたと伝わる吉備の「ウラ(温羅)王」も「占王」であり、対馬・壱岐をルーツとした「占部氏」由来の地名・人名ではなかったかなどと考えていました。

 

1 温羅(うら)は「吉備王・占(うら)」

 岡山空襲で焼け出された父母は、吉備津神社の「温羅」の首を埋めたとされる「御竈殿(おかまでん)」の真横の借家に疎開しており、そこで私は小学生になる前まで御釜殿から回廊(スケーターで下るとスリルがある)にかけてよく遊んでいましたが、播磨の「浦部」と吉備の「温羅」、何か因縁を感じずにはおれません。

 この御釜殿で行われる「鳴釜神事(なるかましんじ)」について、ウィキペディアは「釜の上に蒸篭(せいろ)を置いてその中にお米を入れ、蓋を乗せた状態で釜を焚いた時に鳴る音の強弱・長短等で吉凶を占う神事。・・・一般に、強く長く鳴るほど良いとされる。原則的に、音を聞いた者が、各人で判断する。女装した神職が行う場合があるが、盟神探湯・湯立等と同じく、最初は、巫女が行っていた可能性が高い」「吉備津神社には鳴釜神事の起源として以下の伝説が伝えられている。吉備国に、温羅(うら)という名の鬼が悪事を働いたため、大和朝廷から派遣されてきた四道将軍の一人、吉備津彦命に首を刎ねられた。首は死んでもうなり声をあげ続け、犬に食わせて骸骨にしてもうなり続け、御釜殿の下に埋葬してもうなり続けた。これに困った吉備津彦命に、ある日温羅が夢に現れ、温羅の妻である阿曽郷のの娘である阿曽媛に神饌を炊かしめれば、温羅自身が吉備津彦命の使いとなって、吉凶を告げようと答え、神事が始まったという」としています。

 父からこの話を聞いて御釜殿は怖いと思っていましたが、温羅一族は鬼とされ「桃太郎の鬼退治」物語の元となったのです。

 この伝承で重要なのは、岡山市の「黄蕨(きび)の会」代表の丸谷憲二さんから教えられたことで、図1のように妻の阿曽媛の阿蘇地区が古代からの製鉄拠点であったことです。―縄文ノート121 古代製鉄から『水利水田稲作』の解明へ」(220205)参照

 温羅が捕まったとされる鯉喰神社は楯築墳丘墓から700mほどのところにあり、温羅の血で染まったという血吸川・赤浜はこの地が赤土=赤目(あこめ)砂鉄製鉄の拠点であったことを示しており、阿曽地区から血吸川をさらに遡った鬼城山(鬼ノ城は温羅の本拠地)の麓に6世紀中ごろの現在のところ日本最古とされる製鉄遺跡千引カナクロ谷製鉄遺跡(千引=血引であろう)があるのです。―「縄文ノート120 吉備津神社と諏訪大社本宮の『七十五神事』」(220129)参照

  この「温羅王」について、ウィキペディアは「鬼神」「吉備冠者(きびのかじゃ)」という異称があり、「出自についても出雲・九州・朝鮮半島南部など、文献によって異なる」としています。

 私は大国主を国譲りさせて後継王となった穂日と武日照(たけひなてる:天夷鳥、天日名鳥)親子が出雲祝神社(埼玉県入間市)に祀られていることから、大国主の後継者は「祝(いわい)」と呼ばれていた可能性があり、筑紫鳥耳・大国主王朝の子孫である筑紫君磐井もまた「磐井=祝」であったと考えています。そして、同じように吉備王「温羅」もまた「占=卜」で神事を行っていた王の可能性が高いと考えます。

 

2 阿曽族は製鉄部族

 丸谷憲二さんはこの阿曽一族が行っていた製鉄は「阿蘇リモナイト」(褐鉄鉱、沼鉄鉱)を使った阿蘇の製鉄法が伝来したと考えており、広島大学や愛媛大学でもモナイト製鉄再現実験を行っており、調べてみると図2のように阿曽・麻生地名のあるところで製鉄が行われていることから私も丸谷説を支持しています。―縄文ノート121 古代製鉄から『水利水田稲作』の解明へ」(220205)、「縄文ノート119 諏訪への鉄の道」参照

