数多いるリムスキー=コルサコフの弟子の中にあって、日本人として唯一名前が挙がるのが、金須嘉之進(きす よしのしん、1867~1951)です。
リムスキーの弟子にはロシア人だけでなく、レスピーギのような外国人も含まれていますが、その中に日本人もいたというのは驚くべきことではないでしょうか。
明治時代にはるばるペテルブルクまで渡り、音楽を学んだ日本人がいたというだけでも感慨深いものがありますが、ましてやリムスキー=コルサコフの教えを受けたというのであれば、同胞人の目からみたリムスキー像がどのようなものだったのか、大いに興味を惹かれるところです。
その金須に関しては、『ウィキペディア(Wikipedia)』に短い記事があります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/金須嘉之進
金須については以前から関心を持っていたのですが、彼の名前はネットなどで散見されるものの、まとまった情報としては見当たらず、詳しい記録は彼の出身地で、特にゆかりのある仙台の正教会にでも出向けば、ひょっとしたらあるのではないかとも考えていたのですが、さすがにそこまで探求する熱意もなく、ほったらかしのままになっていたのです。
そうした中、昭和9年刊の「月刊楽譜」という雑誌に、金須の「ペトログラード音楽院時代の憶ひ出」と題する記事か掲載されていることを知り(国会図書館にも蔵書されているようです)、さらに先日ネットで古書として売り出されていたのを知ったので、少々値段は張ったのですが思い切って購入してみました。
本が届けられてさっそくページを開いてみましたが、結論から書くと、残念ながらリムスキーの名はかろうじて一箇所出てきただけで、私の知りたかったリムスキーの人物像には全く言及されておらず、期待はずれに終わってしまいました。
ちなみに本記事(全3ページ)におけるリムスキーの登場箇所はつぎのとおりです。(かっこ内は私の追記で、旧字体は一部新字体に改めています。)
この書きぶりからすると、リムスキーの「弟子」とはいうものの、どちらかといえば「自分が学んだ学校にはそういう有名な先生方がいて...」という程度の印象しか伝わって来ず、ストラヴィンスキーやプロコフィエフが自伝で残したような師リムスキー=コルサコフの様子はうかがい知ることが出来ません。
ついでながら、金須の経歴として「リムスキー=コルサコフが教授を務めるペテルブルク音楽院に留学、リムスキー=コルサコフに師事」(ウィキペディア※)などと書かれますが、本記事には「私の通学していた帝室附カペーラ声楽院」とはっきり書かれており、彼はペテルブルク(ペトログラード)音楽院で学んでいたわけではないと思われます。
この「帝室附カペーラ声楽院」ですが、金須の時代は「Императорская придворная певческая капелла」と称されていたようで、金須の記した「帝室附カペーラ声楽院」がその訳として適切であるように思われます。
しかし、現代の日本語文献では「宮廷合唱団」「宗務局(宮廷礼拝堂)」「帝室礼拝堂」などと様々で、定訳が無く混乱してしまいます。
どうやら「капелла」の英訳が「Chapel」とされていることから、この施設も「礼拝堂」などと訳されてしまったようなのですが、建物を見る限り(礼拝堂のような機能が一部にあったにせよ)全体が宗教的施設というものでもないので、少なくとも「礼拝堂」だけを訳を当てはめてしまうのはふさわしくないように思います。
ただ「капелла」という言葉は、ロシア語では「礼拝堂」のほか「合唱隊」「音楽隊」とかなり多様な意味を持つようで、訳し方に困ってしまうのも事実。
このペテルブルクの施設については、合唱隊や音楽隊を擁し、合唱を中心としつつも音楽理論から器楽演奏までを習得させ、専門の音楽家を養成するための総合的な音楽学校という意味合いで「капелла」と呼称されていたようで、現在でもこの施設の裏手の出入り口には「капелла」とだけ記された縦看板が設置されています。
ところでこの声楽院、日本ではなじみがありませんが、1479年に創立起源をもつ由緒あるもの。1862年創設のペテルブルク音楽院よりもずっと古い歴史を有しています。
