セレンディピティ日記

読んでいる本、見たドラマなどからちょっと脱線して思いついたことを記録します。

読書ノート:小島毅「靖国史観」(ちくま新書)

2007-05-13 20:47:28 | 文化
この人の前著の「近代日本の陽明学」については、以前にも書いたがトリビアが多くおもしろいが主張には同意できない点があった。この本でも同じことが言える。個々の指摘は面白くなるほどと気付くことが多いが結論と言うより料理の仕方が僕はちがうな。
小島氏は、靖国神社は日本古来の神道にもとづく神社ではなく、朱子学の理気論にもとづいて立てられたもの。もちろん英霊という言葉も大和言葉ではない。理気論では人は気によって構成され歳とって死ぬと気は散じるが、不慮の死においては生命力がまだ充実しているので気は散じない。尊王倒幕で不慮の死を遂げた人の気を慰めるために招魂社=靖国神社が建てられたわけだ。直接この朱子学=理気論を裏付ける文献などはない。しかし幕末の勤皇の志士たちが愛読していた水戸学者=朱子学者である藤田東湖の思想から小島氏は当然ありえるものと推定する。このことに僕はなるほどと賛成する。というのは僕が怪訝に思っていたことがこれで理解できるのだから。
僕が怪訝に思っていたことは、一つは靖国神社がいったん合祀したA級戦犯の人たちの霊は分祀出来ないと言っていること。本当に神道で合祀とは霊が混ざってしまって一体となってしまうものか疑問に思っていた。神道についてはほとんど知識がないが、同じ神社に合祀されている神様も御魂屋は別なのではないか。神といっても人格(神格?)があると思うので、そんな集団意識みたいな状態になるのかと疑問に思っていた。だから靖国神社のそれが神道のものではなく朱子学世界の気であるとしたなら納得できる。
次に怪訝に思っていたのは、靖国神社が付属博物館で日本の戦争行為を正義の戦争と強く主張していることだ。日本の神仏感ではこれはおかしなことだ。もし国のために不慮の死を遂げた人の霊をなぐさめ顕彰するのなら、その人じたいの心情とか誠とかだけが問題であり、その戦いが客観的に見てあるいは後世からみて正しかったかどうかは無関係なことだ。だが靖国神社が朱子学にもとづくものならば、大義名分論は必須のものとなる。
さて料理方法と結論がちがうと書いた。小島氏は、靖国神社では日本のために死んだ英霊を祭っているというが、それはにせものの姿で、本当は幕末維新で薩長勢力から続く支配勢力のもとで死んだもののための施設だ。だから孝明天皇から忠勤をほめられた会津の人たちは天皇に忠節でも薩長の敵だから当然対象にならない。維新の功労者の西郷隆盛も薩長政府の敵対者になったのだから対象にならない。ここから小島氏はこの点で靖国に参拝問題は日本国内の問題として、参拝しないという。
僕は国際問題だと思う。というのは朱子学の土壌にあるのなら、朱子学的世界秩序が問題になってくる。ここから中国はもとより対戦国でもない韓国が神経質になるのがわかるからだ。小泉前首相は中国韓国では死んだ人は同じであるという日本の宗教風土が分かっていないというが、あきらかに靖国神社は死んだ人を選別して日本の宗教風土に合致していない。分かっていないのは小泉前首相だ。朱子学の本家本元である中国韓国は靖国神社の本質を理解していたのだ。だから朱子学的世界の中心である中国を侵略した東夷の国がその行為を大義名分論で擁護するという転倒した行為を非難しているのだ。