海軍大将コルシンカの航海日誌

ロシアの作曲家リムスキー=コルサコフについてあれこれ

金須嘉之進「ペトログラード音楽院時代の憶ひ出」(その2)

2019年07月11日 | 関連人物
(その1)の記事で触れた青森中央学院大学研究紀要の「金須嘉之進と『帝室附カペーラ声楽院』: 東北地方におけるキリスト教受容に関連して」という論文について、どうやったら入手できるかなどと思案していたら、なんのことはない、ネットで閲覧することができました。



この手の論文を手に入れるためには、いろいろと面倒な手続きが必要と思い込んでいたので、こうも気前よくネット上で閲覧に供してもらえるのは、少々拍子抜けの感がありましたが、実にありがたいことです。

さてこの論文では、「金須の留学に関するロシア語文献資料の紹介を目的とする。最初に日本への洋楽導入とそれにおけるハリストス正教の位置付け、またハリストス正教が東北地方から受け入れられていった経緯も簡潔に述べた上で、ウエブ上に掲載された『帝室附カペーラ声楽院』のロシア語文献を抜粋・翻訳する形で紹介」し、特に「金須の留学先であるペテルブルグの『帝室附カペーラ声楽院』、現在の『サンクト・ ペテルブルグ国立アカデミーカペラ』について、金須の留学当時の様子も含めて紹介」するとしています。

(その1)で触れた、金須の留学先は「ペテルブルク音楽院ではないのではないか」との問題はやはり本論文でも指摘されていましたが、残念ながら金須の寄稿での自己申告以外の直接的な証拠、つまり声楽院の卒業証書や名簿などの一次資料的なものから確認されたものではありませんでした。確認できればすっきりするのですが、これは後進研究にゆだねられた格好です。

一方、私がこだわる金須からみたリムスキー=コルサコフの人物像も本論文からは得られませんでしたが、その代わりに金須が留学先の声楽院でどのような音楽教育を受けていたのかを解き明かす過程で、リムスキーが声楽院で行った改革が浮かび上がるものとなっており、こちらは大いに参考になりました。

その改革とは、端的に言うと訓練された職業音楽家による専門知識や技術の習得の徹底であり、そのためにリムスキー自身も後にリャードフやソコロフなど、いわゆるベリャーエフ・グループの作曲家として知られる仲間たちも声楽院に招聘したようです。

1883年にリムスキー=コルサコフがバラキレフに誘われる形で、声楽院で教鞭をとることになった経緯などについては、有名な彼の自伝においてやや詳しく言及されていますが、邦訳ではその部分は省略されている(種本の仏訳自体が抄訳のため)こともあってか、ここでのリムスキーの活動はあまり知られていないように思います。

リムスキー=コルサコフはペテルブルク音楽院教授としての業績があまりにも大きかったので、その陰に覆い隠されてしまっているきらいもありますが、彼は声楽院においても、カリキュラムの改革のみならず、和声学の教科書の執筆や聖歌の編曲などといった重要な成果を残しており、彼の音楽人生を考える際に決して無視できるものではありません。

更に言えば、彼と宗教(ロシア正教)の関わり、特にロシア聖歌が彼の作品に与えた影響を考える上でも、声楽院での活動は何等かの手がかりを含んでいるものと思われ、今後掘り下げてみたいテーマの一つとして調べていきたいと思います。
(作曲家と宗教性について論じられるとき、どういうわけかリムスキーはしばしば無神論者の代表として登場しますが、根拠ははっきりしないようです。)

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