もともとは皇帝一族の礼拝時の合唱隊を養成するための機関だったようですが、次第に活動の幅を広げ、やがて合唱にとどまらずオーケストラなども擁するようになったようです。
ГОСУДАРСТВЕННАЯ АКАДЕМИЧЕСКАЯ КАПЕЛЛА
金須がペテルブルクに留学したのはロシア正教会の伝手だったことを考えると、正教つながりで「帝室附カペーラ声楽院」に留学したというのがごく自然のことと思われます。
もしこれが正しいとすると、「ペテルブルク音楽院で学んだ」との誤った情報が流布されてしまっていることになりますが、(今でもそうですが)「ペテルブルク音楽院」と「帝室附カペーラ声楽院」の区別がはっきりとつかず、両者が同じものか、一方が他方の付属学校程度に誤解されてしまっているのかもしれませんね。
そもそも今回ご紹介した金須の寄稿した記事自体に「ペトログラード音楽院時代の憶ひ出」などと間違ったタイトルがつけられていて、これが誤解に一役買っている可能性がありますが、これは金須ではなく雑誌編集者のミスでしょう。後で訂正記事でも出されたかも。
(青森中央学院大学研究紀要に「金須嘉之進と『帝室附カペーラ声楽院』: 東北地方におけるキリスト教受容に関連して」という論文があり、同様の指摘がされていました。その内容は(その2)にて)
なお、リムスキー=コルサコフはペテルブルク音楽院の教授を務める一方で、帝室附カペーラ声楽院でもバラキレフの助手として教鞭をとっていたことがあり(1883~1894)、金須が声楽院でリムスキーに師事したこと自体には矛盾がありません。
以上は断片情報を素にした私の推測ですので、間違っている可能性もありますが、何よりも金須とリムスキー=コルサコフの関係は少しでも知りたいと思っており、引き続きテーマとして持っておこうと思います。
リムスキーの弟子にはロシア人だけでなく、レスピーギのような外国人も含まれていますが、その中に日本人もいたというのは驚くべきことではないでしょうか。
明治時代にはるばるペテルブルクまで渡り、音楽を学んだ日本人がいたというだけでも感慨深いものがありますが、ましてやリムスキー=コルサコフの教えを受けたというのであれば、同胞人の目からみたリムスキー像がどのようなものだったのか、大いに興味を惹かれるところです。
その金須に関しては、『ウィキペディア(Wikipedia)』に短い記事があります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/金須嘉之進
金須については以前から関心を持っていたのですが、彼の名前はネットなどで散見されるものの、まとまった情報としては見当たらず、詳しい記録は彼の出身地で、特にゆかりのある仙台の正教会にでも出向けば、ひょっとしたらあるのではないかとも考えていたのですが、さすがにそこまで探求する熱意もなく、ほったらかしのままになっていたのです。
そうした中、昭和9年刊の「月刊楽譜」という雑誌に、金須の「ペトログラード音楽院時代の憶ひ出」と題する記事か掲載されていることを知り(国会図書館にも蔵書されているようです)、さらに先日ネットで古書として売り出されていたのを知ったので、少々値段は張ったのですが思い切って購入してみました。
本が届けられてさっそくページを開いてみましたが、結論から書くと、残念ながらリムスキーの名はかろうじて一箇所出てきただけで、私の知りたかったリムスキーの人物像には全く言及されておらず、期待はずれに終わってしまいました。
ちなみに本記事(全3ページ)におけるリムスキーの登場箇所はつぎのとおりです。(かっこ内は私の追記で、旧字体は一部新字体に改めています。)
和声楽は、其の大家アレクサンドル・ニコライウィチ・ソコロフ師に附きました。其の当時カペーラの総長(は)セレメティフ伯(、)院長(は)バラキレフでしたが、重に(主に?)リームスキイコルサコフ副院長叉後にリャプノフが監督して居ました。リヤドフも居ました。[中略]当時の偉人の風貌に接しただけでそれぞれの作物を研究した訳でもなく毎日こつこつ自分の勉強を為して来た丈けです。
この書きぶりからすると、リムスキーの「弟子」とはいうものの、どちらかといえば「自分が学んだ学校にはそういう有名な先生方がいて...」という程度の印象しか伝わって来ず、ストラヴィンスキーやプロコフィエフが自伝で残したような師リムスキー=コルサコフの様子はうかがい知ることが出来ません。
