平成23年4月
新年度もはじまり、美久の地震恐怖症がやわらぎ始め、空虚な生活がしばらく続いたある日のこと。大きなメロンが数個、我が家に青森から届いたのだ。しかし青森に私の親類はいないし、どうしたのだろう。と、札をよくみたら、送り主は奈央の名前であった。どうやら奈央が実家の母親にお願いして、送ってくれたメロンらしい。大きくて甘くて、これまで食べたメロンのどれよりもすごくすごく美味しくて、子どもたちも大喜びであった。電話で雄太から奈央に連絡してもらい、お母様によろしくお伝えしてくれとお礼を言ったのだが、恐縮極まりない事態であった。
平成23年4月18日
信也と奈央と一緒に家を出ていったきりだった雄太が、やっと我が家に帰って来た。しばらくぶりに見た息子の顔は、だいぶ痩せこけていた。やっと帰ってきたかと思ったら、旅の支度だった。就職先の東京に今晩、夜行バスに乗って出立するという。一足先に旅立った信也のいる東京に、たいした荷物も持たず、たいしたお金も持たせられずに行くらしい。
夜空にぼんやりと浮かぶ雲の隙間から、時々差し込む月の光と、田んぼを挟む自宅裏のコンビニの明かりが頼りの深夜の自宅前。それでも雄太の表情はいつもと変らないのが見て取れた。タクシーがきた。ボストンバックを一つ後ろの座席に放り込み、
「じゃあ」
そういって自分も乗り込んだ。私は
「がんばれよ」
と声をかけ、すかさず
「死にそうになったら帰ってこいよ」
そういうと
「うん」
と素直な返事が帰って来た。案の定、クールなお別れだ。走り去るタクシーの姿が遠のいていく。なんだか心に穴が開いたような、妙な感じになった。心の中に風が吹くってこういうことか。
翌日の朝。新6年生と新5年生となった美紅と萌がいつも通り元気に出て行った。遅れてすぐに、新高校生の舞子が玄関に降り立つ。
「夕べお兄さんが東京に行ったよ」
と、教えてあげたら
「知っている。今までも家にいないのが多かったから、変らない」
と、屈託なく言う。舞子は転校前の小学校で、6年の冬から、実は不登校となっていた。中学になっても、数えるくらいしかか通ったことがない立派な不登校生。雄太は「学校行っていないの?」と、最初の頃、一度私に聞いただけで、あとは全く干渉してこなかった。5才も違うしね。でも利口な方法だ。私の親もはじめは、無理に学校に行かせようとしていたが、それも無理とわかると、本人のペースに任せてくれた。舞子は不登校が始まると同時に想い鬱になり、地獄の地面を這いつくばっていた。だから私は、舞子の完全なる居場所が必要だと考えた。それゆえ妹たちには舞子を「お姉ちゃん」と、徹底して呼ばせ、姉の威厳を持たせた。これは後に紹介する恩師の秘伝の術である。
だから、学校に通っていなくても、頭が良かったり、器用な姉を、妹たちは尊敬しているようだ。鬱状態の舞子に引き込まれないよう私自身が注意を払い、常に明るく振舞って接していくうちに、舞子も徐々に明るさを取り戻していった。子どもは親の鏡。親が不幸なら子どもも不幸を背負うと私は舞子に教えられたのだ。私の不幸を舞子が背負ってしまったから、子ども社会のストレスに負けてしまったのだ。ならば、私が幸福になれば、舞子が幸せになり、それは生命力にも、またストレスにも負けない心を作ると、やっと悟ったのは不登校児のお陰であった。
人生の休憩を十分にしてのことか何なのか、高校に入りたいと言い出して、中学校の保健室に登校するようになった舞子。そのかいあって、私立の高校に内定をいただいていたのだが、それでもまだ希薄さが感じられる3月のこと。舞子のエネルギーがみなぎる一瞬の出来事があった。それはまぎれもない大震災の時だ。数日してテレビから流れてくる東北の沿岸の悲惨な報道を見て
「私ってなにやってるんだろう。このままじゃだめだ」
そう言って、手始めにノートに漢字練習を書き込み始めたのだ。私には見えないが、オーラのような何かが、舞子を大きく包んだかのようなそんな一瞬であった。そして、4月の春から、意気揚々と高校に通い始めていたのだった。今からは肌でいろいろなことを体験していってくれるだろう。
