セレンディピティ日記

読んでいる本、見たドラマなどからちょっと脱線して思いついたことを記録します。

すべての韓流歴史ドラマは政治劇である

2009-10-21 20:25:06 | 文化
無職の生活にリズムがあるとしたらそれはテレビの帯ドラマによる。メロドラマは趣味ではないので、結果として韓流の歴史ドラマが多くなる。

月曜から金曜の午前10時から11時までは、『風の絵師』だ。舞台は18世紀の朝鮮王朝で王様が正祖の時代。主人公は師匠と弟子の2人の絵師だ。2人とも歴史上に有名な絵師だが、弟子の方の経歴が謎に包まれているので、このドラマでは男装している女性という設定。でも今日までの展開では師匠はそのことを知らない。2人とも宮廷おかかえの絵師で朝廷内の陰謀に巻き込まれてドラマは進展する。まあようするに料理と医術の『宮廷女官チャングムの誓い』の絵画版というところ。絵画も画面によく出てくるが映画自体の風景も美しい。でも何よりもドラマ自体が面白い。

ところで正祖といえば、NHKのBS2で日曜午後9時に放送している『イ・サン』の主人公だね。イ・サンは正祖の本名。『イ・サン』の方ではまだ王様になっていなくて王世孫で王様の英祖(祖父)の後を継いで王様になることが予定されているが、宮廷内では彼を陥れようとする勢力が陰謀をめぐらしてイ・サンは危機に陥っている。これは官僚の派閥争いに深い根思っている。『張禧嬪(チャンヒビン)』の時に西人派と南人派という派閥があったね。その時には西人派もすでに老論派と少論派に分かれていた。『張禧嬪』の時代の王様は粛宗、その次の王様は景宗だがその母親は張禧嬪だから南人派の王様といえるかも知れない。でもすぐに死んでしまい、次の王様が景宗の異母弟の英祖だ。英祖の母親は低い身分のものだが、『張禧嬪』では老論派の支持する王妃に強い忠誠心を持っていたので、老論派の王様ともみえる。当初は少論派を追放して老論派を支持したが、やがて派閥を均衡させて王権を強化しようとしてきた。荘献世子は英祖の子で世継ぎなのだが、老論派と貞純王后(英祖の若い後妻)の陰謀により、謀反の疑いで英祖により殺された。『イ・サン』ではイ・サンが王位についたなら父の敵討ちで老論派が粛清されるのではと老論派の官僚と貞純王后がさまざまな陰謀を行っている。

話は『風の絵師』に戻るが、正祖は王様になっていて、なんとか父の荘献世子の冤罪をはらし、また老論派に復讐しようと考えている。まだこの時点では領義政(首相みたいなもの)は貞純王后の小父で老論派だ。ドラマの時々に正祖と貞純王后が茶飲み話をしたり将棋をしたりする場面が出てくるが、腹の中では二人とも相手を敵だと思っている。正祖が貞純王后を「おばあさま」と呼ぶのでアレと思った。だって貞純王后って正祖といくつも違わない若さに見えてかなり色っぽいもの。実は貞純王后は英祖の後妻なのだが、英祖とは歴代一番の年の差婚なのだ。王様がお后を亡くして新しいお后を迎えるとどうしても年の差婚になる。だって王様は歳をとってもお后になる人の適齢期があるもの。『王の女』というドラマで宣祖という王様が後妻のお后を迎えることとなった。それは側室の子の光海君を王様にしたくない勢力が勧めたもの。正室の産んだ男子が優先的に世継ぎになるのは決まりだから。前のお后には子供がなかった。臣下が宣祖に言う「お后候補が見つかりました。家柄容姿才能とも申し分ありません。ただ本人が婿を選びすぎているうちに歳をとってしまいました。」宣祖は「歳をとっているのか」と当惑気味。臣下は「19歳になっています」という。宣祖は急にあわてて「構わん。わしは構わんぞ。それでよい」といった。そのとき宣祖は50を超えていた。それでも英祖と貞純王后の歳の差(66歳と15歳)にはかなわない。そんなわけで正祖にとって貞純王后は祖父の妻なのだから義理の祖母になるわけだ。

毎日の韓流歴史ドラマでは、あとは午後3時からの『淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)』(BS朝日)、午後4時からは『大王世宗』(BS日テレ)。『淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)』は高句麗後期の隋や唐との戦争の英雄物語。『大王世宗』は李朝3代目の王様の物語。今日の時点では単なる王子で王世子は兄だが、人民や臣下たちの期待が集まってきている。

週間では、イルジメという怪盗ものが2つある。月曜日は午後9時に『美賊イルジメ伝』(BS日テレ)、火曜日は午後8時に『イルジメ』(BSジャパン)。どちらも歴史上(伝説上?)のイルジメ(一枝梅)という盗賊が主人公だが生い立ち等の設定は異なっている。ただどちらも貴種流転という感じはする。ただ『美賊』の方は母が下女なので朝鮮での基準は貴種にはならない。父が両班でも側室の子は科挙を受けれないし、女子はキーセンか側室になるしかないのだって(『女人天下』によると)。さてこの両イルジメにはそれぞれ別角度からだが政治的な背景がある。水曜日は午後7時から『必殺!最強チル』(BS朝日)で午後9時からは『女人天下』だ。『必殺!最強チル』は日本の「必殺シリーズ」の翻案ということだが、庶民の恨みを晴らすなんて話は2・3回ぐらいで、あとは全くの政治劇だ。『女人天下』(三重テレビ)も中宗の時代、つまりあの『チャングム』と同じ時代の、これも政治劇だ。『チャングム』では名前だけしか出てこなかったチョ・ガンジョという急進的儒教原理主義者の政治家がわき役だけど出てきている。金曜日は午後9時から『龍の涙』(BS日テレ)だ。これは李朝成立期の政治ドラマだ。

