優しい人と過ごした最初で最後の
一年間。
優しい人の奥さんは、三人目の子
どもを妊娠していた。町で偶然出
会った学習塾の卒業生の口から
聞かされて、わたしはそれを知っ
ていた。
「名前はもう、決めてあるって、
言うてはったよ」
尋ねてもいないのに、その子は
教えてくれた。
その話しを聞いたとき、わたしは
強いショックを受けていた。
けれどもそれは、頭を殴られた
ような、あるいは、目の前が真っ
暗になったような、そのようなシ
ョックではなかった。それは、目
に見えないほど細かい、トゲのよ
うな衝撃だった。
棘はチクッと、微かな痛みを伴っ
て、わたしの指先に刺さった。
刺さったと同時にその棘は血管に
入り込み、それから心臓に向かっ
て、一秒ごとに突き進んでいった。
その日以来、わたしの心臓には棘
が突き刺さったままなのだ。
優しい人は何も知らなかった。も
しもわたしが、わたしの妊娠を告
げていたとしたら、優しい人はお
そらく、優しいままではいられな
くなっていただろう。
いっそ、今ここで、何もかも話し
てしまおうか、とわたしは雨に濡れ
たフロントガラスを見つめながら
思っていた。でも、すぐに打ち消
した。そんなことを話して、いっ
たいどうなるというのか。、
お互いの悲しみとお互いの苦しみ
が増幅するだけではないか。
それに、わたしが欲しいのはあなた
の子ども、ではない。
「でも、どうしてなんだ?どうし
て?」今度は、優しい人が「どう
して」を繰り返す番だった。
橋を渡りながら言い争いをした
夜から、一週間が過ぎていた。
ひとりで病院に行って、すべてを
終わらせてから、わたしは優しい人
に別れを告げた。
長い時の流れのなかで、少しずつ
蝕まれ、隙間だらけになっていった
わたしの、どこを探しても、もう、
自分の気落ちを説明できるような
言葉は、残っていなかった。
気持ちもまた、長い時間の時の
流れのなかで、損なわれてきたの
だ。わたしの躰は、空洞だけを抱
えていた。その空洞のなかには、
どこにもゆき着くことのできない、
壊れた小舟の残骸がぽつんと残され
ていた。
知らず知らずのうちに、わたしの
頬を涙が伝わっていた。その涙は
温かく、微笑みにも似た涙だった。
この世の中には、すべてを手に入
れてもなお不幸な人間がいるように、
すべてを失ってもなお、幸福でいら
れる人間もいるのだと思った。わた
しは幸せだった。執着と欲望にがん
じがらめになった愛の死と引き換に、
わたしは今、空っぽの水槽のなかに
在っても、永遠に生き続けることの
できる愛を、手に入れたのかもしれ
なっかた。
死を知るためには死ななくてはなら
ないように、愛を知るためには、愛
さなくてはならにのだ。わたしは愛
する。それがわたしにとって、生き
るということ。
雨と涙の混じったような夜風の香り
に包まれて、わたしは優しい人に
呼びかけていた。
また、会えたね。
わたしの、優しい人。
また、会えたね。
こんな場所で。
わたしは、ここにいる。
あなたも、ここにいる。
わたしたち、やっと
一緒になれたね。
むかしむかし・・・・・
少女のころ、わたしはを夢中に
させたのは、そんな言葉で始まる
物語だった。物語の綴られた本を、
心ゆくまで読み耽る贅沢な時間だ
った。
大人になってから、わたしを夢中
にさせたのは、心逝くまで好きな
人を思い、その思いを生きる、とい
ことだった。
遠い昔に、わたしはそれを生きた。
そして今も生きている。地の果てで、
独りぼっちの不完全な死体として。