 母の故郷であるたつの市揖保川町の「浦部」の前の山には鉄糞(かなくそ:鉱滓、スラグ)が出ることを又従兄弟から「古代人の糞が出る」と間違って聞いており、図3のように隣の太子町には阿曽地名があり、その近くにはスサノオと共に新羅に渡った御子の五十猛(いたける)を祀る中臣印達神社(なかとみいたてじんじゃ:いたて=いたける)があります。―「縄文ノート127 蛇行剣と阿曽地名からの鉄の伝播ルート考」(220318)参照

 また、近くの雛山の麓の4~7世紀の朝臣古墳群の1号墳からは阿蘇ピンク石の舟型石棺蓋が見つかっていますが、図4のように岡山市の5世紀前半の全国第4位の巨大前方後方墳の造山(つくりやま)古墳の舟型石棺は灰色の阿蘇溶結凝灰岩、瀬戸内市長船町の5世紀後半の築山(つきやま)古墳の家型石棺や香川県観音寺市の5世紀中頃~後半の丸山古墳の舟形石棺、5世紀中頃の帆立貝形の青塚古墳の舟形石棺などは阿蘇ピンク石であり、高槻市の6世紀前半の今城塚(いましろづか)古墳(第26代継体天皇の陵墓説)など5~6世紀の大阪・奈良・滋賀の10の古墳にもまた阿蘇ピンク石は使われており、高砂市の竜山石と同じく古代王たちのルーツを示す最高級の石材であった可能性があります。―「縄文ノート125 播磨・吉備・阿蘇からの製鉄・稲作・古墳の起源論」(220226)

 以上、「温羅」と妻の「阿曽姫」の子孫の「祝(いわい:神主)」の娘の「阿曽姫(襲名)」伝説から、私はこの地の製鉄を行う阿曽族の姫に吉備王の「温羅(占)」が妻問いして夫婦となったと考えます。

 

3 吉備津神社の2つの聖線(レイライン:霊ライン)

 私は公共施設の配置を計画する地域計画や建物の立地を決める建築基本計画の仕事をしてきましたから、吉備津神社の配置が特に気になります。図5~に示すように吉備津神社本殿は神名火山(神那霊山)である「吉備中山」を向いていないのです。

 これに対して、神池(幼児の時、三輪車とともに落ちて溺れそうになったことがあります)の中にある宇賀神社(吉備国最古の稲荷神:スサノオ・神大市比売の娘、大年(大物主)の妹を祀る)から御釜殿(温羅の墓所)、えびす堂(出雲の事代主を祀る)、岩山宮(スサノオの異母弟の吉備児島の建日方別(たけひかたわけ)を祀る)、環状石籬(せきり:列石)などの磐座(いわくら))は、吉備中山へ向かう参拝路となっているのです。―「縄文ノート120 吉備津神社と諏訪大社本宮の『七十五神事』(220129)参照

 この事実は、この地はもともとはスサノオ・大国主一族と同族の建日方別とその子孫である吉備王・温羅を祀る神名火山(神那霊山)信仰の祭祀拠点であり、その権力を奪った7代孝霊天皇の御子の彦五十狭芹彦(ひこいせさりひこのみこと)が温羅を殺して大吉備津彦を名乗り、後にその地に新たに吉備津神社を建てたことを示しています。―図5・6参照

 吉備津神社ホームページ掲載の19世紀の境内図(図6)を見ると、神名火山(神那霊山)である吉備中山に向かう出雲・吉備族の信仰軸と、吉備中山の大吉備津彦の墓所に向かう天皇家の信仰軸の2本の聖線(レイライン:霊線)が見られるのであり、もしも吉備津神社に行かれることがあれば、このスサノオ・大国主建国を示す聖線と天皇家の権力奪取を示す聖線を体感していただきたいと思います。―図6・7参照

 なお、吉備中山の環状石籬(せきり:列石)と楯築墳丘墓上の環状に配置された巨石が縄文時代のストーンサークル・ウッドサークルから続く宗教思想を示すのか、前者はたまたまの自然配置なのか、研究を期待したいところです。

 

4 吉備製鉄の解明を!

