今日の午後は職場から環境問題の研修に派遣された。研修には研修報告書の提出というおまけが付いている。報告者などという仰々しいものは書きづらいものである。ブログのように徒然なるがまま思い付きをそのまま書くわけにはいかない。そこで、まずブログに思うがまま書いてから、無難なところを抜粋して報告書を作ろうかな。
研修の中で、環境学習センターの参与なる人の講演があった。その最後のところで、有名な環境学者のレイチェル・カーソンの言葉がプロジェクターの画面にでてきたとき、「おお!」と内心声を上げたね。『「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではない。』と書いてあるではないか。その横には「自然をいかに率直に感じられるか」と書いてある。まるで「近代麻雀ゴールド」誌の見開きのページを見ているみたいだ。「近代麻雀ゴールド」というのは竹書房から発行されているマージャンマンガ雑誌「近代麻雀」の姉妹誌で、雀鬼こと桜井章一氏に関する記事やマンガを売り物にしている。桜井章一氏のファンからは熱烈に支持されて購読されている半面、デジタル派という確率論を信奉する人たちからカルト的だと嫌われている。僕は前者のほうで毎号買っている。ただ桜井章一氏はこの雑誌と最近決別したらしい。
さて桜井章一氏の口癖がまさにこの2つの言葉。もちろんマージャンに関してだが、桜井氏は日常生活がマージャンに現われてくるという主張なので、日常生活全般についても当てはまる。「感じる」ことの重要性は、不敗の戦国武将の立花宗茂が戦についても同じことをいっている。多元的な世界の中ではあらかじめ究極の真実を知ることは不可能である。そこで「感じる」ことで方向を定め、その後の展開の中で検証して修正していくのが正しい方法だ。おお!ポパー哲学につながっていく。
自然については、桜井氏はよく自然を感じる、自然から学ぶことが大切だと言い、マンガなんかにも海に潜って魚を取る話などがいっぱいでてくる。
おっと、マージャンの話ばかりでは報告書をかくネタにならないか。それではおもむきを変えて。
講演は主として地球温暖化に関してのCO2排出量の削減問題が話された。この問題の特徴的な点は加害者と被害者が同一なこと。フム~僕は考えた。被害は人類全員に及ぶし、責任も全人類。一般的にみんなの責任は誰の責任でもない。そうなると「自分ひとりぐらいがやらなくても、たいして変わりがない。」と思う人が多いかもしれない。でも名古屋市はCO2を全市民的な運動にしようとしている。また自分も含めて研修者の多くがCO2削減に何らかの形で取り組もうとしている。直接の利益は光熱費の軽減のみなのに。ここで最近購入したか桂木隆夫「公共哲学とはなんだろう」(勁草書房)の第一章を思い出した。本当言うとまだ第一章しか読んでないけど。「公共性」とは「みんなで協力」すること。そして協力には自発的な協力と非自発的な協力がある。自発的な協力とは主として利他的な動機に基づくものである。とするとこのCO2削減の活動は市民にとって、音頭は市や政府が取ったとしてみ、強制や利益誘導によらない利他的な動機に基づく自発的な協力活動となる。ゴミの分別もそうだけど、人々ってこうゆう協力することが好きなのだよね。もちろんマイルドな強制でやっている人もいるけど。同書には「『公共』の領域はあらかじめ存在するというより、人々の自由な活動の集積から生成するものであり、そこでは、何が公共性かについては、人々の自由な判断に任されているということです。」と書かれている。人々が自由な判断でCO2削減に公共性を認めれば運動は進展するわけだ。
おっともうすぐ「チェオクの剣」の時間だ。今日はここまで。
研修の中で、環境学習センターの参与なる人の講演があった。その最後のところで、有名な環境学者のレイチェル・カーソンの言葉がプロジェクターの画面にでてきたとき、「おお!」と内心声を上げたね。『「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではない。』と書いてあるではないか。その横には「自然をいかに率直に感じられるか」と書いてある。まるで「近代麻雀ゴールド」誌の見開きのページを見ているみたいだ。「近代麻雀ゴールド」というのは竹書房から発行されているマージャンマンガ雑誌「近代麻雀」の姉妹誌で、雀鬼こと桜井章一氏に関する記事やマンガを売り物にしている。桜井章一氏のファンからは熱烈に支持されて購読されている半面、デジタル派という確率論を信奉する人たちからカルト的だと嫌われている。僕は前者のほうで毎号買っている。ただ桜井章一氏はこの雑誌と最近決別したらしい。
さて桜井章一氏の口癖がまさにこの2つの言葉。もちろんマージャンに関してだが、桜井氏は日常生活がマージャンに現われてくるという主張なので、日常生活全般についても当てはまる。「感じる」ことの重要性は、不敗の戦国武将の立花宗茂が戦についても同じことをいっている。多元的な世界の中ではあらかじめ究極の真実を知ることは不可能である。そこで「感じる」ことで方向を定め、その後の展開の中で検証して修正していくのが正しい方法だ。おお!ポパー哲学につながっていく。
自然については、桜井氏はよく自然を感じる、自然から学ぶことが大切だと言い、マンガなんかにも海に潜って魚を取る話などがいっぱいでてくる。
おっと、マージャンの話ばかりでは報告書をかくネタにならないか。それではおもむきを変えて。
講演は主として地球温暖化に関してのCO2排出量の削減問題が話された。この問題の特徴的な点は加害者と被害者が同一なこと。フム~僕は考えた。被害は人類全員に及ぶし、責任も全人類。一般的にみんなの責任は誰の責任でもない。そうなると「自分ひとりぐらいがやらなくても、たいして変わりがない。」と思う人が多いかもしれない。でも名古屋市はCO2を全市民的な運動にしようとしている。また自分も含めて研修者の多くがCO2削減に何らかの形で取り組もうとしている。直接の利益は光熱費の軽減のみなのに。ここで最近購入したか桂木隆夫「公共哲学とはなんだろう」(勁草書房)の第一章を思い出した。本当言うとまだ第一章しか読んでないけど。「公共性」とは「みんなで協力」すること。そして協力には自発的な協力と非自発的な協力がある。自発的な協力とは主として利他的な動機に基づくものである。とするとこのCO2削減の活動は市民にとって、音頭は市や政府が取ったとしてみ、強制や利益誘導によらない利他的な動機に基づく自発的な協力活動となる。ゴミの分別もそうだけど、人々ってこうゆう協力することが好きなのだよね。もちろんマイルドな強制でやっている人もいるけど。同書には「『公共』の領域はあらかじめ存在するというより、人々の自由な活動の集積から生成するものであり、そこでは、何が公共性かについては、人々の自由な判断に任されているということです。」と書かれている。人々が自由な判断でCO2削減に公共性を認めれば運動は進展するわけだ。
おっともうすぐ「チェオクの剣」の時間だ。今日はここまで。