「お兄さんのコミ力が欲しい!」
そう言って自虐ネタで笑わせる舞子もなかなかの者なのだが。がしかし、控えめな舞子に比べ、交友関係には事欠かない雄太。思えば雄太が中学の頃には、父親はいなくなっていたから、雄太の育児は、それからが本番だったのかもしれない。
子はかすがいとはよくいったもの。夫婦というものに、子供ができたのであるなら、子供を第一に考え、子供を中心に生活することが、夫婦が仲良く生活できる秘訣なのではなかろうか。それなのに、私には強い夫がいたために、子供がないがしろになっていたのが本当だ。私たち夫婦の第一の被害者は長男であった。
私の夫は、普段は子どもにも愛情を注いでいたのは事実であるが、ふとしたことで、夫の機嫌が悪くなると、ストレスを実の長男である雄太に向けるときが多々あった。頭を叩いたり、腕立て伏せをむりやりさせたり…
長男が困っていたり苦しんでいるのを私はかばおうとするが、夫はもっと長男を苦しめようとする。だから、夫の気分が治るまで、長男が困るところを夫が見届けるまで、私は雄太をかばいたい衝動をこらえてきた。しかし物ごころついてからずう年間、辛抱してきていた雄太が、ついに切れたことがあった。
小学6年の夏、雄太は、私と私の母親の前で、生まれて初めて自分の気持ちを吐露した。居間のソファーに座り、自分の飼っているウサギのキキを、ぎゅっと胸に抱きよせながら、
「親父を殺してやる」
そう言った。私の母親は、当然どうしてかと聞いた。私はきっと雄太が、自分がいじめられていることを祖母に訴えるのかと思った。しかし、違っていた。雄太が今腕に抱いているウサギは、雄太が幼稚園の頃から飼い始め、かれこれ8年位になるだろう。幼いころからいつも一緒に遊んできたキキ。雄太は学校から帰るとキキを小屋から出しては、自分にはべらせて遊んでいた。目を離してしまっても、小屋に戻ってくるので、あまり心配がなかった。キキが小屋から離れ、ご近所の猫と仲良くなったはいいが、なぜかがキキが猫数匹を引き連れて、先頭になって道路を歩いていたのには驚いた。長年連れ添ったペットに雄太は人一倍愛情を注いていたのは確かだったが、そんな雄太に父親は、
「キキを山に連れて行って放してしまうぞ」と、意地悪く言うことがよくあったのだ。雄太は、
「それが我慢できない」
という。叩かれれば体と心が痛いが、言葉で人の心をなじるのは、想像以上にその人の心と人生を歪ませてしまうらしい。私も何度か夫から叩かれたことはあるが、今心に残っているのは確かに言葉の暴力と、執拗で陰湿ないじめだ。だとすると、長男は幼少期から、陰湿ないじめを受けて育ったのだから、影響がないわけがない。
「お父さんが怖い」
と言って、震えながら一人ベットに入っていたときも、私は夫の神経を落ち着かせるために、そのまま長男の部屋をでて、普段どおりの生活をしてみせていた。長男はずっと一人で耐えていた。
結婚して12年目、仕事先を辞めてしまってからの夫は、正常な神経ではなくなっていた。だから話し合いなど無理である。そんな時、2度とやるなと叱っていた雄太の火遊びがばれて、夫は雄太の顔を数回大人の、そして男の力でおもいきり殴った。〈パン〉という大きな音と共にドバドバと雄太は鼻血を出した。夫は鼻血を出す自分の息子を心配するでなし、
「家がきたなくなったから、早く拭けや」
そう言い放った。翌日腫れた顔をしたまま雄太はいつもより長く私の目をみながら、
「行ってきます」
その一言だけ言って学校へ行った。夫は躾けることが正義。息子は強い父親のストレスを紛らわすための火遊びが正義。だが、独りよがりの正義など本当の正義ではない。
雄太が幼い時、私たちは東京で生活していた。夫との生活が辛くなり、私は雄太を連れて岩手の実家に家出をしたことがある。が、結局は夫から電話があり、説得され、東京のアパートに帰ったのだが、数日間いなかった雄太郎を、夫は
「もう俺になつかないだろ。きっと嫌っているだろう」
という。しまいには、
「可愛くないから2階から落とせ」
