五代将軍綱吉の時代に幕府の勘定奉行として辣腕をふるった荻原重秀についての歴史の本。著者の村井氏は金沢大学の教育学部の教授。専門は歴史教育とのことなので関連がないわけではないが一寸意外な気がしたが「あとがき」を読んでその辺の事情がわかった。吉村昭の歴史小説に傾倒していた村井氏は自分でも歴史小説を書こうとおもい、その業績について通説では非難が多いが村井氏は評価していた荻原重秀を主人公に選んだのだ。しかしながら書き始めてすぐに人物描写などで自分には無理だと気付いた。でも小説の準備のリサーチのなかで明らかになったことを世に示したいとおもいこの本を書いたわけだ。
荻原重秀というと元禄時代の貨幣改鋳で有名だ。要するに通貨(金貨・銀貨)に含まれる金や銀の量を減らすこと。改鋳することによって貨幣に含まれる金銀の減少分の価値が幕府の増収となる。元禄の改鋳後に物価が騰貴したため、庶民の犠牲にとって幕府の増収を図ったと後世の評価は悪い。しかし荻原は姑息な考えで貨幣改鋳を考えていたのではない。現代の経済学つながる貨幣理論にもとづいていたのだ。村井氏がこの時代の物価騰貴を検討してみると、その原因は天災などによる不作による農産物の供給が少なくなったことが大きく、それを除いた物価の上昇は年率2~3%にすぎない。したがって物価騰貴は貨幣改鋳の結果ではない。では幕府の増収はどこから来るのかというと、村井氏によれは金貨銀貨を大量に保有している大商人の懐からだ。大商人が多量に持っている金成分の多い旧小判も国家(幕府)の通貨管理により金成分の少ない新小判とおなじ貨幣価値しか持たなくなるからだ。だから金持ちからの増税というわけだ。なお経済規模の拡大により通貨供給量を増やす必要性については荻原に批判的な経済史家も認めている。
しかし荻原は後世の人多くが考えているような貨幣改鋳ということだけで幕府財政に貢献したのではない。天領の検地と代官の整理粛清。佐渡金山の経営体制の改革。長崎貿易の輸入代金の金銀を銅輸出に切り替え金銀の国外流出を防ぐ。天災や大仏殿再建を名目とした幕府のタブーであった大名領への実質課税。五百俵以上の切り米取りを知行持へ変えることを口実とした旗本の大幅な配置換えによる旗本の小大名化の防止などである。
荻原の後世の評価が悪い原因のひとつは新井白石による非難である。白石は荻原が26万両の賄賂を受け取ったと「折りたく柴の記」に書いているがその根拠はない。五代綱吉がなくなり家宣が将軍になりそのブレーンの白石が政治に参画してきた。白石は通貨改鋳を元に戻すことと荻原の罷免を家宣に要求する。だが白石の行動には常軌を逸している点がある。罰せられないのなら自分の手で殺したいと書いている。また天災などで幕府財政が逼迫したので貨幣改鋳はやむをえなかったのではという意見に、貨幣改鋳など行うから天災が起こるのだとオカルトチックなことを言う。家宣は白石の荻原罷免要求を退けてきたが、病気で心身ともに衰弱した時に白石の要求を認め荻原を解任する。その数日後家宣はなくなった。
異常な白石の荻原への憎悪は政策上からだけのものかは不明だ。だが村井氏は興味ある事実を書いている。白石は以前に綱吉政権初期の大老堀田正俊に儒学者として使えていたことがある。堀田正俊は綱吉より勝手方老中に任ぜられ幕府の財政の責任者となっていた。そのころ荻原は勘定組頭という役職で勘定奉行所に勤めていた。つまり同じころ白石は家臣として、荻原は部下として同じ堀田正俊に仕えていたことになる。そのころ二人になにか接点がありそのことが尾を引いている可能性がある。白石は家宣が将軍になる前の甲府時代のことは書いているが、堀田家に勤めていたことのことはほとんど書いていない。なにかいやなことがありそれに荻原も関係していたのかもしれない。
