140回目の【再稼働反対!首相官邸前抗議】始まりました!総理官邸前。
今夜も多数の人たちが集まり、「原発反対!」「再稼働反対!」「原発いらない!」の声を上げています。
中村公信さんのFBより
140回目の【再稼働反対!首相官邸前抗議】始まりました!総理官邸前。
今夜も多数の人たちが集まり、「原発反対!」「再稼働反対!」「原発いらない!」の声を上げています。
中村公信さんのFBより
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/158086?utm_content=buffer23e5b&utm_medium=social&utm_source=facebook.com&utm_campaign=buffer
「福島の人たちは故郷があるのに帰れない。お年寄りは故郷に戻れる前にこの世を去ってしまう。オリンピックとか言ってるけど、原発事故の対策の方が必要なんじゃないの」
http://www.nikkansports.com/general/photonews/photonews_nsInc_1445093-0.html
[2015年3月11日9時24分 <iframe class="hatena-bookmark-button-frame" style="font-size: medium;" title="この記事をはてなブックマークに追加" frameborder="0" scrolling="no" width="50" height="20"></iframe>
11年3月11日に発生した東日本大震災から今日11日、4年を迎えた。学校管理下の震災被害では最悪の惨事となった石巻市立大川小。海岸から約4キロ離れ、地震から津波到達まで約50分の時間があったが校庭にとどまった児童74人、教職員10人が死亡、行方不明となった。学校にいた児童で生還できたのは4人だけ。当時小学5年だった只野哲也君(15)は生還者として震災直後からただ1人、大川小の悲劇を語り継いできた。悲しみと向き合い、震災を考えた4年の思いを語った。
「『日本が世界で一番暮らしやすい国』なんてよく言うけど、誰が決めたの?」
15歳になった只野君は真剣な瞳で語った。
「福島の人たちは故郷があるのに帰れない。お年寄りは故郷に戻れる前にこの世を去ってしまう。オリンピックとか言ってるけど、原発事故の対策の方が必要なんじゃないの」
同じ悲しみに暮れる他の被災地を思うと、行き場のない怒りがこみ上げる。国を動かす大人たちへの不信感も湧いてきた。「国会内だけで話さず現場に行って。そして、カメラが回る時だけ悲しそうな顔をしないでほしい」。
4年前の今日、6人家族のうち、母しろえさん(享年41)、妹未捺(みな)ちゃん(同9)、祖父弘さん(同67)を津波で失った。父英昭さん(44)は仕事場にいて、祖母アキ子さん(68)は別の場所にいて助かった。未捺ちゃんは大川小の3年生だった。
あの日、只野君も生死をさまよった。2階建ての校舎全てをのみ込む津波と、激流に押し流された児童が、とてつもない勢いで体に当たった。「つぶされる」。体がしびれて記憶を失った。気がつくと山に倒れていた。北上川との境さえ分からない、津波にのまれた小学校を見下ろすと、黄色いもやがかかり、ぼんやりとしていた。「さんずの川のようだった。死んだんだと思った」。
この世の終わり-。そんな風景だった。天候が一気に変わる。黄色い景色から一転、灰色の雲が押し寄せ、雪が降りだした。「歯が虫みたいに『ガタガタ』と音を立てて震えた」。流れ着いたずぶぬれの毛布をかぶり、ほぼ寝ずに一晩を過ごした。
父英昭さんと再会したのは2日後。両目に大けがを負った姿を見た泣きじゃくる父に「おっとう、泣くな」。それが第一声だった。
「タイムマシンがあれば震災前に行って、今すぐ(歴史を)変えたい。俺だけ逃げちゃって、妹がいたのに、悔しくて…」。今でも夢に未捺ちゃんが出てくる。朝起きると、いない現実を不思議に思う。
「あれ、どこ行ったんだろう。そう一瞬思う。今でも、ひょっとしたら帰ってくるんじゃないかって…。留守番している気分なんですよね」
津波の瞬間は今もフラッシュバックする。心の傷は癒えるどころか、深くなっている。それでも「みんなが生きていた証しがないと本当の意味で死んでしまう」「悲劇を繰り返させない」との思いで、少年は気丈に震災直後から実名でメディアの取材にも応じた。後世に津波の恐ろしさを伝えるため都内にも出向き、大川小校舎の保存を訴えてきた。
「合格したよ!」
自宅の玄関を開けた瞬間、本来ならそう喜びを爆発させたかった。先月、宮城県石巻工業高校に合格。しかし伝えたい母、妹、祖父はいない。祖母アキ子さんにそっと合格を伝えると、うれし涙を流してくれた。外出中だった父英昭さんには携帯電話で伝えた。
2月11日の月命日。大川小の慰霊碑に高校合格を報告した。「あの日みんな小学生だった。また年が離れちゃうね」。自分だけ大人になる寂しさが募った。
そして4度目の命日。天国の家族3人に伝えたいことがある。
「泣き虫じゃなくなりました。泣いても3人は帰って来ないから。意味がないって分かったから。泣いてる時間がもったいない」
奇跡の生還から4年。157センチだった身長は、172センチに成長。高校でも柔道を続け、目標は大きく「全国大会」だ。「本当に伝わっているのか」との葛藤もあるが、今後も震災を語り継ぐ使命を感じている。
ランドセルを背負った少年には重すぎた震災。4年間で力強く生きるしかないと心に刻んだ。生きたくても生きられなかった未捺ちゃんや、友人の分まで。【三須一紀】
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/42479