 日本書紀によればスサノオは御子の五十猛(イタケル)とともに新羅に渡り、魏書東夷伝辰韓条では「国、鉄を出す、韓・濊(わい)・倭皆従いてこれを取る」と書かれ、さらに三国史記新羅本紀は紀元59年に4代新羅王の倭人の脱解(たれ)が倭国と国交を結んだとしていますから、スサノオ(委奴国王)は米鉄官制交易を軌道に乗せ、新羅で製鉄法を秘かに入手して早々に帰国し、鉄鉱石が採れる山陽側の吉備、播磨で製鉄が古代製鉄がおこなわれていた可能性が高いと私は考えています。

 出雲の金屋子神社などの伝承によれば、出雲のたたら製鉄は金屋子神により図8のように「播磨・宍粟→吉備中山→伯耆・日野→出雲・奥日田」へと伝えられたとされています。―「縄文ノート125 播磨・吉備・阿蘇からの製鉄・稲作・古墳の起源論」(220226)参照

 ヤマタノオロチ王を切ったスサノオの剣を祀る備前国一宮の石上布都魂神社のある赤坂(オロチ王の本拠地であったと私は推理しています)は播磨の宍粟から吉備中山へのルートの途中にあり、赤穂(赤生:筆者説)・明石(赤石)とともに赤鉄鉱のあった場所であり、古代の重要な製鉄拠点であったと考えます。

 そして、この1・2世紀頃の新羅の製鉄技術の後に、阿曽族によるより簡便な縦型円筒炉による製鉄が4世紀頃に導入されたのではないかという仮説を私は考えていますが、いずれ製鉄遺跡発見により解明されることを期待しています。

 なお、図9・表1・2に示すように、私は通説の「製鉄ヒッタイト起源説」「草原の道伝播説・照葉樹林帯伝播説」に対し、「製鉄西アフリカ起源説」「海の道伝播説」ですが、宗教・農耕関係の倭音倭語がドラヴィダ語(タミル語)と類似しているのに対し、製鉄関係の倭音倭語はドラヴィダ語・呉音漢語・漢音漢語にはなく、韓国語を語源とする説もないことから、新羅鉄・阿曽鉄の伝播ルートの解明は今後の研究課題です。―縄文ノート「122 『製鉄アフリカ起源説』と『海の鉄の道』」(220210)、「136 『銕(てつ)』字からみた『夷=倭』の製鉄起源」(220427)、「178 『西アフリカ文明』の地からやってきたY染色体D型日本列島人」(230827・0930)参照


156 始祖神は「天照(あまてる)」か「産霊(むすひ)」夫婦神か?

2024-06-09 18:27:00 | スサノオ・大国主建国論

 アイヌの人たちは自分たちを「カムイ(自然神)」に対して「アイヌ=人間」と呼んでいます。これに対して、倭人は自分たちを霊(ひ)を受け継ぐ「霊人(ひと)」と呼びました。

 古事記序文は「二霊群品の祖」と書き、人々(群品)の始祖神を「産霊(むすひ)夫婦神」とし、出雲大社本殿の正面には「御客座五神」として天之御中主(あめのみなかぬし)と産霊夫婦神は祀られているのです。

 「客座」に祀られていることからみてこの5神は出雲土着の神ではなく、日本書紀一書(第三)がこの3神を「高天原に生まれた神」としていることからみて、そのルーツは壱岐・対馬の「海原(あまのはら)」の海人族と考えます。

 私たちの祖先は、子どもが親や祖父母に似るというDNAの働きを「霊(ひ)」が受け継がれると考え、死者の記憶がいつまでも残り夢にも現れることから、死者の肉体は土に帰ってもその霊(ひ:魂=玉し霊)は残り、自分たちを天から見守ってくれると想像したのです。

