28日税務署から国税還付振込通知書がとどいた。手続開始年月日(振込日)は前日27日だ。そこでたまたま前日お金を引き出した通帳をあらためて見るとたしかに27日に「ナゴヤキタゼイムショ」で18,495円入金されている。13日に確定申告して27日に還付だからちょうど2週間だ。所得税の確定申告期間より前だから早く処理してもらえたかなと思いながらも日々のお金に困っている人は2週間は長いだろうなと思う。
さてこうしてブログを書き始めると書かないでパスしようとするとトゲが残ったようになる名古屋市の問題がある。河村市長の南京事件についての発言問題である。これは河村市長が来名した南京市(名古屋市の友好都市)の代表団(市共産党幹部)に、「自分の父は南京事件の8年後に南京市に行ったが現地の人に大変親切にされた。もし市民を大量虐殺するような事があったらそんなに親切にされなかったと思う。だからいわゆる南京事件はなかったと思う」「南京事件は日中友好を進めるうえでトゲになっている。真相を明らかにするために南京市で討論会を開いてはどうか」と言ったのだ。
このあと名古屋市のホームページには外国(多分中国)からの書き込みで炎上したという。名古屋市役所には多くの意見が寄せられたが、多くは河村発言を支持する内容だったとのこと。名古屋市民はどれだけいたかは知らないけど。石原都知事をはじめ河村発言を支持する声もある反面、市長としての発言としては不適当という声もある。
僕としてはたしかに南京事件が日中友好のトゲになっているのなら、多くの役人や政治家のように常に先送りするのではなくて、きちっと受け止めて自分の手で何とかしようとする姿勢は共感できる。でも市長の役割かというと、どうかという感じ。普通なら担当する役割から少々逸脱しても問題ないといいたい。少なくとも本来引き受けるべき事を担当所管から外れているかのようにいって回避するよりましである。この場合の問題点は相手は単に南京市の代表者ではなく中国共産党の下部組織の幹部ということだ。これは即ち相手の自主的な判断や歩みよりはまったく期待できない主人持ちが相手ということだ。だから名古屋市にとって軋轢のみが出現することが予想できる。でも河村市長の悪意のないバカ正直さは目に見えないかたちで後日実をむすぶかもしれない。
でも南京市代表の河村発言への対応は知性的なものだ。「そうした個人的な感想で無かったというのはまちがっている」と言った。これは河村発言の弱点をついた適切な反論だ。でも中国では南京市代表が断固とした態度をとらなかったと非難された。批判的な相手と討論を噛み合わせようとすることはカルト宗教ではタブーだ。今の中国共産党もカルト宗教と同じ。成長期の自信に溢れた組織なら別だが、被害者意識をもつ護りに入った組織では、批判的意見に出会った場合はただただ自分たちの主張をまくし立て相手の言っている内容を理解してはならないことになっている。
さて南京事件あるいは南京大虐殺をどう捉えたらよいか。「薮の中」のような話だが、実は出発点には共通のファクトがあると思う。つまり早々に逃げて行った中国軍の他に、抵抗する民間人もいただろうし、逃げ遅れた中国軍人の中には軍服を脱いで民間人に紛れながらなおも抵抗した者もいただろう。そうした者は便衣隊(ゲリラ)として捕えられても捕虜の扱いを受けずにすぐ処刑された。だから処刑した側の認識では民間人を無差別に殺したのではなく平服で戦闘行為を行った者を処刑する国際条約的にも正当な行為となる。しかし殺された者の多くは単に疑われただけで殺されたのだろう。これは多いにありうることだ。現在でも中東で結婚式の人の集まりが、テロリスト(ゲリラ)の集会と間違われてアメリア軍に爆撃されることが数回あった。ましてや日本軍はこのあとだが太平洋戦争初期にシンガポールで華僑を敵性国民として疑い大量に処刑している。
だから南京事件の認識の最初には「便衣隊」の処刑という事実がある。一方は便衣隊の処刑であり純然たる民間人を殺したわけではないといい、他方は殺された者はほとんど無辜の民だという評価が違うが共通する事実がある。
次に捕虜 の大量処刑がある。これは国際条約違反だがどこの国にもよくあるためかあまり問題にされていない。死体の処理に困るため河辺で処刑したため川が死体で一杯になったという。司令官は武装解除して逃がせという意味で処理しろと言ったつもり(本当かな)かもしれないが部下は処刑ととらえるわけである。
次に日本兵による現地婦女子への強姦(そして殺害)という事象も多々あった。従軍した石川達三が南京攻略部隊に取材して書いた『生きている兵隊』には兵隊が中国夫人を強姦して殺したことを暗示させる描写がある。『生きている兵隊』の載った雑誌は皇軍の威信を傷つけるとして即発売禁止になった。このころ日本軍の規律が乱れが目立ってきた。「生きて虜囚の辱しめを受けず」が捕虜虐待の原因と悪評の『戦陣訓』も本来は強姦等の軍紀の乱れを正す為に策定された。