7年ぶりに来日したドイツのアンゲラ・メルケル首相が残した「宿題」の持つ意味は小さくない。
3月9日午前の東京・築地の朝新聞社浜離宮朝日ホールでの講演、同日夕の安倍晋三首相との日独首脳会談、その後の共同記者会見、そして10日午前の岡田克也民主党代表との会談――メルケル首相は相手と場によって発言内容を調整していたのだ。
そもそも首相官邸は、実はメルケル首相が首脳会談前にセットされていた講演で歴史認識問題について言及し、安倍・メルケル会談で安倍首相が8月15日に発表する「戦後70年談話」に“注文”をつけてくるのではないかと心配していた。ところが、直接的な言及はなく、官邸側は安堵した。
だが、メルケル首相は講演で、先に亡くなったヴァイツゼッカー元大統領が欧州終戦の1945年5月8日を「解放の日」と呼んだことを紹介した上で「それはナチスの蛮行からの解放であり、ドイツが引き起こした第2次大戦の恐怖からの解放であり、そしてショアー(ユダヤ人絶滅政策)という文明の破壊からの解放でした」と語った。
さらに「そうした苦しみがドイツによって欧州に、そして世界に広がってしまったにも拘わらず和解の手がドイツに差し伸べられたことをドイツ人は忘れません。当時はまだ若いドイツ連邦共和国に対して多くの信頼が寄せられたことは私たちの幸運でした。こうしてドイツは国際社会への道のりを拓くことができたのです」と述べ、やんわりとクギを刺すことを忘れなかった。
そしてトップ会談でも、ナチス・ドイツの行為を検証してきた戦後ドイツの経験について言及したものの、戦後70年に関する発言はなく、官邸サイドはほっとしたという。
ところが、それからのメルケル発言は少しずつ変わっていく。共同記者会見では「過去の総括はやはり和解のための前提になっている」と言明し、第2次大戦後にドイツが周辺国、特にフランスと和解をするため、戦時中の過去と向き合う努力をしてきたことを強調したのだ。
極めつけは、岡田民主党代表との会談である。『朝日新聞』と『東京新聞』(共に3月10日付夕刊)が報じただけだが、「東アジアの状況を考えると、日韓関係は重要だ。慰安婦問題はきちんと解決した方がいいのではないか」と語ったというのだ。約40分の会談で約30分が歴史認識問題に言及したという。
日独首脳会談では、6月にドイツのシュロス・エルマウで開催される主要7ヵ国首脳会議(G7サミット)でテロとの戦いを主要テーマとすることで一致した他、ウクライナ危機対処について対ロシアで共同歩調を取ること、日・EUの経済連携協定(EPA)の年内合意を目指すこと、日独にインドとブラジルを加えた4ヵ国で国連安保理事会改革を促進することなどテーマは多岐にわたったが、両首脳が角を突き合わせる場面はなかった。
こうしたメルケル首相の際立った日本対応は、いったい誰の助言によるものなのか。ハンス・カール・フォン・ヴェアテルン駐日独大使は外務省生え抜きである。1984年以来の外務省キャリアの中で、日本との接点は「日本におけるドイツ年2005/2006」準備室長(2004年~05年)と東アジア課長(05年~07年)だけだ。
となると、知恵者は他にいる。ドイツは首相府の権限は絶大なものがある。安倍首相の外交・安保政策ブレーンである谷内正太郎国家安全保障局長(元外務事務次官・1969年外務省入省)のカウンターパートはクリストフ・ホエスゲン首相外交補佐官(閣僚級)である。だが、首相府で二国間関係担当部長を務めるエルガ・バルト女史が、実は一連のメルケル発言の仕掛け人なのだ。
安倍首相は4月22~23日にジャカルタで開催されるアジア・アフリカ会議(バンドン会議)60周年記念首脳会議での演説の中で、メルケル首相が残して帰った「宿題」の回答を示すことが出来るのかどうか、見守りたい。
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天木 直人のブログ
http://www.amakiblog.com/archives/2015/03/14/
メルケル独首相の訪日は安倍首相にとって痛烈な衝撃だったに違いない。
なにしろ脱原発と歴史認識の二つについて正面から異議を唱えたからだ。
ところが、日本の大手メディアはまったくそのことを書かない。
書いても、過小評価するか、遠回しに言及するかだ。
そんな中で、きのう発売された写真週刊誌フライデーは、「メルケルが安倍に突き付けた『脱原発』と『歴史認識』」という見出しの大きな記事をトップに掲げた。
その記事は、首相公邸で行われた歓迎晩餐会を終え、メルケル首相一行を見送った安倍首相は、疲れた表情を浮かべ、早々と自室に戻っていった、晩餐会の直前に行われた首脳会談がよほどこたえたのだろう、という官邸関係者の証言から始まる。
そして次のように警告を発している。
メルケル首相は思いつきで発言しているわけではない。世界の首脳の日本への危惧を代表して発言しているのだ。しかし日本の反応はあまりにも鈍かった。岸田外相と菅官房長官は、それぞれ記者会見でメルケル発言に反論している・・・
このフライデーの記事で注目すべきは6月にドイツでG7(主要国首脳会議)が開かれることを我々に想起させているところである。
つまり今度のメルケル独首相の訪日は、単に日独二国間関係のために訪日したのではなく、G7の議長国として訪日したのである。
安倍官邸はそのことに気づかねばいけない。
安倍首相の不機嫌さは、自らの政策を批判されたことから来ているのではなく、主要国から見放される危惧に気づき始めたからではないのか。
そうであればまだ正気があるということだ。
正気のあるうちに政策を変えたほうがいい(了)