セレンディピティ日記

読んでいる本、見たドラマなどからちょっと脱線して思いついたことを記録します。

職場研修と雀鬼と公共哲学

2005-11-24 21:50:02 | 文化
今日の午後は職場から環境問題の研修に派遣された。研修には研修報告書の提出というおまけが付いている。報告者などという仰々しいものは書きづらいものである。ブログのように徒然なるがまま思い付きをそのまま書くわけにはいかない。そこで、まずブログに思うがまま書いてから、無難なところを抜粋して報告書を作ろうかな。

研修の中で、環境学習センターの参与なる人の講演があった。その最後のところで、有名な環境学者のレイチェル・カーソンの言葉がプロジェクターの画面にでてきたとき、「おお!」と内心声を上げたね。『「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではない。』と書いてあるではないか。その横には「自然をいかに率直に感じられるか」と書いてある。まるで「近代麻雀ゴールド」誌の見開きのページを見ているみたいだ。「近代麻雀ゴールド」というのは竹書房から発行されているマージャンマンガ雑誌「近代麻雀」の姉妹誌で、雀鬼こと桜井章一氏に関する記事やマンガを売り物にしている。桜井章一氏のファンからは熱烈に支持されて購読されている半面、デジタル派という確率論を信奉する人たちからカルト的だと嫌われている。僕は前者のほうで毎号買っている。ただ桜井章一氏はこの雑誌と最近決別したらしい。
さて桜井章一氏の口癖がまさにこの2つの言葉。もちろんマージャンに関してだが、桜井氏は日常生活がマージャンに現われてくるという主張なので、日常生活全般についても当てはまる。「感じる」ことの重要性は、不敗の戦国武将の立花宗茂が戦についても同じことをいっている。多元的な世界の中ではあらかじめ究極の真実を知ることは不可能である。そこで「感じる」ことで方向を定め、その後の展開の中で検証して修正していくのが正しい方法だ。おお!ポパー哲学につながっていく。
自然については、桜井氏はよく自然を感じる、自然から学ぶことが大切だと言い、マンガなんかにも海に潜って魚を取る話などがいっぱいでてくる。

おっと、マージャンの話ばかりでは報告書をかくネタにならないか。それではおもむきを変えて。
講演は主として地球温暖化に関してのCO2排出量の削減問題が話された。この問題の特徴的な点は加害者と被害者が同一なこと。フム~僕は考えた。被害は人類全員に及ぶし、責任も全人類。一般的にみんなの責任は誰の責任でもない。そうなると「自分ひとりぐらいがやらなくても、たいして変わりがない。」と思う人が多いかもしれない。でも名古屋市はCO2を全市民的な運動にしようとしている。また自分も含めて研修者の多くがCO2削減に何らかの形で取り組もうとしている。直接の利益は光熱費の軽減のみなのに。ここで最近購入したか桂木隆夫「公共哲学とはなんだろう」(勁草書房)の第一章を思い出した。本当言うとまだ第一章しか読んでないけど。「公共性」とは「みんなで協力」すること。そして協力には自発的な協力と非自発的な協力がある。自発的な協力とは主として利他的な動機に基づくものである。とするとこのCO2削減の活動は市民にとって、音頭は市や政府が取ったとしてみ、強制や利益誘導によらない利他的な動機に基づく自発的な協力活動となる。ゴミの分別もそうだけど、人々ってこうゆう協力することが好きなのだよね。もちろんマイルドな強制でやっている人もいるけど。同書には「『公共』の領域はあらかじめ存在するというより、人々の自由な活動の集積から生成するものであり、そこでは、何が公共性かについては、人々の自由な判断に任されているということです。」と書かれている。人々が自由な判断でCO2削減に公共性を認めれば運動は進展するわけだ。
おっともうすぐ「チェオクの剣」の時間だ。今日はここまで。

「チェオクの剣」・身分社会のロマンスの行方

2005-11-14 21:51:18 | チェオクの剣
BS2の「チャングムの誓い」の後番組は「チェオクの剣」。またも女性が主人公の時代劇。第1回放送の初めのほうで鉄砲が出てきたので、オヤと思ったら時代は1692年なので日本なら江戸時代で元禄時代となる。
主人公のチェオクは左捕盗庁という警察組織の茶母(タモ)という職業。書店で「チュオクの剣」関係の書籍が2種類出ていたので立ち読みしたところ、本来はお茶を注ぐ低い身分の職種でとても従事官などと口を聞くことができない立場。しかしドラマの創作で女性の死体の検視などをする役割を加えて犯罪捜査に参加している。
当然若い女性が主人公のドラマなので、ロマンスもありそうな様子。相手はもともとの主人(夫という意味ではない)で左捕盗庁では上司にあたる従事官という役職にある人物。役名は覚えていないが、俳優はうがい薬(イソジン)みたいな名前の人。
ここで僕は思った。ハッピーエンドが予想される物語やドラマでのロマンスは、どうして身分の高い男と身分の低い女の取り合わせとなるのだろう。身分の低い男と身分の高い女のハッピーエンドでは読者(視聴者)のジェラシーを招くのでタブーなのかな。もちろん女性の身分の高い場合のドラマもあるけど、それは男もある程度身分がある場合で、しかも結ばれることは絶対にない。映画の「キング・オブ・ヘブン」や「蝉しぐれ」もそのタイプ。ナイトは高貴な女性に尽くすのみで、結ばれることはない。もっと男の身分が絶対的に低い場合は「嵐が丘」みたいに悲劇にしかならない。
ところが第2回放送をみるとかなりひねりが入っている。なんとチェオクはもともと良家の娘だが、父親が反逆者として殺されたために従事官の父の家のとなった。従事官の方は、父は地位のある役人だが妾腹の子であるため役人になれない身分。通常では父親をお父さんと呼ぶことも許されない立場。学問の塾では他の塾生から一緒に勉強するのが身分違いと差別される境遇。この時代社会の事情が理解できない。妾腹の子が役人になれないのなら本妻の子がいなかったり死んだりしたら両班の家が絶えてしまうのでは?
とにかく本来ならば高官のお嬢さんと日陰者の男で、逆の立場で結ばれない関係。しかし男の方は父親の友人のつてで役人になることができた。