宇都宮第5代城主、宇都宮頼綱は、鎌倉時代前期の御家人。
出家後は「実信房蓮生」(じっしんぼうれんしょう)と名乗る。
歌人としても有名で、彼が藤原定家に障子歌色紙(※)を依頼しています。
これが「百人秀歌」だと考えられ、後の「小倉百人一首」の元となったといわれています。
※現在は和歌を短冊に書くのが普通ですが、当時はいわゆる色紙に書くのが普通だったと、ボランティアの方がおっしゃっていました。
この宇都宮頼綱の弟が塩谷朝業(ともなり・出家名=信生)で、やはり歌人として有名ですが、その次男が初代笠間城主・笠間時朝なんですね。
また、宇都宮頼綱は、法然上人、證空上人(しょうくうしょうにん)の弟子でした。
法然上人の弟子、親鸞上人が稲田に草庵を開いたのも、宇都宮頼綱が強く望んだから、という話もあるようです。
稲田の領主、稲田頼重は宇都宮頼綱の末弟で、親鸞聖人の世話役であったようです。
笠間氏の累代が、仏を篤く信仰したのも、こういうことが背景にあるのかも知れませんね。
第22代城主、宇都宮国綱が秀吉に所領を没収されて、代わりに入ってきたのが浅野長政(在任1597~1598年)。
その三男に浅野長重がいて、1622年、笠間城主となっています。
その子、長直の時に赤穂に転封(1645年)。
さらにその孫が浅野長矩、松の廊下の刃傷事件で有名な内匠頭です。
それで山麓公園に大石内蔵助像があるワケだぁね。
まぁ、元々、笠間は宇都宮の勢力圏だったワケだし、関連は深いのでしょうね。
あぁ、浅野家云々はこじつけです。
スイマセン。
出家後は「実信房蓮生」(じっしんぼうれんしょう)と名乗る。
歌人としても有名で、彼が藤原定家に障子歌色紙(※)を依頼しています。
これが「百人秀歌」だと考えられ、後の「小倉百人一首」の元となったといわれています。
※現在は和歌を短冊に書くのが普通ですが、当時はいわゆる色紙に書くのが普通だったと、ボランティアの方がおっしゃっていました。
この宇都宮頼綱の弟が塩谷朝業(ともなり・出家名=信生)で、やはり歌人として有名ですが、その次男が初代笠間城主・笠間時朝なんですね。
また、宇都宮頼綱は、法然上人、證空上人(しょうくうしょうにん)の弟子でした。
法然上人の弟子、親鸞上人が稲田に草庵を開いたのも、宇都宮頼綱が強く望んだから、という話もあるようです。
稲田の領主、稲田頼重は宇都宮頼綱の末弟で、親鸞聖人の世話役であったようです。
笠間氏の累代が、仏を篤く信仰したのも、こういうことが背景にあるのかも知れませんね。
第22代城主、宇都宮国綱が秀吉に所領を没収されて、代わりに入ってきたのが浅野長政(在任1597~1598年)。
その三男に浅野長重がいて、1622年、笠間城主となっています。
その子、長直の時に赤穂に転封(1645年)。
さらにその孫が浅野長矩、松の廊下の刃傷事件で有名な内匠頭です。
それで山麓公園に大石内蔵助像があるワケだぁね。
まぁ、元々、笠間は宇都宮の勢力圏だったワケだし、関連は深いのでしょうね。
あぁ、浅野家云々はこじつけです。
スイマセン。
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