ともいう。私は夫の陰湿な言葉いじめをなんとかかわし、布団に雄太と寝るのだが、わずか2歳の雄太を夫は、わけもなく「わあっ」と何度も脅かして見せた。自分が泣けばまたさらに、脅されるとわかっていたのか、雄太は無言で、布団の中にある私の手をぎゅっと握りしめた。私も夫に気づかれないようにしながら、負けじとぎゅっと握り返し、二人して辛い夜をやり過ごした。雄太の負のスパイラルが始まったのは、この時からだろう。また家出してしまうかもしれない私に不満をぶつけられない夫が、一番身近で簡単にストレスを発散できる対象を見つけてしまった瞬間だ。私が雄太に試練を与えてしまった張本人であったのだ。父親からのストレスが、中学、高校と、ずっと続いたら、きっと弱者である雄太は、強者を殺すしかなくなる。負のスパイラルに終わりは無いのだ。終わらせたいなら、大きな変換。大きなプラス要因が必要だった。
雄太が、初めて吐露した翌朝。私は夫の目を盗み、長男と下に続く3人の姉妹を連れて、静かに玄関を出て、車に乗り込み、私の姉が嫁いでいる家に、なりふり構わず転がり込んだ。夫は元の生活に戻ることを望んでいると、姉に伝言で伝えてきたが、私は、もう無理であると姉を通して伝えた。夫は「しばらく東京で働いて、私の気持ちが落ち着いたら帰ってくるから」そう言って、田舎から出て行って、そのまんま行方しれずになった。
夫は、実に小心者だった。自分への子どもの愛情を常に確認し、また子どもに嫌われるのを恐れていた。子どもが機嫌よく夫に近付けば可愛がり、少しでも不満そうな顔を子どもにされると、子どもは憎しみの対象となる。それは自分の親との関係の希薄さからに違いない。夫は実の親から虐待を受け、大人になってもずっとこだわりを持っていたからだ。
夫は幼いころから殴られていた記憶がある。箸の持ち方が悪いから、という理由も言われずに、いきなり父親に殴られたものだ。とよく口にしていた。母親に対しても、不満を漏らしていた。正月のお年玉は、母親のバックの購入資金にされた、だの、父親に殴られる自分を笑って見ていただのと。
だが、そんな両親も小学生のころ、離婚してしまい、それから母親と二人で生活し始めるのだが、離婚後も、手に負えない自分の一人息子の教育指導のため、母親は元夫を電話で呼び、長男で一人っ子の夫に、父親から威圧的な教育をうけさせていたらしい。
子どもは誰を頼りにするかというと、一番に母親であろう。たとえ父親が悪くても、母親次第で、子どもの人生がかわるのかもしれない。誰が何と言おうと母親の愛情が十分に感じられて育った人間は、一度や二度、人生の選択を誤ったとしても、必ずまっとうな道に戻れると確信する。だが、母親の裏切りを感じて育った子どもは、その傷はさらに深く、人生の修復が実に困難極まりない。
夫の神経が、私のおかげで治るだろうと確信して結婚した訳であるが、それはみごとに打ち砕かれた。簡単に人をコントロールできるはずがないが、若い頃の私はそう信じていた。この判断の甘さが、今の現実を引き起こし、悪いのは誰でもない自分自身である。
私の親族は、夫の肩を持ってあげる度量があったから、私が怒らせるから悪いのだ、と天涯孤独状態の夫の肩を持つ。だが、それは本当のDVを知らないから言えることでもある。夫の爆弾はいたるところにあり、どこで地雷を踏んでしまうのか誰にも解らない。またそれは理屈でない。だから夫と口論したことがない。感情的な相手には黙るほかなかったからだ。喧嘩できる夫婦はうらやましい。
夫は天涯孤独と言ったが、故郷に戻り、父親と再会を果たしている。
夫は私と長男、長女を連れて、自分の故郷に帰った時があった。そのとき自分の父親に連絡して、数年ぶりに再会を果たした。お父さんは、すでに結婚されていたのだが、急な呼び出しにも、快く応じてくれて、初めて会う孫に、おもちゃを沢山買ってくれたり、ステーキをおごってくれたりした。そんな自分の父親に、夫は
「俺の小さいころの時の対応とまったく違うな」
そういうと、お父さんは
「あの頃は悪かったよ」