 この国の人々の始祖神を「産霊夫婦神」とする神話は、その子どもたちを「産子(むすこ:息子)、産女(むすめ:娘)」「霊子(ひこ:彦、毘古)、霊女(ひめ:姫、媛、比売、毘売)、霊御子(ひみこ:霊巫女、霊皇女)」と呼ぶことから裏付けられます。

 天皇家建国説の皇国史観は、この国の人々の始祖神を「天照大御神」とし、「天照(アマテル)」を「アマテラス」と読ませ、「世界を照らす太陽神」としてアジア侵略の思想的支柱としてきましたが、古事記は人々を産む始祖神を産霊夫婦神とし、日本書紀一書(第三)もまた高天原の始祖神を古事記と同じ3神にしているのです。

 なお、古事記で太安万侶は本文では夫婦2神を「神産日(かみむすひ)・高御産日(たかみむすひ)」と書き、「日神(ひのかみ)」を始祖神として「天照大御神」につなぎ、天皇家を太陽神の一族のように書いていますが、序文では「三神造化の首(三神:天之御中主と産霊夫婦)」「二霊群品の祖」と書き、スサノオ・大国主一族の「霊神(ひのかみ)」一族の歴史をしっかりと書き伝えているのです。

 また別の場所では、太安万侶は醜い石長比売をニニギが選ばなかった呪いにより天皇等の「命不長」と書きながら、阿多天皇家3代目のウガヤフキアエズは「五百八十歳」生きたとし、1~16代の天皇の年齢を倍にしているのですが、このようなミエミエの矛盾した記述は、巧妙に「スサノオ・大国主16代」の真実の歴史を伝え残す高度なテクニックなのです。

 歴史家たちはこのような古事記の矛盾した記述からこれらの神話は信用できないとしましたが、私は史聖・太安万侶は日本で最初の推理小説家・ミステリーライターであり、謎を解く手掛かりはきちんと書き記しており、彼らに任せるのではなく、ミステリー好きの皆さんに太安万侶の暗号の解明に取り組んでいただきたいと考えています。

 推理力などなく、ただただ天皇を太陽神にしたくてたまらない新皇国史観の歴史家などは、その根拠として次の2説を主張しています。

第1は、天皇家の皇位継承の「三種の神器」の鏡を、太陽のシンボルとする主張です。鏡を頭の上に掲げて人々を反射光で照らすイラストが描かれ、今も多くの神社では鏡を正面に祀ってこの説を広めています。

 すでに「154 『アマテラス』から『アマテル』へ」で述べたように、アマテルは「わが御魂」として祀るように命じて鏡を天下りを行うニニギに渡したのであり、鏡はアマテルの「霊(ひ)が宿る神器」なのです。「御魂」が宿る女王愛用の鏡はその死後、壊されて葬られたのです。

 そもそも、肝心の銅鏡、さらには銅鐸、土器などに太陽など描かれておらず、天皇家も太陽を祀る儀式など行っていないのであり、太陽信仰は皇国史観の空想という以外にありません。

 また、アマテルの御霊が宿る鏡を、御間城入彦(ミマキイリヒコ:10代崇神天皇)が皇居に移したところ、民の半数以上がなくなるという恐ろしい祟りを受けたため崇神天皇は鏡を宮中から出し、祀るべき子孫を探して29か所も点々とした後に伊勢神宮に収めたのであり、天皇家はアマテルの子孫ではないことを示しています。

 第2は、アマテルが天岩屋戸に隠れた後、「高天原(たかまがはら)皆暗、葦原中国(あしはらのなかつくに)悉闇」となり、アマテルが岩屋戸から出ると「高天原及葦原中国、自得証明」と書かれていることから、アマテルを太陽神とする主張です。

 この場面を「皆既日食」とし、アマテル=卑弥呼説を唱える人も見られますが、ファンタジーを理解しない困った「タダモノ(唯物)史観」という以外にありません。

 1970年代、鶴田浩二の『傷だらけの人生』が団塊世代に受けましたが、「生まれた土地は荒れ放題、今の世の中、右も左も真っ暗闇じゃあござんせんか」のセリフから「何から何まで真っ暗闇よ」の歌が始まります。だからといって、1970年に皆既日食があった、喜界カルデラ噴火や姶良カルデラ噴火のような破局的噴火があったなどと誰が考えるでしょうか? 