以前に白石を扱った「市塵」という藤沢周平の小説を読んだことがある。なんか白石の人生が暗い感じがした。これは藤沢周平の書き方かと思ったが、白石の人生自体にその原因があるのかもしれない。
荻原重秀というと元禄時代の貨幣改鋳で有名だ。要するに通貨(金貨・銀貨)に含まれる金や銀の量を減らすこと。改鋳することによって貨幣に含まれる金銀の減少分の価値が幕府の増収となる。元禄の改鋳後に物価が騰貴したため、庶民の犠牲にとって幕府の増収を図ったと後世の評価は悪い。しかし荻原は姑息な考えで貨幣改鋳を考えていたのではない。現代の経済学つながる貨幣理論にもとづいていたのだ。村井氏がこの時代の物価騰貴を検討してみると、その原因は天災などによる不作による農産物の供給が少なくなったことが大きく、それを除いた物価の上昇は年率2~3%にすぎない。したがって物価騰貴は貨幣改鋳の結果ではない。では幕府の増収はどこから来るのかというと、村井氏によれは金貨銀貨を大量に保有している大商人の懐からだ。大商人が多量に持っている金成分の多い旧小判も国家(幕府)の通貨管理により金成分の少ない新小判とおなじ貨幣価値しか持たなくなるからだ。だから金持ちからの増税というわけだ。なお経済規模の拡大により通貨供給量を増やす必要性については荻原に批判的な経済史家も認めている。
しかし荻原は後世の人多くが考えているような貨幣改鋳ということだけで幕府財政に貢献したのではない。天領の検地と代官の整理粛清。佐渡金山の経営体制の改革。長崎貿易の輸入代金の金銀を銅輸出に切り替え金銀の国外流出を防ぐ。天災や大仏殿再建を名目とした幕府のタブーであった大名領への実質課税。五百俵以上の切り米取りを知行持へ変えることを口実とした旗本の大幅な配置換えによる旗本の小大名化の防止などである。
荻原の後世の評価が悪い原因のひとつは新井白石による非難である。白石は荻原が26万両の賄賂を受け取ったと「折りたく柴の記」に書いているがその根拠はない。五代綱吉がなくなり家宣が将軍になりそのブレーンの白石が政治に参画してきた。白石は通貨改鋳を元に戻すことと荻原の罷免を家宣に要求する。だが白石の行動には常軌を逸している点がある。罰せられないのなら自分の手で殺したいと書いている。また天災などで幕府財政が逼迫したので貨幣改鋳はやむをえなかったのではという意見に、貨幣改鋳など行うから天災が起こるのだとオカルトチックなことを言う。家宣は白石の荻原罷免要求を退けてきたが、病気で心身ともに衰弱した時に白石の要求を認め荻原を解任する。その数日後家宣はなくなった。
異常な白石の荻原への憎悪は政策上からだけのものかは不明だ。だが村井氏は興味ある事実を書いている。白石は以前に綱吉政権初期の大老堀田正俊に儒学者として使えていたことがある。堀田正俊は綱吉より勝手方老中に任ぜられ幕府の財政の責任者となっていた。そのころ荻原は勘定組頭という役職で勘定奉行所に勤めていた。つまり同じころ白石は家臣として、荻原は部下として同じ堀田正俊に仕えていたことになる。そのころ二人になにか接点がありそのことが尾を引いている可能性がある。白石は家宣が将軍になる前の甲府時代のことは書いているが、堀田家に勤めていたことのことはほとんど書いていない。なにかいやなことがありそれに荻原も関係していたのかもしれない。
以前に白石を扱った「市塵」という藤沢周平の小説を読んだことがある。なんか白石の人生が暗い感じがした。これは藤沢周平の書き方かと思ったが、白石の人生自体にその原因があるのかもしれない。