と一言、優しい目をして夫に詫びた。世間では、甘やかすのが悪いと口々にいう。だから新米親は、きちんと子どもを育てようとして、頑張り過ぎてしまう。躾に捉われて、感性を潰してしまうことに、気づかないまんま子どもはどんどん成長するのだ。自分の子どもであっても、自分の思い通りにならないこと。また自分の物ではないことを、今になって理解した自分の父親を、夫はこの時初めて許す気になったのだろう。それ以来、夫は毎日のように口にしていた子どもの頃の虐待話はしなくなっていった。それでも時々噴火してしまう怒りは、きっと母親との確執からなのではと思えてならない。
私は母親とも夫と再会してほしかったのだが、それは叶わなかった。夫が母親と電話したとき、自分の始めての子、雄太を見せに、会いに行きたいといったが、断られたからだ。とうに勘当したのだから、今更会う必要はないのだという。
それもまた仕方がないことだった。おそらくは中学、高校時代、夫は母親に反抗するだけして、しかも、親の立場が無いまでに学校や世間に迷惑をかけていたはずなのだ。数年ぶりの母親との電話は、夫の心に深く影を落としてしまう結果となった。
だが、後日、突如として私たちのアパートに荷物が届いた。衣装ケースが4個もだ。狭いアパートの床はケースで一杯だ。送り主はむろん義母さんからだ。中には沢山の衣類や生活用品等々。1歳の雄太には、新品の有名メーカーの服がズラリ。高額な品だけに、洗濯を繰り返してもまったくへこたれず、結局、雄太の12歳下の、舞子を育てるまで活用させていただいた。私に至っては、何着もの女性用スーツを、20年以上たった今でも、大事に使わせてもらっている。入学式だの、やれ卒業式だのと、なんたって4人の子持ちの私だから大助かりなのだ。衣装ケース4個もの大荷物は、実の子である夫への、母からの応援メッセージに違いなかった。それでも夫の心の傷は、衣装ケース4つでは埋まるはずもなく、自分の母親への不信感は、自分の子どもへの不信感となっていったかに思える。
新年度もはじまり、美久の地震恐怖症がやわらぎ始め、空虚な生活がしばらく続いたある日のこと。大きなメロンが数個、我が家に青森から届いたのだ。しかし青森に私の親類はいないし、どうしたのだろう。と、札をよくみたら、送り主は奈央の名前であった。どうやら奈央が実家の母親にお願いして、送ってくれたメロンらしい。大きくて甘くて、これまで食べたメロンのどれよりもすごくすごく美味しくて、子どもたちも大喜びであった。電話で雄太から奈央に連絡してもらい、お母様によろしくお伝えしてくれとお礼を言ったのだが、恐縮極まりない事態であった。
平成23年4月18日
信也と奈央と一緒に家を出ていったきりだった雄太が、やっと我が家に帰って来た。しばらくぶりに見た息子の顔は、だいぶ痩せこけていた。やっと帰ってきたかと思ったら、旅の支度だった。就職先の東京に今晩、夜行バスに乗って出立するという。一足先に旅立った信也のいる東京に、たいした荷物も持たず、たいしたお金も持たせられずに行くらしい。
夜空にぼんやりと浮かぶ雲の隙間から、時々差し込む月の光と、田んぼを挟む自宅裏のコンビニの明かりが頼りの深夜の自宅前。それでも雄太の表情はいつもと変らないのが見て取れた。タクシーがきた。ボストンバックを一つ後ろの座席に放り込み、
「じゃあ」
そういって自分も乗り込んだ。私は
「がんばれよ」
と声をかけ、すかさず
「死にそうになったら帰ってこいよ」
そういうと
「うん」
と素直な返事が帰って来た。案の定、クールなお別れだ。走り去るタクシーの姿が遠のいていく。なんだか心に穴が開いたような、妙な感じになった。心の中に風が吹くってこういうことか。
翌日の朝。新6年生と新5年生となった美紅と萌がいつも通り元気に出て行った。遅れてすぐに、新高校生の舞子が玄関に降り立つ。
「夕べお兄さんが東京に行ったよ」
と、教えてあげたら
「知っている。今までも家にいないのが多かったから、変らない」
