目を閉じると見えるもの、それも自分のコントロール下にあるもの。
それは、イメージなのではないでしょうか。
ネットで調べると「光視症」という病気で、網膜剥離にもなるようなことを書いているのですが、
その抽象的な光が具象になって、そこを移動出来たり、場面を変えたりできるのは、
イメージ力=想像力というのではないでしょうか。
仮に病気でないとしたら、過去の記憶が再編集されて視覚化されているのかもしれません。
けれども、全く関連性のないものは、ユングの言うところの普遍的無意識にあたるのではないでしょうか。
「…でしょうか」ばかりの話ですが、そのような視覚的イメージを似顔絵に活用することが、
イメージを伴ったオリジナリティのある似顔絵になるのだと思います。
(普遍的無意識に働きかけた似顔絵が描けるとしたら、それはオリジナリティのない似顔絵なのかもしれませんが、そういう似顔絵を見たことがないので、独自性のあるものとします)
客観的な観察や写真の模写から始まる似顔絵は、その観察眼から逸脱できず、オリジナリティを得られないのでは?
と勝手に推察するのです。
なので、無意識に見える主観的イメージのスケッチをたまにするようにしています。




この無意識に見える画像は、「似せる」という意識を持つことは不可能に近いです。
ですので、このスケッチを意識的に顔にする、そして結果として誰かに似ている顔にしないと「似顔絵」になりません。
けれど、この無意識を意識して似顔絵を描くことを達成しないと、唯一無二のような独創的な似顔絵を描くことはできないと思うのです。
この試みは、グラフィックデザインやアートでは可能だと思います。
例えば、アルファベットにするなどです。

(目を閉じて見えるイメージを、アルファベットにデザインしたもの)
しかし、似顔絵ではまだ成功していません。
険しい道かもしれませんが、このサイケデリックな似顔絵も、描けるようになりたいです。
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それは、イメージなのではないでしょうか。
ネットで調べると「光視症」という病気で、網膜剥離にもなるようなことを書いているのですが、
その抽象的な光が具象になって、そこを移動出来たり、場面を変えたりできるのは、
イメージ力=想像力というのではないでしょうか。
仮に病気でないとしたら、過去の記憶が再編集されて視覚化されているのかもしれません。
けれども、全く関連性のないものは、ユングの言うところの普遍的無意識にあたるのではないでしょうか。
「…でしょうか」ばかりの話ですが、そのような視覚的イメージを似顔絵に活用することが、
イメージを伴ったオリジナリティのある似顔絵になるのだと思います。
(普遍的無意識に働きかけた似顔絵が描けるとしたら、それはオリジナリティのない似顔絵なのかもしれませんが、そういう似顔絵を見たことがないので、独自性のあるものとします)
客観的な観察や写真の模写から始まる似顔絵は、その観察眼から逸脱できず、オリジナリティを得られないのでは?
と勝手に推察するのです。
なので、無意識に見える主観的イメージのスケッチをたまにするようにしています。




この無意識に見える画像は、「似せる」という意識を持つことは不可能に近いです。
ですので、このスケッチを意識的に顔にする、そして結果として誰かに似ている顔にしないと「似顔絵」になりません。
けれど、この無意識を意識して似顔絵を描くことを達成しないと、唯一無二のような独創的な似顔絵を描くことはできないと思うのです。
この試みは、グラフィックデザインやアートでは可能だと思います。
例えば、アルファベットにするなどです。

(目を閉じて見えるイメージを、アルファベットにデザインしたもの)
しかし、似顔絵ではまだ成功していません。
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