伝説の私の叔母さんは、昭和47年から創業した、かわい美容院を、今年四月をもって閉店した。
思えば私が幼稚園のころから、この店にたびたび訪れては、叔母さんにお小遣いなんか貰ったり、小学校のときは、夏休みに何日も泊まって、気ままに過ごした記憶がある。
小学校に上がるとき、中学に上がるとき、高校に上がるとき、いつも、この叔母さんが、入学に必要な道具一式を購入してくれた。正月にはお年玉を、社会人になるまで、欠かさず貰っていた。そして、私が子供を産んだら、産んだで、私の子供らに、社会人になるまで、一度も欠かさず、お年玉をくれている。他人に施しをするのを生業なりわいにしているような叔母さんだから、今回店をたたんで、実家の生まれた家に引っ越しをしたのだが、その際に、叔母さんの入る部屋を改装したことや、引っ越しの支度金を人からもらうことになったりしたときに、
叔母さんは、なんでこんなに親切にするんだようっ、といって、べそをかいている。また、たまたま、私の母親が、嫁さんに、母の日のプレゼントで、花束と鉢をもらった。
そしたら、母が、花束のほうを、叔母さんに、嫁からプレゼントらしいよ、と、手渡した。
叔母さんは、嫁が、わぞわざ、母の日のプレゼントに、花束をくれたと、信じ込み、俺は、花束をもらったことがはじめてだ!!!
と、またまた、大感動🥺🥺🥺
そんなこんな、私の実家は、両親と叔母さんの三人暮らしがスタートした。
私の親族何人もが、お金に困ったとき、この叔母さんに助けられてきた。叔母さん一人、親族一同の金銭面の面倒をこれまでしてきたのだ。
その叔母さんは、いまだ、ボロボロの馴染んだリュックサックで、用足しをしていたから、やっと私も言ったよ。新しいバックにいれたらどうか?と。
そしたら、やっと、旅行用にしていたリュックサックを、普段使いにおろして使用し始めた。昭和の、戦時中の姿を今にあらわしているような叔母さんだ。贅沢も、遊びも一切せず、長年、親族のためにつくしてきた実に稀な存在だ。
引っ越しのときは、昭和の戦争体験者だから、紙袋とか、魚のパックだとか、割り箸や、ふくろ、たくさん溜め込んでいたのを、山のように処分して、やっと、引っ越しを終わらせた。
私も親族も、この叔母さんも、人生の山を越えたようだ。
頑張ったね、叔母さん、ありがとう、叔母さん、みんな、みんな、今生きているのは叔母さんのお陰です。
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