と、屈託なく言う。舞子は転校前の小学校で、6年の冬から、実は不登校となっていた。中学になっても、数えるくらいしかか通ったことがない立派な不登校生。雄太は「学校行っていないの?」と、最初の頃、一度私に聞いただけで、あとは全く干渉してこなかった。5才も違うしね。でも利口な方法だ。私の親もはじめは、無理に学校に行かせようとしていたが、それも無理とわかると、本人のペースに任せてくれた。舞子は不登校が始まると同時に想い鬱になり、地獄の地面を這いつくばっていた。だから私は、舞子の完全なる居場所が必要だと考えた。それゆえ妹たちには舞子を「お姉ちゃん」と、徹底して呼ばせ、姉の威厳を持たせた。これは後に紹介する恩師の秘伝の術である。
だから、学校に通っていなくても、頭が良かったり、器用な姉を、妹たちは尊敬しているようだ。鬱状態の舞子に引き込まれないよう私自身が注意を払い、常に明るく振舞って接していくうちに、舞子も徐々に明るさを取り戻していった。子どもは親の鏡。親が不幸なら子どもも不幸を背負うと私は舞子に教えられたのだ。私の不幸を舞子が背負ってしまったから、子ども社会のストレスに負けてしまったのだ。ならば、私が幸福になれば、舞子が幸せになり、それは生命力にも、またストレスにも負けない心を作ると、やっと悟ったのは不登校児のお陰であった。
人生の休憩を十分にしてのことか何なのか、高校に入りたいと言い出して、中学校の保健室に登校するようになった舞子。そのかいあって、私立の高校に内定をいただいていたのだが、それでもまだ希薄さが感じられる3月のこと。舞子のエネルギーがみなぎる一瞬の出来事があった。それはまぎれもない大震災の時だ。数日してテレビから流れてくる東北の沿岸の悲惨な報道を見て
「私ってなにやってるんだろう。このままじゃだめだ」
そう言って、手始めにノートに漢字練習を書き込み始めたのだ。私には見えないが、オーラのような何かが、舞子を大きく包んだかのようなそんな一瞬であった。そして、4月の春から、意気揚々と高校に通い始めていたのだった。今からは肌でいろいろなことを体験していってくれるだろう。
「お兄さんのコミ力が欲しい!」
そう言って自虐ネタで笑わせる舞子もなかなかの者なのだが。がしかし、控えめな舞子に比べ、交友関係には事欠かない雄太。思えば雄太が中学の頃には、父親はいなくなっていたから、雄太の育児は、それからが本番だったのかもしれない。
子はかすがいとはよくいったもの。夫婦というものに、子供ができたのであるなら、子供を第一に考え、子供を中心に生活することが、夫婦が仲良く生活できる秘訣なのではなかろうか。それなのに、私には強い夫がいたために、子供がないがしろになっていたのが本当だ。私たち夫婦の第一の被害者は長男であった。
私の夫は、普段は子どもにも愛情を注いでいたのは事実であるが、ふとしたことで、夫の機嫌が悪くなると、ストレスを実の長男である雄太に向けるときが多々あった。頭を叩いたり、腕立て伏せをむりやりさせたり…
長男が困っていたり苦しんでいるのを私はかばおうとするが、夫はもっと長男を苦しめようとする。だから、夫の気分が治るまで、長男が困るところを夫が見届けるまで、私は雄太をかばいたい衝動をこらえてきた。しかし物ごころついてからずう年間、辛抱してきていた雄太が、ついに切れたことがあった。
小学6年の夏、雄太は、私と私の母親の前で、生まれて初めて自分の気持ちを吐露した。居間のソファーに座り、自分の飼っているウサギのキキを、ぎゅっと胸に抱きよせながら、
「親父を殺してやる」
そう言った。私の母親は、当然どうしてかと聞いた。私はきっと雄太が、自分がいじめられていることを祖母に訴えるのかと思った。しかし、違っていた。雄太が今腕に抱いているウサギは、雄太が幼稚園の頃から飼い始め、かれこれ8年位になるだろう。幼いころからいつも一緒に遊んできたキキ。雄太は学校から帰るとキキを小屋から出しては、自分にはべらせて遊んでいた。目を離してしまっても、小屋に戻ってくるので、あまり心配がなかった。キキが小屋から離れ、ご近所の猫と仲良くなったはいいが、なぜかがキキが猫数匹を引き連れて、先頭になって道路を歩いていたのには驚いた。長年連れ添ったペットに雄太は人一倍愛情を注いていたのは確かだったが、そんな雄太に父親は、
