セレンディピティ日記

読んでいる本、見たドラマなどからちょっと脱線して思いついたことを記録します。

読書ノート:須原一秀「自死という生き方」(双葉社)

2008-01-27 18:40:37 | 思想
5日ほど前だが、職場から帰宅途中のバスのなかで小前亮「十八の子」という中国の明朝末期が舞台の歴史小説を読んでいた。すると李自成の農民反乱軍に大敗をした明朝の孫伝庭という武将が、部下には反乱軍に降伏して民のための国ができるか見届けよと命令して、自分は死ぬことを決めて、最後に李自成に向かって「決して驕るな」と言い残して死んだ。
読んでいて、孫伝庭には死の恐怖も悲壮感もなかったように感じた。そのとき「あ、これは『弱腰矯正読本』で言うところの、変性意識だな」と思った。この「弱腰矯正読本」という本は、僕が非常に感銘を受けた本だ。この本と浄土真宗関連の本が、僕のちょっとした人生への難問の答えを与えてくれた。何のことだと思われる向きがあるかもしれないので簡単に書くと、自分の判断としてどんな時でも明らかに正しいと思われる行為を必要な場面でできるだろうか、という心配だ。「弱腰矯正読本」では、変性意識が生じて、身の危険や小ざかしい利害をまったく忘れて、突き動かされるように思いもよらない行動をとることがあることを教えてくれた。心配しなくても、行動すべき時は行動してしまうことがあるのだ。でも「いつもそうなるわけでは?」という疑問が残るが、それには、浄土真宗関係の本が、「しても、しなくてもよいというのが、浄土真宗の教えだ」ということで納得した。まとめて言うと、気の弱い(?)自分ではあるが、他人がしり込みするような場面でも、正しいことをしてしまうこともあるので、必ずしも悲観することもないし、またできなくても、そういうめぐり合わせだから悲観することもないということだ。

さてバスを降りて、いつものように書店に入って書架をのぞくと、「自死という生き方」という本の背中の帯に「須原一秀」という名前が見える。「おっ!『弱腰矯正読本』の著者の新刊だ」と、手にとって表紙をみて驚いた。須原一秀氏は自殺していたのだ。そしてこの本は、須原氏が自らの自死について、書き残した本なのだ。

須原氏は、自殺ということで一般の人が想像するような健康・仕事・家族などに行き詰っていたわけでもないし、またそうした理由で自殺するのではない。人生に満足してかつ日常生活の中のそれ以上望みえない人生の「極み」を味わった者が、それ以後は老化という自分の自身の裁量ではどうにもならないことにより、もはや今と同じような「極み」を味わうことが不可能になるという事実から、自死を選択するのである。この「極み」とは、社会的な成功や富のことでない。平凡な日常的なことにでもその「極み」を感ずることがある。どんな富豪王侯貴族セレブでも、同じようには「極み」を経験することは可能だが、それ以上ということはできない。須原氏は、その先例としてソクラテス、三島由紀夫、伊丹十三を上げる。

この本は、僕にとって元気づけられる本だ。といっても僕が自殺を考えているわけではない。「自死」とか「死」なんてタイトルは、人間の実存の根底に不安を与える言葉なので、これは奇妙なことだ。元気づけられるというのは、「罰系神経系と報酬系神経系」などの話が、僕の生き方にヒントを与えてくれるからだ。

この本の内容で上記の「罰系神経系と報酬系神経系」の他にも、たとえば自然死への論考や死の受容、虚無主義との非難についてなど順次紹介したいことは多いけど時間とスペースに制約があるのでカット。で、ここでは我田引水な話題で気がついたことを書こう。それは、須原さんのこの本から、僕の好きな思想家たちとの共通的なものが感じられるからだ。つまり同じ陣営の仲間だという気がする。まず王陽明との共通性。体感的知識を観念的知識(イデオロギー的な思い込み)より重視すること。性善説をとること。また「自分にとっての自分」と「自分にとっての世界」が体感でき納得できるという「普通主義」も、子供を見てかわいいと思うことで発現する王陽明のいうところの良知と共通している。親鸞(といわゆる妙好人)もこの本で唯一でてくる宗教思想家でしかも肯定的に取り上げられている。なおそれはもちろん極楽往生ということではないよ。過去のブログを見た人は、「ポパーはどうなった?」という人もいるかもしれない。実はそれも出て来た。解説を書いた浅羽通明氏によると、須原氏は世界思想社から出版されたポパーの「自由社会の哲学とその論敵」の翻訳者武田弘道氏を指導教官として、分析哲学を専攻したとある。