 古事記によれば、アマテル3(襲名した3番目のアマテル)が亡くなり、同族たちは集まって金山の鉄をとって鉄鏡を作り、八尺の勾玉と五百玉の首飾りを作るなどし、アメノウズメは石棺の岩屋戸(上蓋)の上で裸体を見せて踊る復活儀式を行い、次の女王アマテル4への霊継(ひつぎ)儀式を行ったのであり、魏書東夷伝倭人条に書かれたように「喪十余日」で、参加した他人は「歌舞飲食」を行っていたのです。

 私は太安万侶は日本最初のファンタジー作家であり、アマテル1(スサノオの異母妹)、アマテル2(大国主の筑紫妻・鳥耳)、アマテル3(大霊留女=霊御子=卑弥呼)、アマテル4(壹与)を合体したアマテルを創作して天皇家の始祖とする高天原ファンタジーを書きながら、歴史家としては真実のスサノオ・大国主16代(出雲7代、筑紫鳥耳・大国主10代)の歴史をしっかりと書き伝えているのです。―Gooブログ「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート(旧:神話探偵団)139  史聖・太安万侶の古事記からの建国史」(220729)参照 

 推理力も想像力も乏しい文献史家や、真っ暗闇を「物理現象」としかとらえない考古学者などに頼ることなく、ドキュメンタリー・ミステリー・ファンタジーとして古事記を分析する若い「産子・産女」「霊人・霊子・霊女」たちの世代に期待したいと思います。

 なお、葬儀に携わる神人、神使の猿や犬を飼う猿飼・犬神人、死者を蘇らせて演じる能楽師・人形浄瑠璃師・歌舞伎役者たちは死者の霊(ひ)を祀る「霊人(ひにん)」として尊敬・畏怖されていましたが、「人(霊人)殺し」を職業としていて皇族・貴族たちから差別されていた武士階級の身代わりとして、皇族・貴族・百姓・町人から「非人(ひにん)」として差別される身分に落とされたと考えています。

 

□参考

<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

 ・『奥の奥読み奥の細道』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2017冬「スサノオ・大国主建国論1 記紀に書かれた建国者」(『季刊山陰』38号)

 2018夏「スサノオ・大国主建国論2 「八百万の神々」の時代」(『季刊山陰』39号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018夏「スサノオ・大国主建国論3 航海王・スサノオ」(『季刊山陰』40号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(『季刊 日本主義』43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

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155 スサノオ・大国主建国論の方法論

2024-06-07 18:35:28 | スサノオ・大国主建国論

 考古学は遺跡・遺物の「物」からの帰納法により古代史を推理し、歴史学は主に「文献」から古代史を解明しますが、私はそれらに加えて現代に継承されている「文化・伝承」から古代史を仮説演繹的に推理してきました。

 前2者は科学的とみなされますが、限られた「発見物」「文献」からの推理という大きな限界があり、「未発見物」への推理を欠くことから、「新発見物」により容易にそれまでの定説がパアになる危険性があります。

 一例をあげると、出雲にめぼしい遺跡がないことから記紀に書かれた出雲神話は8世紀の創作とされてきましたが、荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡でのかつてない大量の銅器(銅槍・銅矛・銅鐸)の発見により、記紀に書かれたスサノオ・大国主一族の建国が物証により裏付けられました。八百万神信仰により「銅槍圏(通説は銅剣圏)・銅矛圏・銅鐸圏の統一」がなされたことが明らかになったのです。

 この「荒神谷・加茂岩倉ショック」により考古学者は自らの方法論の限界を反省し、歴史学者は天皇中心史観の記紀分析をやりなおすべきだったのですが、未だに大勢としては従来の物からの帰納的推理の「ただもの(唯物)史観」がまかり通っています。シュリーマンのように神話から大国主や大霊留女(アマテル;卑弥呼)の墓の発見を目指すような考古学者は現れていません。