「キキを山に連れて行って放してしまうぞ」と、意地悪く言うことがよくあったのだ。雄太は、
「それが我慢できない」
という。叩かれれば体と心が痛いが、言葉で人の心をなじるのは、想像以上にその人の心と人生を歪ませてしまうらしい。私も何度か夫から叩かれたことはあるが、今心に残っているのは確かに言葉の暴力と、執拗で陰湿ないじめだ。だとすると、長男は幼少期から、陰湿ないじめを受けて育ったのだから、影響がないわけがない。
「お父さんが怖い」
と言って、震えながら一人ベットに入っていたときも、私は夫の神経を落ち着かせるために、そのまま長男の部屋をでて、普段どおりの生活をしてみせていた。長男はずっと一人で耐えていた。
結婚して12年目、仕事先を辞めてしまってからの夫は、正常な神経ではなくなっていた。だから話し合いなど無理である。そんな時、2度とやるなと叱っていた雄太の火遊びがばれて、夫は雄太の顔を数回大人の、そして男の力でおもいきり殴った。〈パン〉という大きな音と共にドバドバと雄太は鼻血を出した。夫は鼻血を出す自分の息子を心配するでなし、
「家がきたなくなったから、早く拭けや」
そう言い放った。翌日腫れた顔をしたまま雄太はいつもより長く私の目をみながら、
「行ってきます」
その一言だけ言って学校へ行った。夫は躾けることが正義。息子は強い父親のストレスを紛らわすための火遊びが正義。だが、独りよがりの正義など本当の正義ではない。
雄太が幼い時、私たちは東京で生活していた。夫との生活が辛くなり、私は雄太を連れて岩手の実家に家出をしたことがある。が、結局は夫から電話があり、説得され、東京のアパートに帰ったのだが、数日間いなかった雄太郎を、夫は
「もう俺になつかないだろ。きっと嫌っているだろう」
という。しまいには、
「可愛くないから2階から落とせ」
ともいう。私は夫の陰湿な言葉いじめをなんとかかわし、布団に雄太と寝るのだが、わずか2歳の雄太を夫は、わけもなく「わあっ」と何度も脅かして見せた。自分が泣けばまたさらに、脅されるとわかっていたのか、雄太は無言で、布団の中にある私の手をぎゅっと握りしめた。私も夫に気づかれないようにしながら、負けじとぎゅっと握り返し、二人して辛い夜をやり過ごした。雄太の負のスパイラルが始まったのは、この時からだろう。また家出してしまうかもしれない私に不満をぶつけられない夫が、一番身近で簡単にストレスを発散できる対象を見つけてしまった瞬間だ。私が雄太に試練を与えてしまった張本人であったのだ。父親からのストレスが、中学、高校と、ずっと続いたら、きっと弱者である雄太は、強者を殺すしかなくなる。負のスパイラルに終わりは無いのだ。終わらせたいなら、大きな変換。大きなプラス要因が必要だった。
雄太が、初めて吐露した翌朝。私は夫の目を盗み、長男と下に続く3人の姉妹を連れて、静かに玄関を出て、車に乗り込み、私の姉が嫁いでいる家に、なりふり構わず転がり込んだ。夫は元の生活に戻ることを望んでいると、姉に伝言で伝えてきたが、私は、もう無理であると姉を通して伝えた。夫は「しばらく東京で働いて、私の気持ちが落ち着いたら帰ってくるから」そう言って、田舎から出て行って、そのまんま行方しれずになった。
夫は、実に小心者だった。自分への子どもの愛情を常に確認し、また子どもに嫌われるのを恐れていた。子どもが機嫌よく夫に近付けば可愛がり、少しでも不満そうな顔を子どもにされると、子どもは憎しみの対象となる。それは自分の親との関係の希薄さからに違いない。夫は実の親から虐待を受け、大人になってもずっとこだわりを持っていたからだ。
夫は幼いころから殴られていた記憶がある。箸の持ち方が悪いから、という理由も言われずに、いきなり父親に殴られたものだ。とよく口にしていた。母親に対しても、不満を漏らしていた。正月のお年玉は、母親のバックの購入資金にされた、だの、父親に殴られる自分を笑って見ていただのと。