こやってみると、韓流ドラマの李朝時代が舞台のものはすべて政治ドラマになってしまうような気がする。高句麗を舞台のドラマも戦争や英雄ものだが、その地域の多くは現在中国領なのでこれまた別の意味での政治劇といえる。ちなみに李氏朝鮮のドラマでも遼東半島(現中国領)への出兵が政争の軸になって何度もでてきているようだ。

DVD鑑賞ノート「不滅の李舜臣」[その8]

2009-10-01 22:16:25 | 歴史
李舜臣の朝鮮水軍が強かった理由を考えると次のいくつかの要素が思い浮かぶ。

1 大砲が発達していた。
 鉄砲は日本軍が質量とも圧倒的に優勢だが、船に積み込む大砲は朝鮮水軍の方が発達していた。日本水軍の艦上からの鉄砲隊の発射は船の近接戦では朝鮮水軍の弓手を圧倒したが、朝鮮水軍の大砲がより射程距離が長いため接近戦になる前に朝鮮水軍の大砲で破壊される可能性が大きい。

2 朝鮮水軍の板屋船が日本水軍の安宅船より堅牢であった。
 日本水軍は鹵獲した朝鮮の大砲を日本の安宅船に取り付けようとしたが、安宅船の構造が脆弱で大砲発射の反動で船体が壊れるためせいぜい2基しか大砲を設置できなかった。また双方の船が衝突した場合安宅船の方が破壊されかねない。

3 朝鮮半島南部海岸の地形や海流をよく知っていた。
 李舜臣は地形や海流を知り尽くしている退職していた元水軍の幹部を再び登用した。彼は自分が死んでも役立つように海流図などを書き残した。少数で多数を迎え撃つこともある李舜臣の水軍は地形や海流を大いに利用した。

4 艦隊訓練をよく行った。
 李舜臣が全羅左水使になって最初に重視したのは艦隊の統一行動だ。訓練によって各船が陣形を組めるようになった。李舜臣は一字陣と鶴翼の陣を多く用いた。これによりすべての船の大砲の弾を目標の的に集中的に浴びせることができる。もし陣形ができず各船がばらばらに行動したら味方の船が邪魔でうまく砲撃もできなくなる。なおこうした訓練によって李舜臣は部下の武将たちを掌握していったような気がする。

5 偵察活動をよく行った
 高速の偵察船とロケット弾や狼煙による連絡を用いて偵察活動を常に行っている。この偵察活動の指揮官は軽いタッチの調子よさそうな人物で、李舜臣が全羅左水使になったとき僕は調子よさそうな人物なので大陸の軍隊によくある横領などが出てきて李舜臣に罰せられるというストリーになるのかなと思った。ところがそうではなくて頭の回転がよいので李舜臣から偵察活動の指揮官を任された。ところでこの人は元均が日本艦隊に大敗し朝鮮艦隊がほとんど壊滅したとき、日本軍の捕虜になって日本に連行された。そのあと日本から脱出して朝鮮にもどり再び李舜臣の部下になった。DVDを見ていて「そんな、ドラマでも作りすぎ」と思ったが、どうやら実話らしい。

6 勝利できる確信がない場合は出動しなかった。
 李舜臣は勝てないと思ったときは、王様の命令でも頑として出撃しなかった。李舜臣が戦うときは少数の敵に集中して攻撃せん滅して自分は被害なしという形が多いが、大砲と艦隊行動と地形などで、敵がある程度多くても勝てる自信はあったと思う。しかし釜山攻撃のように敵の兵力が5倍から10倍以上の中に突っ込むことは冒険すぎてできなかったのだろう。この李舜臣の態度は正しいと思う。こちらの兵力が圧倒的に少ない場合、一か八かでこちらの兵力をつぶしてしまえばもう後がなくなる。したがってこちらの兵力を温存しながら敵を少しずつ倒していくしか方法がないだろう。それから王様に一度でも負けたら水軍をつぶすといわれたことも少し関係しているかも。
なお李舜臣が復帰したとき、船は13隻しか残っていなかった。元均が大敗したとき、その直前に敵前逃亡した一隊の船があったからだ。日本水軍は制海権を完全ににぎろうと100隻以上の船で迫ってくる、ここは迎え撃たないと制海権は日本のものになる。そして李舜臣は初めて一か八かの戦いをする。この場合、李舜臣は部下の水兵たちに危険なことを承知させて作戦に参加を求めた。不敗の伝説が出来ている李舜臣なら「俺を信じろ。絶対勝つ」といっても通じそうなのだが、ここは危険なことを正直に伝えているというのは偉い。この鳴梁海戦では地形と住民の協力を得た奇策をもちいて、日本海隊を先頭の30数隻と後方の100隻以上を分断して、先頭部分を壊滅させて、日本軍を退却させた。