ついでながら、金須の経歴として「リムスキー=コルサコフが教授を務めるペテルブルク音楽院に留学、リムスキー=コルサコフに師事」(ウィキペディア※)などと書かれますが、本記事には「私の通学していた帝室附カペーラ声楽院」とはっきり書かれており、彼はペテルブルク(ペトログラード)音楽院で学んでいたわけではないと思われます。
※ 現在は「リムスキー=コルサコフが副院長を務めるサンクトペテルブルクの帝室附カペーラ声楽院(Императорская Придворная певческая капелла)に留学」と書き改められていました(2021.3.24)。
この「帝室附カペーラ声楽院」ですが、金須の時代は「Императорская придворная певческая капелла」と称されていたようで、金須の記した「帝室附カペーラ声楽院」がその訳として適切であるように思われます。
しかし、現代の日本語文献では「宮廷合唱団」「宗務局(宮廷礼拝堂)」「帝室礼拝堂」などと様々で、定訳が無く混乱してしまいます。
どうやら「капелла」の英訳が「Chapel」とされていることから、この施設も「礼拝堂」などと訳されてしまったようなのですが、建物を見る限り(礼拝堂のような機能が一部にあったにせよ)全体が宗教的施設というものでもないので、少なくとも「礼拝堂」だけを訳を当てはめてしまうのはふさわしくないように思います。
ただ「капелла」という言葉は、ロシア語では「礼拝堂」のほか「合唱隊」「音楽隊」とかなり多様な意味を持つようで、訳し方に困ってしまうのも事実。
このペテルブルクの施設については、合唱隊や音楽隊を擁し、合唱を中心としつつも音楽理論から器楽演奏までを習得させ、専門の音楽家を養成するための総合的な音楽学校という意味合いで「капелла」と呼称されていたようで、現在でもこの施設の裏手の出入り口には「капелла」とだけ記された縦看板が設置されています。
ところでこの声楽院、日本ではなじみがありませんが、1479年に創立起源をもつ由緒あるもの。1862年創設のペテルブルク音楽院よりもずっと古い歴史を有しています。
もともとは皇帝一族の礼拝時の合唱隊を養成するための機関だったようですが、次第に活動の幅を広げ、やがて合唱にとどまらずオーケストラなども擁するようになったようです。
ГОСУДАРСТВЕННАЯ АКАДЕМИЧЕСКАЯ КАПЕЛЛА
金須がペテルブルクに留学したのはロシア正教会の伝手だったことを考えると、正教つながりで「帝室附カペーラ声楽院」に留学したというのがごく自然のことと思われます。
もしこれが正しいとすると、「ペテルブルク音楽院で学んだ」との誤った情報が流布されてしまっていることになりますが、(今でもそうですが)「ペテルブルク音楽院」と「帝室附カペーラ声楽院」の区別がはっきりとつかず、両者が同じものか、一方が他方の付属学校程度に誤解されてしまっているのかもしれませんね。
そもそも今回ご紹介した金須の寄稿した記事自体に「ペトログラード音楽院時代の憶ひ出」などと間違ったタイトルがつけられていて、これが誤解に一役買っている可能性がありますが、これは金須ではなく雑誌編集者のミスでしょう。後で訂正記事でも出されたかも。
(青森中央学院大学研究紀要に「金須嘉之進と『帝室附カペーラ声楽院』: 東北地方におけるキリスト教受容に関連して」という論文があり、同様の指摘がされていました。その内容は(その2)にて)
なお、リムスキー=コルサコフはペテルブルク音楽院の教授を務める一方で、帝室附カペーラ声楽院でもバラキレフの助手として教鞭をとっていたことがあり(1883~1894)、金須が声楽院でリムスキーに師事したこと自体には矛盾がありません。
以上は断片情報を素にした私の推測ですので、間違っている可能性もありますが、何よりも金須とリムスキー=コルサコフの関係は少しでも知りたいと思っており、引き続きテーマとして持っておこうと思います。
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