だが、そんな両親も小学生のころ、離婚してしまい、それから母親と二人で生活し始めるのだが、離婚後も、手に負えない自分の一人息子の教育指導のため、母親は元夫を電話で呼び、長男で一人っ子の夫に、父親から威圧的な教育をうけさせていたらしい。
子どもは誰を頼りにするかというと、一番に母親であろう。たとえ父親が悪くても、母親次第で、子どもの人生がかわるのかもしれない。誰が何と言おうと母親の愛情が十分に感じられて育った人間は、一度や二度、人生の選択を誤ったとしても、必ずまっとうな道に戻れると確信する。だが、母親の裏切りを感じて育った子どもは、その傷はさらに深く、人生の修復が実に困難極まりない。
夫の神経が、私のおかげで治るだろうと確信して結婚した訳であるが、それはみごとに打ち砕かれた。簡単に人をコントロールできるはずがないが、若い頃の私はそう信じていた。この判断の甘さが、今の現実を引き起こし、悪いのは誰でもない自分自身である。
私の親族は、夫の肩を持ってあげる度量があったから、私が怒らせるから悪いのだ、と天涯孤独状態の夫の肩を持つ。だが、それは本当のDVを知らないから言えることでもある。夫の爆弾はいたるところにあり、どこで地雷を踏んでしまうのか誰にも解らない。またそれは理屈でない。だから夫と口論したことがない。感情的な相手には黙るほかなかったからだ。喧嘩できる夫婦はうらやましい。
夫は天涯孤独と言ったが、故郷に戻り、父親と再会を果たしている。
夫は私と長男、長女を連れて、自分の故郷に帰った時があった。そのとき自分の父親に連絡して、数年ぶりに再会を果たした。お父さんは、すでに結婚されていたのだが、急な呼び出しにも、快く応じてくれて、初めて会う孫に、おもちゃを沢山買ってくれたり、ステーキをおごってくれたりした。そんな自分の父親に、夫は
「俺の小さいころの時の対応とまったく違うな」
そういうと、お父さんは
「あの頃は悪かったよ」
と一言、優しい目をして夫に詫びた。世間では、甘やかすのが悪いと口々にいう。だから新米親は、きちんと子どもを育てようとして、頑張り過ぎてしまう。躾に捉われて、感性を潰してしまうことに、気づかないまんま子どもはどんどん成長するのだ。自分の子どもであっても、自分の思い通りにならないこと。また自分の物ではないことを、今になって理解した自分の父親を、夫はこの時初めて許す気になったのだろう。それ以来、夫は毎日のように口にしていた子どもの頃の虐待話はしなくなっていった。それでも時々噴火してしまう怒りは、きっと母親との確執からなのではと思えてならない。
私は母親とも夫と再会してほしかったのだが、それは叶わなかった。夫が母親と電話したとき、自分の始めての子、雄太を見せに、会いに行きたいといったが、断られたからだ。とうに勘当したのだから、今更会う必要はないのだという。
それもまた仕方がないことだった。おそらくは中学、高校時代、夫は母親に反抗するだけして、しかも、親の立場が無いまでに学校や世間に迷惑をかけていたはずなのだ。数年ぶりの母親との電話は、夫の心に深く影を落としてしまう結果となった。
だが、後日、突如として私たちのアパートに荷物が届いた。衣装ケースが4個もだ。狭いアパートの床はケースで一杯だ。送り主はむろん義母さんからだ。中には沢山の衣類や生活用品等々。1歳の雄太には、新品の有名メーカーの服がズラリ。高額な品だけに、洗濯を繰り返してもまったくへこたれず、結局、雄太の12歳下の、舞子を育てるまで活用させていただいた。私に至っては、何着もの女性用スーツを、20年以上たった今でも、大事に使わせてもらっている。入学式だの、やれ卒業式だのと、なんたって4人の子持ちの私だから大助かりなのだ。衣装ケース4個もの大荷物は、実の子である夫への、母からの応援メッセージに違いなかった。それでも夫の心の傷は、衣装ケース4つでは埋まるはずもなく、自分の母親への不信感は、自分の子どもへの不信感となっていったかに思える。
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