石上の地名と石上布津御霊神社(備前之国一の宮)
●長老 080910 21:01
カントク達が酒場でわいわいやっているようなので、私たちはパソコンの前に集まって、酒でも飲みながらネットパーティといきましょうか。
ところで「長老」がコナンのように「ガクセイ」に変身してしまったと思ってはいまいな。「長老」から「ガクセイ」は分身したのであって、「長老」は健在なのじゃ。念のために申しておくぞ。
日本史ミステリーの口調がカントクから移ってしまったぞ。リセットじゃあ。
父の田舎が岡山なので、ついつい吉備びいきになってしまいますが、日本書紀の一書第3は、ヤマタノオロチ退治でスサノオが使った剣は、吉備の神部のところにあり、出雲の簸(ひ)の川の川上の山としています。
古事記や日本書紀に出てくるヤマタノオロチ退治が出雲国風土記に出てこないことから見て、その場所は出雲国の範囲にはなく、吉備の地にあった可能性があります。
出雲国風土記は、播磨国風土記に出てくる大国主神の活躍などは一切載せていないことからみても、出雲国の範囲での地誌しか載せていません。出雲国風土記にスサノオのヤマタノオロチ退治がでてこないのは、スサノオが存在しなかったのではなく、この出来事が出雲国の範囲の外であった事件だからと考えられます。
もちろん、それは出雲国風土記が書かれた頃のことであって、スサノオの時代には、このヤマタノオロチの拠点は出雲国に含まれていたと思われます。
●まる 080910 21:16
愛機、ウィルコムのアドエスを使って、リアル飲み会から参加しますよ。酔っているので、地名とか間違えるかも。
私は出雲から倉敷へ車で移動したことがあり、多少、土地勘があるのよね。肥の河、現在の斐伊川を上流に上ると、島根・広島・鳥取・岡山4県の県境になり、イザナミが葬られた比婆山やヤマタノオロチのいたという船通山があります。
ここは4県の主要河川の源流部なんです。西へ三次盆地を経て江川、東へ日野川、南へは広島県から岡山県に入り、成羽川から高梁川にそって下ると、古代、吉備国の中心部、造山古墳のある総社市へ抜けられますよね。
ヤマタノオロチの拠点は、この地域のどこかにあったのは間違いないのじゃないかしら。
●長老 080910 21:26
記紀の記載からみて、ヤマタノオロチの拠点は船通山の西の鳥取県側か、その南の広島県側(備後)、あるいは岡山県側の3つの可能性があります。
さらに、日本書紀の1書第3が、スサノオがヤマタノオロチを切った十拳剣(とつかつるぎ。別名を韓鋤剣=からさびのつるぎ)を「備前の神部」に置いたとしていることからみて、この十拳剣が置かれたところが、ヤマタノオロチの拠点で会った可能性があります。
この十拳剣は、崇神天皇の時に備前の石上布津御霊神社(備前之国一の宮)から、大和の石上神宮に移されたと神宮の記録に残されています。なお、この「布津御霊」というのは、スサノオの十拳剣のことです。
この「石上布津御霊神社」は、旭川上流の津山市よりは少し下ったところにあり、赤磐市(旧吉井町)の、旧建部町、旧御津町に接するあたりで、岡山県のほぼ中央部になります。この地は、戦後まで鳥取上村、鳥上などと呼ばれており、ヤマタノオロチのいたという「鳥上」地名が一致します。
一方、船通山の周辺には「鳥上」地名は残っていません。
●まる 080910 21:56
しかし、斐伊川の上流というには、船通山周辺なら分かりますが、岡山県中央部を流れる旭川の中流域では、ずいぶんと離れていますね。
●長老 080910 21:58
確かに。この旭川中流の「鳥上」は、斐伊川の上流とは、言えませんね。
スサノオはヤマタノオロチを殺したあと、出雲の須賀にもどって宮を造り、有名な「八雲立つ、出雲八重垣・・・」の歌を詠み、櫛名田比売と子をもうけたとされています。
従って、備前の「鳥上」の石上に十拳剣を残したのは、その後のこととも考えられますね。
斐伊川上流の船通山の東側は、鳥取県の日野川の源流部であることから、「鳥取上」の地名がこのあたりにもあった可能性がありますが、地名は見つけられていません。(日南虎男)
