1960年代末、ホンダには、本田さんが
推進する空冷エンジンか、若い技術者が
考える水冷エンジンンという意見対立が
生じていた。
技術に関して上下のないホンダだが、ホ
本田さんはやはり社長である。本田さん
はとことんこだわれば、空冷エンジンの
採用になったかもしれない。
だが、本田さんは盟友である藤沢武夫さ
んの忠告を受け入れ、若い技術陣の推す
水冷エンジンに道を譲っている。
そして73年に本田さんは66歳で、6
2際の藤沢さんとともに退陣、以後、
役員会に顔を出すこともなく、若い経営
陣にすべてを委ねている。
初めてアメリカ自動車殿堂入りした
日本人は、本田宗一郎(1989年)氏。
―余談―
「いや、いいんだよ、その油まみ
れの手がいいんだ。俺は油の匂いが
大好きなんだよ。」
【覚え書き|本田宗一郎がある社員と
握手をするために手を差し出した。
その社員は握手をためらった。自分の
手が仕事で油まみれなので本田氏の手
を汚してしまうと思ったからだった。
上記はその社員への言葉】
例えば、ショッピングセンター内の
遊び場で、遊びたい友達を見つけると
子どもは初対面で遊べます。
好きなおもちゃを持っている友達を
見ると「ちょっと貸してくれない」と
素直に自分の気もちを伝えます。
子どもは、どんなに好きな女の子が
来ても、自分のしたいことがあると
断ります。「今日この遊びをしたいんだ。
明日遊ぼうね」と相手に対しての
思いやりも最後に忘れません。
だから、子どものトラブルは毎日
起きていても、その日のうちに
解決しています。
大人はこの状況を見て、「子どもは
単純だから」とひと言でかたづけて
しまいます。
ここに大きな問題があるのです。
単純な行動ができていれば、大人に
なってもトラブルは起きません。
そして、単純な行動は、自分をき
ちんと持っていなければできない
のです。
自分を持って生きるといことは、
自信がなければできないことです。
「人に与えたものは、必ず返ってくる、
人から奪ったものは、必ず奪われる」。
これが大原則とされています
奪ったものは、必ず奪い返される。
「儲け」と思ったけれど、儲けでは
なかった。
「損した」と思ったけれど、あとから
考えたら損じゃなかった。
そういうことは、人生でもたくさん
あるはずです。
そう考えたら、どれだけ自分が手に
いれるかではないのです。
どれだけあげられるか、ということ
を考えればいいのです。
「月見座頭」という狂言がある。
谷崎潤一郎や永井龍夫が小説に
書いているので、ご存じの方も
いると思うが、
概略だけを書いておくと、
ある月のいい晩に盲目の男が月見
に出かける。
目が見えないのだから、月なんか
見えはしないのだが、月夜の静けさ
とか虫の声などは、敏感な盲人の
心には、もしかすると常人より
はるかに身にしみる風景として
感じられるに違いない。
彼はその気分をたのしみつつ、
手酌でちびちびやっていると、そ
こへ下京(しもぎょう)の男が
現われる。
盲人が月見をしているのを見て、
これはまた風流なことだと感心し、
いっしょに月見をしようと、持参
の酒肴をともに飲んだり食ったり
し、はては舞い歌いなどして大い
にたのしむ。
やがて、夜も更けたので、下京の
男は名残を惜しみつつ帰って行った
が、途中まで来て、このまま帰った
のでは面白くない、今度はあいつを
なぶってやろうと、先の盲人のところ
へ行き、
さんんざんに打ったり叩いたりした
あげく、いい気持になって家路を
辿った。
「やれやれ、とんだ災難に出会った。
はじめに来た男は親切に付きあって
くれたが、二度目の奴にはひどい目に
会った。
同じ人間でも違うものだなあ」
と、盲人は感慨にふけりクシャミを
一つして去って行った。同じ人間
どころか、まったく同一人物で
あったところがとてもおかしい。
だからといって、私はお説教をする
つもりはない。誰の中にも二つの相
反するものが住んでいる。
盲人を笑うのは悪いことだが、時に
は私たちも盲人同様目をくらまされ
ていることが多いのではないか。
「月見座頭」とはあんた達のことだ
よ、と舞台の上からいっているよう
に聞こえなくもない。
ユーモアとはそうしたものである。
それは心の余裕であり、他人の身
になって考えられることをいう。
それにつけても、日本語にはめくら
という古来のいい言葉
があるのに、禁句になっているとは、
何ともユーモアに欠ける国民であるこ
とか。
そのひとは
黒羽二重の背筋を伸ばして
最後まで しゃんと
乱れず努めを果たした
だからぼくも いまは泣くまい
無言の美学に 敬意を表して
※黒羽二重くろはぶたえ
黒色のはぶたえ。
紋付などの礼装用和服地。
『上品で洗練された美しさ』
高貴で上品な美しさを表現した
言葉です。
単なる「うつくし」より、もう
少し話し手(見る側)の思い入れ
が強く感じられ、心がひかれて
いとおしいという意が含まれて
います。
紫式部は、光源氏の美しさを
表現するのにこの言葉をよく用い
ます。
高山樗牛(ちょぎゅう)も小説
『滝口入道』の中で、恋人横笛の
舞姿を「閑雅に臈長けて見えに
けり」と表現しています。
気品にあふれる美しさを表すこの
言葉は、女性への最高の賛辞です。
見ているのがつらくなり、
そらした視線の先に、半分
ほどあいたドアが見えた。
ドアの向こうには、机とパソ
コン、その奥にベットの一部。
見てはならないものを見て
いるような気持ちになって、
あわてて視線をテーブルの
上に戻した。
「さ、どうぞ。めしあがれ」
ポットからカップにお茶を
注ぐと、カップのひとつを
わたしの目の前に置いて、
彼女はにっこりと微笑んだ。
あたりに、すーっと、ジャ
スミンの香りが立ちのぼる。
「ありがとう、とてもいい香り」
自分でも不思議だった。
どうしてこんなに、冷静でいら
れるのか。彼女に笑顔を返しな
がら「いい香り」などと、言っ
ていられるのか。
「あなた、カイセイのお友だち?」
「はい」
それ以外に、いったいなんと
答えたらいいのか。
「大学時代の?」
「いいえ」
そう答えとあと、尋ねてみた。
「あなたは日本語がわかりますか?」
はにかみがちに、彼女は笑った。
笑いながら、首をふった。
「いいえ。コンニチハとアリガ
トだけね」
会話はそこで途切れてしまい、
ふたりとも、ただ曖昧な微笑み
を浮かべて、向かい合っている
ことしかできない。彼女が先に
真顔に戻った。
「彼は、私たちのことを、彼の
親戚の人に知らせるために、日
本に行きました。亡くなった
彼のお母さんにも」
私たちのこと?
彼女の唇から、軽快に弾き出さ
れる言葉とその意味する内容が、
わたしの頭の中でひとつの像を
結ぶまでに、時間がかかった。
それまでずっと、なりをひそめ
ていた衝撃が、その時になって
やっと、はっきりとした形を成
し、押し寄せてきた。
本物の感情というのは、出来事
に遭遇した直後ではなく、しば
らくしてからじわじわと、やっ
てくるものなのかもしれない。
衝撃はゆるやかに、圧倒的に、
わたしの躰に乗り移ってきた。
まるで毒が効いてくるように、
ゆっくりと、わたしは打ちのめ
された。「裏切られた」。違う。
「信じられない」。いいえ、そんな
言葉とも、違う。
その時のわたしの気持ちは、到底
言葉にはならない種類のものだった。