結論からいえば、「便衣隊」という民間人(orゲリラ)の処刑ということを中核にして、(処刑した捕虜の)大量の死体とここでもおこった婦女子への強姦が組み合わさって南京事件という全体像ができたのだ。三つの別の事象が一つの物に結びついた接着剤は中国人の軍隊についての固定観念だ。つまり中国では兵隊の士気を高めるため占領した敵の都市を数日間自軍の兵隊に掠奪をゆるしたことが歴史上に多い。だから中国側は軍首脳の支持または容認した行動とみるのだ。そしてさして特異でもないことを頑なに無かったと言い張る日本人に不信をいだくわけである。
たからこの問題のカギは、一つには当時の日本軍あるいは日本政府はこうした現象を苦々しく思ったり抑えたい意向はあったが、決して推奨したりましてや方針として命じたことはないと明らかにすること。二つには20万人の殺害という数は物理的にも都市人口からも無理があるから、南京市内入城後の死亡者数を合理的根拠で確定すること。三つめは非軍人で殺害された市民の状況を抵抗したためか無差別かをサンプル調査をすると。つまり抵抗した抗日英雄と無辜の犠牲者の二つの称号は同時には受けれない。
中国が死者数を非合理なまでに拡大すると、それに乗じて南京事件はまったくのでっち上げという者がでてくる。お互いに助けあっているのだよ。
南京での事象はドイツ人の証言もあるのだが、それは伝聞にすぎないと斥けられる。しかし外国人の目の前ではやらないのは当たり前で、伝聞でも知らない中国人の話なら謀略かもしれないが、日ごろ知っている人間が直接見たと言うなら信頼性は高いだろう。それに中国の謀略ということで全面否定では欧米人には受けらいれられないだろう。というのは日本軍の捕虜の取り扱いは非常に悪く、アメリカの第二次世界大戦物を読むと日本の捕虜収容所はナチスドイツのそれより何倍も死亡率が高かったと必ずと言っていいほど書いてある。オランダでもその世代の反日感情は高い。だからアメリカ人は南京事件の事を聞くとさもありなんと思う。それをむりやり全面否定すると誠実さが疑われる。だから正しい道は全面否定ではなく実態を明らかにしつつ、礼節ある日本人をも戦争は狂わす、という理解を広めることだ。
ところで河村市長とおなじ感想を書いている旧日本軍人がいる。旧陸軍大尉で戦後防衛大学校教授になった佐々木隆春氏だ。戦争終了後、佐々木氏の大隊(大隊長は佐々木氏)が日本への帰還までの間に南京市の清掃を命じられた。ちなみにそれ以前には南京へ行ったことはなかった。そこで南京市民に親切にされた。「このようなことで、南京市民とトラブルが起こった話はついになく、筆者が接した範囲でも不愉快に感じた覚えはなかった。従って東京軍事裁判で南京大虐殺事件が問題になると、嘘だ、報復のためのデッチ上げだ。本当であれば南京市民があのように友好的に接するはずがなく、必ず酷い仕返しをしたはずだ。」(『大陸打通作戦』光人社NF文庫、p.232)佐々木氏の鯨兵団は四国の部隊だから河村市長の父とは部隊は違うかもしれないが、同じような状況だったわけだ。
でも同じ本で違ったニュアンスの表現もある。「この時の行軍(南京への移駐のこと)ほど嫌な行軍はなく、屠所に引かれる心地であった。沿道の住民のいやがらせは想像のほかであったからだ。南京に近づくにつれて、青少年の悪罵が漸増した。・・・・矛をおさめて約半歳、かってなかったことだけに、やはり南京は空気が違うなあ、こんどこそ苛められるぞ、いよいよ堪え難きに堪え、忍び難きを忍ばねばならぬ時がきた、と覚悟せざるを得なかった。」(同書p.218) そしてなぜ関係のない鯨兵団が南京の清掃にいかされたのかを当時の派遣軍参謀にのちに聞いたところ「手元には鯨しかなかった。かわいそうではあることは百も承知していたが、南京とゆかりがなかった部隊の方が市民とのトラブルも少なかろうと、考えたのも一因である。ご苦労をかけた」(同書p.219-220)「かわいそう」というのは清掃作業についてであり必ずしも南京行きについてではないかもしれないが、「南京とゆかりがなかった部隊のほうが」というのが気になる。また前の引用は南京で何かがあったことはうすうす知っていた事をにおわせる。
河村市長の父と佐々木氏が南京市民から親切な扱いを受けたのは、いわゆる南京事件のような虐殺はなかった。というのも一つの解釈だが、中国人は軍隊というものをそういう物だと達観していてことさら日本軍だけを特別視していないことと、佐々木氏の本で何度もでてくる「中国人のスケールの大きさ」によるものかもしれない。
あそうそう「あってはならないこと」は、発生したら防止の対策を考えるべきなのだが、内部通報者を裏切り者と敵視して「なかったこと」のように隠蔽し、また防止対策をすると「あったこと」になるからやらないというのは日本の役人文化だね。これじゃあ原発も爆発するはずだ。
繰り返すけど、こうなりゃ河村市長の悪気のない馬鹿正直さが中国人の心に何か良い影響がやがて出ること期待するしかない。