●長老 080910 21:01
カントク達が酒場でわいわいやっているようなので、私たちはパソコンの前に集まって、酒でも飲みながらネットパーティといきましょうか。
ところで「長老」がコナンのように「ガクセイ」に変身してしまったと思ってはいまいな。「長老」から「ガクセイ」は分身したのであって、「長老」は健在なのじゃ。念のために申しておくぞ。
日本史ミステリーの口調がカントクから移ってしまったぞ。リセットじゃあ。
父の田舎が岡山なので、ついつい吉備びいきになってしまいますが、日本書紀の一書第3は、ヤマタノオロチ退治でスサノオが使った剣は、吉備の神部のところにあり、出雲の簸(ひ)の川の川上の山としています。
古事記や日本書紀に出てくるヤマタノオロチ退治が出雲国風土記に出てこないことから見て、その場所は出雲国の範囲にはなく、吉備の地にあった可能性があります。
出雲国風土記は、播磨国風土記に出てくる大国主神の活躍などは一切載せていないことからみても、出雲国の範囲での地誌しか載せていません。出雲国風土記にスサノオのヤマタノオロチ退治がでてこないのは、スサノオが存在しなかったのではなく、この出来事が出雲国の範囲の外であった事件だからと考えられます。
もちろん、それは出雲国風土記が書かれた頃のことであって、スサノオの時代には、このヤマタノオロチの拠点は出雲国に含まれていたと思われます。
●まる 080910 21:16
愛機、ウィルコムのアドエスを使って、リアル飲み会から参加しますよ。酔っているので、地名とか間違えるかも。
私は出雲から倉敷へ車で移動したことがあり、多少、土地勘があるのよね。肥の河、現在の斐伊川を上流に上ると、島根・広島・鳥取・岡山4県の県境になり、イザナミが葬られた比婆山やヤマタノオロチのいたという船通山があります。
ここは4県の主要河川の源流部なんです。西へ三次盆地を経て江川、東へ日野川、南へは広島県から岡山県に入り、成羽川から高梁川にそって下ると、古代、吉備国の中心部、造山古墳のある総社市へ抜けられますよね。
ヤマタノオロチの拠点は、この地域のどこかにあったのは間違いないのじゃないかしら。
●長老 080910 21:26
記紀の記載からみて、ヤマタノオロチの拠点は船通山の西の鳥取県側か、その南の広島県側(備後)、あるいは岡山県側の3つの可能性があります。
さらに、日本書紀の1書第3が、スサノオがヤマタノオロチを切った十拳剣(とつかつるぎ。別名を韓鋤剣=からさびのつるぎ)を「備前の神部」に置いたとしていることからみて、この十拳剣が置かれたところが、ヤマタノオロチの拠点で会った可能性があります。
この十拳剣は、崇神天皇の時に備前の石上布津御霊神社(備前之国一の宮)から、大和の石上神宮に移されたと神宮の記録に残されています。なお、この「布津御霊」というのは、スサノオの十拳剣のことです。
この「石上布津御霊神社」は、旭川上流の津山市よりは少し下ったところにあり、赤磐市(旧吉井町)の、旧建部町、旧御津町に接するあたりで、岡山県のほぼ中央部になります。この地は、戦後まで鳥取上村、鳥上などと呼ばれており、ヤマタノオロチのいたという「鳥上」地名が一致します。
一方、船通山の周辺には「鳥上」地名は残っていません。
●まる 080910 21:56
しかし、斐伊川の上流というには、船通山周辺なら分かりますが、岡山県中央部を流れる旭川の中流域では、ずいぶんと離れていますね。
●長老 080910 21:58
確かに。この旭川中流の「鳥上」は、斐伊川の上流とは、言えませんね。
スサノオはヤマタノオロチを殺したあと、出雲の須賀にもどって宮を造り、有名な「八雲立つ、出雲八重垣・・・」の歌を詠み、櫛名田比売と子をもうけたとされています。
従って、備前の「鳥上」の石上に十拳剣を残したのは、その後のこととも考えられますね。
斐伊川上流の船通山の東側は、鳥取県の日野川の源流部であることから、「鳥取上」の地名がこのあたりにもあった可能性がありますが、地名は見つけられていません。(日南虎男)