似顔絵教室の講師をさせて頂て気付いた事なのですが、「言い回し」によって絵が描けるようになったり、逆に描けなくなったりすることがあります。
早朝散歩から着想を得た、(現実を描いている訳ではない)心象風景画の今回のテーマは、「透視図の前に」です。
「描く側」からすると、一点透視図法的な見方から、その「奥へ」入りこんで描いていこうという試みなのですが、
「観る側」からすると、「前に」何かが現れるという絵になっていくと思います。
このブログは、描く側の教室ではないので「透視図の前に」としました。
似顔絵教室で、つい「○○って、○○なんだよ」と答えを言ってしまいそうになることがあります。
それは、算数のテストで回答を先に言ってしまうようなものです。
全問正解にはなりますが、教えてもらった方は何も身に付きません。
また、絵は算数ではないので、指導者と答えが完全に一致することも少ないです。
「私ではなく、描いた絵を観てもらいたい」と書くと、それが描いた絵ではなく、書いた私になってしまう矛盾。
絵を通じてその作者を観ようとするのも自由ですが、それは「作者が絵を通じて何かをアッピールしようとしている」場合に有効な方法であって、絵を観てもらいたいものにとっては、結果的に絵を見てもらえずに好意的な会話だけが成立していくという不本意なことになってしまいます。
私は、今、絵の評価をほとんど得ていませんから、「好意的な会話から絵を観てもらう方法」もありますが、「目的を持って、絵を向上させ、観てもらえるような絵を描けるようになる」ことをやっていきたいと思います…という文章が、好意的な会話へ、なのかもしれませんが…。
11見開きの絵本のように、「起承転結」の、マンネリではありますが大事な「起承」を抜けて、「転」が生じる事を信じて、「結」論を空白に(ある程度見えてはいますが)してしおくことで、自主的、かつ能動的に描いていけるように-いつも通り描いてゆきたいと思います。
「透視図の前に」