海軍大将コルシンカの航海日誌

ロシアの作曲家リムスキー=コルサコフについてあれこれ

越えられなかった山脈~幻想の第4交響曲

2020年07月19日 | 未完の作品

リムスキー=コルサコフの交響曲第4番は完成していればどのような作品になっていたでしょうか?

繰り返しになりますが、彼は第4番について自伝では言及しておらず、《ロンド・スケルツァンド》の草稿に記されたメモによってのみ、この作品が交響曲第4番の第3楽章として意図されたものということがわかる程度です。

第4番を知る手掛かりは、《ロンド・スケルツァンド》以外にはほとんどありませんが、リムスキー=コルサコフが第3交響曲の完成(1873年)の後、10年以上経過してなお第4交響曲を書こうとしていたことは事実のようです。

彼もまた正統的な「シンフォニスト」への道を歩もうとしていたのなら、やや意外な感じがしますね。
もし、この第4番が完成して成功を収めていたら、チャイコフスキーのような交響曲作曲家としての評価も得られていたかもしれません。

結局、彼はその後《スペイン奇想曲》《シェヘラザード》《ロシアの復活祭》という代表作をものにした後は、晩年までオペラの作曲家として活動をすることになり、交響曲に関しては(《アンタール》の改訂作業を除き)一切触れられることがなくなってしまいます。
リムスキー=コルサコフは交響曲は自分には向いていない分野であるとして、見切りをつけてしまったようですね。

***

さて、巷には未完の作品を補筆などして「完成品」として世に送り出されることがあります。
交響曲ではベートーヴェンの第10番、ロシアではチャイコフスキーの第7番...。
むろん本人の作品かと言われれば怪しい点はさんざんありますが、「どれだけ聴衆を納得させられるか(騙せるか)」といった知的ゲームのような要素もあって興味を惹かれます。

リムスキー=コルサコフの交響曲第4番について、こうした試みがされたかどうかは知らないのですが、ここは妄想をたくましくしてひとつトライしてみましょう。

第3楽章には《ロンド・スケルツァンド》を充てることが本人メモにより明らかですので、これは確定。
とすると、問題は第1楽章、第2楽章、(古典的な4楽章構成とするなら)第4楽章をどうするかですね。

ここで浮上してくるのが、同じく未完成だった交響曲ロ短調。
この作品の構成は、バラキレフへの手紙などをもとに推測すると、

《交響曲ロ短調》(未完)
第1楽章:アレグロ(ロ短調)
第2楽章:スケルツォ(変ホ長調・四分の五拍子)
第3楽章:アンダンテ(ニ長調)
第4楽章:フィナーレ(ロ短調ーニ長調)

となるものだったようです。

このうち、第2楽章スケルツォは後の第3交響曲の第2楽章として転用されています。
ということは、リムスキー=コルサコフは抜けてしまった第2楽章を補充するために《ロンド・スケルツァンド》を作曲したとも考えられますね。
(ちなみに《ロンド・スケルツァンド》の出だしはニ短調)

ここで、交響曲ロ短調の抜けた第2楽章を差し替え、残りの楽章を交響曲ロ短調のものを充当し、さらに第2楽章と第3楽章を入れ替えると、第4番の構成は以下のとおりになります。

《交響曲第4番》(未完)
第1楽章:アレグロ(ロ短調)[?]
第2楽章:アンダンテ(ニ長調)[?]
第3楽章:ロンド・スケルツァンド(ニ短調)[確定]
第4楽章:フィナーレ(ロ短調ーニ長調)[?]

このような構成で「交響曲」として成立するものなのか、その辺の理屈に疎い私にはよくわかりませんが、一応形にはなっていると思われます。

ついてでにですが、当初の交響曲ロ短調のスケルツォは第2楽章として用いると明記してあったわけではないようですが、リムスキー=コルサコフの構想によれば、アンダンテとフィナーレはごく短い休止を入れて続けて演奏するものであったようなので、消去法で第2楽章としたものです。

スケルツォとアンダンテの順を入れ替えることに関しては、第3楽章が《ロンド・スケルツァンド》となっているために行った操作です。
これにより、アンダンテとフィナーレをつなげるという作曲者の当初の意図が損なわれてしまうのが難点ですが、スケルツォとアンダンテを入れ替えることは、交響曲第1番の改定の際にも行われた「前科」がありますので、まあよしとしましょう。

以上のことは私の勝手な推測ですが、もしどなたかが綿密な考証や理論をもとに「第4番」を補筆してくださるのなら、リムスキー=コルサコフのファンとしてぜひとも聴いてみたいものです。