優しい人は何も知らなかった。
もしもわたしが、わたしの妊
娠を告げていたとしたら、優
しい人はおそらく、
優しいままではいられなくな
っていただろう。
いっそ、今ここで、何もかも
話してしまおうか、と、わた
しは雨に濡れたフロントガラ
スを見つめながら思っていた。
でも、すぐに打ち消した。そ
んなことを話して、いったい
どうなるというのか。
お互いの苦しみが増幅するだ
けではないか。
わたしには、自分を不幸にす
る自由はあっても、優しい人
の子どもたちを傷つける権利
はないのだ。
それに、わたしが欲しいのは
あなたの子ども、ではない。
けれど、奥さんには知って欲
しかった。わたしがここで、
こうして泣いていることを、
ただ、知ってくれるだけで、
よかった。
「きっと話してよ。きっとよ。
お願い、約束して」
「約束する」
優しい人は約束を守らなか
った。
それは、優しい人がわたしと
付き合っているあいだ中、わ
たしにつき続けていた無数の、
優しい嘘のひとつに過ぎなか
った。
優しい人に送られて、泣きな
がら戻っていった部屋の暗闇
のなかで、わたしを待っていた
のは小鳥たちと、別れの決意だ
った。
知らず知らずのうちに、わたし
の頬を涙が伝わっていた。その
涙は温かく、微笑みにも似た涙
だった。
この世の中には、すべてを手に
入れてもなお不幸な人間がいる
ように、すべてを失ってもなお、
幸福でいられる人間もいるのだ
と思った。
わたしは、幸せだった。執着と
欲望にがんじがらめになった愛
の死と引き換えに、わたしは今、
空っぽの水槽のなかに在っても、
永遠に生き続けることのできる
愛を、手に入れたのかもしれな
かった。死を知るためには死な
なくてはならないように、
愛を知るためには、愛さな
くてはならないのだ。わたしは
愛する。それがわたしにとっ
て、生きるといこと。