 「八百万神」神道のこの国では、死者の霊(ひ)は全て神として子孫や人々に祀られるのであり、「神話=霊話=人話」なのです。記紀神話には天上の「高天原」神話のように一見すると荒唐無稽な内容が見られますが、一方ではその場所を「筑紫日向橘小門阿波岐原」と具体的な地上の地名として書いています。記紀は表面的には天皇家建国の歴史を空想的に書きながら、その裏では巧妙にスサノオ・大国主建国史を書き伝えているのです。

 私が「現代人の生活・文化・DNA」から遡り、「スサノオ・大国主建国史」を演繹的に推理してきた例としては次のようなものがあります。

 私の岡山・兵庫の田舎の両祖父母の家には「大黒柱」があり、柱に添って「神棚」が設けられていました。祖先霊を「仏壇」に「仏」として祀る以前は「神棚」に「神」として祀り、天から大黒柱を通って招き、送り返していた可能性があります。そうすると、そのルーツは出雲大社の「心御柱(しんのみはしら)」の「大国柱」の可能性があり、その「心御柱」のルーツは祖先霊の依り代である「神籬(ひもろぎ:霊洩木)」に遡り、神名火山(神那霊山)信仰から派生してきた可能性があります。

 さらに、そのルーツは東アフリカの万年雪を抱くルウェンゾリ山やケニヤ山、キリマンジェロから死者の魂が天に上るとした「神山天神信仰」にあり、ナイル川を下って平野部では人工の神山として上が白く下が赤いピラミッドとなり、Y染色体D型人により日本列島に運ばれ、諏訪地方の阿久・阿久尻縄文遺跡の石棒から円錐型(神那霊山型)の蓼科山へ向かう2列の石列や、蓼科山へ向いた19の巨木建築が示す蓼科山の「ヒジン(霊人:女神)」信仰へと繋がり、御柱祭は「天神信仰」の「神籬(ひもろぎ:霊洩木)」の可能性がでてきます。

 私の祖父母時代に見られた「大黒柱」や「お山信仰」(神名火山(神那霊山)信仰:女神信仰)などは、紀元1・2世紀のスサノオ・大国主時代に遡り、さらにはY染色体D型の縄文人のルーツであるアフリカに遡る可能性があるのです。

 スサノオ・大国主建国は、これまでもっぱら天皇家の建国との関係で論じられてきましたが、7万年前にアフリカを出たY染色体D型の縄文人からの内発的発展としてまずは検討するとともに、スサノオの御子の大年(大物主を襲名)の美和国、少彦名亡き後の大国主・大物主連合による大和国(おおわのくに)、大国主の筑紫妻の鳥耳の御子の穂日・夷鳥(日名鳥)親子が大国主を国譲りさせて継承した出雲王朝、筑紫の鳥耳から10代の筑紫王朝と邪馬壹国の全体的な関係をまず明らかにすべきと考えます。

 そして、一神教による侵略戦争以前に全世界に普遍的に見られた母系制社会の霊(ひ)信仰(八百万神信仰)は、命(霊(ひ)=DNAのリレー)を何よりも大事にする宗教思想として、今こそ世界遺産登録を目指すべきと考えますが、どう思われるでしょうか? 

 1万数千年の「縄文社会」の文化・文明をベースにしたスサノオ・大国主建国史から、たかだか2千年あまりの農耕・工業・戦争の文化文明の行き詰まりの先を展望すべきと考えます。 雛元昌弘

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

 ・『奥の奥読み奥の細道』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2017冬「スサノオ・大国主建国論1 記紀に書かれた建国者」(『季刊山陰』38号)

 2018夏「スサノオ・大国主建国論2 「八百万の神々」の時代」(『季刊山陰』39号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018夏「スサノオ・大国主建国論3 航海王・スサノオ」(『季刊山陰』40号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(『季刊 日本主義』43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

帆人の古代史メモ(~115まで)      http://blog.livedoor.jp/hohito/

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