発生期の前方後円墳や中方双方墳、円墳などのある古墳群のある養久山丘陵(たつの市)
「長老、神話探偵団の範囲から脱線していきません?」
マルちゃんの意見はもっともだが、ヒメには逆効果だ。
「脱線、逸脱、脱走大好きの私には、聞き捨てならない言葉よね。『脱線なくして、真実発見なし』って格言を知らないの?」
いつも勝手に格言をデッチあげるヒメであるが、こうなったら脱線列車で脱走だ。
「一般的には前方後円墳は大和の纏向で発生した、という説が有力です」
とりあえず、高木は情報提供することにした。
「それは、朝日新聞の邪馬台国畿内説一派の提灯記事だな。大新聞が、学会の1仮説だけを大々的に取り上げるなんて、とんでもない話だよ」
九州説のカントクは手厳しい。
「前方後円墳の起源について、他にはどんな説があるの」
ヒメの質問はいつも的確だ。
「吉備起源説、讃岐・阿波起源説があるし、僕は、播磨西部の揖保川流域起源説だけど、加古川流域起源説も出てきている」
「どこが起源か、というのは何で決めるの?」
「建造された時期が問題なんだが、今のところ絶対的に確かな共通の物差しがあるというわけではない。前方部と後方部の形状や葺石、棺や棺を入れる郭の形式や埋蔵品の鏡や玉などの製造時期、埴輪の有無や形式、葬送に使用した土器の形式、葬送の宗教などから総合的に判断することになる」
「最初に大王家=天皇家の巨大な前方後円墳が大和で建造されて、天皇家の支配の拡大とともに、全国にその様式が広まった、って習ったけど」
「それは、皇国史観、大和中心主義のフィクシィンだね。いきなり巨大な前方後円墳ができて、地方でその真似をして小さな前方後円墳ができた、ということは証明されていない。今は、先に小さな前方後円墳が各地にできて、大王家がそれを真似て巨大な前方後円墳を造った、と考えらてきているね」
「技術的な法則から言えば、小さな橋や建物から、次第に大きな橋や建物ができるわよね。それって、ピラミッドや古墳でも同じと思うよ」
建築出身のマルちゃんから見れば、当然かも知れない。
「前方後円墳は大王家の墓制、各地の王は前方後方墳、方墳、円墳などにランク分けされていた、と習ったのはどうなるの」
ヒメの質問は止まらない。
「初代から8代までの大王=天皇の墓は、仮にその比定が正しいとしてだけど、円丘が3つ、山形が5つなんだ。ようやく9代の開化天皇になってから全長約100mの前方後円墳が造られている。これは、前方後円墳が各地で造られた時期よりは確実に遅く、前方後円墳が天皇家の独自の墓制である、ということにはならないね」
「前方後円墳を大王家の墓の形式にするって、記紀に書かれていないの?」
「日本書紀で古墳の造営について具体的に書かれているのは、7代孝霊天皇の娘で、大物主の妻となったヤマトトトヒモモソ媛の全長282mの「箸墓」なんだな。これを見ると、この箸墓の造営は大王家にとっては画期的な事件であったに違いない。父の孝霊天皇の墓が山形墳であることからみても、大物主の妻のヤマトトトヒモモソ媛の巨大な前方後円墳造成は大事件だったに違いない」
「大王家が大物主に王女を差し出して、始めて巨大な箸墓ができた、というわけね」
「御間城入彦=崇神天皇が、御間城姫の入り婿として、磯城の間城、現在の纏(まき)に入り、磯城国の大物主家の政治的な支配権を確立すると同時に、ヤマトトトヒモモソ媛を大物主に差し出し、天皇家の血が入った子孫に大物主の祖先霊を祀らせる宗教支配体制ができたのではないかな」
「しかし、御間城姫って、大彦命の娘だったと思いますが」
高木は一応、チェックをかけておいた。
「記紀は御間城姫を孝元天皇の長男の大彦命の娘としているので、記録上は従姉妹を妻にしたことは動かせない。しかし、『御間城姫』のもとへの『御間城入彦』という名前からみて、逆玉ではなかったか、と考えている」
「ややこしいわよね。逆玉の『御間城入彦』が大物主神=大年の後継王に入り婿として収まったんだったら、大物主にヤマトトトヒモモソ媛を差し出す必要はないんじゃないの?」
「御間城入彦は最初、大物主大神とアマテラスの魂を宮中に祀ったところ、民の半数が死ぬという恐ろしい祟りを受けている。そこで、御間城入彦は大物主大神とアマテラスの魂を宮中から出し、それぞれ子孫を捜し出してきて祀らせたところ、疫病が治まったとしている」
「大物主大神を娘婿が祀ったのでは、ダメということなのね」
「そうなんだ。大物主神の子孫の大田田根子命を探しだして祀らせたところ、疫病は治まったとされている」
「大国主大神、大物主、御間城姫、大田田根子命の関係がよくわからないなあ」
「大神(おおみわ)神社に祀られている大物主大神はスサノオの子の大年神、その子孫の磯城王は代々、大物主命(みこと、御子人)と呼ばれ、御間城姫はその直系の最後の王女だったと考えられる。一方、大田田根子命は大物主王の傍系の男子で、大国主大神を祀る役割を与えられ、ヤマトトトヒモモソ媛を妻にして、天皇家の血の入った子孫に大国主大神を祀らせることにより、御間城入彦は磯城国の政治的な支配権と宗教的な支配権の両方を継承しようとしたのではないかな」
「やっと解ってきたわよ。巨大な箸墓は、大王家の御間城入彦が磯城・大物主家の祭祀権を継承したというシンボルだったのね」
ヒメは納得したようだ。
「そういえば、日本書紀は、箸墓の建造の様子を、『昼は人が作り、夜は神が作る』としているが、昼は大王家、夜は神と呼ばれたスサノオ・大国主の一族が墓づくりを行った、ということなんだな」
カントクも納得したようだ。
「長老の解説だと、巨大な箸墓の出現を卑弥呼と結びつける空想なんて、完全に吹っ飛んでしまうわね」
確かに、マルちゃんの言うとおりかも知れない。
「前方後円墳を何がなんでも天皇家と結びつけたいという、皇国史観のしっぽを付けたままの学者は多いからね。大和中心主義なんて呼ばれているけど、その仮面の下の顔は現代版の皇国史観だからね」
資料:日向勤著『スサノオ・大国主の日国―霊の国の古代史』(梓書院)
参考ブログ:邪馬台国探偵団(http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/)
霊の国:スサノオ・大国主命の研究
(http://blogs.yahoo.co.jp/hinafkinn/)
霊(ひ)の国の古事記論(http://hinakoku.blog100.fc2.com/)
帆人の古代史メモ(http://blog.livedoor.jp/hohito/)
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